十三話 樹海
翌朝。
目覚まし時計の電子音が鳴るより少し早く、俺は自然と目を覚ました。
隣には、すやすやと心地よさそうな寝息を立てる小春の寝顔があった。掛け布団から飛び出た真っ白な犬耳が、俺が身体を動かした微かな気配に反応してピクピクと揺れる。
「……ん……かずき……?」
「おはよ、小春。朝だぞ」
「んー……おはよ……」
目をこすりながら体を起こす小春に、ゆっくりしてていいぞという気持ちを込めて銀髪を軽く撫でてやり、俺はベッドからそっと抜け出た。
洗面所の冷たい水で顔を洗い、目を覚ましてからキッチンへ向かう。
朝食の準備をしていると、パジャマ代わりにしていた妹の体操服から動きやすいショートパンツにTシャツに着替えた小春がやってきた。
朝食は手軽にエネルギーを補給できるよう、昨夜の残りの特製スープに肉と米をぶち込んだ特製雑炊と、フルーツ盛り合わせ。出汁の効いた優しい味わいと果物の甘酸っぱさが体に染みわたり、脳がしっかりと覚醒していく。
「ん、美味しい。朝から幸せ」
「しっかり食べてエネルギー蓄えておけよ。長旅だからな」
二人で並んで朝食を平らげると、いよいよ出発に向けた最後の荷造り。
カチカチに凍らせておいた保冷剤を底に敷き詰め、冷やしておいた肉煮込みのタッパー、そして昨日収穫した特大フルーツ達を、クーラーボックスへ隙間なく詰め込んでいく。
すでに車内には、飲み物、缶詰、調理器具、工具箱、救急セット、そして俺と小春の予備の着替えが入ったトートバッグなどを積んである。あとは、このクーラーボックスを後部座席の隙間に押し込めば、まさに『走る基地』と呼ぶにふさわしい状態の完成である。
「運ぶ」
いつの間にか背後に立った小春が、クーラーボックスをじっと見つめながら言った。
「いやいいよ、このぐらい俺でも持てるって。小春はこの後、車を担いで爆走する大仕事が待ってるんだから、今のうちにゆっくりしとけ」
「運ぶ」
「いやいや、せっかく一張羅に着替えたんだし。俺はまだパジャマだから汚れても平気――」
「運ぶ」
「……はい、よろしくお願いします」
単に暇なのか、それとも役に立ちたいのか。無表情のままこちらを見つめて一歩も引こうとしない小春の眼差しに押し負け、俺はクーラーボックスの前から退散した。
小春はそれをひょいと持ち上げると、軽やかな足取りでガレージへと向かった。相変わらずの怪力である。
「それじゃあ俺は戸締りを確認しますかね」
頼もしい相棒の後姿を見送りつつ、俺は最後の重要業務に取り掛かった。
キッチンのガスコンロの元栓、水道の蛇口、電化製品のコンセント類、そして各部屋の窓のクレセント錠のロック。地球にいた頃と何一つ変わらない日常のルーティンだが、窓の外に目を向ければ、そこには異世界の鬱蒼とした大樹海が広がっている。
「……案外慣れるもんだな」
ぽつりと呟いた自分の声が、静まり返った自室に小さく響く。
ほんの数日前までは、常識外れの巨大な樹木や不気味な咆哮にいちいち悲鳴を上げていた。それが今や「施錠、よし」と、まるで近所のスーパーへ買い物に出掛けるかのような気楽さで、この異世界生活を受け入れ始めている。
人間の順応性というのは、つくづく恐ろしいというか呆れ返るほどにしぶとい。
指差し確認を終え、玄関のドアを重厚な金属音とともにしっかりと施錠した俺は、鍵をポケットに押し込むと晴れやかな気持ちでガレージの小春の下へと向かった。
「和樹、まだスペース余ってるけど何か持っていく?」
「いや、車内が窮屈になるし、もしもの時は運転するかもしれないからな。これで十分だよ」
トランクや後部座席のわずかな隙間を指差す小春に苦笑いを返しながら、運転席へと乗り込む。
