十四話 ラーメン
「そろそろ昼食にしようか。どこか良さげな場所で停めてくれ」
その後もしばらく鬱蒼とした原生林を進み、太陽が頭上高くに差し掛かった頃、俺はお腹の虫の音を聞きながら車の下の小春に声を掛けた。
「少し行ったところに見晴らしのいい崖がある」
「おっ、いいねいいね! 絶好のランチスポットじゃん!」
足元からの小春の報せに、俺はパッと顔を輝かせた。
巨大な木々に囲まれ続けて少し息苦しさを感じていたところだ。風通しのいい高い場所ならこの広大な樹海の様子も観察できるだろうし、障害物が少ない分、不意打ちされるリスクも低いはずだ。
「ち、ちなみに、上空から襲い掛かってくるような魔獣がいたりは……?」
「いる。ワイバーンとかグリフォンとかコンドルとか」
「やっぱりいるんだ!?」
恐る恐る尋ねてみれば、さらりと出てくる凶悪モンスターの固有名詞。俺は思わずシートの上で跳ね起きた。そんなのが上空をウロウロしている場所にノコノコ出ていくのは自殺行為ではなかろうか。
「でも大丈夫。近付いてきたら気配でわかるし、私より遥かに弱いからすぐ追い払える。危険度は見通しの悪い森の中と大して変わらない」
「あ、そ、そう……? なら、その崖で休憩するか……」
相棒の頼もしすぎる言葉に押し切られ、俺達はおすすめスポットへと向かうことに。
そこから緩やかな斜面をさらに登ること十数分。
頭上を覆い尽くしていた枝葉が唐突に途切れ、正面から眩しい太陽の光と心地よい爽風が車内へと吹き込んできた。
「うわ……すごいな……!」
斜面を登り切った瞬間、一気に視界が開ける。
俺は思わずサイドの窓を全開にして身を乗り出し、感嘆の声を漏らした。
切り立った崖の先には、地平線の彼方まで見渡す限りの大樹海が広がっていた。遠くには雲を突くような雄大な山脈がそびえ立ち、先ほど目にした泥の川が樹海を縫うように流れているのが見える。
そして――その地平線近く、無限に続くかと思われた緑の海の端に、かすかに褐色の平野の姿が。
「もしかして、あそこが……?」
「ん。目的地の村がある。さらにその先には大きな街や海も」
車を地面へ下ろしながら、小春が少しだけ誇らしげな声で答える。
ようやく捉えた文明の光。旅の目的がハッキリと形になったことで、俺の胸に小さく、しかし確かな高鳴りが宿るのだった。
「んーっ! 空気が美味い!」
俺は車から降りると、久々に踏みしめる地面の感触を確かめながら、両手を天高く突き上げて大きく伸びをした。凝り固まっていた関節がポキポキと心地よい音を立て、森の湿った空気とは違うカラッと澄んだ風が肺を満たしていく。
目下に広がる緑の絨毯と、どこまでも青く抜ける青空。最高の絶景と風が、ドライブの疲労を一気に吹き飛ばしてくれた。
「和樹、疲れた?」
「それはこっちのセリフだよ。ただ座ってるだけの俺なんかより、車を抱えて走ってきた小春の方が遥かに疲れたろ」
「疲れてない。これくらい朝飯前」
小春は犬耳をぴこぴこと揺らし、平然と言い放つ。
――が、その直後。
彼女の小さなお腹から、クゥ~と、あまりにも可愛らしい音が鳴り響いた。
「……疲れてない。でも、お腹は凄く空いた」
ぴくりとも表情を変えず、淡々と言い直す相棒の姿に、俺は思わず吹き出してしまった。
「うっし、それじゃあチャチャっと作りますかね!」
トランクからアウトドア用のカセットコンロと小鍋、小型の折りたたみテーブルを取り出し、平らな地面にセット。つまみを回すと、パチンッと点火プラグの乾いた音が響き、コンロの中心から青い炎が立ち上った。
小鍋に注いだミネラルウォーターが、みるみるうちに熱を帯びていく。
「ふふふ、本日の昼食はこれだ!」
「角熊の肉煮込み!」
保冷材の効いたクーラーボックスのフタを開け、中に手を伸ばした瞬間、小春がキラキラと目を輝かせながら食い気満々にリクエストを飛ばしてきた。尻尾も期待に満ち溢れてぶんぶんと風を切る。
