第22話 七つの芽と、ひとつの鍋
第21話で、白い北畑へ植えられた十粒の石豆。
価値が低い。
おいしくない。
飢饉の時に仕方なく食べるもの。
そんな扱いを受けてきた小さな豆が、この土地で最初の挑戦を始めました。
けれど、リディアの実験がすべて成功するわけではありません。
十粒すべてが芽を出すわけでもありません。
それでも。
何もなかった畑に現れた小さな緑は、村の空気を少しずつ変えていきます。
最初の芽が出たのは、種を植えてから三日目の朝だった。
「リディア様!」
北畑へ向かって歩いていた私は、遠くから響いてきたセリナの声に思わず足を速めた。
彼女は石豆の試験区の前へしゃがみ込み、何かを見つけた子どものように土を指差している。
そのすぐ隣には、なぜか村長までいた。
「村長、ずいぶん早いのね」
「年寄りは朝が早いものですぞ」
セリナが笑いながら言う。
「村長さん、私が来た時にはもう見てました。たぶん今日三回目くらいです」
「セリナ」
低い声。
「でも本当です」
私は笑いをこらえながら試験区へしゃがみ込んだ。
土の表面に、小さな割れ目ができている。
その中央から、淡い緑色の子葉が二枚、ゆっくり土を押し上げていた。
まだ指先ほどの高さもない。
けれど。
確かに芽だった。
「一つ?」
私が尋ねると、セリナはすぐに別の場所を指す。
「ここにも! それから、あっち!」
二本目。
少し離れたところに三本目。
昨日までは、何もなかった場所。
私はノートを開く。
「最初に見た時から三本?」
「はい。朝六刻より少し前です」
「昨日の夕方には?」
「ありませんでした」
「今朝、水は?」
「まだ入れてません。表面が少し湿っていたから」
よく見ている。
私は思わず笑った。
「いい記録ね」
セリナの顔が嬉しそうに明るくなる。
その隣で村長は、芽へかなり顔を近づけながら眺めていた。
「小さいですな」
「芽ですもの」
「これ、食えるのですかな」
「今食べたら終わりよ」
「冗談ですぞ」
……本当かしら。
◇
四日目には五本。
五日目には七本。
村人たちは朝になると、仕事へ行く前に試験区を覗くようになった。
「今日は増えたか?」
「昨日と同じ七本だ」
「こっちの土、割れてないか?」
「触るなよ。リディア様に怒られるぞ」
最後の言葉だけ、少し気になる。
私は怒っているわけではない。
たぶん。
六日目。
数字は七本のままだった。
「七つですね」
セリナが木片へ印をつける。
「ええ」
十粒のうち。
七粒は発芽。
二粒はまだ変化なし。
そして。
一粒は。
私は発芽しない位置の土を慎重に掘り、種の状態を確認した。
指先で押さえなくても分かるほど、種皮が柔らかく崩れている。
腐っていた。
セリナの表情が曇る。
「一個……死んじゃった?」
「そうね」
私は腐った種を、小さな木片の上へ置いた。
「何が悪かったんでしょう」
「今はまだ分からないわ」
「水が多かった?」
「可能性はある」
「土が悪かった?」
「それもある」
「最初から種が弱かった?」
「ありえるわ」
セリナは少し黙って、黒ずんだ種を見た。
「七つは出たけど、一つは駄目だったんですね」
「ええ」
「……なんか、ちょっと悲しい」
私は彼女の横へしゃがんだ。
「それでいいの」
「いいんですか?」
「駄目になったものを見て残念だと思うのは、悪いことじゃないわ。でも、その気持ちのせいで記録を変えたら駄目」
セリナが私を見る。
「成功した七本だけを書いたら、次に十粒植えた時に、十本全部出ると思ってしまうでしょう?」
「……はい」
「七本出た。一粒は腐った。二粒はまだ分からない。それが今、私たちが知っている全部よ」
セリナはしばらく考えたあと、木片へ丁寧に書いた。
《発芽 七》
《腐敗 一》
《未確認 二》
文字は、まだ少し歪んでいる。
でも。
その三行は、とても正確だった。
◇
七本の芽が出たという話は、予想以上に村人たちを喜ばせた。
「七本も出たのか!」
畑の男が言う。