後部座席をフルフラットにして荷物を目いっぱい詰め込んだ車内は、すでに二人旅には十分すぎるほどの物資で満たされている。これ以上欲張って積み込めば、せっかくの居住性や視界まで潰してしまう。
「あ、そうだ小春。もし途中で疲れたら遠慮なく言えよ? 俺も歩くからさ。どうせ村の近くまで行ったら車は森に隠すことになるんだし、気にしなくていいからな」
「疲れない。和樹を歩かせたら三日じゃ着かないし、靴も服も汚れる」
「扱いが姫なのよ……」
過保護すぎる元愛犬の愛(?)に苦笑しつつ、俺はひとまず車をゆっくり動かしてガレージから外に出し、防犯シャッターを下ろした。
再度運転席に乗り込み、シートベルトを締め、両手でしっかりとハンドルを握る。運転するわけではないが、こうしておくと心理的に少しだけ落ち着くのだ。
「それじゃあ、安全第一で出発進行っ!」
「おー」
小春の無機質ながらも気合の入った声が返ってきたのと同時に、車体がふわりと浮き上がる。
静かに、しかし力強く加速を始めた車は、大樹海の中へと滑り出していった。
「なあ。この森ってこんなに動物いないもんなのか? うちには割と頻繁に来てたよな?」
エンジン音のしない車内には、木々が風に揺れるざわめきと、小春が地面を蹴る不規則な振動だけが響いている。速度が抑えられているお陰で、今のところは実に快適なドライブだ。
――が、出発して一時間。
最初は物珍しかった窓の外を流れる見渡す限りの原生林も、巨木と茂みが延々と続くばかりで、早くも見慣れてしまった。
退屈に耐えかねて話し掛けると、車の下から小春の淡々とした声が返ってきた。
「気配を消して木の上や茂みの中に潜んでる。あと土の中にもたくさんいる。和樹は気配を察知する能力もなければ、野生の勘もないから気付かないだけ」
「な、なるほど……それができないような弱者はこの森では生きていけないってわけか……」
「それと、この車が不気味だから遠くから様子見してる」
「あー、たしかに」
小春の言葉に、俺は納得して深く頷いた。
強敵が蔓延る大樹海で、駆動音も破壊音も一切させず、見たこともない素材でできた巨大な箱が時速数十キロでヌルヌルと滑るように移動しているのだ。
そんな異物中の異物が突如現れれば、どんな凶暴な魔獣だって警戒して物陰から様子を窺うのも当然と言えた。
「どうしても野生の姿が見たいなら、美味しそうな食べ物を窓から差し出したらいい。匂いと見た目に釣られて、すぐに襲い掛かってくるはず」
「全力で遠慮させていただきます!」
窓ガラスを割られて引きずり出される未来が見えた俺は、即座に首を横に振るのだった。
「ところで、このペースだと目的の村までどのくらいで着きそうだ?」
「休まず走り続ければ、丸一日」
「駄目に決まってんだろ! 我が社はホワイト労働環境が売りです! 無駄な残業、許可されない休憩、および視界が著しく悪い夜間の過酷な屋外作業などは固く禁止されています!」
現役社畜として絶対に見過ごすことのできない過酷労働に対し、俺はハンドルを握りしめたまま熱弁を振るった。
……まぁ生身で乗用車を抱え上げ、時速数十キロで森を爆走させる企業の、どこがホワイトなのかと言われれば返す言葉もないのだが。
「二時間に一度の定期休憩と、夕方五時には停車して野営準備に入るホワイトプランだとどうなる?」
「二日。明後日の昼には着く」
「よし、採用! そのスケジュールで行こう!」
「……わかった。この先に川があるから、そこで一回目の『ていききゅうけい』にする」
足元から聞こえる小春の声には呆れと、それでも相棒の提示したルールを律儀に守ろうとする真面目さが入り混じっていた。
異世界にやってきて初めて目にする文明や人里の気配に、期待で胸を膨らませながら車に揺られること数十分。木々の間から見えてきたその『川』の光景に、俺は言葉を失った。
