第9話 泥の足跡は、嘘をつかない
第9話です。
月白草の自生地を見つけたその夜、北の水路付近に不審者が現れます。
カイが調査に向かう一方、リディアは屋敷で待ちながら、この土地に隠された“人の手”の気配を考え始めます。
カイが部屋を出ていったあと、私はしばらく扉を見つめていた。
外では、兵たちの足音が遠ざかっていく。
革鎧のこすれる音。
短く交わされる指示。
そして、夜の森へ向かう馬の気配。
行きたい。
正直に言えば、そう思った。
月白草の自生地。
赤茶けた水路。
採石場から染み出す水。
そして、夜に現れた二人の不審者。
そのすべてを、自分の目で確かめたかった。
けれど、私は椅子に座ったまま動かなかった。
カイに止められたからではない。
いや、それもある。
でも、それだけではなかった。
(今の私が行けば、たぶん足手まといになる)
認めるのは悔しい。
けれど、体は正直だった。
昨日からほとんど休まず、薬草を見分け、水路を歩き、月白草を探し、記録を作り続けている。
頭の奥は重く、指先にはまだ少し震えが残っていた。
この状態で夜の森へ行けば、危ない。
自分だけではない。
守ろうとしている月白草も、カイたちも危険に巻き込む。
(無茶をしない。……言ったからには、守らないとね)
私は机に向き直った。
目の前には、月白草の記録がある。
月白草らしき株、三株。
赤茶水からやや離れた石陰。
澄んだ湧水あり。
採取せず。
保護優先。
周辺への立ち入り制限が必要。
ペン先を紙の上に置く。
けれど、しばらく何も書けなかった。
不安が、胸の内側を細い根のように這っている。
「リディア様」
静かな声がした。
顔を上げると、マーサ婆さんがこちらを見ていた。
しわの深い手で、乾燥した月白草を包んだ布をそっと押さえている。
「ご心配ですか」
「ええ」
私は素直に答えた。
「月白草も、カイ様たちも」
「どちらも、ですか」
「どちらもです」
マーサ婆さんは、少しだけ目を細めた。
「欲張りでございますね」
「そうかもしれません」
「ですが、薬草を扱う者は、少し欲張りなくらいでちょうどよいのです」
「なぜ?」
「一つだけ助けようとすると、ほかを切り捨ててしまいますから」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
一つだけ助ける。
ノエルだけ。
月白草だけ。
畑だけ。
井戸だけ。
税だけ。
でも、この村の問題は一つではない。
水が変わり、土が弱り、薬草が消え、人が倒れ、税が迫る。
全部がつながっている。
一つを雑に扱えば、別の場所が崩れる。
「薬師も、そう言っていたのですか」
私が尋ねると、マーサ婆さんは懐かしそうに笑った。
「ええ。薬師はよく言っておりました。薬草は摘む手を見ている、と」
「摘む手を?」
「欲だけで摘む者は、根まで取ります。怖さだけで摘まぬ者は、薬にできません。必要な分を取り、残す分を守る。その加減を知る手でなければ、薬草はすぐに消える、と」
私は月白草の布包みを見た。
(必要な分を取り、残す分を守る。……この村全体に必要な考え方ね)
税も同じだ。
王国に納めるものは必要かもしれない。
けれど、根まで取れば村は枯れる。
ベルトラムは、その加減を知らない。
いや、知らないのではない。
知ろうとしていない。
「マーサさん」
「はい」
「三年前、水路工事をした王都の業者について、何か覚えていることはありますか」
マーサ婆さんは少し考え込んだ。
「名前までは……。ただ、妙に急いでおりましたね」
「急いでいた?」
「ええ。大雨のあと、村は水浸しでした。水路を直してくれると聞いて、皆ほっとしたものです。けれど、業者は村の者を近づけませんでした。危険だから、と」
「作業を見せなかったのですね」
「はい。それに、夜にも作業をしていたようです」
私はペンを取った。
三年前。
王都手配の業者。
村人を近づけず。
