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第8話 月白草は、赤い水のそばで眠る

第8話です。

三日後の差し押さえを防ぐため、リディアたちはかつて水辺に咲いていた薬草“月白草”の跡地へ向かいます。

それは薬草資源の調査であり、同時に赤茶けた水路の原因を探る調査でもありました。


翌朝、村はまだ薄い霧の中にあった。


夜明け前の空は青灰色で、遠くの畑は白く霞んでいる。

家々の煙突からは細い煙が上がり、井戸場ではすでに水を沸かす音がしていた。


昨日までは、ただ静かだった村。

けれど今朝は違う。


誰かが動いている。

誰かが考えている。

誰かが、昨日と同じように諦めることをやめている。


それだけで、村の空気は少しだけ変わっていた。


私は屋敷の前で、荷物を確認した。


布袋。

小瓶。

木片。

簡易の採取棒。

ノート。

水筒。

手袋代わりの布。

そして、マーサ婆さんから預かった乾燥した月白草。


「採りに行くのではありません」


私は同行する者たちに向かって言った。


カイ、護衛の兵が二人。

それからマーサ婆さん。


本当はマーサ婆さんには村に残ってもらいたかった。

けれど、彼女は頑として譲らなかった。


「月白草の場所を知っているのは、もうわしぐらいでございますからね」


そう言われてしまえば、止めにくい。


私はもう一度、言葉を続けた。


「今日の目的は、月白草がまだ残っているかを確認すること。採取は最小限。見つけても、むやみに抜かないでください」


カイが短くうなずく。


「了解しました」


マーサ婆さんは、しわだらけの手で杖を握り直した。


「根こそぎにすれば、来年は咲きませんからね」


「ええ。その通りです」


(この人は、ちゃんと分かっている。薬草を“使う”人ではなく、“残す”人だわ)


村長は屋敷の入口で腕を組んでいた。


「リディア様。くれぐれも、妙な草に夢中になって崖から落ちぬようになされ」


「心配してくださるのですか」


「違いますぞ。あなたが倒れると、村の者が困るのです」


「それは心配と似ていますね」


「似ておりません」


相変わらず、素直ではない。


セリナもそばに立っていた。

手には、昨日作った北畑の観察用の木片を持っている。


「リディア様、私は北畑を見ておきます」


「お願いね。昨日と同じ時間に、葉の角度と土の色を見てちょうだい」


「はい。村長さんが文句を言っても、ちゃんと書きます」


村長が顔をしかめる。


「文句ではない。確認ですぞ」


セリナは少しだけ笑った。


その笑顔を見て、私は胸の奥が少し温かくなった。


(この子は、もうただ助けられる側じゃない。ちゃんと村を支える側に立とうとしている)


私はセリナの頭に軽く手を置いた。


「無理はしないで。でも、よく見て」


「はい」


カイが横から言った。


「それはリディア様にも当てはまります」


「分かっているわ」


「昨日もそう言っていました」


「今日は本当に分かっているわ」


「信用はしていません」


「ひどいわね」


「実績です」


言い返せなかった。


◇


月白草の跡地は、北の水路からさらに奥へ進んだ場所にあるという。


昨日見た赤茶けた水路を越え、森の中へ入る。

地面はぬかるんでいる場所と乾いて割れた場所が交互に現れた。


普通なら、森の地面はもっと均一に湿りを持つ。

でもここは違う。


水がある場所は重く沈み、ない場所は白く乾く。

どちらも極端だった。


(この土地、呼吸が下手になっている。水を抱える場所と逃がす場所のバランスが壊れているわ)


