第23話 セリナは、自分で葉を選ぶ
第22話では、十粒から始まった石豆のうち七粒が芽を出し、村人たちは久しぶりに一つの鍋を囲んで笑いました。
枯れていた土地が少しずつ変わり始めるのと同じように、リディアのそばで記録を続けてきたセリナにも、小さな変化が生まれています。
今回は、そんなセリナが初めて「リディア様に聞く前に、自分で見て、自分で考える」ことに挑戦します。
「リディア様、ちょっと見てほしいものがあります!」
朝の北畑へ向かっていた私を呼び止めたセリナは、いつもの記録用の木片だけでなく、何かを包んだ布まで大事そうに両手で抱えていた。
「そんなに慌てて、どうしたの?」
私が足を止めると、セリナは少し緊張した顔で布を開き、その中に並べていた三本の草を見せた。
どれも細長い葉を持ち、茎にはうっすらと赤みがあり、先端には小さな白い花がついている。植物に慣れていない人が見れば、おそらく三本とも同じ種類だと思うだろう。
私はすぐに触らず、まずセリナへ尋ねた。
「これは全部、どこで採ったの?」
「家の裏です。三本とも近いところに生えていました」
「根は残してある?」
「はい。前に、葉だけでは分からないこともあるって言ってたから」
布の端を持ち上げると、確かに三本とも根がついたままだった。
以前なら、きっと彼女は「これ、何ですか?」とそのまま私へ聞いていただろう。けれど今日は違うらしい。
「それで、何を見てほしいの?」
分かっていながら尋ねると、セリナは三本を見下ろしてから答えた。
「どれが青灯草なのか、合ってるか見てほしいです」
青灯草は、以前ノエルが熱を出した時にも使った、この土地では比較的よく知られた薬草だ。ただし、見た目がよく似た植物の中には、口にすると体調を崩すものもあるため、私は何度も「分からないものを勝手に薬として使わないこと」と伝えてきた。
「セリナは、どれだと思う?」
私がそう聞き返すと、彼女は驚いたように顔を上げた。
「えっ、リディア様が教えてくれるんじゃないんですか?」
「私が最初に答えたら、あなたが三本も持ってきた意味がなくなるでしょう?」
「でも、間違ってたら……」
「間違ってもいいわ。今は誰かに飲ませるわけでもないし、観察しているだけですもの」
私は三本を地面へ並べ、少しだけ場所を空けた。
「正解を当てる試験だと思わなくていいの。どうしてそう思ったのか、それを教えてちょうだい」
セリナはしばらく黙って草を見つめたあと、右端の一本を指差した。
「……これだと思います」
「理由は?」
「まず葉っぱです。青灯草は、葉の先が少し丸くなるって教わりました。真ん中の草はもっと尖ってるから違うと思います」
「左は?」
「左も先は丸いけど……」
彼女は葉をそっと裏返し、指先を近づけながら観察した。
「青灯草には、葉の裏にすごく細かい毛があるんですよね。でも左の草にはほとんどありません」
私は何も言わずに続きを待つ。
正解を急いで伝えたくなる気持ちはあったけれど、ここで私が口を挟めば、彼女はまた私の言葉を待つ側に戻ってしまう。
「ほかには?」
そう促すと、セリナは今度は茎を比べ始めた。
「右のは赤い筋が一本通ってるけど、左の草は茎全体が赤っぽいです。それと……」
彼女は葉を潰さないように注意しながら、そっと鼻を近づけた。
「青灯草は少し甘い匂いがするって、マーサ婆さんが教えてくれました。右のだけ、少しその匂いがします」
「なるほど。根は?」
セリナは三本の根を見比べ、右の株を指した。
「細い根がたくさん出てる。これも青灯草の特徴ですよね?」
「そうね」
私はようやく右端の株を手に取り、葉、茎、根を順番に確認した。
「正解よ。右が青灯草です」
その瞬間、セリナの顔がぱっと明るくなった。
「本当に!?」
「ええ。葉の形だけで決めずに、葉裏、茎、匂い、それから根まで見たのがよかったわ」
「やった!」
思わず上がった大きな声に、少し離れた場所で作業していた畑の男が振り返った。
「何だ、どうした?」
「青灯草を当てました!」
「何だそれ」
「すごいんです!」
自分で言うのね、と私は少し笑ってしまった。
けれど、そこで終わりにはしない。
「セリナ、一つだけ覚えておいて」
「はい!」
さっきまでの嬉しそうな表情から一転して、彼女は背筋を伸ばした。
「今日みたいに自分で考えるのは、とてもいいことよ。でも、七割くらいの自信しかない時に、そのまま人へ飲ませてはいけません」
「……はい」
