十二話 出発前夜
行きの悪夢のような絶叫アトラクションとは打って変わり、滑らかかつそれなりの速度で無事に我が家へと帰還した俺は、さっそく数日間の遠征に向けた物資の積み込み作業に取り掛かった。
まずは何と言っても、命に直結する水と食料だ。
俺は二階の自室の押入れ奥深くから大学生の頃に愛用していたリュックサックを引っ張り出すと、キッチンに貯め込んでおいた2リットルペットボトルのミネラルウォーターを、重量など気にも留めず限界までぎゅうぎゅうに詰め込んでいく。
それが終わると、今度は予備のミネラルウォーターや缶詰、調理器具、工具類、いざという時のための救急セットまで、思いつく限りの防災・生存物資を段ボールに詰める作業に移る。
これで外の倉庫の備蓄と合わせれば、家の中の食料や道具類はほぼ空になった。
だが、これでいい。俺達が留守にしている間にこの家の復元が発動しているはずだからな。この機会に今後必要になりそうな物資を外に持ち出しておこうという算段だ。
一方リビングでは、小春が床に座り込んで集中した面持ちで作業を進めていた。
広げられているのは、妹のクローゼットの中から選び抜いた予備の着替え――動きやすいシンプルなミニスカートや伸縮性のあるショートパンツ、換えの下着類だ。ふさふさの尻尾が邪魔にならないよう、尾てい骨にあたる部分に丸い穴を開け、端がほつれないよう丁寧に処理している。
今回ばかりはノーパンも受け入れた。試着や位置確認をするたびにいちいち脱ぎ着させるのはあまりにも効率が悪すぎる。俺が見なければ済む話だ。
今日は一晩ゆっくり休んで、明日の朝一番で出発する予定なので急ぐ必要はないが、だからと言って時間を無駄にする理由もない。
小春は、穴あけ加工が終わった衣類の手触りを確かめると、どこからか引っ張り出してきた大きめのトートバッグへ生地のシワを伸ばしながら丁寧に畳んで敷き詰めていく。その几帳面な横顔はどこか母さんを彷彿とさせた。
(犬時代、家事してる母さんの姿を見て覚えてたんだろうな……)
胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じながら、俺は小春に声を掛けた。
「小春ー。持っていく食料だけど、何か要望あるかー?」
「和樹の作ったごはん。あのお肉のやつ。あと外のフルーツ」
小春はハサミを動かす手を止めることなく、食い気味に回答してきた。
「あいよっ」
料理の腕を褒められた気がして、俺は思わず口元を緩ませる。
冷蔵庫の棚を埋め尽くしている大容量タッパーの中には、あの角熊の肉煮込みが詰め込まれている。重さにしてざっと三キロ以上。数日間の遠征の主菜としては申し分ないボリュームだ。
ただ、今からクーラーボックスに詰めてしまっては保冷剤が溶けてしまうので、タッパーと外で収穫しておいた各種の特大果物は今夜のうちに冷蔵庫で冷やしておき、明日出発する直前にカチカチに凍らせた保冷剤と一緒にクーラーボックスに敷き詰めるのがベストだろう。
「それじゃあ、ちょっくら果物を収穫してくるわ」
「ん。気を付けて」
俺は勝手口から外へ出ると、青々と……どころか鬱蒼と茂る、ジャングルのような畑へと足を踏み入れた。
一応周囲を警戒しつつ、小春が食い荒らした作物を中心に、桃のように甘い香りを放つ特大の果実や、みずみずしく実った野菜を次々と収穫していく。
――が、果実ひとつひとつが巨大すぎるせいで、収穫用のプラスチックコンテナは果物を六つ入れただけで一杯になってしまった。上や横からはみ出させ、なるべく小ぶりのものを選んでこれである。
「ま、これだけあれば水分補給やビタミン補給は大丈夫だな」
ずっしりと重いコンテナを持ち上げ、俺はキッチンへと引き返した。
作業時間、わずか10分。
畑に残った作物は、まぁ最悪誰かに食われても惜しくはない。もしかしたら角熊の血や肉の匂いで獣達が寄ってこないかもしれないし、あとはこの家を覆う結界と堅牢な防護柵を信じるのみだ。
すっかり日も落ち、窓の外は漆黒の闇に包まれていた。
夕食には、留守中に痛んでしまわないよう、冷蔵庫の中に残っていた新鮮な野菜と魚の切り身を贅沢にぶち込んだ特製鍋をつつき、俺達は心地よい満腹感に包まれながらリビングでまったりとした時間を過ごしていた。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
「ん」
並んでソファに腰掛け、ハードディスクに溜め込んでおいたバラエティ番組をぼんやりと眺めていた俺は、立ち上がった瞬間にふと足を止めた。
(……そう言えば小春ってお風呂やトイレの使い方は知ってるのか?)
