十話 平和な我が家と過酷な世界
「ちょっ、バカ! ここで脱ぐな!」
小春は躊躇なくポロシャツの裾を掴むと、そのまま一気に上へとたくし上げた。
たしかに着替えろとは言ったが、今すぐとも、ましてや俺の目の前で脱げとも言っていない。
チラリと視界をかすめた眩しすぎる生肌と、引き締まったなめらかな太ももが完全に露わになる直前、俺は視線を明後日の方向へ逸らしながら叱りつけると、妹の部屋から転げるように逃げ出した。
「あ、そうそう! 他にも色々試着してみて、着れそうな服があったらまとめて持って下りてくれ! 小屋に置いておいたら明後日の復元で増えるはずだから!」
勢いよく閉めたドア越しに、自分でも情けなくなるほど裏返った早口で、捲し立てるように叫ぶ。
実利的なアドバイスの形をとってはいるが、要するにただの照れ隠しである。
その証拠に、返事も待たずに階段をドタバタと駆け下りると、網膜に焼き付いてしまった光景を振り払うように何度も激しく首を振る。
「落ち着け俺。相手は元愛犬、元愛犬なんだ……」
熱を持った頬を両手でパンパンと叩き、無理矢理思考を切り替えると、逃げ込んだリビングの壁掛け時計に目をやった。針は十二時を回ったところだった。
ちょうどお昼時。
小春が着替えている間に、ちゃっちゃと昼飯の準備を終わらせてしまうのが賢明だろう。
強敵と命懸けの戦いを繰り広げ、挙句の果てに人化という超常現象まで引き起こしたのだ。朝にたらふく腹に詰め込んだ果物もとうの昔にエネルギーとして消費され、きっと今頃は俺以上にお腹を空かせているに違いない。
そしてご飯の支度が遅いという大義名分をやつに与えてしまったら最後。また俺の痛々しい黒歴史を暴露したり、からかい倒して、料理が完成までの暇を潰すに決まっている。
そうはさせるか。
俺は固い決意とともにキッチンへと足を向けると、研ぎ澄まされた愛用の包丁を手に取り、さっそく角熊の解体&調理作業に取り掛かるのだった。
「うーん、改めて見ると我ながらえげつないことやったよなぁ……」
勝手口の外に横たわる、上半身が消し飛んだ巨大熊を前に、俺は今更ながら半ば呆れ気味の吐息を漏らした。
だが、分厚い毛皮や内蔵が吹き飛んでくれたお陰で、解体作業が大幅に減ったのは怪我の功名というやつだろう。
断面からは、美しく引き締まった赤身と、真っ白で濃厚そうな質の良い脂身が覗いている。ここから状態の良い部位を切り出すだけで、今日の昼食分どころか当面のタンパク質には困らない。
俺は慣れない手つきながらも包丁を滑らせ、ブロック状に肉を削ぎ落としていく。
驚いたことに、野生の獣特有の血生臭さやドブのような強い臭みはまったく存在しない。上半身を消し飛ばしたことで自然と血抜きができたのだろうか?
「よし! あとは任せたぜ、虎印の高性能電気圧力鍋ッ!」
異世界の魔獣の肉――本来なら筋肉質で硬くて、野性味が強すぎて血抜きや下ごしらえに何時間も掛かりそうな厄介な大物だが、今の俺には現代日本の技術が集結した頼もしい味方がついている。
ボウル一杯の肉塊を一口大の角切りにカット。熱したフライパンで表面に香ばしい焼き色をつけ、肉汁をぎゅっと閉じ込めたら、そのまま圧力鍋の内釜へ豪快に投入する。
さらに、カットした大根、ごぼう、長ネギ、しめじ、臭み消しの生姜の千切りを贅沢にぶち込む。酒、醤油、みりん、そして隠し味に実家の秘伝味噌をたっぷり溶かした黄金色の出汁を、具材がひたひたになるまで注ぎ込んだら、液晶パネルで『肉煮込み・圧力高』を選択してスイッチオン。
プシューーーッ!!
