↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

26/27

第26話 王都へ持ち帰るもの

完成したばかりの薬草園では、一株の青灯草がしおれ、丸根草には水を与えすぎるという、ささやかではあるものの無視できない失敗が起こりました。


それでもリディアたちは、弱った植物を見るたびに水や肥料を足すのではなく、まず観察し、変えた条件を記録し、植物自身が立ち直る時間を待つことを少しずつ覚え始めています。


そして薬草園が完成して三日目の朝、村では一株の青灯草に小さな回復が見つかる一方、エリオットのもとへ王都から一通の封書が届けられます。


そこに書かれていたのは、彼にレヴィン領を離れて王都へ戻るよう命じる、あまりにも簡潔な帰還命令でした。


朝露がまだ薬草園の葉先に丸く残り、東から差し込む柔らかな光が小さな水滴を宝石のように輝かせる中、私は昨日から気になっていた青灯草の一株の前へ膝をついていた。


昨日の朝には茎まで力なく傾き、上の葉も地面へ向かって垂れていたその株は、表面の固く締まった土だけを少しほぐしてから何も加えずに待ったことで、今朝は一番上の葉をわずかに持ち上げている。


しかも、葉柄の付け根をよく見ると、昨日までは見えていなかった淡い緑色の小さな突起が顔を出しており、それが新しい葉になる可能性は十分にありそうだった。


「……戻ってきてる」


思わず口から漏れた言葉を聞きつけたセリナが、私の肩越しに覗き込もうとして身を乗り出したものの、葉へ触れそうになった自分の手に気づき、慌てて両手を背中へ隠した。


「やっぱり昨日より元気ですよね。触って確かめたいけど、今日は我慢します」


嬉しさを隠しきれない笑顔のままそう言ったセリナを見て、私は葉そのものよりも、彼女が自分から手を止めたことの方に少し驚かされた。


「よく我慢できたわね。昨日までは、気になったらすぐ指で確認しようとしていたでしょう?」


からかうように眉を上げて尋ねると、セリナは少し恥ずかしそうに頬を掻きながらも、すぐに記録板を胸の前へ抱え直した。


「リディア様が、触るのも条件を変えることになるって言ってたから。見るだけでも分かることはあるんですよね」


私は小さく頷き、根元から少し離れたところへ指を差し込み、表面の乾き具合とその下に残っている水分を確かめた。


昨日ほど湿ってはいないものの、根の周囲が完全に乾いているわけでもないため、ここで特別に多く水を与える必要はない。


「今日は他の青灯草と同じ量だけ水をあげましょう。この一株だけ特別扱いすると、昨日の処置が良かったのか、水を増やしたから良くなったのか分からなくなるもの」


私がそう説明すると、セリナは口元をきゅっと結んで真剣な顔になり、昨日の記録の横へ新しい一行を書き加えた。


《上位葉 回復傾向》


《新葉らしき突起を確認》


《追加処置なし》


文字を書き終えた彼女が満足そうに板を持ち上げたところで、背後から杖の先が土を軽く叩く乾いた音が聞こえた。


振り返ると、村長がいつものように背筋を少し丸めながら歩いてきており、こちらへ近づくほど、その視線は私たちではなく青灯草の一株へ吸い寄せられている。


「朝からずいぶん真剣ですな。昨日、わしが植えた株はまだ生きておりますかな」


平静を装っているつもりなのだろうが、杖を握る手に普段より少し力が入っているのを見れば、気にしていたことくらい簡単に分かる。


「自分で見てみたら?」


私が場所を譲ると、村長は小さく咳払いをしながら膝へ手を当て、ゆっくりと腰を落として青灯草へ顔を近づけた。


長い沈黙のあと、昨日より持ち上がった葉を見つけたらしく、眉間に刻まれていた深い皺がほんの少しだけ緩む。


「……昨日よりは、ましになっておりますな」


「かなりね。まだ安心はできないけれど、新しい葉も出そうよ」


