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第5話 記録は、弱い者の武器になる

第5話です。

王都から徴税官が来るという知らせを受け、リディアは村の状況を“泣き言”ではなく“記録”としてまとめ始めます。

今回は、リディアが村人たちを巻き込みながら、初めてこの村のために戦う準備をする回です。

「記録で戦う、ですか」


カイ・レヴィンは、私の言葉を繰り返した。


声は落ち着いている。

けれど、その目には疑いが残っていた。


無理もない。


剣でもない。

魔法でもない。

兵でもない。


王都から来る徴税官を前にして、私が用意しようとしているのは、土の色、水の匂い、畑の変化を書き留めた記録だった。


それだけで相手を止められるのか。


そう思うのは当然だ。


「ええ。記録で戦います」


私はノートを胸に抱え直した。


「もちろん、記録だけで相手が優しくなるとは思っていないわ」


(むしろ、優しさだけで動く役人なら、こんな時期に税を取りに来たりしない)


カイは少しだけ眉を動かした。


「なら、なぜ記録を?」


「言い訳に見せないためです」


「言い訳?」


「畑が枯れました。水が悪いです。子どもが倒れました。だから税は払えません。……これだけでは、王都の役人には泣き言として処理されるわ」


村長が杖を鳴らした。


「実際、向こうはそう見るでしょうな。辺境の民は、すぐに苦しい苦しいと言う、と」


声には苦味があった。


何度も経験してきたのだろう。


助けを求めても、報告書の上では“現地対応可能”と片づけられる。

畑が枯れても、村人が減っても、王都の書類の上ではただの数字になる。


私は村長を見た。


「だから、数字と事実にします」


「ふむ」


「どの畑が、いつから枯れたのか。どの井戸水に異常があるのか。どの家で体調不良が出ているのか。水路が崩れた後、何が変わったのか。村に残る種と食料はどれくらいか」


私は一つずつ指を折った。


「それを記録します。感情ではなく、事実として」


カイが腕を組む。


「徴税官が、それを読んで納得すると?」


「納得はしないでしょうね」


「では」


「でも、無視はしづらくなります」


私は静かに言った。


「記録があれば、後から責任を追えるわ。徴税官がこの村の状況を知っていながら無理に税を取った、という形にできます」


村長が目を細めた。


「……王都の人間が一番嫌がるものですな。責任の所在というやつは」


「ええ。彼らは村人の涙には鈍いかもしれません。でも、自分の名前が悪い記録に残ることには敏感です」


カイはしばらく黙っていた。


そして、短く息を吐く。


「あなたは、王都の人間を信用していないのですね」


「王都の人間全部を疑っているわけではないわ」


私は少し考えてから、言葉を続けた。


「でも、弱っている人の声を聞かずに済ませる仕組みは、信用していません」


(前世でもあった。現場の異常より、報告書の体裁が優先されることが)


研究室でも、似たようなことはあった。


苗が枯れている。

データがおかしい。

現場では異変が起きている。


それなのに、上に出す報告では、都合の悪い部分が丸められる。

失敗は“想定内”。

異常は“軽微”。

現場の声は“感情的”。


そのたびに、胸の奥が冷たくなった。


だから私は、記録を信じる。


誰かの声が消されそうな時、記録だけは残せるから。


「カイ様」


「何ですか」


「村の人を集めてください。できれば、家ごとに一人ずつ。字が書けなくても構いません」


「何をするつもりです」


「村の状態を、村の人自身に話してもらいます」


村長が顔をしかめた。


「村の者に、またつらい話をさせるのですか」


「はい」


私は正面から答えた。


村長の目が鋭くなる。


「お優しい言葉ではありませんな」


「優しいだけの言葉では、徴税官は止まりません」


私は村長から目をそらさなかった。


「つらいことを言わせるのは、私も嫌です。でも、言わなければ、無かったことにされます」


(きつく聞こえる。でも、ここで曖昧にしたら、この村の苦しさはまた紙の外に追い出される)