「薬草は、正解した時より間違えた時の方が大きな問題になることがあります。だから人の口へ入れる時は、自分の判断をもう一度疑ってちょうだい」
セリナは三本の草を見下ろし、ゆっくりとうなずいた。
「分からない時は使わない。自信がなかったら誰かに聞く」
「そう。でも、自分で見ることまでやめる必要はないわ」
私は右の青灯草を彼女へ返した。
「今日みたいに、自分で観察して、自分で考えて、それから確認する。それでいいの」
「はい」
セリナは草を受け取ると、先ほどより少しだけ胸を張った。
その姿を見ながら、私は小さな満足感を覚えていた。
(私が正解を教えるより、ずっと時間はかかる。でも、この方がきっと残るわ)
知識は、答えだけ渡しても根づかない。
なぜそう考えたのか。
何を見たのか。
そこまで自分の中に残って、初めて次の判断に使えるのだと思う。
◇
その日の午後、北畑では石豆の第二試験を始めることにした。
最初に植えた十粒のうち七本が無事に生育を続けているため、次は少しだけ規模を広げて五十粒を試す。ただし、それでも村に残っている種のごく一部しか使わない。
セリナは区画のそばにしゃがみ込み、昨日までの記録を見ながら水を量っていた。
以前なら、私が「これだけ入れて」と言えば、その通りに水を入れていただろう。
ところが今日は、器を持ったまま手を止めた。
「リディア様、今日はいつもの半分くらいでいいですか?」
私はすぐ答えず、逆に尋ねる。
「どうしてそう思ったの?」
「朝に少し雨が降ったからです。昨日と同じ量を入れたら、土が濡れすぎるかもしれないし、あとで結果を比べる時にも分かりにくくなるかなって」
私は足元の土を見る。
確かに表面はまだ少し湿っている。
「いいと思うわ。今日は半分で試して、そのことも記録しておきましょう」
「はい!」
セリナが嬉しそうに水を量り始める。
その様子を、いつの間にか後ろへ来ていた村長が眺めていた。
「ずいぶん、この子に任せるようになりましたな」
「ええ」
「怖くはありませんか?」
私は少し考えてから、正直に答えた。
「怖いわ。私が全部やった方が早い時もあるし、失敗も少ないかもしれないもの」
村長が意外そうに眉を上げる。
「そこは否定しないのですな」
「でも、私しかできないことばかりになったら、私がここへ来られなくなった時に全部止まるでしょう?」
私は、水を入れる前にもう一度区画を確認しているセリナを見た。
病気になるかもしれない。
怪我をするかもしれない。
王都から何かが起こるかもしれない。
人間がいつまでも同じ場所にいられる保証など、どこにもない。
「だから、私が知っていることを私だけのものにしたくないの」
村長はしばらく黙っていたが、やがて杖に両手を重ねながらぽつりと言った。
「王都から来た学者というのは、昔はもっと難しいことばかり言う者でしたな」
「そうなの?」
「聞いても分からん。分からないと、こちらが無知だから悪いと言われているような気がしておりました」
その言葉に、少し胸が痛んだ。
前世の私は、研究室や学会で専門用語を当たり前のように使っていた。もちろん同じ分野の研究者同士なら、それでいい。
でも、分かる人にだけ伝わればいいという癖は、自分にもなかっただろうか。
「私も気をつけます」
「あなたでも?」
「私だからよ。知っている人ほど、“これくらい分かるでしょう”って思いやすいもの」
村長が少し笑った。
「では、あの言葉も忘れないようにしませんとな」
「どの言葉?」
「分からないのは悪くない。分からないまま決めつけるのが危険、でしょう?」
私は思わず彼を見た。
「覚えていたのね」
「何度も聞かされれば、嫌でも覚えますぞ」
言葉は相変わらず可愛くない。
けれど、その横顔は少しだけ誇らしそうだった。
◇
夕方になる頃には、朝の青灯草の話が村の中へすっかり広まっていた。
ただし、噂というものは途中で少しずつ形を変えるらしい。
最初は、
「セリナが青灯草を見分けた」
だったはずが。
夕方には、
「セリナが薬草師になった」
になっていた。
「なってません!」
本人が必死に否定している。
マーサ婆さんは面白そうに笑いながら、乾燥薬草を束ねていた。
「噂とは、そういうものですよ」
「私、三本の中から一つ選んだだけなのに」
「しかも最後はリディア様へ確認したのでしょう?」
「はい」
「なら、そこが一番立派です」
セリナが不思議そうな顔をする。
「正解したことじゃなくて?」
マーサ婆さんは手を止め、少しだけ真面目な顔になった。
「知ったかぶりをしない人間は、長生きします」
