十五話 新しい仲間
空が茜色に染まり始めた頃、俺達は巨木の根元にある風通しの良い開けた場所を見つけ、車を停めて早めの野営準備に入ることにした。
充電式LEDランタンのスイッチを入れると、ぽっと暖色系の柔らかい光が灯り、暗闇に包まれつつあった周囲を優しく照らし出す。それを車の屋根の上に置けば、鬱蒼とした樹海の不気味な気配は消え去り、代わりにオシャレなアウトドアリビングの誕生である。
「この剝き出しの根っこも良い味を出してるよな」
足元に波打つようにうねり出ていた巨大な木の根。ちょうど腰を下ろすのにおあつらえ向きな、滑らかな曲線を見て、俺は満足げに頷いた。
「よし、それじゃあ夕食の準備に取り掛かるか!」
昼間も活躍した折りたたみテーブルの上にカセットコンロをセットし、今夜のメインディッシュの調理を始める。
昨夜の残りの特製スープを温め直し、クーラーボックスでしっかり冷やしておいた角熊肉の煮込みを小鍋にあけて火にかけ、待つことしばし。出汁と香辛料の甘辛く濃厚な香りが、湯気とともにふわっと立ち上り始めた。
「ん……良い匂い。お肉、早く食べたい」
「焦るな焦るな、しっかり温めた方が美味しいぞ。小春は皿とスプーンを準備してくれ。茶色いバッグにまとめて入ってるから」
「ん。任された」
匂いに引き寄せられて目を輝かせる小春に指示を出し、二人で和気あいあいと夕食の準備を進めていた――その時だった。
ピクッ、と小春の大きな犬耳が跳ね上がった。
「……和樹、なんか来た」
「っ!」
小春の視線を追ってランタンの光が届かない森の奥の暗闇へと目を向ける。
――ザッ……ザッ……ザッ……。
分厚く積もった落ち葉と下草を重々しく踏みしめる、何者かの足音がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。
俺は咄嗟に手にしていたお玉を剣のように構え、全身の筋肉を硬直させて臨戦態勢を取った。
匂いに釣られた肉食獣が来るのは想定内だったが、いざ直面すると生きた心地がしない。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、緊張がピークに達したその瞬間――重なり合う木々の影から、ぬっと巨大な獣が姿を現した。
「……虎?」
LEDランタンの柔らかい光に照らし出されたのは、鮮やかな橙色と黒の縞模様をまとった、一頭の虎だった。
この大樹海には、常識外れの巨大さを誇る角熊やらシルヴィアのような怪物どもがゴロゴロいる。だが目の前に現れた虎は、地球の動物園で見るような体長二メートルほどの至って普通の虎に見えた。
しかも不思議なことに、牙を剥き出しにして威嚇してくるでもなく、その琥珀色の瞳には敵意や殺気が一切感じられない。ただじっと切実な光を宿してこちらを見つめている。
よく見れば、虎の足元には、まだ生まれたばかりと思われる手のひらサイズの子虎が二頭、身を寄せ合うようにしてブルブルと丸くなっていた。
「……親子、か」
あまりにも害意のない、ただただ腹を減らせた野生動物の素直すぎるおねだり顔に、俺は張り詰めていた肩の力を抜いた。
どうりで小春が先制攻撃を叩き込まないわけだ。もっと相棒のことを信用しよう。
見れば、母親と思われる虎の毛並みはパサついており、肋骨の形がうっすらと浮き出るほどに痩せ細っていた。足元でうずくまる幼い子虎達も「キュゥ……キュゥ……」と弱々しい声を漏らしている。
規格外のバケモノが幅を利かせる樹海で、この普通のサイズの虎が子育てをするのがどれほど過酷か、想像するに難くない。きっと何日もまともな獲物にありつけておらず、追いつめられているのだろう。