村長は黙った。


長い沈黙のあと、彼は深く息を吐いた。


「……分かりましたぞ。ただし、村の者を責めるような聞き方は許しません」


「もちろんです」


「泣いた者を急かすことも」


「しません」


「話したくない者に無理強いも」


「しません。でも、話せる人には話してもらいます」


村長は杖を軽く鳴らした。


「やはり、優しいのかきついのか分からぬお嬢様ですな」


私は少しだけ笑った。


「両方でいたいのかもしれません」



村の広場に人が集まったのは、昼前だった。


広場といっても、中央に古い井戸と、使われなくなった荷車が置かれているだけの小さな場所だ。

それでも村人たちは、家ごとにぽつぽつと集まってきた。


顔色の悪い母親。

腕の細い老人。

まだ幼い子どもを背負った若い女。

畑仕事で手がひび割れた男たち。


誰もが、不安そうに私を見ていた。


王都から追放された令嬢。

昨日、薬草でノエルを支えた女。

井戸水を沸かせと言った女。

そして今度は、村の苦しさを話せと言い出した女。


信用しきれないのも当然だ。


私は荷車の横に立ち、村人たちを見渡した。


「皆さんに、お願いがあります」


ざわめきが少しだけ静まる。


リディア・フォルスティアとして、私は一応貴族令嬢だ。

本来なら、こういう場で話す作法もあるのだろう。


でも、今は社交の場ではない。


飾った言葉はいらない。


「明後日、王都から徴税官が来ます」


その言葉だけで、空気が重くなった。


誰かが小さく「またか」とつぶやいた。


「今の村に、予定通りの税を納める余裕がないことは分かっています。ですが、ただ“払えません”と言うだけでは、王都は聞かないでしょう」


村人たちの目が伏せられる。


悔しさ。

諦め。

怒り。


その全部が、広場に沈んでいた。


「だから、記録を作ります」


私はノートを掲げた。


「どの家で、何が足りていないのか。どの畑が使えないのか。井戸水を飲んだ後に体調を崩した人がいるのか。子どもたちがどこで赤い実を拾ったのか。それを、一つずつ書きます」


一人の男が低い声で言った。


「そんなものを書いて、税が軽くなるのか」


「分かりません」


私は答えた。


男の表情が険しくなる。


「分からないのにやるのか」


「はい」


私はうなずいた。


「分からないから、やるのです。何もしなければ、村の苦しさは“納税遅れ”という一言で終わります。でも記録があれば、少なくとも“なぜ払えないのか”を示せます」


男は唇を噛んだ。


「王都の連中が、そんなものを見ると思うか」


「見ないなら、見なかったことを記録します」


ざわめきが止まった。


私は続けた。


「徴税官の名前、到着時刻、見せた資料、返答。すべて書きます」


(怖いことを言っている自覚はある。でも、弱い側ほど、曖昧にされてはいけない)


カイが少し離れた場所で、こちらを見ていた。


何も言わない。

ただ、必要ならすぐ動ける位置にいる。


村長が前に出た。


「皆の者。話せることだけでよい。嘘は言うな。大げさにもするな。だが、隠すな」


その声は年老いていたが、不思議と広場によく通った。


「わしらは、泣き落としをするのではない。事実を並べるのだ」


村人たちの間に、少しだけ空気が変わった。


リディアが言うより、村長が言う方が届くこともある。


(やっぱり、この人は村の根だわ。頑固で曲がっているけれど、まだ折れていない)


最初に前へ出てきたのは、セリナだった。


「私、話します」


その声は少し震えていた。


でも、目は逃げていない。


「ノエルのことと、赤い実のこと。あと、井戸水の苦い日がいつから増えたか、覚えています」


「ありがとう、セリナ」


私は膝を少し曲げて、彼女と目線を合わせた。


「急がなくていいわ。思い出せるところから話してちょうだい」


セリナはうなずいた。


「井戸水が苦いって、最初に言ったのはお母さんでした。去年の秋です。でも、その前から、畑の北の方では麦が細くなっていました」


私はノートに書く。


去年の秋。

井戸水の苦み。

畑北側の麦、前年から生育不良。


「赤い実は?」


「今年の春から、子どもたちが拾うようになりました。きれいだから。食べた子はいないと思ってたけど……小さい子は分かりません」


「分かったわ」


私は書きながら、胸の奥が重くなるのを感じた。


赤い実は今年の春から目立った。

井戸水の苦みは去年の秋。

畑の異常はその前。


順番が少し見えてきた。


(畑の異常が先。水質変化が次。赤い実は環境変化の結果かしら。でも、子どもへの危険は別問題ね)