私は足元の土を見ながら進んだ。


カイは私の少し前を歩き、危ない場所では無言で手を出す。

口は相変わらずぶっきらぼうだが、動きは細かい。


「そこは踏まないでください」


「泥?」


「下が抜けています」


「よく分かるわね」


「昨日、あなたが土ばかり見ていたので、少し見るようになりました」


「いい傾向だわ」


「褒められても嬉しくありません」


「少しは嬉しそうよ」


「気のせいです」


マーサ婆さんが後ろでくすりと笑った。


「若い方々は、朝から元気でよろしいですね」


カイが咳払いをした。


「マーサ殿、足元にお気をつけください」


「はいはい。年寄り扱いは慣れておりますよ」


「実際、年寄りですから」


「まあ、正直な騎士様ですこと」


マーサ婆さんの返しに、護衛の一人が小さく笑った。


森の空気は重い。

けれど、会話があるだけで少し進みやすくなる。


しばらく歩くと、赤茶けた水の匂いが強くなった。


鉄のような匂い。

湿った錆の匂い。

そして、どこか苦い匂い。


昨日の水路と同じだ。

でも、奥へ進むほど濃い。


「近いですね」


カイが言った。


「ええ」


私は水路脇の草を見た。


葉先が黒ずんでいる。

一部は赤茶色の膜に覆われていた。

水はあるのに、植物が喜んでいない。


(水が命を運ぶはずなのに、ここでは負担を運んでいる)


やがて森が少し開けた。


そこには、古い石組みの跡があった。


崩れた水門。

半分埋まった溝。

苔の生えた石板。

そして、その奥には、かつて水が流れていたらしい細い水路がある。


今は水がほとんどない。


マーサ婆さんが立ち止まった。


「昔は、ここに澄んだ流れがありました」


声が、少しだけかすれていた。


「夏でも冷たい水でね。子どもたちは足を浸し、女たちは洗い物をして、薬師は月白草を採りに来ておりました」


「ここが月白草の場所ですか」


「ええ。この石の周りに、白い花が並んでいました。夜明けの光に当たると、本当に月の欠片のようで……」


マーサ婆さんは、そこで言葉を止めた。


今、そこに白い花はない。


あるのは、乾いた石と、赤茶けた筋の残る泥だけだった。


私はしゃがみ込み、土を指で取った。


乾いている。

でも、少し掘ると重い。

表面は死んだように硬いのに、下は詰まっている。


北畑と似ている。


けれど、こちらの方が赤茶色の成分が強い。


「水の流れが変わっています」


私は言った。


「本来ここに来るはずの澄んだ流れが止まり、別の赤茶けた水が入り込んでいる」


カイが崩れた水門を見た。


「水門が壊れたから?」


「それもあるわ。でも、壊れ方が少し変ね」


「変?」


私は石組みに近づいた。


水門の片側が崩れている。

大雨で壊れたと言われれば、そう見えなくもない。

けれど、石の割れ方が一方向に偏っている。


そして、崩れた石の間に、古い木片が挟まっていた。


自然に流れ着いたものではない。

水をせき止めるために使われたような形だ。


(応急処置……にしては雑。でも、完全に自然でもない)


私は木片を指で示した。


「カイ様、これを見てください」


カイが膝をつく。


「木の板?」


「水を止めるために差し込まれたものかもしれません」


カイの表情が険しくなった。


「誰かが流れを変えたと?」


「まだ断定はできないわ。でも、少なくとも水門が壊れたあと、誰かがここに手を入れています」


マーサ婆さんが低く言った。


「三年前の大雨の後、王都から業者が来たと聞きました。水路の応急処置をしたと」


「その業者の名前は?」


カイが尋ねる。


マーサ婆さんは首を振った。


「わしには分かりません。村の者は近づくなと言われておりましたから」


「近づくな、ですか」


カイの声が冷たくなった。


私は木片と水門を記録した。


三年前、大雨。

王都手配の業者。

村人立入制限。

水門に人工的な木片。

流路変更の可能性。


(これは徴税官に見せるには危険ね。でも、使える。村が勝手に怠けて畑を枯らしたわけではない証拠になる)