「食べる?」
「お、優しいな小春。この親子に飯を分けてやるのか……って、なんで皿じゃなくて拳を向けてんだよ!? 『食べる?』ってご飯を提供する方じゃなくて、この親子を狩って食材にするかどうか俺に聞いてたの!?」
「タダで食事にありつこうなんて図々しいにもほどがある。世の中そんなに甘くないってわからせてやらないと」
「この親子はもう十分すぎるほど世の中の厳しさをわかってるよ! じゃなきゃ見ず知らずの人間や、お前みたいな圧倒的格上の前に、生まれたばかりの子供を連れて無防備に現れないって!」
「そんなことない。猫は計算高い卑怯者。その場しのぎのためなら何でもやる。ほら見て、あの目。かわいこぶれば人間が飯をくれるって味をしめてる顔」
「絶対にそんな高等な計算してないから! 単純にお腹が減って背に腹は代えられないだけだって! 一体何がお前をそこまで邪推に駆り立てるんだよ!」
「……忘れもしない、小学四年生の冬。和樹が段ボールに入った捨て猫を拾ってきた。私そっちのけで可愛がった」
「あ、ああ、あったなそんなこと……。結局うちじゃ飼えないってんで引き取ってくれる人を探したんだよな。まさかそっちのけで可愛がったってそのこと言ってんのか?」
「それもある。でも問題はその後。あいつは命を救われた恩を忘れて、新しい飼い主の家でのうのうと生きてた。和樹と私が様子を見に行っても知らんぷり。挨拶も無視された。それどころか『お前のとこで暮らさなくて良かった』と高級キャットフードを食べながら煽ってきた」
「マジで!? あいつ性格悪すぎない!?」
「ん。森田家での暮らし方や序列をみっちり叩き込んでやったのに恩知らずなやつ」
「それ、ただ単に厳しく指導した小春が恨まれてただけでは!? 『森田家』じゃなくて『小春』と一緒に暮らさずに済んで助かったって意味では!? というか猫全般そうってんじゃなくて、そいつが一癖あっただけだろ!?」
俺が必死に庇っていると、まるでこちらの会話を聞き分けたかのように親虎が喉を大きく鳴らしながらその巨体をゴロンと地面に横たえて腹を見せてきた。
さらに子虎までもが、申し合わせたように「キュ~……ウニャ~……」と甲高い情けない声を上げながら俺の足元へ寄ってきて、コロコロと頭を擦り寄せてきた。
(うわっ! 駄目だ、可愛すぎる……!!)
「今すぐその汚い頭を離せ、この泥棒猫どもがぁ!」
俺の表情がだらしなく歪んだ直後、小春の様子が一変した。
頭の犬耳を極限まで逆立て、尻尾を太く膨らませながら、本気の殺気と嫉妬を全開で放ち始める。
それは単なる猛獣への警戒などではない。相棒という絶対的ポジションを脅かされかけたことに対する、狂おしいまでの対抗意識と独占欲だ。
「「「きゅぅぅん……っ!?」」」
捕食者が放つプレッシャーを至近距離で叩きつけられ、虎の親子は揃って血の気が引いた顔でガタガタと全身を激しく震わせた。母虎に至っては丸出しにしていたお腹を急いで隠し、子虎を抱え込むようにして身を小さく縮めている。
「やめんかっ!」
俺は咄嗟に小春の頭へチョップを落とし、溢れ出していた物騒な殺気を力ずくで遮断した。
「……やっぱり和樹も男。本妻より愛人を取る。家庭より刺激を取る」
「何の話をしてんだお前は!?」
小春は叩かれた頭を押さえながら、冷ややかなジト目を向けてきた。
「派閥の話。男と女、若者と老人、本命と愛人、ギャルと清楚、巨乳と貧乳、容姿と性格、攻めと受け、利益と愛情、キノコとタケノコ、そして犬と猫。歴史上、派閥というものは常に血で血を洗う争いを繰り広げてきた」
「言わんとすることはわかるけど、これはそういうのじゃないだろ! 俺は昔から生粋の犬派だ! でも目の前に困ってたら助けたくなるのが人情だろ!?」