「あ……そ、そっちの方が良かったか? キャンプと言えばやっぱりこれかなと思ってさ。肉は昨日から連続だったし、そろそろ飽きたかなって……」
ただ、俺がクーラーボックスから取り出したのは、肉煮込みの入ったタッパーではなく、赤と白のパッケージがお馴染みの市販のカップラーメン。
シュンシュンと勢いよく白い湯気を吹き出す小鍋を前に、俺は頬をかきながら苦笑いを浮かべた。
「…………」
ごちそうを期待してプロペラのように回転していた小春の尻尾が、ピタリと止まった。
輝いていた瞳からすーっと光が消え、ぴんと立っていた犬耳がへにょりと力無く垂れ下がる。心なしか尻尾や髪の毛までしぼんでいる。全身から漂う絶望と落胆。
「……だいじょうぶ。らあめん、ずっと食べてみたかったから。気にしないで」
「そんな悲しそうな顔しないで!? 無理して気を遣わないで!? いますぐ肉温めるから!!」
「ううん。平気。私、我慢できる」
「いやだから! その死んだ魚のような目で健気ぶられるのが一番メンタルに来るんだよ!」
俺は慌ててクーラーボックスから肉煮込みが入ったタッパーを取り出そうとして――手を止めた。
(……待てよ? これじゃまるでカップ麺が劣ってるみたいじゃないか。野外で食うカップ麺は、高級レストランのフルコースすら凌駕するってのによ。ジャンクフードの美味しさを今ここで証明してやらなくてどうする!)
犬だった頃には塩分や油分過多なラーメンなんて絶対に食べさせるわけにはいかなかった。せいぜい味付け前の茹でた麺を少しおすそ分けする程度だ。
あれを本当のラーメンだと思われて下に見られたままでは、元飼い主として……いや、一人の地球人として示しがつかない!
「いいか小春、よく聞け! お前が食ったのは、ただの味のない茹で麺だ! そしてこれが、俺達人類が誇る至高のソウルフード、本物のカップラーメンだあああああああッ!!」
俺は高らかに宣言すると同時に、沸騰した湯をカップの線ぴったりまで注ぎ入れた。
さらに、今回のキャンプ飯はこれだけでは終わらない。
「これをこうして……こうだ!」
クーラーボックスの隙間に忍ばせておいた生卵を取り出すと、パカッと割って熱々のスープの上へ落とした。とろけるスライスチーズも二枚、麺を覆い隠すように贅沢に乗せる。
即座にフタを閉め、上にプラスチックのフォークを重しとして乗せた。
ちなみに俺は卵に限っては、お湯を注ぐ前ではなくお湯を注いだ後に入れる派である。この方が半熟になって最高なのだ。温泉卵ぐらいトロトロにしたければ二分経ってから投入するべし。
やがて、樹海の清々しい空気を塗り替えるように、濃密な香りが辺りに漂い始める。ジャンクで、悪魔的で、腹ペコの胃袋を直接揺さぶるような油と醤油とスパイス、そして熱で溶け出した濃厚なチーズの甘い匂いだ。
「……っ!?」
哀愁を漂わせて下を向いていた小春の犬耳が、ぴくりと跳ね上がった。死んだ魚のようだった瞳にハイライトが戻り、ひくひくと小さくて可愛らしい鼻がせわしなく動き始める。
「ふふふ……匂いだけで涎が出てくるだろ? だが焦るな、ここから三分間待つ。このおあずけの時間こそが最高のスパイスになるんだ」
「三分……長い……」
小春の視線は、もはやカップ麺に釘付けだった。
じりじりと過ぎる三分間。
これだけ強烈な食べ物の匂いを漂わせているのに魔獣が襲ってこないのは、小春からダダ漏れている殺気のせいだろう。今の彼女に手を出したらどうなるかわからない。正直、俺ですらちょっと怖い。
「3、2、1、いざ開封!!」
「おおおお……っ!!」
フタを一気に剥ぎ取ると、閉じ込められていた濃密な蒸気と爆発的な旨味の香りが一気に溢れ出した。
現れたのは、黄金色の魅惑の光景。熱いスープの余熱でトロットロに溶けたチーズの膜が麺全体を隙間なく覆い、その中央で半熟になった黄身が宝石のように輝いている。
「栄養満点、特製キャンプラーメンの完成だ! さあ召し上がれ!」
