第10話 奪う手は、根を見ない
第10話です。
月白草を狙う者が現れると知ったリディアたちは、夜の自生地で待ち伏せを行います。
薬草を未来へ残そうとする者と、今夜の利益のために根ごと奪おうとする者。その二つの手が、月白草の前でぶつかります。
「もう一度、確認します」
北の森へ入る前に、カイが足を止めた。
夜の空気は冷たい。
月は雲に半分隠れ、木々の間には濃い闇が沈んでいる。
カイの後ろには、護衛の兵が四人。
さらに少し離れた場所に、赤い紐を結び直した男がいた。
昨夜捕らえた、採石場近くの小屋に住む男だ。
名前はトム。
王都訛りの男から銀貨を受け取り、赤い実と月白草の跡地に目印をつけていた。
彼は兵に見張られながら、昼のうちに指定された場所へ赤い紐を結び直した。
依頼主に異変を悟られないためだ。
「リディア様は、私の後ろから出ない」
カイは私を見た。
「ええ」
「月白草へ近づかない」
「必要がなければ、近づかないわ」
「必要があっても、先に言ってください」
「分かっているわ」
「魔法を使う場合も、先に言う」
「それも分かっているわ」
カイはまだ私を見ている。
「何かしら」
「本当に分かっていますか」
「ずいぶん疑うのね」
「実績があります」
また、それだ。
私はため息をついた。
「今回は約束するわ。勝手な行動はしません」
「必ずです」
「ええ、必ず」
(ここまで念を押されると、少しくらい反論したくなる。でも、今夜は私一人の調査ではないわ)
月白草を守るために、カイたちは危険を引き受けている。
私が無茶をすれば、彼らの負担が増える。
自分の好奇心だけを優先してはいけない。
マーサ婆さんは村に残ってもらった。
月白草を見分けられるのは私とマーサ婆さんだけだが、夜の森に高齢の彼女を連れてくるわけにはいかない。
セリナにも、北畑の観察を任せた。
子どもを危険に巻き込まない。
それは、交渉の余地がない決定だった。
カイは兵たちへ向き直った。
「相手が採取を始めるまで待つ。命令系統と目的を確認する。可能なら全員、生け捕りだ」
「抵抗した場合は?」
兵の一人が尋ねる。
「武器だけを落とせ。殺す必要はない」
短く、迷いのない命令だった。
「ただし、水路と薬草を踏み荒らすな。足場は昼に確認した通りだ」
私は少し驚いてカイを見た。
彼は私の視線に気づいた。
「何ですか」
「薬草のことまで、ちゃんと覚えていたのね」
「あなたが何度も言いましたから」
「聞き流しているのかと思っていたわ」
「必要なことは聞いています」
(この人は、言葉で安心させるのは苦手だけれど、必要なことは行動に入れてくれる)
やはり、言葉より手の人なのだ。
「ありがとう」
私が言うと、カイはわずかに視線をそらした。
「礼は、無事に終わってからにしてください」
◇
月白草の自生地近くには、古い石壁の跡がある。
私はその陰に身を隠した。
前方には、赤い紐が結ばれた枝。
その先に、月白草が残る石陰がある。
三株。
たった三株だけ。
夜の闇では葉の色までは見えない。
けれど、どこにあるかは覚えている。
石の隙間から湧く、細い清水。
そのわずかな水に支えられ、月白草は赤茶けた水のそばで生き延びていた。
(今夜を越えさせる。絶対に、根を取らせない)
カイは私のすぐ前にしゃがんでいる。
少し離れた左右に兵が二人ずつ。
全員、暗い外套をまとい、森の闇に溶け込んでいた。
待つ時間は長かった。
風が葉を揺らす。
遠くで夜鳥が鳴く。
水滴が石へ落ちる。
そのたびに、誰かが来たのではないかと神経が反応する。
けれど、カイたちは動かなかった。
やがて。
森の奥から、かすかな光が見えた。
一つ。
少し遅れて、もう一つ。
足音もする。
重い靴が土を踏む音。
枝を乱暴に押し分ける音。
二人だ。
先に現れたのは、背の高い細身の男だった。
黒い外套。