私が葉の付け根を示すと、村長は目を細めてしばらく見つめ、それから何事もなかったように杖を支えにして立ち上がった。


「そうですか。それなら、まあ……悪くありませんな」


「嬉しいんでしょう?」


セリナが口元に笑みを浮かべたまま身を寄せて囁くと、村長は背を向けたまま杖で地面を一度だけ強く突いた。


「聞こえておりますぞ」


朝の静かな薬草園に、セリナの小さな笑い声と、村長がわざとらしく咳払いする音が重なった。


◇


その日の薬草園では、青灯草がわずかに回復した一方、昨日ノエルが水を与えすぎた丸根草については、まだ慎重に様子を見る必要があった。


株の周囲に掘った浅い排水溝のおかげで水溜まりこそ消えているものの、木片を土へ差し込んでみると深いところにはかなりの湿り気が残っており、今朝さらに水を加えれば根が息苦しくなる可能性がある。


「今日は水なしね」


私がそう告げると、ちょうど小さな桶を持って現れたノエルが足を止め、まるで大切な仕事を奪われたように唇を尖らせた。


「今日も駄目なの? 昨日いっぱいあげたから、今日は少しくらいならいいと思ったのに」


肩を落とした少年を見ていると、叱るより別の役割を与えた方が覚えやすいだろうと思い、私は薬草園の反対側にある銀葉草の区画を指差した。


「あっちの土を見てきてちょうだい。表面と少し下を比べて、どっちがどれくらい湿っているか教えて」


ノエルの目がすぐに明るくなり、桶を置くと勢いよく走り出しかけたものの、二歩目で自分から速度を落として慎重な歩き方へ変えた。


昨日、芽や種の近くを走らないように言われたことを覚えていたらしい。


(こういう変化は、数字には残しにくいのよね)


けれど、それも確かに村が変わっている証拠なのだと思う。


植物について知識を渡すということは、名称や利用法を暗記させるだけではなく、人の行動そのものが少しずつ変わっていくことなのかもしれない。


◇


ノエルが銀葉草の土を確かめている途中、朝の穏やかな村には不似合いなほど速い馬の蹄音が、北へ続く街道の方角から徐々に近づいてきた。


畑へ向かう途中だった村人たちも足を止め、家々の軒先から顔を出した人々も、何事かと村の入口へ視線を向ける。


薄い土煙の向こうから姿を現したのは、濃紺の外套をまとい、胸元に王家の小さな銀章を付けた騎乗の使者だった。


村長は先ほどまで青灯草を見ていた穏やかな表情を消し、杖の頭へ両手を重ねたまま、遠ざかる馬の背中を厳しい目で追っている。


「王都からですな」


その低い声に、セリナまで記録板を抱える腕へ少し力を込めた。


「エリオット殿下のところですか?」


「おそらくね」


私はそう答えながら、使者が向かった屋敷の方角ではなく、反射的に足元の薬草園へ目を落とした。


昨日と同じ場所に青灯草があり、丸根草があり、まだ芽の出ていない銀葉草の土がある。


王都から誰が来ようと、植物は何も知らずに昨日の続きから今日を始めている。


なのに、人間の側だけは、たった一通の手紙で明日の予定まで変わってしまう。


◇


昼前、私は屋敷の小さな応接室へ呼ばれた。


窓から入る風が薄いカーテンをゆっくり揺らし、机の上に置かれた封書の端を時折わずかに浮かせる中、エリオットは椅子へ座らず窓際に立っていた。


いつもなら人と話す時にも崩れない彼の姿勢が、今日はどこか硬く見える。


カイは扉の近くで腕を組んでいるものの、その灰色の目だけは机の上の封書から離れていなかった。


「王都から帰還命令が来た」


エリオットは余計な前置きをせずそう告げると、手にしていた紙を机へ置いた。


「明朝、この村を発つ」


予想していなかったわけではない。


王子がいつまでも辺境の村に留まり続けられるはずもなく、鉄箱から出てきた文書や、ヴァルターが認めた《殿下確認済》の件を考えれば、むしろ本人が王都へ戻らなければ調べられないことの方が多いだろう。