「七本“も”なのか、七本“しか”なのかは、まだ分からないわ」
「でも、出たんだろ?」
「ええ」
「じゃあ次はもっと植えよう。百くらい」
私はすぐに手を上げた。
「待って」
男が苦笑する。
「また?」
「またです」
周囲から笑いが起きた。
最近。
私が「待って」と言うたび、みんな少し笑う。
不満がなくなったわけではないと思う。
ただ。
以前のように「また駄目なのか」と受け取るのではなく、「次の理由があるのだろう」と待ってくれるようになった。
「次は五十粒です」
「五十?」
「ええ」
「百じゃなくて?」
「この七本が、この先も生きるか分からないもの」
発芽したからといって終わりではない。
ここから、本葉が出る。
根が伸びる。
病気。
虫。
乾燥。
急な雨。
何が起こるか分からない。
「一度芽が出ただけで畑いっぱいに広げたら、また最初から同じ失敗をします」
男は頭を掻いた。
「分かったよ。五十な」
村長が隣で言う。
「最近、皆、諦めが早くなりましたな」
「リディア様を急かしても無駄なのが分かっただけだ」
「人聞きが悪いわね」
「褒めてるんですって」
おそらく。
褒めてはいない。
◇
その日の昼。
マーサ婆さんが、乾燥した石豆の袋を一つ抱えて私のところへ来た。
「リディア様」
「何?」
「育てる話ばかりしていたら、皆、腹が減りますぞ」
そう言って机へ、どん、と袋を置く。
「これは?」
「去年の残り。食べてもよい分です」
「種には使わない?」
「種は別に残してあります」
畑の男も後ろから顔を出した。
「どうせ石豆だしな」
私は彼を見る。
「今、“どうせ”と言った?」
「……悪かったって」
マーサ婆さんは面白そうに笑う。
「せっかく七本も芽を出したのです。今日は、こいつを皆で食べてみてはどうです?」
セリナが首を傾げた。
「石豆を?」
「そう」
「硬いんですよね?」
「硬いです」
「おいしくないんですよね?」
「料理次第です」
「やっぱり、その言い方なんだ」
「セリナ」
マーサ婆さんの声が少し低くなる。
「最近、誰に似たのか本当に口が達者になりましたね」
「リディア様?」
なぜ私。
◇
結局。
村の広場へ、大きな鍋を出すことになった。
ただ豆を食べる。
それだけ。
祭りでもない。
正式な祝いでもない。
それなのに、準備を始めると人が集まってきた。
石豆は朝から水へ浸してあったらしい。
清水枝から取った水を鍋へ入れ、マーサ婆さんが豆を煮始める。
ことこと。
長い時間をかける。
「何を入れるの?」
セリナが鍋を覗き込む。
「丸根草を少し。あとは乾燥した香草と塩」
「肉は?」
「ありません」
「油は?」
「少しだけ」
豪華な料理とは、とても言えない。
豆。
根菜。
香草。
薄い汁。
それでも。
時間がたつにつれ、鍋から少しずつ良い匂いが漂い始めた。
匂いにつられるように、子どもが集まる。
大人も来る。
十人。
二十人。
いつの間にか、広場には村のかなりの人数が集まっていた。
「今日は何かの祝いか?」
誰かが聞く。
村長が答える。
「石豆が七本芽を出した祝い、らしいですぞ」
「たった七本で?」
「わしが言い出したわけではありません」
私は村長を見る。
「私も祝いだなんて言っていないわ」
「皆がそう思えば祝いになります」
……そういうものなのかしら。
◇
豆が十分に柔らかくなった頃。
マーサ婆さんは木の器へ、少しずつ煮込みをよそった。
一人分は多くない。
けれど。
できるだけ全員へ行き渡るように分ける。
最初の一杯を。
なぜか私へ差し出した。
「どうぞ」
「私?」
「言い出しっぺみたいなものでしょう」
「豆を食べようと言ったのはマーサ婆さんよ」
「細かいことはよいのです」
受け取ろうとした、その時。
少し離れた場所に。
ノエルがいた。
セリナの弟。
以前、高熱で横になっていた少年。
今もまだ少し頬は細い。
でも。
今日は自分の足で立ち、他の子どもたちと一緒に鍋を見ている。
私は器を持ったまま呼んだ。
「ノエル」