「……それ、褒めてます?」
「最大級にね」
私は横で聞きながら、思わず笑ってしまった。
マーサ婆さんは、やはりいい先生なのだと思う。
◇
日が暮れかけた頃、北畑から戻ろうとしていると、小さな声で呼び止められた。
「リディア様」
振り返ると、セリナの弟のノエルが立っている。
あの夜、高熱で横になっていた時より頬に色が戻り、今ではこうして自分の足で村の中を歩いている。
「どうしたの?」
ノエルは後ろ手に隠していたものを取り出し、少し照れたように差し出した。
小さな白い花だった。
道端でよく見るような、目立たない草花。
「これ、リディア様に」
「私に?」
「お姉ちゃんが、リディア様は草が好きだって言ってたから」
少し離れたところにいたセリナが慌てて声を上げた。
「そんな言い方してない! 植物が好きって言ったの!」
「同じじゃん」
「違う!」
姉弟の言い争いが始まりそうなので、私は先に花を受け取った。
「ありがとう。大事にするわ」
ノエルが嬉しそうに笑ったあと、少し首を傾げる。
「でも、それただの草だよ?」
私は花を見てから、ノエルと目線を合わせるためにしゃがんだ。
「ただの草って、どういう草?」
「えっと……名前が分からない草」
「役に立つかも分からない?」
「うん」
「だったら、“ただの草”じゃなくて、“まだ私たちが知らない草”ね」
ノエルはきょとんとしている。
「同じじゃないの?」
「全然違うわ。“ただの草”って決めたら、そこで興味をなくしてしまうでしょう?」
私は小さな白い花を見る。
「でも、“まだ知らない草”なら、どんな植物なのか調べられるもの」
ノエルも周囲を見回した。
道端。
石垣。
畑の端。
小さな草が、いくつも生えている。
「じゃあ、まだ知らない草って、いっぱいあるね」
「ええ。ものすごくたくさん」
「リディア様、忙しいね」
一瞬。
私は答えに困ったあと、声を出して笑った。
「本当ね」
◇
屋敷へ戻る途中、道の少し先にカイが立っていた。
最近、この時間になると何となく顔を合わせることが増えている気がするけれど、偶然なのか、それとも彼が意図しているのかは聞いていない。
カイの視線が、私の手元へ向いた。
「今日は何をもらったんです?」
「花よ。ノエルから」
「そうですか」
それだけ言って、彼は私の横を歩き始めた。
私は手の中の花を眺めながら、何となく尋ねてみる。
「カイ様は、誰かから花をもらったことはある?」
「あります」
あまりにも普通に返ってきたので、思わず顔を上げた。
「あるの?」
「ありますよ」
「誰から?」
「王都にいた頃、貴族令嬢から何度か」
胸の中に。
ほんの少しだけ。
説明しにくい感覚が生まれた。
痛いわけではない。
腹が立つわけでもない。
ただ。
何となく。
面白くない。
「……人気があったのね」
「昔の話です」
「どんな花をもらったの?」
「覚えていません」
今度は別の意味で驚いた。
「失礼ね」
「興味がなかったので」
「せめて花くらいは覚えてあげればいいのに」
「では」
カイが私の持っている白い花を見る。
「その花は何という名前ですか?」
私は答えようとして、口を閉じた。
「……分からないわ」
「植物博士が?」
「知らない植物くらいあります。むしろ知らないものの方が多いくらいよ」
「それを聞いて少し安心しました」
「どういう意味?」
「何でも知っているように見えるので」
私は手の中の花へ視線を戻した。
「これは、“まだ知らない花”なの」
「まだ知らない花」
カイは一度その言葉を繰り返し、ほんの少し口元を緩めた。
「それなら、俺でも覚えられそうです」
また二人で歩き始める。
けれど。
なぜか。
先ほどの「貴族令嬢から花をもらった」という話だけが、頭の片隅に残っている。
(……どうして気になるのかしら)
原因を考えようとする。
観察。
比較。
仮説。
普段ならそうするところなのに。
今回は。
なぜか調べる気になれなかった。
(これは、研究対象外ということにしておきましょう)
誰に言うでもなく、心の中でそう決めた。
◇
夕食後。
屋敷の廊下を歩いていると、窓辺にエリオットが立っていた。
「殿下?」
「少し聞きたいことがある」
「何でしょう」
「セリナという娘は、お前の弟子なのか?」
私は少し考えた。
「弟子、というほどではありませんわ」
「では何だ」
「一緒に見ている人、かしら」
「曖昧だな」
「そのくらいの方が好きなの」
エリオットは窓の向こうにある村の灯りを見ながら続ける。