その時、護衛の一人が声を上げた。


「カイ様、奥に穴があります」


見ると、水路のさらに奥、木々の間に黒い口のようなものが見えた。


採石場の入口だろうか。


近づくと、古い石の切り出し跡があった。

壁面は崩れかけ、ところどころから赤茶色の水が染み出している。


その水が細い溝を伝い、下の水路へ流れ込んでいた。


「これか」


カイが低く言った。


「採石場から出た水が、水路に入っている」


私は赤茶色の染みを見た。


触らず、木の枝で少しすくう。

昨日の水路より濃い。

ぬめりも強い。


「この水が直接畑まで行っているなら、かなり厄介だわ」


「毒ですか」


「毒という言葉は簡単だけれど、まだ早いわ。ただ、植物にも人にも負担になる可能性が高い」


(本当はもっと調べたい。成分も、濃度も、土への影響も。でも、ここには設備がない。だから、今できる範囲で証拠を集める)


私は小瓶に少量だけ水を入れた。

瓶には布を巻き、直接触れないようにする。


「持ち帰って、井戸水と比べます」


カイが私を見た。


「触っていませんね」


「触っていないわ」


「魔法は?」


「使っていないわ」


「今のところは?」


「……今のところは」


カイの目が細くなる。


「信用できません」


「私も少しそう思うわ」


「自覚があるならやめてください」


私は返事をしなかった。


なぜなら、採石場の水のすぐ脇に、気になるものを見つけたからだ。


赤茶色の水が流れる場所から少し離れた、石の影。


そこだけ、土の色が違う。


赤くない。

白くもない。

わずかに湿り、落ち葉が残っている。


そして、その影に、小さな葉があった。


細い葉。

やや青みを帯びた緑。

葉の縁は柔らかく、中心に白い筋が一本入っている。


私は息を止めた。


マーサ婆さんが震える声で言った。


「……月白草」


花は咲いていない。


けれど、葉の形は、乾燥標本の花弁のつき方と合う。

水辺に残るべき植物。

清涼感のある香り。

湿りすぎず、乾きすぎない場所。


月白草かもしれない。


「近づきます」


私はそう言って、一歩前へ出た。


カイがすぐに腕を伸ばす。


「待ってください」


「踏みません。見るだけよ」


「その“見るだけ”が信用できないと言っています」


「分かっているわ。でも、これは大事なの」


カイは私を見た。


しばらく沈黙する。


そして、短く言った。


「私が先に足場を見ます」


「ありがとう」


彼は剣の鞘で地面を確認しながら、石の影へ進んだ。


足場は弱いが、崩れるほどではない。

赤茶けた水からも少し離れている。


カイが手を差し出す。


私はその手を取り、慎重に進んだ。


月白草らしき葉の前に膝をつく。


見れば見るほど、乾燥標本に似ている。

ただし、かなり弱っている。

葉は小さく、根元も細い。


群生ではない。

たった三株。


三株だけ。


「抜きません」


私は自分に言い聞かせるように言った。


マーサ婆さんがうなずいた。


「ええ。抜いてはいけません」


(採れば証拠になる。でも、採ったら終わる。この子たちは最後の株かもしれない)


私は葉に顔を近づけた。


匂いを確かめる。

かすかに、あの乾燥花と同じ清涼感がある。


間違いない可能性が高い。


でも、確証にはもう少し欲しい。


私は指先を伸ばしかけた。


カイが即座に言う。


「リディア様」


「触らないわ」


「本当に?」


「……葉には触らないわ」


「地面にも触らないでください」


「厳しいわね」


「あなた相手には必要です」


私は小さく笑った。


仕方なく、採取棒で周囲の落ち葉を少しだけ動かした。


根元を見る。

赤茶けた水の流れから、わずかに高い位置に生えている。

そこへ、石の隙間から透明な水が染み出していた。


「湧き水……?」


私は目を凝らした。


赤茶けた採石場の水とは別に、石の奥から澄んだ水がほんの少しだけ出ている。


それが、月白草の根元を湿らせている。


「カイ様、ここです」


「何ですか」


「赤い水とは別の、澄んだ水が残っています」


カイが石の隙間をのぞき込む。


「本当だ。細いが、流れている」


マーサ婆さんが杖を握りしめた。


「昔の水脈が、まだ生きているのですか」


「可能性はあります」


私は胸の奥が熱くなるのを感じた。


月白草が残っている理由。

赤茶けた水のそばで、三株だけ生き延びていた理由。


それは、ここにわずかな清水が残っているからだ。


(終わっていない。水も、草も、まだ完全には死んでいない)