「男はいつもそう。仕事や同情を免罪符にして誰にでも優しくする。そしてチャンスがあればハーレムに加えようとする。どうせこのまま連れて帰って、私の見てないところで乳繰り合う」
「うっ……そ、それは……」
彼女が深読みしているようなやましい意図は断じてないが――実を言えば、マイホームの場所を教えてやろうかとは考えていた。
あそこの畑には、作物が山ほど実っている。俺達二人では到底食いきれずに腐らせるだけの代物だ。困窮しているこの親子にとっては最高の安全地帯であり、潤沢な食糧庫になるはずだ。
ついでに番犬ならぬ『番虎』として家を守ってくれれば、まさに一石二鳥の好条件。
しかし、動物とのちょっとしたスキンシップすら浮気と捉えて怒り狂う小春に、そのことをどう説明すれば角を立てずにわかってもらえるのかがわからない。
「と、とにかく、まずは飯だ! ほら、俺が取り分けるのが気に入らないなら、小春がやってくれ」
俺は意識を半分ほど戻すと、手にしていたお玉を差し出した。
「……なんで私が、この図々しい泥棒猫どもの給仕をしないといけないの」
ぶつぶつと不満の声を漏らしながらも、お玉を手にした小春は、鍋の中の角熊肉と旨味がたっぷりと溶け出した濃厚なスープを手際よく器へ注いでいく。
親虎の深皿には大ぶりの肉の塊とたっぷりの熱々スープ。子虎達の皿には食べやすいようにお玉の背で細かく解した肉と、熱すぎないよう息を吹きかけて冷ましたスープを入れている。
文句を言いながらも仕事が丁寧なのは、間違いなく彼女の美点であり優しさだった。
「残したらブチのめす」
最後の威嚇と言わんばかりに、物騒な捨て台詞とともに器を地面へドンと置く小春。
その瞬間、プレッシャーでガタガタと震えていた虎親子はハッと顔を上げ、眼前に差し出された魅惑のごちそうへと勢いよく飛びついた。
「ハフッ、ハフッ……ゴクンッ……ッ!?」
「ウニャウニャッ……!」
猛烈な勢いで肉煮込みを平らげていく虎親子。角熊肉の豊かな脂と濃厚な出汁の旨味がよほど胃袋に染み渡ったのか、熱さに身を悶えさせながらも一度として口を止める気配すらない。
毒味や匂いの確認すら挟まずに夢中で喰らいついたのは、飢えで余裕がなかったからか、あるいは小春の無言の圧でそんな猶予すら与えられなかったからか。
(……ま、小春のお陰と思っておこう)
彼女の圧があったからこそ、無駄な警戒をされずにスムーズに飯が食わせられているのだ。そしてこの後の交渉も簡単になるのだ。
「どれだけ食べる気……」
器が空になるたび、虎達がねだるよりも早く、小春は面倒くさそうにおかわりを注ぎ足していく。
結局、三度のおかわりを経て、鍋の中にあった角熊肉の煮込みは一滴のスープすら残らずピカピカに舐め上げられた。というか鍋ごと舐めまわされた。
(……うん、俺達はパンとフルーツで我慢だな)
空っぽになった鍋と、満足げにお腹をさする虎親子を見つめながら、俺は心の中で静かに遠い目をするのだった。
食後の腹ごなしとばかりに、腹を上に向けて「ふにゃ〜……」と情けない声を上げながら寝転がる虎親子。そのあまりの警戒心のなさに呆れつつも、俺はそっと息を吐いて本題に入ることに。
「母虎、こっちの言葉を理解してると思って話すぞ。この森はお前達にとって厳しすぎる。そこで提案なんだが、俺達の拠点に来ないか?」
俺の言葉に、横になっていた母虎が耳をぴくっと揺らし、ゆっくりと体を起こしてこちらを見つめ直す。
「あっちに一日ほど行った場所なんだが、そこなら頑丈な壁も屋根もあるし、畑には食べ頃の作物が山ほど実ってる。他の凶悪な魔獣に怯えることなく子供達を育てられるはずだ」