「お前なら、王都でも研究官を育てられるのではないか」
また。
王都。
私はすぐには答えなかった。
「勧誘ですか?」
「提案だ。お前の知識をもっと広く使える」
「広く使うことには興味があります」
「なら――」
「でも、広く使うことと、王都へ持っていくことは同じではありませんわ」
エリオットがこちらを見る。
私は窓の外に広がる村を見た。
「セリナが一人で植物を見分けられるようになる。村長が水の記録を見るようになる。畑の人が土の違いを自分で気にするようになる」
小さな変化ばかり。
王都から見れば、数字にすらならないものもある。
「でも、それも知識が広がるということだと思うの」
「小さすぎる」
「最初はね」
「またそれか」
「石豆と同じですわ」
十粒。
七本。
五十粒。
最初から畑一面を変えようとすれば、失敗した時に全部を失う。
知識も同じだ。
一人。
二人。
三人。
確実に根づいた人を増やせばいい。
エリオットはしばらく窓の外を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「私は、大きなものしか見ていなかったのかもしれないな」
私は彼を見る。
「兵の数、税収、収穫量、領地の広さ。国を統治するなら、それを見なければならない」
「ええ。それ自体は間違っていないと思います」
「だが、その数字の中にいる人間まで見えていたかと聞かれると……」
彼はそこで言葉を止めた。
私は答えを与えなかった。
少し前の私なら、たぶん反論していた。
でも。
今は。
自分で考えた方がいいと思う。
「それは、殿下が考えてください」
「答えを教えないのか」
「研究者ですもの。仮説くらい、自分で立てた方が身につきますわ」
エリオットが深くため息をついた。
「本当に、お前は変わった」
私は少しだけ考えたあと、素直に答えた。
「そうかもしれません」
そして。
もう一度。
窓の外を見る。
「でも、前より今の自分の方が好きですわ」
その言葉に、エリオットは何も返さなかった。
◇
夜。
机へ向かい、今日の記録をまとめる。
《石豆第二試験》
五十粒。
朝に降雨あり。
セリナ判断により、水量を通常の半分へ変更。
理由――土壌表面に水分残存。
次。
《青灯草》
セリナ、類似三種より識別。
判断根拠。
葉形。
葉裏の細毛。
茎の赤い筋。
香り。
根形。
私はそこまで書いてから、少し考えて一行を追加した。
《判断に自信がないため、使用前に確認を求めた》
さらに。
その横へ。
《良い判断》
今日。
セリナは正解した。
けれど。
私が一番残しておきたいのは、そこではない。
分からない部分を、分からないと言った。
自分で考えたあとに、確認を求めた。
それは。
植物の名前を一つ覚えるより。
きっと。
ずっと大切だ。
机の端には。
ノエルからもらった白い花を、小さな瓶に挿してある。
まだ。
名前は分からない。
私はノートへ新しい一行を書いた。
《未同定植物 一株》
少し考え。
《ノエルより》
と付け足した。
そこまで書いたところで。
不意に。
昼間の会話が頭へ戻ってくる。
カイ。
王都。
貴族令嬢。
花。
また。
胸の奥に。
小さな違和感。
私はペン先を紙へ近づけた。
何を書こうとしたのか。
自分でも分からない。
数秒。
考えて。
やめた。
「……これは記録しなくていいわね」
原因不明。
再現性なし。
観察対象外。
そういうことにして。
私は灯りを消した。
けれど。
眠る直前。
なぜか最後まで頭に残っていたのは。
青灯草でも。
石豆でも。
エリオットとの会話でもなく。
カイが。
誰かから花をもらったことがある。
という。
研究には。
何の役にも立たない情報だった。
第23話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、セリナが初めて自分の観察から青灯草を見分けました。
重要なのは「正解したこと」だけではありません。
自分で葉や根、匂いを比較したうえで、それでも確信できない部分はリディアへ確認したこと。
リディア一人だけが答えを知るのではなく、村の中に「見る人」「考える人」「分からないと言える人」が少しずつ増え始めています。
そして、リディア自身にも植物とは少し違う、“理由の分からない変化”が生まれ始めました。
次回、第24話では、こうして村に広がり始めた植物の知識を一つの場所へつなぐため、リディアたちが村人みんなで小さな薬草園を作ります。