嬉しさで、思わず緑脈視を使いそうになる。


だが、その前にカイが言った。


「魔法は使わないでください」


「まだ何も言っていないわ」


「顔に出ています」


「そんなに?」


「はい」


マーサ婆さんまで、にこりと笑った。


「リディア様は、草を見ると目が変わりますね」


「……そうかしら」


「ええ。薬師もそうでした。良い草を見つけた時の顔です」


少し恥ずかしくなった。


でも、ここは我慢する場面だった。


魔法で確認したい。

月白草の根の状態、葉の弱り方、清水との関係を見たい。


けれど、今の私が無理をすれば、カイだけでなく村の人たちに余計な不安を与える。


(やさしさのためにきつくするなら、自分にも少しはきつくしなきゃね)


私は深く息を吐いた。


「魔法は使いません」


カイが少しだけ驚いた顔をした。


「本当に?」


「本当よ」


「……意外です」


「失礼ね」


「実績が」


「それはもう聞いたわ」


私はノートを開いた。


月白草らしき株、三株。

赤茶水から離れた石陰。

澄んだ湧水あり。

採取せず。

保護優先。

周囲を踏まない。

目印設置。


「ここを囲います」


「柵を作るのですか」


「簡単なものでいいわ。踏まないための目印です。それから、赤茶けた水が流れ込まないように、小さな溝を切ります」


カイがすぐに地形を見た。


「大きく動かすのは危険ですね」


「ええ。水の流れを変えすぎると、月白草も枯れるかもしれない。今日は応急だけ。赤い水が強い雨で入り込まないように、石を少し置く程度にします」


マーサ婆さんが静かにうなずく。


「守るのですね」


「はい。これは売る草ではありません」


私は月白草を見た。


「少なくとも今は」


◇


帰り道、私たちは三つのものを持ち帰った。


赤茶けた採石場の水。

月白草の周囲の落ち葉と土を、ごく少量。

そして、月白草の存在を示す記録。


月白草そのものは採らなかった。


証拠としては弱い。

けれど、根を守るにはそれしかなかった。


村へ戻ると、セリナが駆け寄ってきた。


「リディア様!」


「北畑はどうだった?」


「三つ目の区画、昨日より葉が立っていました! 村長さんも見ました」


村長が後ろから歩いてきた。


「確かに、昨日よりはましでしたな。まし、というだけですが」


「それで十分です」


私はセリナの木片を受け取った。


昨日より、印が丁寧になっている。

葉の角度を示す線も増えていた。


「とてもいい記録ね」


セリナの顔が明るくなる。


「月白草は、ありましたか?」


私は一瞬、答えに迷った。


広場には村人たちがいる。


価値のある薬草が見つかったと広まれば、期待が高まりすぎる。

あるいは、誰かが先に採りに行くかもしれない。


守るためには、言葉を選ぶ必要がある。


「それらしい株を確認しました」


私は慎重に言った。


「でも、とても少ないの。だから、今は採りません。場所も広めません」


セリナはすぐにうなずいた。


「守るんですね」


「ええ。守ります」


村長が目を細めた。


「徴税官への切り札にするのでは?」


「切り札にします」


「採らずに?」


「採らずに、です」


村長は難しい顔をした。


「また面倒なことを言いなさる」


「薬草を差し出して終わりにするのではなく、薬草を育てる計画を示します」


カイが補足した。


「月白草の自生地が残っているなら、村には薬草資源としての価値がある。だが採れば消える。だから保護と増殖を条件に、納税の延期または薬草納品計画を提案する、ということです」