次に話したのは、畑を持つ中年の男だった。


彼は最初、怒ったような顔をしていた。

けれど話し始めると、声が少しずつ沈んでいった。


「北畑は、三年前の大雨のあとから悪くなった。最初は端だけだった。水がたまる場所ができてな。そこを避けて植えれば何とかなった。だが、去年は半分。今年はもう、ほとんど駄目だ」


「使った種の量は覚えていますか」


「細かくは分からん」


「大体でいいわ」


「去年の倍はまいた。だが、収穫は半分以下だ」


村人たちがうつむく。


それは数字として重い。


種を倍使い、収穫が半分。

つまり、村は食料だけでなく、次の種まで失っている。


私はノートに線を引いた。


「種の残りを確認したいわ」


男が苦い顔をした。


「見て楽しいものではないぞ」


「楽しいかどうかではありません。必要だから見るの」


男はしばらく黙り、それから小さくうなずいた。


「……分かった」


次々と村人が話した。


井戸水を飲むと腹を下す日がある。

洗濯物に赤茶けた染みがつくことがある。

北の水路近くでは、山羊が水を飲みたがらない。

畑の端に見慣れない草が増えた。

古い薬草の群生地が消えた。

小さな子どもが赤い実を集めて遊んでいた。


一つ一つは、小さな話だ。


でも、並べると見えてくる。


村は、突然壊れたのではない。

少しずつ、少しずつ、弱っていた。


そして誰も、それを一枚の絵として見ていなかった。


(病気の森と同じね。葉だけ見ても分からない。根だけ見ても足りない。全体を見ないと、原因は逃げる)


私は書き続けた。


手が少し痛くなる。

インクがにじむ。

紙質もよくない。


でも、止めなかった。



昼過ぎ、私たちは北畑へ移動した。


昨日作った小さな実験区画には、村人たちが集まっていた。


一つ目。

何もしなかった土は、白く乾いたまま。


二つ目。

草地の土を混ぜた場所は、表面の白さが少し薄い。


三つ目。

藁を敷き、灰を少し混ぜ、生き残っていた草を移した場所。


そこでは、草の葉が昨日よりはっきりと立っていた。


小さな変化だ。

王都の人間なら、見落とすかもしれない。


けれど、毎日畑を見てきた村人たちは違った。


「あれ……枯れてねえ」


「昨日より、葉が起きてる」


「水もやってないのに」


村長が杖を握り直した。


「……まぐれ、というには少々困りますな」


私は小さく首を振った。


「まだ成功とは言えません」


村人たちがこちらを見る。


「この草が一日持っただけです。畑が戻ったわけではありません。麦が育つとも言えません。だから、喜ぶのはまだ早いわ」


空気が少し沈みかける。


でも、私は続けた。


「でも、悪い結果ではありません」


その一言で、村人たちの目に少し光が戻った。


「この区画では、土の表面を守り、白い土を薄め、植物の根が動ける条件を作りました。少なくとも、この草はそれに反応しています」


男が尋ねた。


「つまり、続ければ畑が戻るのか」


「戻る可能性があります」


「可能性か」


「ええ。私は嘘の約束はしません」


私は男を見た。


「でも、可能性があるなら、試す価値はあります」


村長が低くうなずいた。


「希望を売るのではなく、仕事を増やすおつもりですな」


「その通りです」


私は少し微笑んだ。


「希望は無料ではありません。土を運び、藁を敷き、水の流れを見て、毎日記録する必要があります」


村人たちは顔を見合わせた。


楽な話ではない。

だが、何をすればいいか分からない絶望よりは、ずっとましだ。


カイが前に出た。


「作業を分けます。北畑の区画管理、井戸水の煮沸、赤い実の見回り、種の残量確認。それぞれ担当を決める」


声は硬く、短い。

でも、村人たちは自然に耳を傾けた。


カイは命令に慣れている。

そして、現場で必要な指示が分かっている。


「リディア様」


「何かしら」


「区画管理は、誰に任せますか」


私は周囲を見た。


畑の男たち。

村長。

セリナ。

何人かの若い村人。


その中で、一番真剣に草を見ていたのは、セリナだった。


「セリナ。できる?」


セリナは驚いた顔をした。


「私ですか?」


「ええ。水をやりすぎないこと。葉の角度を見ること。土の白さを毎朝見ること。変わったことがあれば、すぐに教えてちょうだい」


「でも、私、畑のことはそんなに……」


「だからいいの」


私は彼女にノートの端を見せた。


簡単な印を描く。


丸。

三角。

線。

葉が立っている。

葉が寝ている。

土が白い。

土が湿っている。


「字が全部書けなくても、印で残せるわ。観察は、賢い人だけのものではありません」


セリナの目が揺れた。


「私にも、できますか」


「できるわ」


(この子には、ただ助けられる側でいてほしくない。動ける力があるなら、渡してあげたい)


