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第11話 原本は、あなたには渡さない

第11話です。

徴税官ベルトラムが指定した期限の日。

リディアたちは、月白草を狙ったルヴァン商会の指示書を手に、差し押さえを止めるための対決に臨みます。

徴税官ベルトラム・ガノンが再び村へ現れたのは、正午を少し過ぎた頃だった。


今回の馬車は、前より一台多い。


王都財務局の紋章を掲げた黒い馬車。

その後ろに、荷台の大きな幌馬車が続いている。


空の荷台。


村の食料や種、農具を積んで帰るために用意したのだろう。


村人たちは、それを見ただけで言葉を失った。


畑のそばで農具を修理していた男たちも、井戸場で水を沸かしていた女たちも、作業の手を止めている。


セリナは北畑の記録用木片を胸に抱き、私の近くへ寄ってきた。


「リディア様……」


「大丈夫、とは言わないわ」


私はセリナの肩へ手を置いた。


「でも、準備したことを一つずつ見せましょう。あなたの記録も、その一つよ」


セリナは不安そうに唇を結び、それでもしっかりとうなずいた。


「はい」


(怖いわよね。私も怖い。でも、この子たちの前で、怖さに判断を渡してはいけない)


村の広場には、すでに机を三つ並べていた。


一つ目には、村の現状記録。


井戸水の異常。

北畑の白化。

水路崩壊後の変化。

体調不良者の聞き取り。

残存する食料と種の量。


二つ目には、再生計画。


北畑の小区画実験。

農具修理の予定。

薬草管理台帳。

月白草の保護・増殖計画。

将来的な薬草納品による納税案。


そして三つ目には、昨夜押収した証拠の写しを置いた。


ルヴァン商会の採取指示書。

北採石場周辺の地図。

黒い薬液の小瓶に描かれた商会印。

夜間侵入者エドガー・モルツとジゴの証言記録。


原本は、この場にはない。


カイが屋敷内の施錠された保管庫に入れている。


立会人は、カイ、村長、マーサ婆さん、兵二名。


さらに原本の内容は、三部に写した。


一部は私。

一部はカイ。

一部は村長が保管している。


村長は文字をすべて読めるわけではない。

それでも、自分の印を押した封筒を懐へ入れ、一歩も離そうとしなかった。


「ずいぶん大げさですな」


準備を見た時、村長はそう言った。


けれど、その顔には少しだけ満足げな色があった。


「証拠が一つしかなければ、なくなった時に終わります」


私が答えると、村長は鼻を鳴らした。


「王都のお方を、まるで盗人のように警戒なさる」


「盗人ではないと証明してくだされば、それで済む話ですわ」


「相変わらず、柔らかい声で恐ろしいことを言いなさる」


今、その村長は私の右後ろに立っている。


左側にはカイ。


カイはいつもの革鎧ではなく、レヴィン領管理者としての外套を着ていた。

腰には剣を下げているが、手は柄に置いていない。


ただし、その表情は硬い。


「馬車に六名」


カイが小さな声で言った。


「ベルトラム本人、護衛四名、財務局の書記官一名。後ろの幌馬車に御者二名です」


「差し押さえを実行する気ね」


「そのつもりでしょう」


「書面は?」


「まだ見せていません」


「なら、最初に確認しましょう」


カイがこちらを見る。


「無理に挑発しないでください」


「私はいつも丁寧でしょう?」


「内容の話です」


「必要なことしか言わないわ」


「あなたの“必要”は、相手にとってかなり攻撃的です」


村長が横から口を挟んだ。


「カイ様。そのお嬢様に今さら穏便を求めても、芽の出ぬ種へ水をやるようなものですぞ」


「村長まで、何を言っているのかしら」


「観察結果ですな」


セリナが緊張の中で、ほんの少しだけ笑った。