私はカイを見た。


「説明が上手くなったわね」


「あなたの話を何度も聞かされていますから」


「それは褒めているの?」


「半分は」


「残り半分は?」


「話が長い、です」


「……少し気をつけるわ」


村長が低く笑った。


「カイ様も、ずいぶん言うようになりましたな」


「この方相手には、言わないと通じません」


「ひどいわ」


セリナがまた小さく笑った。


けれど、その笑いはすぐに消えた。


「でも、リディア様。三日後、ベルトラム様は分かってくれるんでしょうか」


その問いに、私はすぐには答えなかった。


分かってくれる。


そう言えば、セリナは安心するかもしれない。

でも、それはたぶん嘘だ。


ベルトラムは分かろうとしないだろう。

彼は村の価値を、人の命ではなく、帳簿の数字で見る。


だから、期待する相手を間違えてはいけない。


「分かってくれるとは限らないわ」


セリナの表情が曇る。


私は続けた。


「でも、分からないまま奪わせるつもりもありません」


「どうするんですか?」


「分かる形にして突きつけます」


「突きつける……」


「ええ。月白草の保護計画、薬草管理台帳、農具修理計画、種の保護理由、井戸水と水路の異常記録。全部まとめます」


私はノートを掲げた。


「ベルトラム様が見ないと言うなら、見なかったことを記録する。分からないと言うなら、分からないまま差し押さえたことを記録する」


村長が杖を鳴らした。


「相変わらず、陰湿な戦い方ですな」


「村長、そこは知的と言ってほしいわ」


「知的で陰湿ですな」


「悪化しました」


カイが横で言った。


「正確ではあります」


「カイ様まで」


少しだけ笑いが起きた。


その笑いの中で、私は月白草の記録を机に広げた。


そして、新しい見出しを書く。


月白草保護計画。


目的。

採取ではなく保護。

自生地の秘匿。

赤茶水からの流入防止。

増殖試験。

薬草納品による将来的な納税案。


ペンを進めながら、私は胸の奥で小さく祈った。


祈りと言っても、神にではない。


土に。

水に。

三株の月白草に。

そして、この村に。


(お願い。あと少しだけ、持ちこたえて)


◇


その夜。


屋敷の一室で、私は月白草の記録を整理していた。


カイは向かいの椅子に座り、赤茶水の小瓶を見ている。

マーサ婆さんは、乾燥月白草を布に包み直していた。


「この花を、徴税官に見せるのですか」


カイが尋ねた。


「見せます。ただし、自生地の場所は言いません」


「聞かれたら?」


「答えません」


「相手は王都の役人です」


「知っています」


「強引に探すかもしれない」


「だから、先に保護対象として記録します」


私はノートを指した。


「自生地を荒らせば、薬草資源が失われる。つまり、将来の納税可能性を徴税官自身が壊すことになる。そういう形にします」


カイは少し黙り、それから言った。


「あなたは、相手が嫌がる言い方をよく分かっていますね」


「研究費の申請で鍛えられたの」


「研究費?」


「前世の話よ」


「詳しくは聞かないでおきます」


「その方がいいわ。あまり楽しい話ではないもの」


研究費。

申請書。

成果報告。

予算削減。

役に立つかどうかを、数字で示せと言われ続けた日々。


あの頃は、それが嫌だった。


でも今、その経験が役に立っている。


皮肉なものだ。


(無駄だった時間なんて、本当は少ないのかもしれないわね。使い方が見つかっていなかっただけで)