夜間作業あり。
「夜に?」
「明かりが見えました。採石場の方で。わしは年寄りですから、夜中に目が覚めることも多くてね」
「その時、赤い水は?」
「すぐには出ませんでした。けれど、その年の秋から、井戸水が少し苦いと聞くようになりました」
点が増えていく。
大雨。
応急工事。
村人立入禁止。
夜間作業。
採石場。
水路変更。
秋から井戸水の苦み。
(自然災害だけなら、ここまで隠す必要はないわ)
私はノートに書き込みながら、胸の奥が冷えていくのを感じた。
この土地は、ただ壊れたのではないかもしれない。
誰かが、壊れた場所を雑に塞いだ。
あるいは、都合の悪いものを隠した。
その結果、水の流れが変わり、土が弱り、月白草が消えた。
もしそうなら。
この村の苦しさは、怠慢でも呪いでもない。
誰かの無責任の結果だ。
(怒るのはまだ早い。証拠が足りない。でも……許せないわね)
その時、外から馬の嘶きが聞こえた。
私は椅子から立ち上がった。
扉の向こうで、兵の声がする。
「カイ様がお戻りです!」
胸の奥が跳ねた。
私は急いで廊下へ出た。
◇
カイが戻ってきた時、夜はまだ深かった。
外套には泥が跳ね、左の袖が少し裂けている。
顔に大きな怪我はない。
ただ、頬に小さな擦り傷があった。
私は思わず近づいた。
「怪我をしたの?」
「かすり傷です」
「見せて」
「必要ありません」
「見せてちょうだい」
語尾は柔らかくしたつもりだった。
けれど、たぶん命令に近かった。
カイは一瞬だけ黙り、結局少し身をかがめた。
私は布を水で湿らせ、頬の傷を軽く拭く。
傷は浅い。
けれど、泥が入っている。
「浅いけれど、汚れています。あとでちゃんと洗って」
「分かりました」
「“あとで”ではなく、すぐに」
「……分かりました」
(この人も人のことを言えないわ。無茶をする側の顔をしている)
私は手を離した。
「それで、不審者は?」
カイの表情が引き締まった。
「逃げられました」
「二人とも?」
「一人は森の奥へ。もう一人は採石場側の斜面から逃げました。土地勘があります」
「村の人?」
「足運びは村人に近い。ですが、服装は村の者ではありませんでした」
「どういうこと?」
「地元の道を知っているが、村に住む者ではない。そんな動きです」
カイは泥のついた布袋を机に置いた。
「現場で拾いました」
私は布袋を開けた。
中には、細い赤紐、折れた木の札、黒い蝋の欠片、そして赤茶けた泥のついた靴跡の写しがあった。
靴跡の写し、と言っても、湿った泥ごと薄い板に押し取ったものだ。
カイが現場で兵に取らせたのだろう。
「足跡を持ち帰ったの?」
「あなたなら欲しがると思いました」
私は少し目を瞬かせた。
「……よく分かったわね」
「あなたのせいで、観察癖が移っています」
「いい傾向だわ」
「非常に困っています」
それでも、私は内心で感心していた。
足跡は重要だ。
足の大きさ。
靴底の形。
泥の種類。
歩いた方向。
踏み込む深さ。
人は嘘をつく。
でも、足跡はたいてい正直だ。
私は板を慎重に見た。
靴底は村人の草履や簡易靴とは違う。
王都の革靴とも違う。
作業用の厚い靴だ。
泥は赤茶色。
だが、そこに黒い砂粒が混じっている。
「採石場の奥へ行っていますね」
私が言うと、カイはうなずいた。
「そう判断しました。月白草の場所にも近づいていましたが、踏み荒らしてはいません」
「よかった……」
胸の奥から、少しだけ息が漏れた。
「ただし、目印がつけられていました」
カイが赤紐を指した。
「月白草の近くの枝に、これが結ばれていました」
赤紐。
森の中で目立つ色。
夜でも灯りを当てれば見つけやすい。
「場所を覚えるための印ね」
「おそらく」
「月白草を狙っていたのかしら」
「それも考えられます。ただ、採石場にも同じ赤紐がありました」
「採石場にも?」
カイは黒い蝋の欠片を指した。
