十六話 樹海の境界線
「イテテテ……っ、やっぱ車のシートで寝ると肩と腰へのダメージが半端ないな……」
翌朝。車窓から差し込む眩しい朝日に叩き起こされた俺がいの一番にやったのは、バキバキに凝り固まった全身をほぐす作業だった。
狭い運転席で背筋をグッと伸ばして首や肩を回すたび、ゴリゴリ、ボキボキと不穏な音が鳴り響く。
「ふぅ……よし、ラジオ体操でもやるか」
多少なりとも体が動くようになったところで、俺はドアを開けて朝の清々しい空気の中へと踏み出した。樹海特有の朝露を含んだ冷涼な風が鼻腔を抜け、重かった頭が一気に冴え渡っていく。
――と、ドアの開閉音に気付いたのか、すぐさま虎親子がこちらへ向かってトコトコと寄ってきた。
「おお、おはよ……う?」
朝食のおねだりをするべく、昨日みたいにあざとく甘えてすり寄ってくるのだろう。そう思って手を伸ばしかけた俺だったが、三匹の動きを見て途中で固まった。
なんと三匹とも、俺から一メートルほどの距離でピタリと止まったのだ。
母虎はピシッと背筋を伸ばしてお行儀よくお座りの体勢を取り、その瞳には熟練兵のようなストイックな光すら宿している。さらに驚くべきことに、生後間もないであろう子虎達まで、母虎の隣で前脚を綺麗に揃え、微動だにせず凛々しい顔でお座りしていた。
「ど、どうしたお前達……? 昨日とは態度が全然違うじゃないか」
その兵士のような佇まいに呆然としていると、大樹の影から、誇らしげに腕を組んだ小春が姿を現した。
「おはよう、和樹。この泥棒猫達には、我が家の規則をしっかり叩き込んでおいた」
「まさかあれからずっと!?」
昨夜、長距離移動の疲れと慣れない野営で体力の限界を迎えた俺は、小春達を残して二十一時には車内で泥のように眠りについた。
あれから九時間。まさか不眠不休で虎達を躾けしていたのだろうか。
「違う。案外物分かりの良い虎だったから、昨日の夜と今日の明け方に一時間ずつしごいたら、完璧に覚えた」
「そ、そうか……」
一体どんなスパルタ指導が行われたのかは恐ろしくて聞けなかったが、むやみに飛びかかられたり、車や小屋を傷つけたりする心配がなくなったのは事実。そして何より小春のご機嫌がすこぶる良いので、ここは深く突っ込まないのが身のためだろう。
俺は冷や汗を拭いながら、朝食の準備に取り掛かった。
事前に作っておいた料理は昨日虎達が綺麗さっぱり完食したため、今朝のメニューは簡単にパンと缶詰とフルーツ盛り合わせだ。もちろん虎親子の分も忘れない。猫科の動物が果物を主食にしていいかは謎だが、昨日散々食べてもピンピンしているし、まあ問題ないのだろう。
「私も手伝う。飴と鞭のバランスが大事って香澄も言ってた」
「か、母さんが……?」
手伝いに来てくれた感謝を口にするより早く、小春から非常に不穏な行動理由と名前が飛び出した。
専業主婦である母さんが他人へ厳しく指導することなんてそうそうない。ましてやそれをペットの前で愚痴るなど、普通なら考えにくい。
となると教育の対象は……い、いや、深く考えるのはよそう。父さんにしろ俺達森田家の人間にしろ、ロクでもない事実が隠されていそうだ。
「ん。『男もペットも、厳しく縛り付けるだけじゃ駄目。たまに甘やかすからこそ、手のひらの上で転がせるのよ』って」
「言うなよぉ~!」
頭を抱えて嘆く俺を尻目に、小春はクーラーボックスからみずみずしい桃をいくつか取り出すと、虎親子の前にそっと置いた。
甘く芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、虎達の喉がゴクリと大きく鳴る。
しかし――。
「……飛びつかないな」
「当然『待て』も教えてる。主従の格付けは基本中の基本。先に食事をする権利を持つのは主である私達」
腕を組み、冷ややかな眼光で虎親子を見下ろす小春教官。
その言葉の通り、目の前に垂涎の特大桃が置かれているというのに、母虎も子虎もぴくりとも動かない。舌舐めずりすら耐え、こちらに懇願するような視線を向けることもない。