「怖ければ、村長に一緒に見てもらって」


村長が目を丸くした。


「わしですか」


「ええ。村長は疑うのが得意ですから、記録係に向いています」


カイが横を向いた。


肩が少し震えている。


笑いをこらえているのだろう。


村長は顔をしかめた。


「ずいぶんな評価ですな」


「褒めています」


「褒められた気がしませんぞ」


「疑う人がいると、記録は強くなります。都合のいいことだけを書かずに済みますから」


村長は黙った。


やがて、ふん、と鼻を鳴らす。


「そこまで言うなら、見てやりましょう。まぐれかどうか、わしが確かめます」


「お願いします」


セリナが村長を見る。


「村長さん、一緒にお願いします」


村長は一瞬だけ困った顔をした。


「……子どもに頼まれては、断りにくいですな」


その場に、小さな笑いが生まれた。


ほんの少しだけ。

でも、確かに空気が軽くなった。



夕方、レヴィン家の古い屋敷に戻った私は、机の上に記録を並べた。


畑の記録。

井戸水の聞き取り。

赤い実の発見場所。

北水路の略図。

村の食料と種の残量。

体調不良者の一覧。


紙は足りない。

インクも心もとない。

字もところどころ乱れている。


それでも、昨日までなかったものが、ここにある。


村の苦しさが、形になった。


カイは机の向こうで、それらを一枚ずつ見ていた。


「これを徴税官に見せるのですね」


「ええ」


「素直に受け取るとは思えません」


「受け取らせます」


「強気ですね」


「弱気で税が減るなら、いくらでも弱気になるわ」


カイが少しだけ口元を緩めた。


「あなたは時々、貴族令嬢らしくありません」


「残念ながら、中身は研究者なの」


「それは、かなり納得しています」


私はノートを閉じた。


体は重い。

頭も少し痛い。

でも、昨日のような消耗とは違う。


今日は、村が少し動いた。

セリナも、村長も、畑の男たちも。


それが嬉しかった。


(私一人では無理。でも、一人でやらなくていい形を作れれば、村は少しずつ動ける)


カイがふと、真面目な顔になった。


「リディア様」


「何かしら」


「徴税官ベルトラム・ガノンは、甘い相手ではありません」


初めて聞く名前だった。


「知っているの?」


「何度か来ています。丁寧な言葉を使いますが、村人を人として見ていない。書類上の数字しか見ない男です」


「そう」


「あなたにも、かなり失礼なことを言うでしょう」


「王都では慣れているわ」


「慣れていいことではありません」


その言葉に、私は少しだけ瞬きをした。


カイは視線をそらさない。


「あなたは、強い言葉に慣れすぎている」


「……そうかしら」


「そうです」


短い断定。


なぜか、胸に少し刺さった。


(慣れている、か。そうね。慣れたふりは、ずいぶん上手になったかもしれない)