黒い革手袋。
顔の下半分を布で覆っている。
片手には小さな灯り。
もう片方には、細長い金属製の道具を持っていた。
その後ろには、大柄な男がいる。
肩幅が広く、腰には短剣。
背負った袋からは、瓶や金属がぶつかる音がした。
細身の男が赤い紐を見つけた。
「印は残っている。あの間抜け、仕事だけはしたようだな」
声には王都の訛りがあった。
大柄な男が鼻を鳴らす。
「こんな夜中に草取りとはな。薬草商会ってのも楽じゃねえ」
「草取りではない」
細身の男が冷たく訂正した。
「月白草の根は、王都なら一本で金貨二十枚になる」
金貨二十枚。
後ろの兵が、わずかに息をのむ気配がした。
ノエルが飲んだ薬草湯。
村人が守ってきた古い薬草畑。
マーサ婆さんが大切に残していた一輪。
それらとは比べものにならない金額なのだろう。
「三株あれば六十枚か」
大柄な男が笑った。
「辺境の雑草にしちゃあ、いい値段だ」
(雑草ではないわ)
思わず口に出しそうになり、唇を閉じた。
まだだ。
相手の目的を確認する。
細身の男は赤い紐の奥へ進んだ。
月白草の場所を探すように、灯りを低く掲げる。
やがて、石陰の葉を見つけた。
「……あった」
声が弾む。
商人が金貨を見つけた時の声だった。
植物を見つけた声ではない。
細身の男は金属製の道具を地面へ置いた。
先端が細く曲がった、根を掘り出すための道具だ。
さらに懐から黒い小瓶を取り出す。
蓋を開けた瞬間、風に乗って鋭い匂いが届いた。
私は眉をひそめた。
青臭さとは違う。
薬草とも違う。
鼻の奥が乾くような刺激臭。
(根を眠らせる薬? いいえ、違う。これは組織を弱らせるための液だわ)
前世で扱った薬品とは同じではない。
だが、植物に与える方向は想像できる。
根の抵抗を弱め、組織を柔らかくし、抜きやすくする。
おそらく、抜いた後の生存率など考えていない。
「液をかけるの?」
大柄な男が聞いた。
「根を切らずに抜くには必要だ」
「生きたまま運ぶんじゃなかったか?」
「地上部が三日保てば十分だ。王都の買い手は根の形を見たがるだけで、植え直すわけではない」
細身の男は平然と言った。
「抜いた跡は土で埋めろ。湧き水の口も、前と同じように石で塞いでおけ」
私の背中に冷たいものが走った。
湧き水を塞ぐ。
前と同じように。
(この人たちは、知っている。月白草が清水で生きていることも、湧水口がどこにあるかも)
それだけではない。
“前と同じように”と言った。
過去にも、誰かが湧水口を塞いだのだ。
赤茶けた水を流れ込ませるためか。
月白草を減らすためか。
採石場の何かを隠すためか。
理由はまだ分からない。
でも、自然に崩れたわけではない。
私はカイの外套の端を、そっと引いた。
カイがわずかに顔を向ける。
私は口元だけで伝えた。
もう十分。
カイが小さくうなずいた。
細身の男が黒い小瓶を月白草の根元へ傾ける。
その瞬間だった。
「その手を止めてちょうだい」
私の声が、夜の森に響いた。
細身の男の手が止まる。
大柄な男は反射的に短剣へ手を伸ばした。
同時に、左右の闇から兵が現れる。
「動くな」
カイが石壁の陰から立ち上がった。
剣はまだ抜いていない。
けれど、その声だけで空気が変わった。
大柄な男は短剣を半分抜いたところで固まった。
細身の男は、黒い小瓶を握ったまま私たちを見た。
「……これはこれは」
顔布の奥で、笑ったようだった。
「辺境の騎士様と、噂の追放令嬢ですか」
「名前を名乗ってください」
私は石壁の陰から出た。
約束通り、カイより前へは出ない。
細身の男は、私を上から下まで眺めた。
「お嬢様が知る必要はございませんよ」
「夜中に領地へ入り、保護予定の薬草を根ごと抜こうとしている人の名前は必要ですわ」
「保護予定?」
男は月白草へ視線を落とした。