圧力が掛かり、激しい蒸気とともに甘辛く香ばしい匂いがキッチン中に充満し始める。硬い魔獣の肉の繊維を、高圧と高温の力が強引かつしなやかに解きほぐしていく音だ。
「さてさて、普通なら一時間は煮込むところだけど……」
圧力鍋の液晶パネルに目をやると、タイマーのカウントが見たこともない猛スピードで減っていっていた。
「やっぱり異世界のものなら家の中でも効果あるんだな」
前にキノコを炒めた時もそうだった。
地球産の食材はそのままの時間を要するが、こちらの食材は何故か超高速で火が通るのだ。しかも火の通り加減が地球産の食材に追いついたら自動でペースを合わせてくれる親切設計。お陰で変に調整することなくレシピ通り調理するだけで完璧な仕上がりになる。
いくら普段から自炊しているとはいえジビエは扱ったことがないし、未知の食材の調理時間なんてわかるわけがないので、この仕様は本当に助かる。
――ピピッ、ピピッ、ピピッ。
そうこうしているうちに、キッチンに軽快な電子音が鳴り響き、調理の完了を告げた。
ピンが下がり、安全弁から蒸気が抜けたのを確認してゆっくりと蓋を回すと、ふわりと立ち上る圧倒的な蒸気の幕。そこから姿を現したのは、秘伝の味噌出汁が染み込み、飴色に輝く大根と、箸を入れるまでもなくホロホロに解けているのがわかる角熊の極上肉だった。
「うおおおおっ! 見た目からして完璧すぎる……!」
「……すごく、美味しそうな匂い」
生唾を呑み込んだ、その時だった。気配もなく現れた小春が、クンクンと鼻を鳴らしながら、俺の脇からひょっこり鍋の中を覗き込んできた。
振り向いた俺は、思わず息を呑む。
シンプルな白のカットソーに、ひらりと揺れる淡いネイビーのフレアスカート。その上から薄手のアウターを羽織った小春は、まさに清楚な休日のお出かけスタイルといった装い。小柄な彼女の体型にも驚くほど馴染んでいる。
「おー、ぴったりじゃないか。めちゃくちゃ似合ってるぞ」
女の容姿はとりあえず褒めろ。
姉と妹の二人に挟まれて育った俺は、生き残るための処世術として、その鉄則を幼少期から脳と体に叩き込んでいた。
何より素晴らしいのは、スカート(とおそらく下着)に穴を開けて尻尾を通している点。
てっきりノーパン&スカートの下から出して、尻尾を振るたびに肌色が見える恐怖に怯えることになると思っていただけに、この神がかった配慮には感動すら覚える。
「ふふん。もっと褒めていい。和樹のことなら何でもお見通し」
「うんうん。さすがは長年連れ添った相棒だ」
「絶対下着姿を熱望すると思ってた。それも日常的なパンチラじゃなくて、たまにあるパンチラに希少性を見出して興奮するタイプ。下から尻尾を出してたら罵詈雑言の嵐だった」
「……うん、もうそれでいいよ」
俺のプライドが砕けるだけで、会話のテンポが向上し、絶大な戦力と安心感が手に入るのだ。それに、何はともあれ彼女は窮屈さを我慢してくれている。
ここは俺が大人になって引き下がるべきだろう。
「よし、冷めないうちに食おう! 熱いから火傷しないように気をつけてな」
お玉でトロトロに煮込まれた熊肉と、出汁の染みた大根、ごぼう、ネギ、しめじを深めの大皿へ豪快に盛り付ける。仕上げに刻んだ青ネギをパラリと散らし、食卓へと運んだ。
「いただきます!」
「ん、いただきます」
小春は待ちきれないといった様子で木製スプーンを手に取ると、熱々の角熊肉と出汁の染みた大根を一緒に掬い上げ、ふーふーと小さく息を吹きかけてから一気に口の中へと運んだ。
「…………っ!」
一口食べた瞬間、小春の動きがピタリと止まった。
くりっくりした大きな目がさらに丸くなり、ぴんと立ったケモ耳が歓喜に震える。そしてスカートの隙間から伸びたふさふさの尻尾が、意思を持った生き物のようにブンブンと激しく左右に振られ始めた。
「んんっ……! なにこれ……すごく美味しい……! お肉が舌の上でトロトロに解けて、ジュワって甘い汁が溢れてくる……!」
「だろ!? 圧力鍋って凄いだろ!?」
俺も耐えきれずにスプーンを伸ばし、大ぶりに切った肉と大根を同時に口の中へ放り込んだ。
う、うますぎるッ!!