それでも、明日という言葉を聞いた瞬間、胸のどこかへ小さな空白が生まれたような感覚がした。


「ずいぶん急なのね」


私はその違和感に気づかないふりをして、机の上の帰還命令へ視線を向けた。


「理由は何と?」


エリオットは紙の上端を指で押さえたまま、少し苛立ったように眉を寄せた。


「辺境視察の任を解き、速やかに王都へ帰還せよ。それだけだ」


「それだけ?」


思わず聞き返すと、カイも壁から背を離し、一歩だけ机へ近づいた。


「通常なら帰還理由が記されるのですか」


「少なくとも、王族を呼び戻す以上は会議、報告、軍務、外交のいずれか程度は書かれる。この命令には、それがない」


エリオットの声は落ち着いているものの、紙へ添えた右手の指が無意識に二度ほど机を叩いている。


明らかに、本人も何かを警戒していた。


「命令書自体は本物?」


私が尋ねると、エリオットは一度だけ短く頷いた。


「使者も正規の者で、王家の封蝋にも問題はない」


そう答えながら、彼は机の端へ置いていたもう一通の細い封筒へ視線を移した。


そこで私は初めて、その存在に気づいた。


王家の帰還命令とは違い、その封筒には差出人の名も公的な印章もなく、封を閉じている蝋だけが異様に黒い。


さらにその中央には、細い蔓が絡み合ったような小さな紋様が刻まれている。


胸の奥に、以前どこかで見たものを探そうとする時のような、引っかかりが生まれた。


「それは?」


私が黒い封筒を指すと、エリオットの表情が一瞬だけ固くなった。


「帰還命令とは別に、使者が預かっていた」


「差出人は?」


「ない」


カイが無言のまま机へ近づき、黒い封蝋を横から覗き込むと、目を細めて紋様を確かめた。


「蔓の印……」


その呟きを聞いた瞬間、私は以前見た灰色髪の書記官の指にあった、黒い石へ蔓を刻んだような指輪を思い出しかけた。


ただ、完全には一致しない。


似ている。


それだけ。


だから、私はすぐに同じものだと決めつけなかった。


「中には何が?」


私が尋ねると、エリオットは封筒の中から一枚だけ取り出した紙を指先で持ち上げ、そこに書かれた短い文章を読み返した。


「――“帰還後、まず王太子府へ戻られたし。辺境にて得た記録の提出先については、従来の経路を用いないこと”」


部屋の中から、風の音以外が一瞬消えた。


「従来の経路を使うな?」


私が眉を寄せると、エリオットは紙を折り畳み、黒い封筒へ戻した。


「だから私も意味が分からん。王太子府の人間なら、正式な書式を使えばいい」


カイは腕を組み直しながら、低い声で尋ねた。


「罠の可能性は?」


「ある。逆に、正式な経路そのものが監視されている可能性もある」


「どちらか分からない?」


私が尋ねると、エリオットは苦々しそうに口元を歪めた。


「だから、今から調べに戻る」


その返事は。


少しだけ。


以前の彼とは違って聞こえた。


かつてなら「王命だから戻る」とだけ言っただろう。


今は。


分からないものを。


分からないまま。


確かめに行く。


◇


しばらく沈黙が続いたあと、エリオットは机の上に置かれた帰還命令を指先で整えながら、何かを決めたように私へ向き直った。


「リディア、一つだけ覚えておけ」


いつもの王族らしい強い視線を向けながらも、その声には普段よりわずかに慎重さが混じっている。


「今後、王都から私の名で命令書が届いたとしても、内容をそのまま信用するな」


私は思わず背筋を伸ばした。


「あなたの名前でも?」


「ああ」


三年前。


《殿下確認済》


そう記された文書を。


エリオット本人は見ていなかった。


ヴァルターが、彼の判断を先回りする形で確認済みと書いた。


今後。


また同じことが起こらない保証はない。


むしろ、エリオット自身がその危険を口にするということは、王都へ戻ったあと自分の意思がそのまま外へ届かなくなる可能性まで考えているのだろう。


「もし命令書が届いたら、発行日、印章、届けた人、内容の根拠を確認するわ。それから可能なら、あなた自身にも確認する」


私が一つずつ数えるように指を折ると、エリオットはわずかに口元を緩めた。


「相変わらず面倒な女だ」


「褒め言葉として受け取っておきますわ」


「褒めてはいない」


そう言いながらも、彼の表情には以前のような苛立ちはなかった。


◇


午後、帰還の準備を進めるエリオットは、なぜか北畑へ姿を見せた。


王族用の外套を羽織ってはいるものの、裾が白い土へ触れることなど気にしていないらしく、七本の石豆が育つ第一試験区の前まで来ると、自分から腰を落として一番大きな株を覗き込んだ。