「これは、名もない荒れ地に生えた野草にすぎません」
「月白草の名前も、一本の値段も知っていたでしょう」
細身の男の目が、わずかに細くなった。
「聞いておられましたか」
「ええ。根へ液をかけ、三株すべてを抜き、湧水口を塞ぐところまで」
私はノートを取り出した。
「記録させていただきます」
「また記録ですか」
カイが小さくつぶやいた。
「大事でしょう?」
「相手にとっては、かなり嫌でしょうね」
「それなら、なおさら大事だわ」
細身の男は、私たちの会話を不快そうに見た。
「お嬢様。事情も知らず、商会の仕事を妨害するのは感心しませんな」
商会。
自分から口にした。
「どちらの商会かしら」
男は一瞬黙った。
しかし、すぐに開き直るように顔布を外した。
三十代後半ほど。
細い頬。
整えられた髭。
口元には、人を値踏みするような笑みがある。
「ルヴァン商会、北方採取部主任。エドガー・モルツと申します」
予想通りだった。
ルヴァン商会。
黒い封蝋。
赤い紐。
薬草の匂い。
そして、月白草。
「では、エドガー様」
私はノートへ名前を書いた。
「この土地での採取許可を見せてください」
エドガーは鼻で笑った。
「辺境の荒れ地に許可が必要ですか」
「必要です」
カイが短く答えた。
「ここはレヴィン領だ。採石場も旧水路も、領地管理下にある」
「使われていない土地でしょう」
「使っていないことと、所有者がいないことは同じではない」
カイの声がさらに低くなる。
エドガーはため息をつき、外套の内側から折り畳まれた紙を出した。
「面倒ですな。これでよろしいですか」
カイは兵に受け取らせた。
紙には王都財務局の印がある。
私は灯りのそばで内容を確認した。
北採石場周辺における植物性副産物の回収許可。
副産物。
妙に曖昧な言葉だった。
対象は、“採石事業に伴って発生する不用植物および果実”。
月白草の名前は書かれていない。
薬草の採取許可とも書かれていない。
そして、発行日は三年前。
水路の応急工事と同じ時期だ。
「これは月白草を採る許可ではありませんわ」
私が言うと、エドガーは肩をすくめた。
「植物性副産物でしょう」
「月白草は採石事業によって発生したものではありません。もともとこの水辺に生えていた薬草です」
「言葉の解釈でございますな」
「いいえ。生育記録と村人の証言があります」
私は乾燥月白草の記録を示した。
「少なくとも、採石事業が始まる前から、この土地には月白草が自生していました。副産物ではありません」
(曖昧な言葉で全部を包み、価値があると分かったものだけ持っていくつもりなのね)
エドガーは笑みを消した。
「そのような古い証言に、どれほどの価値が?」
「では、正式な調査が終わるまで採取を止めてください」
「お断りします」
「なぜ?」
「商品には時期があるからです」
エドガーは月白草を見た。
「今夜回収しなければ、次の取引に間に合わない」
その視線には、植物への関心がなかった。
あるのは、商品としての値段だけだ。
「月白草は、あなたの取引のために生えているわけではありません」
私は静かに言った。
エドガーが薄く笑う。
「薬草は、使われて初めて価値を持つ。野に置いておくだけでは、ただの草です」
「違いますわ」
「何が?」
「次の花を咲かせる。種を残す。周りの環境を示す。この土地がまだ完全には死んでいないと教える。それも価値です」
「美しいお話だ」
エドガーは嘲るように拍手した。
「ですが、金貨にはなりません」
「今夜の金貨にはならないでしょうね」
私は月白草を見た。
「でも、根を残せば来年も花が咲く。増やせば村の薬になる。計画的に育てれば、来年以降は納税資源にもなるわ」
「そんな悠長な」
「根こそぎ取れば、今夜で終わります」
私はエドガーへ視線を戻した。
「あなたは植物の値段を知っている。でも、価値を知らない」