「採石場の入り口付近で見つけました。封蝋の一部です」
私はそれを手に取らず、布越しに見た。
黒い蝋。
表面には、かすかに模様が残っている。
二本の蔓が絡むような印。
中央に、小さな杯のような形。
「商会の印?」
私がつぶやくと、マーサ婆さんが顔をこわばらせた。
「その印……」
「ご存じですか」
マーサ婆さんは頬に手を当てた。
「昔、薬師が取引を嫌がっていた商人の荷に、似た印がありました」
「名前は?」
「確か……ルヴァン商会」
部屋の空気が変わった。
カイの目が細くなる。
「ルヴァン商会は、王都公認の薬草商です。辺境にも薬や浄水石を売りに来ています」
「この村にも?」
「以前は来ていました。薬師がいなくなってからは、年に数回、高値で薬を売りつけに」
マーサ婆さんが苦い顔をした。
「薬師は、生きている頃よく怒っておりました。あの商会は薬草を草ではなく金貨として見る、と」
私は黒い蝋を見つめた。
ルヴァン商会。
薬草を扱う商会。
王都公認。
辺境へ薬を売る。
水や薬草の問題が解決されると困る存在。
そして、月白草の自生地に近づいた不審者。
採石場の封蝋。
赤い目印。
(つながるには早い。でも、無関係と言うには不自然すぎる)
私はノートに書いた。
夜間不審者。
月白草付近に赤紐。
採石場にも赤紐。
黒封蝋、蔓と杯の意匠。
マーサ証言、ルヴァン商会に類似。
要確認。
カイが静かに言った。
「黒幕と見ますか」
「まだ見ません」
私は首を振った。
「疑うには十分。でも断定には足りないわ」
「慎重ですね」
「慎重でなければ、向こうと同じになるもの」
(決めつければ楽。でも、楽な答えほど危ない)
ベルトラムが村を“納税遅れ”としか見なかったように。
王都が土地を“呪い”と片づけたように。
私がここでルヴァン商会を即座に悪と決めつければ、同じことをしてしまう。
証拠を集める。
順番を確認する。
誰が、何のために、何をしたのか。
そこまで見なければならない。
マーサ婆さんが乾いた声で言った。
「ですが、月白草を狙っているなら、急がねばなりません」
「ええ」
私はうなずいた。
「明日の朝、自生地の保護を強めます。赤紐は外しましたか?」
カイが答える。
「外しました。ただし、同じ位置に無地の目印をこちらでつけています。誰かが戻ってくるかを確認するためです」
私は少しだけ目を見開いた。
「そこまで?」
「あなたなら、そうしろと言いそうでしたので」
「本当に観察癖が移っているわね」
「困っています」
「でも、助かるわ」
カイは少しだけ視線をそらした。
「……それなら、よかったです」
その反応が少し意外で、私は返事に詰まりかけた。
けれど、すぐにノートへ意識を戻す。
今は照れている場合ではない。
◇
翌朝、村の広場に人を集めた。
不審者のことを、すべて隠すわけにはいかない。
だが、月白草の場所や価値を詳しく言うのは危険だった。
私は村人たちを前に、言葉を選んだ。
「昨夜、北の水路付近に村の者ではない人影が確認されました」
ざわめきが起きる。
「盗人か?」
「王都の者か?」
「水路に何をしに来たんだ」
不安が広がりかける。
私は声を強めた。
「落ち着いてください」
広場が静まる。
「今の時点で、誰かを犯人と決めつけることはしません。でも、北の水路と採石場周辺には、しばらく近づかないでください。特に子どもだけで行くことは禁止します」
セリナが真剣な顔でうなずいた。
村長が杖を鳴らす。
「聞いたな。子どもは北へ行くな。行った者は、わしが耳元で一晩説教しますぞ」
子どもたちが露骨に嫌そうな顔をした。
それは、怪我より効きそうだった。
私は続ける。
「それから、村の周りで赤い紐や見慣れない目印を見つけたら、触らずにカイ様か私に知らせてください」
「赤い紐?」
「ええ。木の枝や石に結んであるかもしれません」
村人たちは互いに顔を見合わせた。
その時、セリナが手を上げた。
「リディア様」