少年が驚く。
「はい?」
「食べる?」
「え」
母親が慌ててこちらを見る。
「リディア様、でも、それはリディア様の分で」
「私は次をもらうわ」
ノエルは少し迷ったあと、両手で器を受け取った。
「いいんですか?」
「ええ。熱いから気をつけて」
少年が湯気を吹く。
一口。
噛む。
さらに噛む。
なぜか。
村中がノエルを見ていた。
数秒。
少年が言った。
「……硬い」
マーサ婆さんの眉が跳ね上がった。
次の瞬間。
村中から笑いが起こる。
ノエル自身も慌てて続けた。
「でも、おいしい!」
マーサ婆さんの顔が、一気に勝ち誇ったものへ変わった。
「ほら!」
セリナが笑う。
「最初に硬いって言ってたよ」
「そこは聞かなくていいのです!」
笑い声。
子どもも。
大人も。
私も。
久しぶりに。
村の真ん中で。
誰かが失敗したからでも、敵を捕まえたからでもなく。
ただ、豆が少し硬かっただけで笑っている。
(……ああ)
胸の奥が。
少しだけ。
苦しくなった。
嬉しかった。
◇
「あなたの分です」
後ろから、新しい器が差し出された。
カイだった。
「まだ残っていたの?」
「確保しました」
「どうして?」
「あなたは自分の分を誰かへ渡すと思ったので」
私は器を受け取る。
「読まれているわね」
「最近は」
「怖いわ」
「俺はもっと怖いです」
「何が?」
「あなたが食事を忘れることです」
私は反論せず、石豆を一粒口に入れた。
噛む。
……。
「硬いわね」
遠くから。
マーサ婆さんが振り返る。
「だから、料理次第だと言ったでしょう!」
「今のは褒めてないわ」
でも。
よく噛むと。
ほんの少し甘い。
豆らしい香り。
丸根草の柔らかさと。
意外に合う。
「悪くないわ」
そう言うと。
マーサ婆さんが胸を張る。
「でしょう?」
隣でカイも食べている。
私は聞いた。
「カイ様は?」
「硬いです」
「カイ様!」
マーサ婆さんの声。
今度は。
さっきより大きな笑いが起きた。
◇
広場の少し外側。
エリオットが立っていた。
王子の周囲だけ。
まだ、ほんの少し空間がある。
村人たちは彼を嫌っているというより、どう接していいか分からないのだと思う。
私は自分の器を持ったまま近づいた。
「殿下」
「何だ」
「食べないの?」
エリオットが鍋を見る。
「私はいい」
「毒は入っていませんわ」
「そういう問題ではない」
「では?」
少し間。
「村人の食料だろう。王族が取る必要はない」
思っていなかった答えだった。
私はマーサ婆さんへ声をかける。
「まだあります?」
「殿下の一杯くらいなら!」
すぐ返事。
エリオットが少し困ったような顔をする。
私は器を差し出した。
「だそうです」
「なぜお前が配っている」
「ついでよ」
結局。
受け取った。
一口。
表情は変わらない。
私は聞く。
「どう?」
「硬い」
三度目。
今度は。
広場全体が笑った。
エリオットの眉間に皺が寄る。
「何がおかしい」
セリナが笑いながら言った。
「みんな最初に同じこと言うから!」
エリオットは少し不機嫌そうに器を見る。
「事実だろう」
また。
笑い。
王子と。
村人。
その間にあった距離が。
ほんの少しだけ。
小さくなったような気がした。
◇
食事が終わる頃。
畑の男が私のそばへ来た。
「リディア様」
「何?」
「石豆って、案外悪くないな」
「食べられるでしょう?」
「いや、そっちじゃなくて」
彼は北畑の方角を見る。
「俺、今まで麦ができない畑なんて価値がないと思ってた」
私は黙って聞く。
「でも、石豆みたいなやつを育てながら土を戻せるなら、何もできない畑ってわけじゃないんだな」
その言葉が。
今日。
一番嬉しかった。
「ええ」
私は頷く。
「何も育たない土地ではなくて、今の状態に合う植物を私たちが知らなかっただけかもしれないわ」
価値がない。
使えない。
無能。
人は。
分からないものに。
すぐ名前をつける。
でも。
条件が変われば?
使う場所が変われば?
役割が変われば?