エドガーの顔から笑みが消えた。
大柄な男が吐き捨てる。
「草相手に説教かよ」
彼は短剣を抜いた。
「ジゴ」
エドガーが制止する。
だが、大柄な男――ジゴは止まらなかった。
「二人や三人ならともかく、こんな田舎兵に囲まれて帰れるか!」
ジゴが一番近い兵へ突進する。
カイが動いた。
速かった。
剣を抜くより先に、ジゴの手首をつかむ。
体を半歩ずらし、その勢いを横へ流す。
ジゴの巨体がよろめいた。
だが、その向かった先には、月白草の自生地がある。
「左へ行かせないで!」
私は叫んだ。
「湧水口を踏みます!」
カイは即座に足の位置を変えた。
ジゴの腕を引き、反対方向へ投げる。
大柄な体が乾いた土の上へ転がった。
兵二人が飛びかかり、短剣を蹴り飛ばす。
無駄な斬り合いは起きなかった。
必要な動きだけで終わった。
(カイは、私の言葉を聞いてくれた。戦いの最中でも、湧水の場所を覚えていた)
そのことに安堵した直後、別の音がした。
エドガーが黒い小瓶を投げたのだ。
月白草ではない。
湧水口へ向かって。
「だめ!」
私は反射的に一歩出そうとした。
だが、カイが先に動いた。
落ちる直前の小瓶を、剣の鞘で横へ弾く。
小瓶は乾いた石の上へ落ち、割れた。
黒っぽい液が石を濡らす。
その場所に生えていた苔が、わずかに縮んだ。
「何をしたの!」
私はエドガーをにらんだ。
彼は逃げようとしていた。
だが、左右から兵が回り込み、腕を押さえる。
「離せ! 私は王都公認商会の人間だぞ!」
「だから何だ」
カイが冷たく言った。
「領地内への不法侵入、薬草の無許可採取未遂、刃物による抵抗。さらに水源への薬液投棄だ」
「証拠があるのか!」
「ありますわ」
私は割れた小瓶を指した。
「全員が見ています。投げた方向も、割れた場所も。薬液に触れた苔の変化も記録します」
エドガーの目が、私を刺すように細くなる。
「この程度で、ルヴァン商会に逆らえると?」
「逆らうかどうかは、調べてから決めます」
私は静かに答えた。
「でも、少なくとも今夜は、月白草に触れさせません」
エドガーは兵に押さえられたまま、低く笑った。
「守ってどうする。徴税官が来れば、村のものはすべて差し押さえられる」
「なぜ、それを知っているの?」
笑いが止まった。
カイの目が鋭くなる。
「ベルトラムが来たことは、村の外にはまだ広めていない」
「それは……商会の情報網を甘く見ないことだ」
「では、その情報網についても話していただきましょう」
カイが兵へ命じる。
「二人を連行しろ。荷物もすべて押収する」
ジゴは悪態をついたが、兵に縛られた。
エドガーは黙ったまま、私をにらんでいる。
彼らが連れていかれたあと、森に静けさが戻った。
私はすぐに月白草へ近づいた。
「待ってください」
カイの声が飛ぶ。
私は足を止める。
「確認するだけよ」
「薬液が飛んでいる可能性があります」
「……そうね」
(危なかった。守れたと思った瞬間が、一番油断する)
私は採取棒を使い、周囲の石と土を確認した。
幸い、黒い液は湧水にも月白草にも届いていない。
乾いた石の上だけだ。
だが、苔は明らかに縮んでいる。
強い液だ。
私は布と土を使い、液が流れ出さないよう周囲を囲った。
「触らないでください」
今度は私が兵たちに言う。
「この石の周囲には近づかないで。明日の明るい時間に処理します」
カイが割れた瓶の破片を見た。
「何の液ですか」
「分かりません。でも、植物の組織に強い負担を与えるものだわ」
「月白草を抜くために?」
「それだけではないかもしれない」
私はエドガーが投げた方向を見た。
彼は月白草ではなく、湧水口を狙った。
根を抜けなくなったから、植物を枯らそうとしたのか。
それとも、湧水口そのものを消すことが目的だったのか。
(この清水が残っていると、困る理由がある?)