「いただきますっ!」
数分前から両手でフォークを握りしめて待機していた小春は、目の前の黄金色の海にゴクリと唾を呑み込み、大胆に麺を持ち上げた。
フーフーと小さな口で懸命に息を吹きかけ、意を決したように口の中へと滑り込ませる。啜るのではなく塊を噛んでいるのはご愛敬。
直後、カッと目が開かれ、尻尾と頭の犬耳がピンと立ち上がった。
「和樹、すごく美味しい……っ!」
「だろ!? 外で食うカップ麺は美味いだろ!?」
「スープが……すごく濃くて、麺がプリプリしてて、この謎のお肉もジューシーで……っ! 私、これ好き! 角熊より美味しい!」
夢中でフォークを動かし、口のまわりに醤油スープをハネさせながら、小さな身体のどこに入っていくのかと思うほどの勢いでカップ麺を喰らいつくしていく。
最後に両手でカップを持ち上げ、スープを最後の一滴まで飲み干すと「ふはぁ……」と満足感に満ち溢れた吐息を漏らした。
その表情は、先程までのどん底の表情が嘘のように、幸福感で桃色に染まっている。
「和樹達は毎日こんな美味しいものを食べてたの?」
「毎日は体に悪いから食わないけどな。安くて美味しいものってのは大体栄養が偏ってて太りやすいんだ。まあでも、ジャンクフードの凄さは伝わったろ?」
「ん。大満足。カップラーメン、世界で一番美味しい食べ物」
「現金なやつだなあ……」
手の込んだ料理もいいが、たまにはこういう安っぽくて濃い味が、旅の緊張感をほぐしてくれる。満足そうにお腹をさする小春の笑顔を見ていると、ここが危険な森の中であることを忘れてしまいそうになる。
「さーてと、お腹も満たされたことだし、もう一走り行きますか!」
「ん! ラーメンパワーが充満してる今なら、朝まで休まずノンストップで走れる」
「駄目。休め」
すっかりご満悦の小春はドヤ顔で主張してきたが、俺は冷静に否定した。その場の勢いに流されて上手くいくことは少ない。計画通りが一番だ。
「むぅ……和樹は過保護。そうやって過剰な心配で子供のやる気を削ぐのは毒親、駄目教師、それから老害上司のやること」
「何と言われようと二時間ごとにきっちり休憩挟みまーす」
どこから仕入れてきたのかわからない社会の闇みたいな語彙でなじられたが、俺はあっさりと受け流した。
無理をさせて小春の足腰にガタが来たら元も子もないし、俺だって座りっぱなしは疲れる。トイレ休憩だって必要なのだ。
「美少女は排泄なんてしない」
「いや、堂々と都市伝説を持ち出すな。昨日、トイレの使い方を学んだ後に、普通に使ってただろ」
「変態」
「ぐっ……!」
今回ばかりは何も言い返せない。
論破しようとするあまり、多感な年頃の乙女に対し、その生理現象へ無神経かつ具体的に触れてしまった。もしここが日本ならセクハラで実刑判決を受けても文句は言えない。
俺は男としての社会的立場が急速に危うくなるのを感じて言葉を詰まらせた。
「でも和樹にはどっちも必要だから仕方ない」
さらなる追及で休憩の件を有耶無耶にされるかと思ったが、意外にもそんなことはなかった。小春は不満たらたらといった様子で口を尖らせながらも、素直に引き下がってくれた。
「わ、わかってくれればよろしい! それじゃあ後片付けをして出発だ!」
間一髪で命拾いした俺は胸を撫で下ろした。
これ以上気まずい空気を長引かせないためにも、急いで手元を動かす。
スープの残った汁をキッチンペーパーに吸わせて固形ゴミにまとめ、折りたたみテーブルとコンロを手際よく畳んでいく。冷めた小鍋とカップ麺の空き容器をビニール袋へ二重に密閉し、トランクの荷物スペースへと放り込んだ。
環境保護はもちろんのこと、あの強烈なジャンクフードの匂いを漂わせたまま走れば、臭いに敏感な野生動物を引き寄せてしまうからだ。
「よし、後片付け完了!」
撤収作業を終えた俺は、晴れやかな気持ちで再び運転席へと乗り込むのだった。