その小さな笑いに、私も少し呼吸を取り戻した。


◇


黒い馬車が広場で止まった。


護衛が板を地面へ置く。


ベルトラムは、今回もその板の上を踏んで降りてきた。


決して泥を踏まない。


光沢のある靴。

白い手袋。

甘い香水。


そして、前回と変わらない丁寧な笑み。


「お待たせいたしました」


誰も待ってはいない。


けれど、ベルトラムは自分が歓迎されているかのように両手を広げた。


「三日という短い期間ではございましたが、納税案はご用意いただけましたかな」


「はい」


私は答えた。


「村の現状記録、再生計画、納税代替案を準備しています。差し押さえの前に確認してください」


「それは結構」


ベルトラムは机の上を一瞥した。


本当に、一瞥しただけだった。


紙の内容を読む気はない。


最初から結論を決めている顔だった。


(やっぱり、この人は調べに来たのではないわ。持って帰るものを決めに来た)


ベルトラムは後ろの書記官へ合図を送った。


書記官が一枚の書面を取り出す。


「こちらが差し押さえ執行書でございます」


カイが前へ出た。


「確認する」


護衛が一瞬、書面を渡すことをためらう。


ベルトラムは余裕のある笑みで手を振った。


「どうぞ。正式な書類でございますから、ご心配なく」


カイは内容を読み始めた。


私は横から、日付、発行部署、署名、対象品を確認する。


差し押さえ対象。


貯蔵穀物。

家畜。

農具。

保存種。

薬草および植物性資源。

その他、徴税官が価値を認めた物品。


範囲が広すぎる。


しかも、“徴税官が価値を認めた物品”という曖昧な項目がある。


月白草の存在を知っているなら、それも対象に含めるつもりだろう。


「発行日は昨日ですね」


私が言うと、ベルトラムはうなずいた。


「ええ。期限までに納税案が出されない可能性を考慮し、事前に準備いたしました」


「期限は今日の正午では?」


「書類の準備には時間がかかりますので」


「つまり、私たちの案を見る前から差し押さえを決めていたのですね」


ベルトラムの口元が、わずかに動いた。


「準備と決定は違いますな」


「では、今から案を確認して、妥当なら差し押さえを保留しますか?」


「内容によります」


「そうですか。では、読んでください」


私は一つ目の資料を差し出した。


ベルトラムは受け取らない。


「リディア様。まずは現物を確認させていただきます。帳簿だけでは、資産価値を判断できませんので」


「どの現物ですか?」


「種、農具、薬草。村に価値あるものすべてです」


「確認する前に、この記録を読んでください」


「順番はこちらが決めます」


穏やかな声だった。


でも、その中には明確な命令があった。


私は資料を机へ戻した。


「では、確認の前に一つ質問があります」


「何でございましょう」


「ルヴァン商会をご存じですね」


広場の空気が変わった。


ベルトラムの笑みは残っている。


けれど、目の奥がほんの少しだけ止まった。


「王都公認の薬草商会です。財務局の人間であれば、当然知っております」


「エドガー・モルツという人物は?」


「存じませんな」


「北方採取部主任を名乗っています」


「商会の一職員まで、いちいち記憶しておりません」


「では、北採石場周辺における植物性副産物の回収許可書については?」


ベルトラムは少し間を置いた。


「何のことでしょう」


私は三つ目の机から、許可書の写しを取り上げた。


「三年前、王都財務局が発行したものです。発行番号は北財資第三一七号。対象は北採石場周辺の不用植物および果実」


書記官の顔色が変わった。


一瞬だった。


だが、私は見た。


(書記官は知っている)