「何かしら」
「昨日、赤い実があった場所の近くで、赤い紐を見た気がします」
カイの表情が変わった。
「どこだ」
セリナは少し緊張しながら答えた。
「北畑へ行く道の途中です。でも、草に絡まっていたから、ただの古い紐かと思って……」
私はカイと視線を交わした。
月白草だけではない。
赤い実の場所にも、目印がある。
「確認しましょう」
カイがすぐに兵へ指示を出す。
私はセリナに近づき、肩に手を置いた。
「教えてくれてありがとう。とても大事なことよ」
「でも、昨日気づいていたのに……」
「責めることではないわ。気づいて、今伝えた。それが大事なの」
(この子に“見落とした”と思わせてはいけない。観察は責めるためじゃない。次に気づくためにある)
セリナは小さくうなずいた。
村長がぼそりと言った。
「赤い実にも目印、月白草にも目印。嫌な話になってきましたな」
「ええ」
私は正直にうなずいた。
「嫌な話です」
村人たちが不安げに私を見る。
私はそこで、あえて続けた。
「でも、嫌な話だからこそ、見ないふりはしません」
広場の空気が少し引き締まる。
「この村には、誰かが勝手に価値をつけ、勝手に奪おうとしているものがあるかもしれません。薬草か、水か、土地か。まだ分かりません」
私は村人たちを見渡した。
「だから、これから村の周りを調べます。自分の家の近くに、見慣れない紐、杭、印、踏み跡があれば教えてください。触らず、隠さず、すぐに知らせて」
村長が続けた。
「よいか。勝手に抜くな。勝手に燃やすな。勝手に騒ぐな。何か見つけたら知らせる。それだけですぞ」
カイも短く言う。
「単独行動は禁止です」
マーサ婆さんがゆっくりと口を開いた。
「薬草は、欲のある手に弱いものです。皆様、守るつもりで踏み荒らさぬように」
その言葉に、村人たちは真剣にうなずいた。
少し前まで、薬草はただの草だった。
畑もただの枯れ地だった。
水路もただの壊れた設備だった。
でも今、村人たちはそれらを見ようとしている。
(いい変化だわ。でも、相手も動いている。急がないと)
◇
昼前、セリナが見たという赤い紐の場所へ向かった。
北畑へ続く道の途中。
赤い実の低木が生えている場所から、少し離れた石の裏だった。
確かに、赤い紐があった。
草に絡まるように見えるが、よく見ると枝に一度結ばれ、わざと下へ垂らされている。
自然に絡まったものではない。
私は触らず、位置を記録した。
「赤い実の群生地を示す印ね」
カイが周囲を見た。
「誰かが、赤い実も管理している?」
「管理か、採取か、目印か。まだ分からないわ」
「赤い実に価値があるのですか」
「薬にも毒にも、染料にも、動物避けにもなる可能性はあるわ。ただ、子どもが口にする危険がある。村にとってはまず危険物です」
(価値と危険は、同じものの別の面。扱いを間違えれば、人を救う草も人を傷つける)
私は赤い実を見た。
鮮やかな赤。
枯れた土地では不自然なほど目立つ色。
実の表面には、小さな黒い点。
昨日見たものと同じだ。
「これも少量、確認用に採ります。ただし、子どもには絶対に触らせないで」
カイが兵に指示し、布越しに実を数粒だけ採取させた。
その時、セリナが足元を見て言った。
「リディア様、ここ、土の色が違います」
私はすぐにしゃがんだ。
赤い実の低木の根元。
そこだけ土が黒っぽい。
だが、良い黒さではない。
湿った黒。
少しぬめりがある。
私は木の枝で軽く表面を動かした。
下から、赤茶色の細い筋が出てきた。
「水が来ている」
カイが言った。
「ええ。北水路からではなく、採石場側から染みてきているかもしれない」
「つまり、この赤い実も、赤茶けた水と関係している?」
「可能性は高いわ」
(赤い水が流れた場所で、赤い実が増えている。月白草は消え、赤い実は増える。環境の変化に反応している)
私はノートに書いた。
赤実低木。
赤紐目印あり。
根元に黒湿土。