同じものが。
違う価値を持つ。
(私も、そうだったのかもしれない)
王都では。
植物魔法は無能だった。
この村では。
それが。
少しずつ。
必要とされ始めている。
◇
夕暮れ。
鍋は空になった。
本当に。
一粒も残っていない。
マーサ婆さんが鍋の底を見ながら、満足そうに言った。
「次は、もう少し柔らかくしますよ」
セリナが即座に返す。
「今日もそうしてくださいよ」
「料理は改善するものです」
私は思わず笑う。
「研究みたいね」
マーサ婆さんは平然と答えた。
「食べて、失敗したら次を変える。似たようなものでしょう」
「……確かに」
意外なところに。
研究者がいた。
◇
日が沈む前。
私はセリナと一緒に石豆の試験区へ戻った。
七本。
まだ。
全部ある。
一番大きな株。
子葉の間から。
新しい本葉。
一枚。
その横にも。
二枚目が開きかけている。
「また増えてる」
セリナがしゃがむ。
「ええ」
「これ、全部育ったらどうする?」
「種を取る」
「その種を、また植える?」
「そう」
「それで、もっと増える?」
「うまくいけばね」
セリナは畑全体を見る。
まだ。
白い。
広い。
七本など。
離れた場所から見れば。
あるのかないのか分からない。
「いつか」
彼女が言った。
「ここ、石豆でいっぱいになるかな」
私は。
すぐには答えなかった。
「そうなればいいわね」
「なります」
迷いのない言葉。
私はセリナを見る。
「今日はずいぶん強気ね」
「だって」
彼女は七本の芽へ視線を戻す。
「一週間前は、一本もなかったから」
その言葉が。
胸へ残った。
一週間前。
ゼロ。
今。
七。
大きな数字ではない。
それでも。
ゼロと七の間には。
確かに。
何かが始まったという差がある。
◇
屋敷へ戻る途中。
カイが隣を歩いていた。
「今日は楽しそうでしたね」
「そう?」
「よく笑っていた」
「カイ様も、いつもより笑っていたでしょう?」
「普通です」
「マーサ婆さんに怒られていたのに?」
「硬いものを硬いと言っただけです」
「正直すぎるわ」
二人で歩く。
夕焼け。
村の方から。
まだ。
誰かの笑い声が聞こえてくる。
カイがぽつりと言った。
「こういう日が増えるといいですね」
私は。
少し考える。
事件がない。
誰も倒れない。
王都から命令書も来ない。
鉄箱も増えない。
ただ。
豆を煮て。
食べて。
笑った。
前の私は。
こんな日を。
重要だと思っただろうか。
研究結果にも。
論文にも。
ならない。
でも。
今は。
違う。
「ええ」
私は答えた。
「増やしたいわ」
「畑を?」
「こういう日を」
カイがこちらを見る。
少しだけ。
目元が柔らかくなった。
「なら」
短く。
「守りましょう」
私は。
すぐに返事ができなかった。
胸の奥が。
少しだけ。
むず痒かったから。
(……本当に、ずるい人)
◇
夜。
ノートへ今日の記録を書く。
《石豆第一試験》
発芽七。
腐敗一。
未発芽二。
本葉形成、一株。
次。
《第二試験準備》
五十粒。
そして。
今日の食事。
石豆の煮込み。
私は。
少し迷った。
研究記録に。
料理を書く必要は。
本来ない。
でも。
そのまま残した。
《村人 約三十名で食す》
さらに。
少し考え。
一行。
《よく笑っていた》
科学的ではない。
測定できない。
比較もしにくい。
でも。
土地が戻るとは。
作物が育つだけなのだろうか。
食卓へ。
人が集まる。
子どもが。
おいしいと言う。
明日の食事を。
少し楽しみにできる。
それも。
再生なのではないか。
私は最後に書く。
《七本の芽は、まだ小さい》
その下。
《ただし、鍋は空になった》
思わず。
少し笑った。
今日の成果としては。
悪くない。
第22話を読んでくださり、ありがとうございます。
十粒植えた石豆のうち、芽を出したのは七粒。
一粒は腐り、二粒はまだ発芽していません。
完璧な成功ではありません。
それでも、何も育たなかった白い畑に七本の緑が現れたことで、村人たちは久しぶりに一つの鍋を囲みました。
土地が再生するということは、畑が緑になることだけではありません。
食卓に人が集まり、笑い声が戻り、「次はもっとおいしくしよう」と明日の話ができることもまた、この村が生き返る一歩です。
次回は、リディアのそばで記録を続けてきたセリナが、初めて自分の目で薬草を観察し、自分の判断を口にします。