一体何をどうやったら一晩で野生の猛獣がここまで洗脳……いや、調教されるのか。
小春の中に眠るドSの才能に戦慄しつつ、俺は急いでバーナーで焼いた食パンとサバ缶、カットしたフルーツ盛り合わせをテーブルに並べた。あんまり待たせるのは可哀想だ。催促されていないとはいえ、静寂の中に漂う無言の緊張感にこちらが勝手にプレッシャーを感じてしまうのだ。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせ、サクッと芳しい音を立てるパンを一口かじる。
咀嚼すること数秒。小春は満足そうに頷き、虎親子に向かって小さく指を鳴らした。
「……よし、食べていい」
「「「グルニャァァァンッ!!」」」
合図が鳴った瞬間、虎親子は歓喜の声を上げ、勢いよく桃へと飛びついた。果汁を飛び散らせながら、夢中で甘い果肉を貪り食っていく。
これを抑え込むとは、さすが完璧というだけはある。
「……おい小春、そんなジト目で見るな。撫でたりしてないだろ」
「目を合わせた。視線による浮気」
「判定が厳しすぎるだろ!?」
その横顔には、ほんの少しだけ新しい家族(部下)ができたことへの喜びが浮かんでいる。文句を言いながらも、結局は面倒見がよくて甘い。そんな彼女のツンデレな優しさに、俺は苦笑しながら缶コーヒーを一口あおった。
なんだかんだで賑やか(?)な朝食を終え、運転席へと乗り込んだ俺は、窓から顔を出して虎達に声を掛けた。
「俺達はこれから森の外に用事があるから、一旦ここでお別れだ。お前達は昨日話した通り、向こうへ真っすぐ進んでくれ。大きな崖を越えた先に、さっき食べたフルーツが山ほど実ってる場所がある。そこが俺達の拠点だ」
俺が指差した方角を、母虎はキリッとした凛々しい顔つきで見つめ、力強く「ガウッ」と短く吠えて応えた。
「子虎達も、母さんの言うことをしっかり聞いて無事に辿り着くんだぞ」
「「きゅ〜〜ん!」」
子虎達も母虎の横でピタッと寄り添い、元気いっぱいに返事をしてくれた。
「じゃあな! 魔獣には十分気をつけるんだぞ! いざとなったら作物なんて守ろうとせず、命優先で一目散に逃げろよ!」
「怪我したら許さないから」
小春もツンとした態度を取りつつも、最後には教官らしい温かい気遣いの言葉を掛けてやった。
小春が車を持ち上げ、ゆっくりと走り出すと、バックミラー越しに見える虎親子は、俺達の姿が樹海の影に隠れて完全に見えなくなるまで、ずっとその場で行儀良くお座りをしながら見送ってくれていたのだった。
「和樹、そろそろ樹海を抜ける」
「お、いよいよか! 鬱蒼とした木と草ばかりの暗い景色ともしばらくお別れだな……って、感傷に浸ってる場合じゃないな。急いで車を隠せそうな場所を探さないと」
道なき道を走り続けること二日。
俺達はついに、果てしなく続いていた大樹海の端――文明圏との境界線へと辿り着いた。
だが、ここからは本格的に人目を警戒しなければならないゾーンだ。
この世界の文明やテクノロジーからあまりにもかけ離れた異形の鉄塊なんて乗り回していたら、余計なトラブルを引き寄せるのは火を見るより明らか。誰かに見つかる前に隠さなければならない。
「どこか手頃な隠し場所は……っと、あの巨木なんていいんじゃないか?」
俺が運転席の窓から身を乗り出して指差したのは、周囲の樹木の中でも一際太く、天を突くほど高くそびえ立つ巨木だった。
あの極太な幹の根元にでも突っ込んで枝葉を被せておけば、遠目には絶対にわからないはず――。
「ん。あの高さと枝ぶりなら完璧。任せて」
「え? 高さと枝ぶり……? まさか根元に隠すんじゃなくて――ぎえええぇぇ!?」
疑問を口にする猶予すら与えられなかった。
小春は車を持ち上げた状態のまま、両脚に凄まじい脚力を込め、地面を爆破するように蹴り上げて跳躍したのだ。
突如として襲いかかる凄まじい重力。体がシートへと強烈に叩きつけられ、肺の中の酸素が一気に押し出される。まさに生きた心地のしない、垂直打ち上げ式の絶叫マシン。
メキメキッ……! ドスンッ!