歯を立てる必要すら感じないほどとろける角熊肉。噛み締めた瞬間にじゅわりと広がるのは、野性味溢れる濃厚な脂の旨味と、それにまったく負けていない隠し味の秘伝味噌のコクだ。そこに出汁を極限まで吸い込んだ大根のみずみずしさと生姜の爽やかな風味が加わり、重厚な脂っこさを完璧に和らげている。
「なんなんだこの肉の美味さは……! 高級ブランド牛の上質なカルビと、最高級の豚角煮の良いとこ取りをしたみたいな悪魔的味わいだぞ……!」
「和樹、ご飯。ご飯が欲しい。このお肉、絶対ご飯に合う」
「だな!」
俺は炊飯器から炊きたての米をどんぶり一杯によそおって、小春の前に差し出した。
小春はどんぶりを受け取るやいなや、肉を米の上に載せ、一緒に口の中へとかき込む。
「んんぅ~~~っ! 完璧……最高の組み合わせ……!」
至福の表情で頬を膨らませる小春と二人、夢中になってどんぶりと大皿を往復する。
あんなに大量にあった角熊煮込みとどんぶり飯は、ものの十数分で綺麗に胃袋の中へと消え去ったのだった。
「はぁ〜……食った食った……」
急須から注いだ緑茶をすすりながら、俺は深く背もたれに体重を預け、至福の吐息を漏らした。隣では小春も満足そうにぽっこり膨らんだお腹をさすりつつ、尻尾をゆったりと揺らしている。
腹が満たされ、ようやく人心地がついたところで、俺は表情を少し引き締めて小春に向き直った。
「なあ小春。この世界のことについて、詳しく教えてくれないか?」
「ん。シルヴィアとしての記憶と知識で良ければ何でも聞いて」
小春は小さく頷くと、リラックスした姿勢のまま、澄んだ瞳で真っ直ぐに俺を見つめ返してくる。
愛犬との奇跡的な再会に加えて、一週間ぶりの人間との会話にテンションが上がっていたが、シルヴィアの記憶を持つ彼女はいわば現地人。未知だらけの異世界で生き抜くための情報収集には、これ以上ないほど頼もしい相手だった。
「それじゃ遠慮なく……この世界に人間っているのか? 俺達みたいな人型種族の文明や街はあるのか?」
「いる。文明レベルは和樹が昔やってた剣と魔法のファンタジーゲームに近い。ただ、この大樹海の中では滅多に見ない。見かけるとしても浅いところだけ。たぶん食料を探しに来てるだけで住んではいないと思う。ここは凶暴な魔獣達の縄張りだから」
「まぁこれじゃあな……」
家の外に広がる樹海と、勝手口の外に横たわる巨大な角熊の姿が脳裏をよぎる。
俺だってこの家と地球産の道具がなければ半日も持たなかっただろう。どれだけ食料が豊富だとしても、普通の人間なら絶対に足を踏み入れたくもない魔境だ。
「あれ? ってことは人間は魔法使えない感じ? 魔獣を狩って生計立てる冒険者とかいないの?」
「少ないけど魔法使いはいる。ただ、和樹と同じで攻撃特化。防御も、回復も、状態異常にすることもできない。そして威力も和樹のあれと比べたらお話にならないくらい弱い」
「マジか……」
魔法という最強概念の崩壊と、改めて突きつけられた地球産の異常性に、俺は引きつった笑いを漏らすしかなかった。
「だから人類より魔獣の方が強い。魔法使いがいない村なら一頭に滅ぼされるし、あの角熊レベルなら国だって傾く。でも城壁の奥に閉じこもって安全に暮らせるのは一部の上流階級だけ。だから一般の人達は森や海の近くに村を作って、危険を承知で魔獣の縄張りに侵入して食料を得てる」
「ちょ、ちょっと待て! 農業は!? 家畜を育てて自給自足とかはできないのか!?」
「この世界は天候が不安定で変な害雨が降るし、作物も貧弱で驚くほど栄養価が低い。家畜も魔獣の襲撃ですぐ全滅するから、安定した食料生産なんて不可能。それに畑を作ると魔獣が集まってくる」
……過酷すぎるだろ、この世界。