赤茶筋あり。
採石場水との関連疑い。
セリナが不安そうに聞いた。
「この木も、悪い木なんですか?」
私はすぐには答えなかった。
悪い木。
そう言ってしまえば簡単だ。
でも、植物に善悪はない。
あるのは、環境に合ったものが増えるという事実だけだ。
「悪い木、と決めるのは早いわ」
私はセリナを見る。
「でも、今の村には危ない木です。だから、子どもが触らないようにする。増えている理由を調べる。それが先よ」
「はい」
セリナは真剣にうなずいた。
その時、カイがふと森の奥を見た。
「誰かいる」
護衛たちがすぐに構える。
私も顔を上げた。
木々の間に、人影が見えた。
痩せた男だった。
村人ではない。
粗末な外套をまとい、作業用の靴を履いている。
こちらに気づいた瞬間、逃げようとした。
「追え」
カイが短く命じる。
護衛二人が走る。
男は斜面へ逃げたが、足元を滑らせた。
逃げ道を知っているようで、完全には慣れていない。
カイが回り込み、あっという間に男の前へ出た。
「止まれ」
剣は抜いていない。
だが、その声だけで男は固まった。
護衛が腕を押さえる。
男は青ざめた顔で叫んだ。
「違う! 俺は何もしていない!」
カイが冷たく言う。
「何もしていない者は、逃げない」
「違うんだ! ただ印を見に来ただけだ!」
印。
広場にいた全員の空気が変わった。
私はゆっくり立ち上がった。
「誰に頼まれたの?」
男は私を見て、視線を逸らした。
「知らない。俺は知らない」
「なら、何の印を見に来たのかしら」
「……」
「答えてちょうだい」
できるだけ静かに言った。
怒鳴りたい気持ちはある。
でも、怖がらせすぎると口を閉ざす。
(責めるより、話させる。今必要なのは怒りじゃなく、情報)
男は唇を震わせた。
「赤い紐が残っているか、見ろと言われた」
「誰に?」
「名前は知らない。本当だ。王都訛りの男だ。銀貨をくれた。紐が外されていたら、また結べって」
カイの目が鋭くなる。
「その男の特徴は」
「顔は布で隠していた。だが、手袋をしていた。黒い手袋だ。あと……薬みたいな匂いがした」
薬みたいな匂い。
私は黒い蝋の欠片を思い出した。
ルヴァン商会。
薬草商。
王都訛り。
黒い手袋。
赤い紐。
「何のための印か聞いた?」
男は首を振った。
「聞くなと言われた。赤い実の木と、白い花があった場所に印をつけろって。それだけだ」
白い花。
月白草のことだ。
マーサ婆さんが息をのむ。
カイが男の腕を掴む力を強めた。
「月白草の場所を知っているのか」
「知らない! 本当に知らない! 昔、白い花があったって場所を聞いて、印をつけただけだ。今もあるなんて知らない!」
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
誰かが月白草を探している。
正確な場所はまだ知られていないかもしれない。
だが、昔の自生地を調べさせている。
時間の問題だ。
「その王都訛りの男は、いつまた来ると言ったの?」
男は怯えたように答えた。
「明日の夜。印が残っていれば、採りに来るって」
「何を?」
「知らない! 赤い実か、白い花か……本当に知らないんだ!」
カイが私を見る。
私は静かにうなずいた。
「拘束してください。ただし、乱暴にはしないで。まだ話を聞く必要があります」
男は崩れるように膝をついた。
「俺は金が欲しかっただけなんだ……村の者じゃない。採石場の向こうの小屋にいる。仕事がなくて……」
その声には、嘘だけではないものが混じっていた。
貧しさ。
恐れ。
そして、自分が何に関わっているのか分かっていない者の鈍さ。
私は男を見下ろした。
怒りはある。
でも、この男だけを殴っても、根は残る。
(この人は枝。根は別にある)
「あなたがしたことは、危険です」
私は言った。
男がびくりとする。