「これが、あの十粒のうちの一つか」


「ええ。今のところ七本とも生きています」


私は隣へしゃがみ、すでに四枚まで開いた本葉を指で示した。


エリオットは葉へ触れようとして手を伸ばしたものの、途中で止めて私の顔を見る。


「触れていいのか?」


その確認があまりにも彼らしくなくて、私は思わず笑った。


「葉を引っ張らないなら」


許可を得た彼は、人差し指の腹で一枚の葉をそっと撫で、その薄さに少し驚いたように眉を上げた。


「ずいぶん柔らかいな」


「若い葉だから。これから陽を受けて、少しずつ硬くなるわ」


エリオットは指を離し、白い畑の中に点々と生える七本の小さな緑を見渡した。


「十粒植えて、七本」


「ええ」


「以前なら、三割も失ったと思っただろうな」


その言葉に、私は彼の横顔を見た。


「今は?」


エリオットは少し考えるように目を細め、土の上へ視線を戻した。


「七本残った、と見ることもできる。ただし、なぜ三本が駄目だったかは調べる」


私は。


思わず笑った。


「ずいぶん研究者っぽくなったわね」


「お前に何日も同じ話を聞かされた結果だ」


不満そうに言いながらも、エリオット自身の口元にはわずかな笑みが残っている。


◇


少し離れた場所では、セリナが第二試験区の状態を記録し、ノエルが札の位置を確かめながら土を踏まないよう慎重に歩いている。


村長は畑の入口で誰かに「そこは試験区ですぞ」と注意し、マーサ婆さんは乾燥させる薬草を入れた籠を抱えながら、その様子を見て笑っていた。


私はエリオットと並びながら、その小さな景色を眺めた。


「この村へ来た最初の日、あなたはこんなものに意味があると思わなかったでしょう?」


私が尋ねると、エリオットはすぐには答えず、セリナが記録板をノエルへ見せながら何か説明している姿を長い間見ていた。


「正直に言えば、思わなかった。国にとって重要なのは収穫量、税収、人口、軍事価値で、一人の少女が土の湿り具合を記録することなど数字にもならないと思っていた」


彼はそう言いながら、胸元の留め具へ無意識に指を添えた。


「今も国を治めるなら、大きな数字を見る必要があるという考えは変わらない」


私は黙って聞いた。


無理に変わる必要はない。


むしろ何もかも突然考えを変える方が信用できない。


「ただ」


エリオットは、白い畑の中で揺れる七本の石豆を見つめた。


「その数字は、こういうものが積み重なった結果なのだろうとは思うようになった」


私は少しだけ驚いた。


それは。


彼にしては。


ずいぶん大きな変化だった。


◇


「王都へ戻ったら、何をするつもり?」


私は石豆の葉を一枚持ち上げ、その裏側に異常がないことを確認しながら尋ねた。


エリオットは立ち上がり、外套についた白い土を手の甲で軽く払ったものの、完全に落とそうとはしなかった。


「鉄箱の文書を正式に調べ直す。北部特別処分区の承認経路、鉱務局と財務側の記録、ルヴァン商会との契約、それから私の名が使われた文書も全部だ」


「ヴァルター様は?」


私が名前を出した瞬間、エリオットの表情が少し硬くなった。


「連れて帰る。今のまま自由に動かすつもりはないが、最初から全責任を彼一人に押しつけるつもりもない」


私は小さく頷いた。


それでいいと思う。


ヴァルターは確かに隠蔽へ関わった。


でも。


三年前の事業すべてを。


彼一人が作ったとは。


まだ証明されていない。


「月白草のことは?」


そう尋ねると、エリオットは遠くの北水路の方角へ視線を向け、しばらく黙った。


「今は詳細を報告しない」


意外な答えだった。


「どうして?」


「珍しい薬草があるとだけ王都へ伝えれば、価値も性質も分からないうちに欲しがる人間が現れる。軍、商人、薬師、貴族――理由はそれぞれ違ってもな」


エリオットは私へ視線を戻した。


「お前が安全性と生育条件をある程度確認するまでは、場所も数も伏せる」


私は。


何も言わず。


彼を見た。


あのエリオットが。


価値のあるものを。


すぐ王都へ持っていかないと言った。


(本当に少しずつ変わるのね)


それが。


嬉しいのか。


不安なのか。


自分でも。


まだよく分からない。


◇


夕暮れが近づく頃、王家の馬車には最低限の荷物が積まれ、翌朝の出発準備がほぼ整っていた。


村の入口を通りかかった私は、馬車のそばで荷物を確認しているエリオットと、その少し離れた場所で二人の護衛に挟まれて立つヴァルターの姿を見つけた。


ヴァルターは以前と変わらない穏やかな表情を浮かべ、こちらに気づくと胸元へ手を添えて丁寧に一礼した。


けれど、その左手の指に嵌められた指輪を見た瞬間、私は足を止めた。


黒い石。


蔓のような模様。


今朝。


黒い封蝋に刻まれていたものと。


よく似ている。


同じ?