王都で無能と言われた時も。

婚約破棄された時も。

植物魔法を笑われた時も。


私は平気な顔をした。


研究者時代もそうだった。

成果を軽く扱われても、予算を削られても、悔しくない顔をした。


でも、平気だったわけではない。


ただ、止まる余裕がなかっただけだ。


「カイ様」


「何ですか」


「明後日、私が言い返しすぎたら止めてくれる?」


カイは少し考えた。


「内容が正しければ止めません」


「正しくても、言い方が悪い時は?」


「それは……努力します」


「頼りにしているわ」


「不安しかありません」


そう言いながらも、カイの声は少し柔らかかった。


その時、扉が叩かれた。


入ってきたのはセリナだった。


手には、小さな木片を持っている。

そこには、丸や線の印がいくつも刻まれていた。


「リディア様。今日の分、書いてきました」


「もう?」


「はい。村長さんが、曲がってるとか薄いとか、ずっと文句を言ってきました」


セリナは少し頬を膨らませた。


その言い方があまりに子どもらしくて、私は思わず笑ってしまった。


「見せてちょうだい」


木片には、三つの区画の印があった。


一つ目は白い。

二つ目は少し薄い。

三つ目には、小さな葉の印。


まだ拙い。


でも、立派な記録だった。


「とてもいいわ」


「本当ですか?」


「ええ。これなら、明日の朝と比べられる」


セリナの顔が明るくなる。


「私、明日も見ます」


「お願いね。でも、無理はしないで。ノエルのそばにもいてあげて」


「はい。ノエル、リディア様の薬草のお茶、苦いけど嫌いじゃないって言ってました」


「そう。苦すぎないようにしたから、少し安心したわ」


(よかった。強く煮出さなくて正解だった)


セリナは少し迷ってから、小さく言った。


「あの、リディア様」


「何?」


「村の人たち、まだ怖がっています。でも……今日、少しだけ、何かできる気がしました」


その言葉に、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。


「それは、とても大事なことよ」


「大事?」


「ええ。人は、何をすればいいか分からない時が一番怖いの。少しでもできることが見えると、怖さは少し小さくなるわ」


セリナは木片をぎゅっと握った。


「じゃあ、私、明日も見ます」


「ええ。お願い」


セリナが出ていくと、部屋には静けさが戻った。


カイが木片の記録を見て、ぽつりと言った。


「記録は、弱い者の武器になる」


「ええ」


私はうなずいた。


「声が大きい人だけが勝つわけではありません。残した人が、あとで勝つこともあるの」


カイはその言葉を噛みしめるように黙った。



翌朝。


村は、いつもより少し早く動き出していた。


井戸場では、女たちが水を沸かしている。

子どもたちは赤い実に近づかないよう、互いに声をかけている。

北畑では、セリナと村長が小さな区画をのぞき込んでいた。


村長は相変わらず渋い顔だ。


けれど、その手には昨日より少し丁寧に削られた木片があった。


私はそれを見て、少しだけ笑った。


(疑いながらでも、手を動かしてくれる。十分だわ)


セリナがこちらに気づき、手を振る。


その時、村の入口の方から馬の蹄の音が聞こえた。


一頭ではない。


数頭。


カイがすぐに振り返る。


村長の顔が険しくなった。


やがて、砂ぼこりの向こうから、黒い馬車が姿を現した。


車体には王都財務局の紋章。

磨かれた金具。

泥を嫌うように高く作られた車輪。


馬車が止まると、扉が開いた。


降りてきたのは、小太りの男だった。


濃い香水の匂いが、乾いた風に混じる。

柔らかそうな手袋。

泥道には不釣り合いな、光沢のある靴。

口元には、礼儀正しい笑み。


けれど、その目は少しも笑っていなかった。


男は村を一瞥し、次にカイを見た。

そして最後に、私を見る。


「これはこれは」


彼は大げさに胸へ手を当てた。


「殿下に見限られた令嬢が、辺境で土遊びをなさっていると聞きましたが……どうやら噂は本当だったようですな」


村人たちの空気が凍る。


カイの眉が鋭く動いた。


村長が杖を握りしめる。


私は男を見た。


怒りはあった。

でも、声は荒げなかった。


(いいわ。来たのね。なら、記録の一行目はあなたの名前から始めましょう)


私はノートを開いた。


「お初にお目にかかります。リディア・フォルスティアです」


男は笑みを深めた。


「王都財務局徴税官、ベルトラム・ガノンでございます」


「そうですか」


私はペンを取った。


「では、到着時刻とお名前を記録しますね」


ベルトラムの笑みが、ほんの少しだけ固まった。


「……記録?」


「ええ」


私は静かに微笑んだ。


「この村で起きたことは、これから一つ残らず記録します。もちろん、徴税官様のお言葉も」


風が吹いた。


白い畑の端で、小さな草が揺れる。


ベルトラムは、まだ笑っていた。


でも、その目だけが少し冷たくなった。


戦いは、もう始まっていた。

第5話を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、リディアが村の苦しさを“記録”としてまとめ、村人たちを少しずつ巻き込んでいく回でした。

次回は、王都財務局の徴税官ベルトラム・ガノンが本格的に村を追い詰めます。リディアの記録が、初めて敵に向けられます。


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