「赤い実は子どもが口にするかもしれない。白い花は、村に残った大事な薬草かもしれない。あなたが印をつけたことで、誰かがそれを奪いに来る」
「俺は……そんなこと……」
「知らなかった、では済まないわ」
きつい言葉だった。
けれど、ここで甘くしてはいけない。
「でも、今からでもできることはあります。頼んだ男のことを、覚えている限り全部話してちょうだい」
男は震えながらうなずいた。
カイが兵に命じ、男を連れていく。
私は赤い紐を見た。
細く、安っぽい紐。
けれど、それはこの土地を狙う誰かの指先のように見えた。
◇
夕方、屋敷に戻ると、私は男の証言を整理した。
依頼者。
王都訛り。
黒手袋。
薬の匂い。
顔は布で隠す。
赤い紐を使う。
赤い実と白い花の場所を確認。
明日の夜、採取予定。
カイは腕を組んでいる。
「明日の夜、来ますね」
「ええ」
村長が渋い顔で言った。
「待ち伏せですかな」
「それしかないでしょう」
カイが答える。
だが、私はすぐにはうなずかなかった。
待ち伏せは必要だ。
でも、相手は薬草商会かもしれない。
採石場の件にも関わっている可能性がある。
ここで下っ端を捕まえるだけでは足りない。
「待ち伏せはします」
私は言った。
「でも、目的は捕まえることだけではありません」
カイがこちらを見る。
「では?」
「誰が来るか。何を採ろうとするか。何を知っているか。それを確認します」
「危険です」
「分かっているわ」
「あなたは来ないでください」
「それは無理ね」
即答すると、カイの眉間にしわが寄った。
「リディア様」
「私が月白草を見分けます。赤い実も、採取道具も、薬品の匂いも確認する必要があるわ」
「危険だと言っています」
「承知しています」
「承知している顔ではありません」
「今回は無茶ではなく、必要な同行よ」
カイは黙った。
部屋の空気が張りつめる。
私は少しだけ声を柔らかくした。
「カイ様。私は前に出ません。あなたの指示にも従います。でも、植物を見ずに判断することはできません」
(ここで譲ると、月白草を守れない。けれど、カイの心配も軽く扱ってはいけない)
カイはしばらく私を見ていた。
やがて、低く言った。
「私の後ろから出ないこと」
「ええ」
「勝手に草へ近づかないこと」
「ええ」
「魔法を使う時は、先に言うこと」
「……努力します」
「努力ではなく、約束です」
私は少しだけ息を吐いた。
「分かったわ。約束します」
カイはまだ不満そうだったが、うなずいた。
村長が横でぼそりと言う。
「まるで子どもの約束ですな」
「村長」
「実際、目を離すと危なっかしいお嬢様ですので」
反論できなかった。
マーサ婆さんが静かに言った。
「月白草を狙う手があるなら、今度は守る手を用意せねばなりませんね」
私はうなずいた。
「ええ。必要な分を取り、残す分を守る。その加減を知らない手には、触らせません」
ノートを開く。
明日の夜。
月白草自生地付近。
待ち伏せ。
目的、犯人確認。
採取対象確認。
月白草保護。
証拠記録。
私は最後に一行を書き加えた。
絶対に、根を取らせない。
ペンを置くと、窓の外はすでに暗くなっていた。
徴税官が指定した期限まで、あと二日。
けれどその前に、月白草を狙う者が来る。
赤い水と、消えた薬草と、王都の商会。
ようやく、見えなかった根が土の下から顔を出し始めていた。
(いいわ。根を見つけたなら、引き抜く前に、どこまで伸びているか見てあげる)
私は窓の外の闇を見つめた。
夜の森は静かだった。
けれど、その静けさの奥で、誰かの欲がこちらへ伸びてきている。
次に動くのは、こちらの番だった。
第9話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、不審者の痕跡から、薬草商会らしき影と、月白草を狙う者の存在が見えてきました。
次回は、月白草の自生地で待ち伏せを行い、リディアたちが“奪う手”と直接向き合うことになります。