距離がある。


断定できない。


私は無意識にじっと見ていたらしい。


ヴァルターが、自分の指輪へ目を落とした。


そして。


ほんの少しだけ。


笑った。


「何か気になりますか、リディア様」


声は穏やか。


いつも通り。


私は視線を彼の顔へ戻した。


「いいえ。少し珍しい指輪だと思っただけです」


「古いものですよ」


ヴァルターはそう答えると、黒い石を隠すように片方の手でもう一方を包み込んだ。


それだけ。


でも。


私は。


覚えておくことにした。


◇


翌朝、村の入口には思っていた以上の人が集まっていた。


淡い朝日が街道沿いの草を照らし、出発を待つ馬が吐く白い息の向こうで、村人たちはそれぞれ少し離れた場所からエリオットの姿を見ている。


最初に彼がこの村へ来た日なら、こんなに多くの人が見送りへ来ただろうか。


たぶん。


来なかった。


村長が杖をつきながら一歩前へ出た。


「殿下。次に来られる頃には、石豆ももう少し増えているはずですぞ」


エリオットは馬の手綱を受け取りながら、わずかに眉を上げた。


「あの硬い豆か」


その言葉を聞いたマーサ婆さんが、籠を抱えたまま眉をぴくりと動かした。


「次は柔らかく煮ますから、覚悟しておきなされ」


「覚悟が必要な料理なのか」


周囲から、小さな笑いが起こる。


その中からセリナが前へ出て、両手で持っていた小さな布袋をエリオットへ差し出した。


「これ、持っていってください」


「何だ?」


「石豆です。食べる方だから、植えないでくださいね」


エリオットは袋を受け取り、中身の重さを確かめるように手の中で一度だけ上下させた。


「なぜ私に?」


セリナは少し照れくさそうに視線を落とし、靴の先で地面を軽く擦った。


「王都へ行っても、この村のこと忘れないように」


エリオットの表情から。


ほんの一瞬。


王子の顔が消えた。


驚いたように袋を見る。


それから。


小さく。


息を吐いた。


「……分かった」


その石豆の袋を。


彼は黒い手紙とは反対側の。


外套の内ポケットへ。


静かにしまった。


◇


最後に、エリオットが私の前へ来た。


朝の風が彼の外套を揺らし、その向こうではヴァルターを乗せる別の馬車の扉が閉じられている。


「リディア」


「何?」


「薬草園を枯らすなよ」


私は思わず眉を上げた。


「植物相手に絶対を要求しないでください。枯れるものは枯れますわ」


「最後までそれか」


呆れたように息を吐いた彼へ、私は少しだけ笑った。


「でも、できるだけ残します。それに、私一人で守るわけでもありませんから」


セリナ。


マーサ婆さん。


村長。


ノエル。


畑の人たち。


みんながいる。


エリオットも。


それを分かっているらしい。


静かに頷いた。


「そうだったな」


彼が馬へ足をかけようとした時、私は不意に胸の奥へ浮かんだ言葉を、そのまま口へ出した。


「エリオット」


彼の動きが止まる。


殿下ではなく。


名前。


久しぶりだった。


私自身。


少し驚く。


「王都で、全部を一度に変えようとしないでね」


エリオットは馬具へ置いていた手を止め、半分呆れたような、半分笑っているような顔で私を見た。


「まず小さく試す。観察する。記録する。原因を考える。もう何度も聞いた」


「なら安心ね」


「誰のせいで覚えたと思っている」


「優秀な先生のおかげでしょう?」


「うるさい研究者のせいだ」


そう言った彼は。


少し。


笑っていた。


◇


馬車と騎馬がゆっくり街道へ出ると、村人たちはそれぞれのやり方で見送りを始めた。


ノエルは両腕を頭の上まで伸ばして振り、セリナも隣で大きく手を振っている。


村長は杖を少し持ち上げ、マーサ婆さんは籠を片腕へ抱え直しながら、空いた手を小さく振った。


私は。


手を振らなかった。


ただ。


遠ざかる背中を。


見ていた。


街道の先で。


エリオットが一度だけ。


振り返る。


私たちを見る。


そして。


王都の方角へ。


向き直った。


その背中が小さくなっていくのを眺めながら、私は昨夜までなら思わなかったことを考えていた。


(ちゃんと戻ってきてちょうだい)