ベルトラムは写しへ目を向けた。


「古い書類ですな。それが何か?」


「昨夜、ルヴァン商会の採取人が、この許可書を根拠にレヴィン領へ侵入しました」


村人たちがざわめく。


ベルトラムは眉を上げた。


「侵入とは穏やかではありませんな。正式な許可を持っていたのでしょう?」


「許可対象は“採石事業に伴って発生する不用植物”です。ですが、彼らが狙ったのは採石事業以前から自生する月白草でした」


「月白草?」


ベルトラムは初めて聞いたような顔をした。


演技だろうか。


確証はない。


私は答えた。


「希少な薬草です。現在、この領地で確認できているのは三株だけ」


ベルトラムの目が、ほんのわずかに細くなった。


価値を計算した顔だ。


「なるほど。それは差し押さえ資産として――」


「まだ話は終わっていません」


私は静かに遮った。


村人たちが息をのむ。


カイは何も言わない。

でも、少しだけ私の前へ立つ位置を変えた。


ベルトラムの護衛が動いた時に備えているのだろう。


「採取人は、月白草を根ごと抜いた後、清水の湧き口を塞ぐよう指示されていました」


「何を馬鹿な」


ベルトラムが初めて、少し強い声を出した。


「薬草商会が、水源を塞ぐ理由などないでしょう」


「私も理由を知りたいわ」


私は採取指示書の写しを掲げた。


「ここに、“白花確認時は根を含め全数回収。回収後、清水口を再閉塞すること。財務局による現地確認前に完了せよ”と書かれています」


広場が静まり返った。


ベルトラムの表情から、笑みが消えた。


書記官が無意識に一歩下がる。


「その書類を見せなさい」


ベルトラムの声が変わった。


丁寧さは残っている。


だが、もはや余裕はない。


「こちらは写しです」


「原本を出しなさい」


「その前に、内容について説明してください」


「説明する必要はありません。財務局に関係する文書が不正に取得された可能性がある。正式調査のため、原本を押収します」


やはり。


証拠を見た瞬間、差し押さえ対象が村の種から書類へ変わった。


(最初から、これを狙うと思っていたわ)


私は首を振った。


「原本は渡しません」


ベルトラムの目が冷たくなる。


「リディア様。財務局の命令です」


「正式な押収命令書を見せてください」


「今、私が命じています」


「あなた個人の言葉ではなく、書面を」


「緊急時には、徴税官判断による押収が認められます」


「どの規定ですか?」


「財務局の内部規定です」


「番号をお願いします」


ベルトラムは黙った。


私はノートを開く。


「規定番号を示さず、徴税官個人の判断で証拠原本の提出を要求。そう記録します」


「その記録をやめなさい!」


声が広場に響いた。


ベルトラムが怒鳴った。


初めてだった。


前回までの慇懃無礼な態度が剥がれ、その下から苛立ちが露出した。


村人たちがびくりとする。


セリナの肩も震えた。


私は彼女の前に半歩出た。


「声を荒げても、原本は渡しません」


(怖がらせないで。この子たちは、もう十分怖い思いをしている)


ベルトラムは白い手袋の指を握りしめた。


「あなたは証拠を隠匿するつもりですか」


「隠していません。写しはここにあります。内容も公開しています。原本は複数の立会人のもとで保管しています」


「保管場所は?」


「答えません」


「それこそ隠匿でしょう!」


「違いますわ」


私はベルトラムを見た。


「証拠を安全に保管しているだけです。正式な調査機関が、受領書と保全手続きを提示するなら提出を検討します。でも、関係が疑われるあなた個人には渡しません」


広場の空気が凍りついた。


ベルトラムの顔が赤くなる。


「私が関係していると?」


「まだ断定していません」


「ならば、その言い方は何だ!」


「ルヴァン商会は、あなたが村へ来る日時を知っていました。指示書には、財務局による現地確認前に作業を終えろとあります。関係を疑うのは自然でしょう?」


私は一つずつ言葉を置いた。


「違うなら、調査に協力してください」


ベルトラムは私をにらんだ。


その視線には、もはや隠す気のない敵意がある。


カイが低く言った。


「徴税官殿。説明を」


「私は知らん!」


ベルトラムは吐き捨てるように言った。


「商会が財務局の日程をどこから得たかなど、私の知るところではない。内部の誰かが漏らしたのでしょう」


「では、情報漏洩の可能性を認めるのですね」


私はすぐにノートへ書く。


ベルトラムが歯を食いしばった。


「言葉を切り取るな!」


「では、訂正してください」


「貴様……」


護衛の一人が前へ出た。


「徴税官への侮辱だ。拘束して書類を押収する」


カイがその進路を塞ぐ。


「ここはレヴィン領だ」


声は静かだった。


だが、護衛の足は止まった。


「領内での拘束には、管理者である私の承認が必要だ。正式な逮捕状もない。手を出せば、不法な武力行使として扱う」


「辺境騎士が財務局に逆らうのか」


「違う」


カイは短く答えた。


「手続きを守れと言っている」


その言葉に、私は少しだけ胸が熱くなった。


記録。

書面。

手続き。


少し前なら、カイはそんなものを王都の言い逃れだと切り捨てていたかもしれない。


でも今は、それを村を守る盾として使っている。


(ちゃんと、一緒に戦ってくれている)