私は月白草の近くに膝をついた。
触れない。
ただ、目で確認する。
葉は無事だ。
湧水も流れている。
小さな水音が、夜の静けさの中で続いている。
「守れましたね」
カイが隣で言った。
「今夜は、ね」
「素直に喜ばないのですか」
「喜んでいるわ」
私は月白草を見た。
「でも、これで終わりではないもの」
(今夜来たのは枝。根はまだ王都か、商会の奥に残っている)
エドガーの荷物を調べる必要がある。
採取許可書。
黒い薬液。
赤い紐。
ルヴァン商会の指示書。
そして、ベルトラムの徴税情報を知っていた理由。
「村へ戻りましょう」
私は立ち上がった。
カイが短くうなずく。
「歩けますか」
「歩けるわ」
「本当に?」
「今夜は魔法も使っていないもの」
「勝手に前へ出ようとはしました」
「一歩だけよ」
「約束は一歩でも破れば同じです」
「でも、止まったでしょう?」
「私が止めました」
「……それについては、ありがとう」
カイは少しだけ黙った。
「どういたしまして」
その声は、いつもよりわずかに柔らかかった。
◇
村へ戻ると、夜明けが近づいていた。
エドガーとジゴは、屋敷の倉庫を使った仮の拘束場所へ入れられた。
兵が見張りにつく。
私は休む前に、押収した荷物の確認を始めた。
カイが険しい顔をする。
「今からですか」
「少しだけよ」
「その言葉は信用していません」
「でも、徴税官が来るまで時間がないわ」
「一刻だけです」
「二刻」
「一刻です」
「……分かったわ」
カイが砂時計を机に置いた。
「砂が落ち切ったら終わりです」
「厳しいのね」
「あなた相手には必要です」
エドガーの荷物には、採取道具、保存用の布、赤い紐、黒い薬液の小瓶が三本。
そして、革の書類入れがあった。
中には薬草の一覧が入っている。
赤実。
銀葉草。
月白草。
青灯草。
それぞれの予想量と買い取り価格。
月白草の欄には、赤い線が引かれていた。
私は次の紙をめくった。
そこには、北採石場周辺の簡単な地図が描かれている。
赤い水路。
古い水門。
月白草の旧自生地。
そして、細い清水の湧き口。
地図の横に、短い指示が書かれていた。
> 白花確認時は、根を含め全数回収。
> 回収後、清水口を再閉塞すること。
> 財務局による現地確認前に完了せよ。
部屋が静まり返った。
カイが紙を手に取る。
「再閉塞」
「ええ」
私は喉が冷たくなるのを感じた。
再び塞げ、と書いてある。
つまり、以前にも塞いだ。
「財務局による現地確認前に完了せよ、か」
カイの声が低くなる。
「ベルトラムが来ることを知っていたどころではない。徴税と採取が同じ予定の中で動いている」
私は紙の端を確認した。
下には、黒い蝋の跡。
蔓と杯の印。
ルヴァン商会のものだ。
署名はない。
だが、指示は明確だった。
月白草を根ごと奪う。
清水を塞ぐ。
財務局が確認する前に終わらせる。
(村を助けるための徴税ではない。村が弱っているうちに、価値のあるものを抜き取るための段取りかもしれない)
怒りが、静かに胸の奥へ沈んでいく。
エドガー個人の欲ではない。
商会の計画だ。
そして、財務局の誰かが関わっている可能性がある。
ベルトラム本人か。
別の役人か。
まだ断定はできない。
でも、徴税期限までに提示する材料としては十分に重い。
私はノートを開いた。
「これは写します」
「原本は私が保管します」
カイが言った。
「ええ。改ざんされたと言われないよう、立会人も必要ね」
「村長を起こしますか」
「今は休ませてあげて。朝になってからでいいわ」
(村長には厳しく働いてもらっているもの。今夜くらいは、少し眠ってもらわないと)
私は指示書の内容を一字ずつ写した。
砂時計の砂が落ちていく。
最後の一文を書き終えたところで、カイが砂時計を指した。
「終わりです」
「もう少しだけ」
「駄目です」
「あと一枚」
「駄目です」
「カイ様」
「休んでください」
声は硬い。
でも、その目は怒っているのではなく、心配していた。
私はペンを置いた。
「分かったわ」
カイが少しだけ驚く。
「今日は素直ですね」
「月白草も守れたし、証拠も取れたもの。少しくらい、言うことを聞くわ」
「いつも聞いてください」
「それは難しい相談ね」
カイは深く息を吐いた。
私は立ち上がり、最後に指示書を見た。
三日後の差し押さえまで、残り一日。
昨日まで、私たちは村の苦しさを説明するだけだった。
けれど今は違う。
この村の土地から、誰かが価値ある薬草を根こそぎ奪おうとしていた証拠がある。
清水を塞ごうとしていた証拠もある。
徴税と商会の採取が、同じ時間の中で動いている証拠も。
私はノートを閉じた。
(ベルトラム様。今度は、知らなかったでは済ませませんわ)
夜が明けようとしていた。
窓の向こうが、わずかに白くなる。
月白草は、まだ森の中で生きている。
根も。
葉も。
細い清水も。
奪う手は、根の先にある未来を見ない。
でも、私は見る。
この村が来年も生きるために、何を残さなければならないのか。
そのためなら。
私は、王都の役人にも商会にも、何度でも面倒な女になってやる。
第10話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、月白草を狙うルヴァン商会の採取人と直接対決し、薬草と清水を守ることができました。
さらに押収した指示書から、商会が月白草を根こそぎ回収し、湧水口を再び塞ごうとしていたことが判明します。次回は、徴税官ベルトラムを前に、この証拠が突きつけられます。