「こ、これが川……なのか……?」
それは川と呼ぶにはあまりにも痛々しい、重たい泥と濁り水がドロドロと淀みながら流れる溝のような場所だった。澄んだ水面どころか、水底すら一切見えない。
日本の基準なら水場と呼ぶことすら躊躇われる酷い状態だ。
「この世界ではこれが普通。どこも大体こんな感じ」
「じょ、浄化魔法とか、綺麗な水を抽出する魔道具みたいな装置は……」
「そういう便利なものは、大きな街のお金持ちや高位の貴族、神殿が抱え込んでる。野生の動物も庶民も、みんなこれをそのまま飲む。布でろ過したり熱して蒸気を利用しようにも、泥が重すぎてすぐ目詰まりして上手くいかないみたい」
「目詰まりって……まさか村の井戸とかも……?」
「ん。いくら掘っても泥水が出てくる。それに泥が多少マシになる程度で、すぐポンプや井戸自体が詰まって使い物にならなくなる」
地面に染み込む水すらドロドロの汚水とか、この世界、想像以上に詰んでいた。
さすがにこの強烈な泥臭さが漂う川の近くで休憩する気にはなれなかったので、少し離れた風通しの良い木陰まで移動してもらい、一息つくことに。
「にしても、小春はやけに人間界の事情に詳しいな。森の外には結構頻繁に出てるのか?」
クーラーボックスから取り出した冷えたペットボトルのお茶を口に含み、素朴な疑問を投げかける。
「100年も生きてたら自然と覚える」
「……なるほど」
小春は尻尾を優雅にゆらりと揺らしながら、ごく当たり前のことのように言い放った。
さらりと提示された途方もない数字に、俺の脳は一瞬フリーズする。
目の前にいるのは、どう見ても十代半ばの可憐な銀髪ケモミミ少女である。だが、ここで「えっ、100歳!?」などと無神経に驚いてはいけない。社会人としての理性が脳内で緊急警報を鳴らす。
――女性の年齢には触れてはならない。
もし触れざるを得ない状況になった場合、対象が少女なら予想よりも上に、妙齢の女性なら予想よりも下に、二十代ならそのまま伝えて、さりげなく褒めるべし。
仮に読みを外して気まずい空気になったとしても、慌てず焦らず、「本当? 落ち着ていて顔立ちも大人びてるから年上だと思った」「お若いですね。さぞかしおモテになるでしょう」と間髪入れずにフォローを入れること。
容姿だけでなく、同時に内面や立ち振る舞いも褒めるのを忘れてはならない。どちらか片方でもヒットすれば相手の起源は持ち直すし、アプローチやセクハラと思われる危険を回避できる。
これ等はすべて、女姉妹に囲まれた家庭環境と、過酷な社会人生活で身につけた、命を守るための処世術である。
「――コホン。まぁ小春が頼もしいってことはよくわかったよ。ちなみにさ、この世界ってレベルアップみたいなシステムってあるのか? 俺も魔獣を倒したり、特定の技を使い続ければステータスが上がって強くなれたりする?」
男なら誰もが一度は夢見る、異世界での成長および無双要素。
だが、小春は冷めた眼差しで俺を見つめると、容赦のない言葉を淡々と吐き捨てた。
「和樹は夢見過ぎ。そんな都合のいいシステムがあるなら、人類は魔獣に追い詰められたりしてないし、水や食料だって魔法で簡単に作れて誰も苦労しない。それに、努力すれば筋肉がついて能力が向上するのは地球もこの世界も同じ。でも全員がスポーツ選手や学者になれるわけじゃない」
「ご、ごもっとも……」
ぐうの音も出ない正論パンチに、俺は撃沈して力なく膝をついた。
ステータスウィンドウもなければ、倒すだけで勝手に強くなるレベルシステムも存在しない。どうやら、地球で平凡な人生を歩んできた俺は、異世界でも平凡な肉体と平凡な頭脳で地道に頑張るしかないようだ。
まぁ生身は最弱、道具を使えば最強、というのは実に人類らしくて良いと思う。