それは。


婚約者としてではない。


王子としてでもない。


たぶん。


この村で。


少しだけ。


変わり始めた一人の人間として。


◇


見送りを終えたあと、私はセリナたちと薬草園へ戻った。


遠くへ去っていく馬車の音が完全に聞こえなくなる頃には、朝の光が薬草園全体へ届き、昨日までしおれていた青灯草の葉を明るく照らしている。


「リディア様!」


先に駆け寄ったセリナが、しゃがんだまま勢いよくこちらを振り返った。


「見てください。新しい葉!」


昨日は小さな突起だったものが。


今朝。


はっきりと。


開き始めている。


私は隣へ膝をつき、葉へ触れないよう少し離れた場所から角度を変えて観察した。


淡い緑色。


傷みなし。


茎。


異常なし。


「本当に出たわね」


「村長さん呼んできます?」


セリナの顔が嬉しさでいっぱいになっている。


「その前に記録」


私がそう言うと、彼女はすぐに記録板を取り出し、昨日の欄の下へ丁寧に文字を書いた。


《青灯草 一株》


《新葉 一枚確認》


書き終えたセリナが満足そうに頷く横で、私は昨日までの経過をもう一度見返した。


植え付け。


しおれ。


土を少しほぐす。


何もしない。


回復。


新しい葉。


たった数日の。


小さな記録。


でも。


そこから一つ。


分かったことがある。


「セリナ」


「はい?」


「この株が弱った時、私たちはすぐ植え直さなかったでしょう?」


「はい」


「水も増やさなかった」


「はい」


「表面だけ少しほぐして、それから待った」


セリナは、開き始めた新しい葉へ視線を落としたまま頷いた。


「じゃあ、次に同じことが起きた時も、すぐ全部やり直さなくていいかもしれない?」


私は。


少し笑った。


「そう。一つだけ、分かったわね」


セリナの顔が。


ぱっと明るくなる。


「一個でも、分かった!」


「ええ」


王都へ。


一人。


戻った。


村では。


一枚。


葉が増えた。


どちらも。


今日だけを見れば。


とても小さな変化だ。


でも。


大きなものほど。


最初は。


こんなふうに。


目立たない変化として始まるのかもしれない。


◇


夜、私はランプの灯りだけが揺れる机へ向かい、今日一日の出来事を順番に記録していった。


《薬草園 三日目》


《青灯草 回復》


《新葉 一枚確認》


《追加処置なし》


《丸根草 深部土壌に水分残存》


《本日灌水なし》


そこまで書いてから、別のページを開く。


植物ではない。


でも。


残しておきたいこと。


《エリオット》


少し。


手が止まった。


それから続ける。