村長も前へ出た。


「わしも立会人ですぞ」


ベルトラムが村長をにらむ。


「老人は黙っていなさい」


「嫌ですな」


村長は即答した。


「年を取ると、命令を聞く耳まで遠くなるもので」


村人の中から、思わず小さな笑いが漏れた。


ベルトラムの顔がさらに歪む。


村長は杖を地面へ突いた。


「この三日、わしらは土を見た。水を見た。薬草を見た。子どもまで記録を取った。それを一度も読まず、種と農具を奪うというのなら、その名も残させてもらいますぞ」


「村長……」


誰かがつぶやいた。


村人たちが少しずつ顔を上げていく。


畑の男が一歩前へ出た。


「俺も見た。北畑の草は、昨日より立ってる」


井戸場の女も言った。


「水は沸かして使っています。子どもの腹痛も、今朝は出ていません」


マーサ婆さんが乾燥した月白草の布包みを胸に抱いた。


「薬草は売りません。残して育てます」


セリナも木片を掲げた。


手は震えている。


それでも、声を出した。


「私の記録は、落書きじゃありません」


ベルトラムがセリナを見る。


その目には、子どもへの配慮などなかった。


「そのようなものが何になる」


セリナの表情が曇る。


私はすぐに言った。


「畑が変化している証拠になります」


「子どもの線が?」


「毎日同じ時間、同じ場所を見た記録です。少なくとも、三日前に来て土を一度も踏んでいない方の感想よりは、現地の変化を示していますわ」


広場の空気が、ほんの少し動いた。


誰かが笑いをこらえた。


カイも横を向いている。


ベルトラムは怒りで震えていた。


「もうよい!」


彼は机の資料を手で払おうとした。


私は反射的に資料を押さえた。


同時に、カイがベルトラムの手首をつかむ。


強くはない。


だが、止めるには十分だった。


「触れるな」


カイの声は低かった。


ベルトラムが目を見開く。


「手を離せ!」


「証拠と村の記録を破損するつもりなら、離さない」


「徴税官の私に!」


「徴税官でも、他人の記録を壊す権利はない」


カイは手を離した。


ベルトラムは後ろへ一歩下がり、乱れた袖を整える。


白い手袋に、机の端の泥が少しついていた。


彼はそれを見て、顔をしかめる。


この男は、こんな時でも泥を嫌がるのだ。


私はその様子を見ながら、静かに言った。


「ベルトラム様」


「何だ」


「今日の差し押さえは保留してください」


「断る」


「では、この場で種と農具を持ち出しますか?」


「当然だ」


「村人全員と、領地管理者と、立会人の前で?」


「義務を執行するだけだ」


「ルヴァン商会による薬草盗掘と、水源閉塞の指示書が見つかった直後に?」


ベルトラムが黙る。


私は続けた。


「しかも、その指示書には財務局の日程が記載されている。今ここで村の資産を持ち出せば、商会と財務局が連携して村の価値を奪おうとした、と受け取られる可能性があります」


「脅しているのか」


「いいえ」


私は微笑んだ。


「あなたの立場を心配しているのですわ」


ベルトラムの頬が引きつった。


「今ここで差し押さえを行うなら、その事実もすべて記録し、王都の財務監察院、レヴィン家の上位管轄領、そして王宮へ同じ内容を送ります」


カイが小さくこちらを見る。


監察院への提出は、昨夜話し合った案だった。


届く保証はない。

握りつぶされる可能性もある。


それでも、複数の場所へ送れば、すべてを消すのは難しくなる。


「写しは一部ではありません」


私は言った。


「すでに複数あります。原本を奪っても、記録は消えません」


ベルトラムの目が、わずかに泳いだ。


初めてだった。


彼がこちらの出方を読み切れずにいる。


(あなたは、弱い村なら紙一枚で黙らせられると思っていた。でも、もう一枚ではないわ)