宙に浮く無重力感の直後、木が激しく軋む鈍い音と、強烈な着地衝撃が車体を揺らした。
「和樹、いつまで乗ってるの。枝と幹にしっかり固定したからもう降りていい」
「き、き、木の上に駐車するやつがあるかぁぁっ!!」
遥か上空、巨木の枝の上で見事に車を着地(着木?)させた小春の横顔を見ながら、俺はバクバクと暴れる心臓を押さえて絶叫した。
青ざめた顔で恐る恐るドアを開け、足元を確認する。
巨大な枝と幹の窪みが、タイヤの凹凸に寸分違わずジャストフィットしていた。間違いなく小春の仕業だ。足で踏みしめたのか、魔術を使ったのかはわからないが、無駄に器用なことをする。
下を見下ろせば、高所恐怖症でなくても縮みあがる高さだ。
「ったく……道中で燃料や食料をそれなりに消費しておいて良かったよ。じゃなきゃ荷物の固定なんてできなかったし、そしたら今頃車内には物資の雨が盛大に降り注いでいたところだ」
胸を撫で下ろしながら車内を振り返る。
幸いにも荷物はすべてクーラーボックスや段ボール箱、リュックサックに入れた上でロープやシートベルトで固定してあったため、大ジャンプの衝撃にも耐え抜き、崩れることなく無事だった。
「さっさと作業終わらせて下に降りよう。いつまでもこんなところにいたら生きた心地がしない」
軽く車体を揺すってみるが、まるで木の一部であるかのようにびくともしない。固定具合に関しては安心した俺は、足を踏み外せば即死という極限状態の中、慎重に体勢を整えながら作業を開始した。
鉈を取り出し、周りの枝葉を切り落としてはボンネットやフロントガラスに隙間なく被せていく。数分もしないうちに車体の持つ無機質な金属の光沢は完全に消え去った。
「よし、完璧だ。遠目どころか、真下から見上げてもただの鬱蒼とした枝ぶりにしか見えないはず。それじゃあ降ろしてくれ」
「ん。しっかり掴まって」
三日分の食料や水、工具類を詰め込んだズッシリと重いリュックサックを背負い、俺は小春の背後に回り込むと、その華奢な肩と腰にしがみついた。
ほんのりと柑橘系の良い香りが鼻腔をくすぐるが、高所への恐怖でそれどころではない。
「準備OKだ!」
「ふふ、いくよ」
俺がしがみついている感触が心地良いのか、小春はフッと口元を嬉しそうに緩めると、一切の躊躇なく飛び降りた。
浮遊感とともに、風を切るゴォッと激しい音が耳元を掠める。
重力に引きずり落とされる恐怖に全身の筋肉を硬直させること数秒。小春は空中で美しく体をひねり、落下速度の衝撃を軽やかにいなしながら、猫のように音もなく地面に着地してみせた。
「……ふぅぅぅ。やっぱ人類は地面の上で生活するべきだな! 足裏に伝わる安心感が半端ない! 母なる大地最高!」
膝をガクガクと震わせながら地面を踏みしめ、大地のありがたみを噛み締める俺の横で、小春は何食わぬ顔でトントンと肩を叩き、涼しい顔で服のホコリを払っていた。
「大袈裟。たかが二十メートルの高さから飛び降りただけ」
「その『たかが』で普通の人間はあの世に旅立つんだよ! 手汗で滑ったらどうしようかと本気でドキドキしたぞ!? てか今更気付いたけど、背中にしがみつくんじゃなくて小春に抱っこしてもらった方が確実だったじゃん!?」
「リュックサック持ってたから無理」
「俺が小春の分も抱えれば済む話だろ! そもそも腕に引っ掛けてるから全然持てる!」
自分の命と食料のどちらを優先するべきか、考えるまでもない。
そもそも、リュックサックが地面に落下したところで、缶詰や軽いパンなどは無事だ。フルーツがぐちゃぐちゃになるのがせいぜい。
「女の子は相手をお姫様抱っこするより、後ろから抱きしめられる方が胸キュンする」
「お前の欲望のために俺は命懸けさせられたの!?」
「うん」
「…………はぁ、もういい。無事だったんだからこれ以上不毛な議論をするのはやめよう」
あっさりと開き直る小春の純粋な目に毒気を抜かれ、俺はがっくりと肩を落とした。
深めのため息を一つ吐き出して乱れた息を整えると、背中のリュックのベルトをキュッと締め直す。
「よし……気を取り直して、人里を目指して出発だ!」
「ん!」
膝の震えがようやく収まった足で、俺は一歩を踏み出した。小春は満足そうに小さく口元を緩めると、トコトコと俺の隣に並んで歩き出す。
まだ見ぬ異世界の街や人々、そして新たなトラブルへの期待と不安を胸に抱きながら、俺と小春の二人の足音だけが、樹海の出口へと続く小道に心地よく響き渡っていった。