俺が指差した方角を、母虎は琥珀色の瞳でじっと見つめた。
言葉の意味を正確に理解できたかはわからない。だが、俺の発する温かい気配と希望を感じ取ったのか、母虎は子供達の頭を優しく舐めた後、深々と頷いてみせた。
「くぁ~ずぅ~きぃ~」
ほっとしたのも束の間。背後から氷点下の声が響いた。
冷や汗を流しながら振り返ると、そこにはステンレス製のお玉をミシミシと不穏な音を立てて握りしめ、俺を射殺さんばかりに睨みつける小春の姿があった。
嫉妬に狂う彼女に対して、結局良い感じの言い訳が思いつかなかったので、「もう約束しちゃったから!」という事後承諾作戦を決行したのだが――やはり駄目だったようだ。
「な、なんだよ小春……。家を守ってもらえるし、余った作物も無駄にならない、一石二鳥のアイデアだろ? それにいつまでも俺達二人きりってわけにもいかないしさ」
「だとしても猫は駄目。絶対駄目。同年代にしか興味ないと言っておきながら、帰省した時にちょっと懐かれた親戚の小学生に手を出した挙句、結婚後も関係を続けて、果ては上京したがる少女を通学に便利だからと家に住まわせるぐらい駄目」
「いやだから! 猫が畜生で悪者ってのは小春の勘違いだろ! 実際はそんな昼ドラみたいな設定じゃなくて、ただの同世代かつ血の繋がってない幼馴染だろ! 手を出してもいい相手だろ!」
「ついに本音を吐いた。浮気を正当化して猫派が王道なんだと主張してる」
「ちっげーよ! 物の例えだ! お前にあやかってのな!」
俺の決死の叫びも、怒り狂う小春の耳には言い訳としか届いていないようだった。彼女の手にあるお玉は、いよいよ物理的にひしゃげていく。
(くそっ、このままじゃ角熊の代わりに俺が鍋で煮込まれる……! 何か……何か小春のプライドと独占欲をくすぐりつつ、納得させられる方法はないのか……っ! そ、そうだっ!)
高速で脳みそを回転させ、俺は起死回生の一手を打ち出した。
「だったらお前が、こいつ等を一から教育すればいいだろ!」
「……私に、あの泥棒猫どもを教育しろと?」
お玉を握りつぶしかけていた小春の手がピタリと止まり、ジト目の奥の瞳がぴくりと揺れた。
食いついた!
「そうだ! 俺達の拠点に置く以上、ルールとマナーの徹底は不可欠だ! もし俺が甘やかしたら、それこそお前の言う通り『かわいこぶれば何でも許される』って付け上がるかもしれない! だからこそ、絶対的な規律と強さを持つお前の指導が必要なんだ! 厳格な教官としてこの家のトップは誰か、身体でわからせてやってくれ! お前の手でまともな居候として育て上げれば、あの性悪な捨て猫が例外だったって証明できるはずだ!」
やり過ぎは厳禁だが、指導そのものは間違いなく必要だ。
どのみち虎親子を俺達の生活に馴染ませるにはルールを教えなければならないし、何より小春に『自分が絶対的な指導者(本妻)である』という主導権を渡すことで、彼女の激しい対抗意識を教官としての責任感へと昇華させる狙いだった。
この虎達は相当賢いようだし、根性もありそうなので、きっと小春のスパルタ教育にも耐えられるはずだ。
……たぶん。
「和樹がそこまで頭を下げて頼むなら仕方ない。一生色目を使わないように厳しく指導してあげる」
小春の身体から立ち上っていた禍々しい殺気が消え去った。
そのまま冷ややかな笑みを浮かべて虎親子を睨みつけると、母虎は首をぶんぶんと縦に振り、子虎たちも「きゅーっ!」と必死の思いで直立不動(?)の姿勢を取ってみせた。
「よし、決まりだ! 頼んだぞ、小春教官!」
「ん。ビシビシいく」
こうして虎親子は俺達の新たな仲間として加わったのだった。