マーサ婆さんが静かに言った。


「リディア様」


「はい」


「月白草を、売らずに守ると言ってくださって、ありがとうございます」


私は手を止めた。


「お礼を言われることではありません。薬草を守らなければ、村が困ります」


「それでもです」


マーサ婆さんは、乾燥した白い花をそっと撫でた。


「昔の薬師は、よく言っておりました。薬草は、人より先に土地の不調を知る、と」


「いい言葉ですね」


「ええ。ですが、誰も聞かなくなりました」


その声には、長い年月の寂しさがあった。


「水路が赤くなり、白い花が消え、子どもが熱を出し、畑が枯れる。今思えば、月白草は最初に声を上げていたのかもしれません」


私は黙って聞いていた。


薬草は声を出さない。

でも、消えることで知らせることがある。


その場所が変わったこと。

水が変わったこと。

人が見落としていること。


「なら、今度は聞きます」


私は言った。


「月白草がまだ三株残っているなら、それは土地が完全には死んでいないということです」


マーサ婆さんの目が潤んだ。


「……そう言っていただけると、救われます」


カイが窓の外を見た。


「完全には死んでいない、か」


「ええ」


私はノートを閉じた。


「この村も同じです」


その時、扉が強く叩かれた。


三人とも顔を上げる。


入ってきたのは、見回りの兵だった。


「カイ様!」


「どうした」


「北の水路近くで、人影を見たとの報告です。村の者ではありません」


空気が一瞬で変わった。


カイが立ち上がる。


「数は?」


「二人。暗くてはっきりしませんが、採石場の方へ向かったようです」


私の手が、ノートの上で止まった。


採石場。

赤茶水。

月白草の近く。


まさか。


(早すぎる。誰かが、月白草のことを聞いた? それとも、採石場の何かを隠しに来た?)


カイが剣を取った。


「護衛を集める。すぐ確認に行く」


「私も行きます」


「駄目です」


即答だった。


「でも」


「夜です。危険です。あなたは今日、長く歩いています。連れていきません」


カイの声は硬かった。


いつものぶっきらぼうではない。

明確な拒否だった。


私は反論しようとして、口を閉じた。


行きたい。

自分の目で見たい。

月白草が危ないなら、すぐ確認したい。


でも、今の私は疲れている。

夜の森で足手まといになる可能性がある。


(ここで無理を通すのは、優しさじゃない。ただの我がままだわ)


私は息を吐いた。


「分かりました。行きません」


カイが少し驚いた顔をした。


「本当に?」


「本当よ」


「……助かります」


「その代わり、お願いがあります」


「何ですか」


「月白草の場所には不用意に近づかないで。足跡と、触られた跡を見てください。それから、赤茶水の小瓶と同じ匂いがするものがあれば、布に包んで持ち帰って」


カイはうなずいた。


「分かりました」


「あと」


私は少し迷ってから言った。


「無茶はしないで」


カイが一瞬、目を丸くした。


それから、少しだけ口元を緩める。


「あなたに言われるとは」


「私も成長しているの」


「記録しておきます」


「やめてちょうだい」


カイは剣を腰に差し、部屋を出ていった。


扉が閉まる。


部屋には、私とマーサ婆さん、そして月白草の記録だけが残った。


外では、兵たちの足音が慌ただしく響いている。


私は窓の外を見た。


夜の森は、黒く沈んでいる。

その奥に、三株の月白草が眠っている。


そして、誰かがそこへ近づいている。


徴税官が来るまで、あと二日。


けれど、問題は待ってくれない。


私はノートを開き、震えそうになる指で一行を書いた。


夜間、北水路付近に不審者二名。

目的不明。

月白草自生地および採石場との関連を確認要。


書き終えると、胸の奥が静かに冷えた。


(やっぱり、この土地の問題はただの自然現象じゃないかもしれない)


赤茶けた水。

壊された水門。

消えた薬草。

王都の業者。

そして、夜の不審者。


点が、また増えた。


まだ線にはならない。


でも、確実に誰かの影が見え始めていた。


第8話を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、月白草の自生地を発見し、薬草資源として守る方針が固まりました。

しかしその夜、北の水路付近に不審者が現れます。次回は、月白草と採石場をめぐる“人為的な影”が少しずつ見え始めます。

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