やけに人間の生活や異世界の事情に詳しいので失念していたが、いくら知能が高くても彼女は元ペット。自身が使っていない現代日本の文明の利器や、プライベート空間の作法までは知らないはずだ。
風呂はともかく排泄は、使い方を知らないままだと間違いなく大惨事になる。
主に俺が。
「小春、ちょっとこっち来てくれ。出発前に一番大事な生活の基本を教えておく」
「ん? なに?」
不思議そうに首を傾げる小春を連れてやってきたのは、一階の階段脇にある我が家のトイレ。扉を開けると、人感センサーが反応して便座の蓋がウィーンと静かな音を立てて自動で開いた。
「……で?」
「あ、あれ……? トイレの使い方……もしかして知ってるのか?」
小春は驚いて飛び退くどころか、微塵も眉を動かさず、無表情のまま開いた便座をじっと見つめて尋ねてきた。
てっきり原始人が現代文明を目の当たりにした時のようなリアクションを取ると思っていただけに、拍子抜けしてしまう。
「知ってる。テレビや漫画で使ってるところを何度も見た。あと、こっちの人間も似たような小屋を使ってた」
「い、いや、でも見るのと実際に使うのは違うだろ? ほら、座る時はこうやって、終わったらこの壁のボタンを押すと……」
「水が流れる。音消し用の流れる音が鳴る。おしりボタンを押すとノズルが伸びてきて温かい水が飛び出してくる。トイレットペーパーは三角に折ると見た目が綺麗だけど、あれは清掃完了の合図だから外でやっちゃ駄目」
「お、おう……満点だよ……」
知識量が無駄に完璧すぎる。まさかペーパーの三角折りのマナーまで把握しているとは。
念のためそのまま風呂場へ移動し、シャワーの使い方や給湯パネルの操作、湯船への浸かり方も確認してみたが、こちらも当然のように完璧な回答が次々と返ってきた。
犬時代、風呂場に連れて行かれて洗われるたびに、俺や家族の挙動をじっくり観察して学習していたらしい。元愛犬の観察眼と学習能力を甘く見ていたようだ。
「和樹は心配性。私はもっとやれる子」
「はいはい、悪かったよ」
鼻を少し誇らしげに鳴らす小春に降参のポーズを決めつつ、俺達は再びリビングへと戻った。心配して損をしたような、でもどこか頼もしくて誇らしいような、妙な可笑しさがこみ上げてくる。
ソファへ並んで腰を下ろすと、小春は自然な動作で俺の隣にすり寄ってきた。
フサフサの真っ白な尻尾が、パタパタと心地よいリズムで俺の太ももを叩く。人間の姿になっても、こういう癖は犬の頃のままだ。
「久しぶりに戻ってきたのに、この家も明日からしばらくお別れ。ちょっとだけ寂しい」
「たしかに小春からしたら五年ぶりだもんな。別に急ぐ旅でもないんだし、もうちょっとここでゆっくり過ごしてからでもいいんだぞ? 人化したばかりで体の感覚だってまだ慣れないだろ?」
「もう耳にタコができるぐらい聞いた。私の返事は変わらない。平気」
小春はソファの上で膝を抱え、呆れたように吐き捨てた。
だが、その瞳には俺に対する強い信頼と、明日からの旅に対する静かな決意が宿っている。
「それに、和樹と一緒にいられるなら、どこに行ったってそこが私の『うち』だから。何カ月も掛かるところでもないし、目的を果たしてまた二人でここに戻ってくればいい」
「……そっか。小春の言う通りだな」
元愛犬のあまりにも真っ直ぐで純粋すぎる言葉に、胸の奥がじんわりと温かく満たされていく。俺は苦笑交じりに手を伸ばすと、小春の柔らかく滑らかな銀髪を優しく撫でまわした。小春は嫌がる風もなく、猫のように目を細めて気持ち良さそうに頭をすり寄せてくる。手に伝わる温もりと髪の柔らかさが、なんだか心地いい。
「それじゃあ明日に備えて今夜は早めに寝るとするか」
「ん。一緒の布団で寝る」
「いやそれはさすがに……ほら、小春も今は人間の姿だしだな……」
「駄目だと言うなら、和樹は私のことをそういう対象として意識してる証拠。ロリコン」
「それはあまりに酷すぎませんかねぇ!?」
今や公衆浴場だって7歳以上は混浴お断りの時代だ。外見年齢がその倍ほどもある可憐な少女と同衾することに、男としてドギマギするなという方が無理というもの。
……が、言葉でも腕力でも小春に勝てるはずもなく、俺は彼女の提案を受け入れるしかなかった。
テレビを消し、リビングの明かりを落とすと、我が家は静かな闇に包まれた。二人で俺の部屋へ移動し、ふかふかのベッドへ潜り込む。
エアコンが静かに稼働する適温の室内。シーツの滑らかな肌触りが肌に心地いい。
隣を見ると、小春はすでに毛布を顎の下まで引き上げ、気持ち良さそうに目を細めていた。人間の姿になっても、結局同じベッドで身を寄せ合って寝るあたり、やはり彼女にとってはこれこそが幼い頃からの『当たり前の日常』なのだろう。
余計な邪念を脳内から強引に消去し、俺も毛布を被った。
「おやすみ、小春。明日からよろしくな」
「ん……おやすみ、和樹……」
睡魔に負けかけた小さな声でそう呟くと、小春はすぐにスースーと微かに規則正しい寝息を立て始めた。
窓の外からは、異世界の鬱蒼とした原生林が夜風に揺れるかすかなざわめきだけが届いている。俺は隣にいる大切な相棒の温もりを感じながら、ゆっくりと深い眠りへと落ちていった。