沈黙が続いた。


やがて、ベルトラムは書記官へ手を伸ばした。


「書面を」


書記官が慌てて別の紙を出す。


ベルトラムは机の端で何かを書き始めた。


ペン先が乱暴に紙をこする。


書き終えると、その紙を私たちへ突き出した。


「本日の差し押さえは、一時保留とする」


村人たちが息をのむ。


「ただし、これは納税義務の免除ではない。ルヴァン商会の件を含め、財務局内で確認を行う。その間、村の資産を勝手に移動、売却、処分することを禁ずる」


カイが書面を受け取り、内容を読む。


「保留期限が書かれていない」


「調査終了までだ」


「調査担当者は?」


「追って通知する」


私は横から書面を確認した。


完全な勝利ではない。


むしろ、村の資産を動かせないという制限を新たにつけられた。


薬草を売ることも、家畜を移すことも、場合によっては難しくなる。


ベルトラムは、ただ引いたのではない。


次の拘束を残した。


(この人も、簡単には負けないわね)


それでも。


今日、種と農具は持っていかれない。


村の来年は、ひとまず守られた。


「書面の写しをいただきます」


私が言うと、ベルトラムは睨みつけた。


「原本を渡す」


意外な言葉だった。


「よろしいのですか?」


「財務局書面だ。こちらには控えがある」


「では、受領時刻と立会人を記録します」


「好きにしろ」


ベルトラムは吐き捨てた。


そして、黒い馬車へ向かって歩き出す。


今度は、護衛が板を置くのを待たなかった。


怒りのまま、一歩踏み出す。


磨かれた靴が、村の泥へ沈んだ。


ベルトラムは動きを止めた。


白い靴の縁に、茶色い泥がついている。


村人たちは誰も笑わなかった。


ただ、黙って見ていた。


ベルトラムは泥をにらみ、ゆっくりと私を振り返った。


「リディア・フォルスティア」


初めて、様をつけなかった。


「あなたは、自分が何に触れたか分かっていない」


「土なら、よく見ていますわ」


「冗談ではない」


ベルトラムの声は低い。


「ルヴァン商会は、辺境の小商人ではない。財務局にも、宮廷にも、取引先を持つ。あの指示書一枚で何かを変えられると思うな」


「一枚ではありません」


私は答えた。


「水路、土、薬草、村人の証言、商会の採取人、黒い薬液、許可書、指示書。全部つながり始めています」


「つながってなどいない」


「なら、調べれば分かります」


「後悔するぞ」


カイが一歩前へ出る。


「脅しか」


ベルトラムは答えなかった。


私だけを見ている。


私はその視線を受け止めた。


怖い。


正直に言えば、怖かった。


相手は一人の徴税官ではない。

王都の商会。

財務局。

宮廷につながる誰か。


その根がどこまで伸びているのか、まだ分からない。


それでも。


「後悔するかもしれません」


私は言った。


ベルトラムがわずかに眉を動かす。


「でも、見つけたものを見なかったことにする方が、きっと長く後悔するわ」


(怖いから黙る。それでこの子たちの種を奪わせたら、私は自分を許せない)