《王都へ帰還》


《帰還命令 目的記載なし》


《差出人不明書簡》


《黒色封蝋》


《蔓状紋様》


そして。


最後。


《ヴァルターの指輪に類似意匠》


私は「同一」とは書かなかった。


まだ。


確かめていないから。


その下へ。


《要確認》


とだけ記す。


さらに、少し迷ってから。


もう一行。


《石豆 一袋持参》


……これは必要なのかしら。


科学的には。


必要ない。


でも。


消さなかった。


机の端には、ノエルからもらった名前の分からない白い花が、小さな瓶の中で少し色を失い始めている。


私は瓶の水を替えながら、窓の外に広がる暗い村を見た。


王都は。


ここからでは見えない。


薬草園も。


夜の闇に沈んでいる。


でも。


見えないところでも。


根は動く。


人も。


きっと。


同じだ。


今日。


エリオットが王都へ持ち帰ったものは。


文書だけではない。


石豆。


村の記録。


小さく試すという考え方。


そして。


この辺境には。


数字に書かれない人たちが。


ちゃんと生きているということ。


それを。


忘れないでいてほしい。


私はノートを閉じた。


その表紙へ手を置きながら。


小さく。


息を吐く。


「……無事に戻ってきなさいよ」


誰にも聞かれない声は。


静かな部屋の中へ。


そのまま。


消えていった。

第26話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、エリオットがレヴィン村を離れ、王都へ戻るまでを描きました。


王都へ届く正式な報告だけではなく、セリナから渡された一袋の石豆や、村人たちが小さな失敗を記録しながら土地を戻している姿も、エリオットの中には残っています。


一方で、帰還命令には明確な目的が記されず、さらに別便として届いた差出人不明の封書には、黒い蝋と蔓のような印が刻まれていました。


そしてその意匠は、ヴァルターが身につけている黒い指輪とよく似ています。


ただし、まだ同じものだとは断定できません。


リディアも答えを急がず、


**「似ている」という事実だけを記録する**


ことを選びました。


その一方、村ではしおれていた青灯草に新しい葉が一枚生まれています。


王都では人が動き始め、辺境では植物が一枚の葉を増やす。


規模は違っても、どちらもまだ始まりにすぎません。


次回は再びレヴィン村へ視点を戻し、エリオットが去った後の薬草園と石豆を中心に、村人たちがリディアの指示を待たずに動き始める姿を描いていきます。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。