ベルトラムは何も答えず、馬車へ乗り込んだ。


扉が強く閉められる。


黒い馬車と空の幌馬車は、村の何も積まないまま走り去った。


砂ぼこりが収まっても、しばらく誰も動かなかった。


やがて、セリナが小さな声で聞いた。


「……持っていかれないんですか?」


私は保留書面を見た。


「今日は、持っていかれないわ」


「種も?」


「ええ」


「農具も?」


「守れました」


その瞬間、セリナの目から涙がこぼれた。


周囲からも、押し殺していた息が一気に吐き出される。


誰かが座り込んだ。

誰かが隣の人の肩を叩いた。

畑の男は顔を覆い、井戸場の女たちは抱き合っている。


大きな歓声は起きなかった。


皆、疲れすぎていた。


ただ、静かな安堵が村を満たしていった。


村長が杖を突きながら、私の隣へ来た。


「勝ちましたかな」


私は首を振った。


「今日は、負けなかっただけです」


村長はしばらく黙り、やがて低く笑った。


「それで十分な日もありますな」


「ええ」


本当に、その通りだった。


完全な勝利ではない。


税は消えていない。

商会も残っている。

財務局の調査が、公正に行われる保証もない。


それでも、種は残った。

農具も残った。

月白草も、清水も。


今日を越えられた。


カイが保留書面を持って近づいてきた。


「資産の移動禁止がついています。対策が必要です」


「ええ。薬草の販売も難しくなるわね」


「喜ぶのは後にしましょう」


「分かっているわ」


そう答えた途端、体から力が抜けそうになった。


緊張が切れたのだろう。


足元が少し揺れる。


カイがすぐに腕を支えた。


「リディア様」


「大丈夫よ」


「その言葉は禁止です」


「では……少し疲れたわ」


「最初からそう言ってください」


カイの声は呆れていた。


でも、支える手は優しい。


(やっぱり、この人は言葉より手ね)


村長がこちらを見て鼻を鳴らした。


「勝った途端に倒れては、締まりませんぞ」


「倒れていません」


「カイ様に支えられておりますな」


「これは……少し休んでいるだけよ」


「立ったまま休むとは、器用なことで」


セリナが涙を拭きながら笑った。


その笑顔を見て、私も少し笑った。


◇


その日の夕方。


私たちは屋敷で、ベルトラムが残した保留書面を改めて確認した。


月白草の指示書原本。

財務局の回収許可書。

エドガーたちの証言。

ベルトラムの差し押さえ保留書。


すべてを机に並べる。


カイが一枚ずつ見ながら言った。


「次は、財務監察院へ送る準備です」


「ええ。上位管轄領にも」


村長が難しい顔をする。


「途中で消される可能性は?」


「あります」


私は答えた。


「だから、同じ内容を別々の経路で送ります。商人の荷、領主間の連絡便、王都へ向かう巡回司祭。使える道を分けます」


マーサ婆さんが静かに言った。


「ずいぶん大きな話になりましたね」


「そうですね」


私も、少し前までは想像していなかった。


婚約破棄され、辺境へ追放された。


そこで枯れた畑を治す。


ただ、それだけのつもりだった。


でも、土を見れば水につながった。

水を見れば採石場につながった。

薬草を守れば商会につながった。

商会を追えば財務局につながった。


植物の根と同じだ。


地上からは一本に見えても、土の下では遠くまで広がっている。


(見つけた以上、途中で切るわけにはいかないわね)


私は新しいノートの最初の頁を開いた。


見出しを書く。


北採石場・水路改変調査。


その下へ、目的を記す。


三年前の水路工事の実態確認。

ルヴァン商会と財務局の関係確認。

清水口閉塞の理由特定。

赤茶水の発生源調査。

村の土地と薬草資源の保護。


最後に、一行を加えた。


この土地が枯れた責任を、呪いに逃がさない。


ペンを置く。


窓の外では、夕暮れの光が村を照らしている。


北畑の小さな実験区画では、セリナが記録を取っている。

村長が横から、線が曲がっていると文句を言っている。

畑の男たちは、守られた農具の修理を再開していた。


今日は勝っていない。


でも、負けなかった。


その差は、きっと小さくない。


白い土の上で、小さな草が揺れている。


まだ弱い。


それでも葉は、昨日より少し高く空を向いていた。


第11話を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、ベルトラムが証拠の原本を押収しようとする中、リディアたちが複数の写しと立会記録で対抗し、種と農具の差し押さえを一時的に止めました。

次回からは、三年前の水路工事と採石場をめぐる責任を追い、ルヴァン商会と財務局のさらに奥へ踏み込んでいきます。

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