第21話 最初に植えるのは、麦ではない
第20話で、北畑の小さな試験区には新しい葉が現れ、水と土を少しずつ変えていけば、この土地にもまだ植物が育つ余地があることが見え始めました。
けれど、「草が育った」ことと「村人が食べられる作物を作れる」ことは同じではありません。
水が戻り始めた今、最初に何を植えるのか。
村人たちが望んだのは、もちろん麦でした。
しかしリディアが選んだのは、これまで誰からも価値がないと思われていた、小さな豆でした。
「麦を植えよう」
翌朝、村長宅の前へ集まった村人たちの中で、最初にそう言ったのは北畑を預かっている男だった。
「水路にも水が戻ってきたし、試験区の草だって少し元気になったんだろ? だったら、そろそろ麦を植えてもいいんじゃないか」
別の男もすぐに頷く。
「少ししか取れなくても、麦なら粉にできる。冬までに一袋でも二袋でも増やせたら、それだけで違う」
反対する者はいなかった。
それは当然だと思う。
この村に一番足りないものは、珍しい薬草でも、王都へ売れる商品でもない。まず必要なのは、毎日の食卓へ載せられる食料だった。
麦なら保存できるし、粉にしてパンにもできる。長い冬を越すためには、確かに魅力的な選択肢だ。
だからこそ、私は少し言いにくかった。
「……まだ、麦は植えません」
一瞬で、集まっていた人たちの表情が曇った。
村長が杖に両手を重ね、こちらを見ながら深く息を吐く。
「また待てとおっしゃる?」
「ええ」
「水が戻って、草にも新しい葉が出た。それでもまだですかな」
「草が一枚、新しい葉を出しただけです。畑全体が作物を育てられる状態になったとは、まだ言えません」
畑の男が眉を寄せた。
「でも、何か植えなきゃ食えないぞ」
「分かっています」
「じゃあ、何を植えるんだ?」
私は足元に置いていた小さな布袋を持ち上げ、中身を木皿へゆっくりと落とした。
ころころ、と乾いた音を立てながら、小さな茶色い種が十数粒転がる。
誰も喜ばなかった。
むしろ村長の眉間には、さっきより深い皺が刻まれた。
「……石豆ですかな」
「ええ」
畑の男は、はっきりと嫌そうな顔をした。
「それを?」
「それを植えます」
「麦じゃなくて?」
「麦ではなく」
「わざわざ石豆を?」
私は一粒をつまみ上げながら頷いた。
「ええ。わざわざ、石豆を選びます」
◇
石豆は、この辺境では昔から知られている小粒の豆だ。
名前の由来は単純で、石の多い痩せた土地でも比較的育ちやすいから、そう呼ばれるようになったらしい。
ただし、粒は小さく、皮も少し硬い。煮るにも時間がかかり、王都ではほとんど流通していない。
十分な土地と水があり、麦や大粒豆を育てられる農家なら、わざわざ選ぶ理由は少ない作物だった。
村長が皿を覗き込みながら、昔を思い出すように言った。
「石豆など、昔は飢饉の年に食べるものでしたぞ。麦も芋も駄目だった時に、最後に残るのがこいつでした」
マーサ婆さんも横から覗き込む。
「腹は膨れますけどね。ちゃんと煮れば、それなりには食べられます」
セリナが聞いた。
「それなりって、おいしくないって意味ですか?」
「料理次第です」
「それ、おいしくない時に言う言葉ですよね」
「最近、口が達者になりましたねぇ」
私は二人の会話を聞きながら、皿の上の石豆を見た。
「私は味で選んだわけではありません」
少し離れて立っていたエリオットが腕を組む。
「では何だ。市場価値なら麦の方が高いだろう」
「そうでしょうね」
「収量も低い。売値も安い。王都へ運んでも大した金にはならない。それでも石豆を選ぶ理由があるのか?」
私は一粒を指先で転がしたあと、彼へ尋ね返した。
「殿下。今、この村が最初に植える作物に、一番必要なものは何だと思います?」
「収量だ」
即答。
「違います」
「保存性か」
「それも大切です」
「では価格」
「今は、それでもありません」
エリオットが少し苛立った顔をする。
「なら何だ」
私は皿へ種を戻し、村人たちを見る。
「死なないことです」
誰も、すぐには口を挟まなかった。
「今の北畑に必要なのは、たくさん取れる作物ではありません。まず、この土と水の中でも生き残れる作物が必要なの」
私は白い畑の方角へ視線を向けた。
「麦を植えて全部枯れたら、貴重な種まで失います。でも、今の土地で耐えられるものを見つけられたら、その植物を使いながら少しずつ土を戻していけるかもしれない」
畑の男が皿を見つめる。
「だから、石豆?」
「ええ。今この土地に必要なのは、一番価値の高い作物ではなく、一番しぶとく生きてくれる作物だと思うの」
◇
石豆の種を調べる前に、私は村の外れへセリナを連れていった。
水路沿いの少し高くなった斜面に、野生に近い石豆がわずかに残っていたからだ。
背丈は低く、葉も小さい。派手な花もなく、周囲の草に紛れてしまえば、気づかず通り過ぎるような植物だった。
「昨日まで、ここに石豆があるって知りませんでした」
セリナがしゃがみ込んで葉を眺める。
「私も、最初から気づいていたわけではないの」
「リディア様でも?」
「当然でしょう。知らない植物も、見落とす植物もたくさんあるわ」
私は周囲に十分な株が残っていることを確認してから、一株だけ土ごと掘り上げた。
根を切らないよう、少し広めに。
セリナがすぐ横から覗き込む。
「何か見るんですか?」
「根を見たいの」
土をそっと落とすと、細い根のところどころに、小さな丸い膨らみがついている。
セリナの顔が少し曇った。
「病気ですか?」
「たぶん違うわ」
私は指で触れないようにしながら、根を近くで観察する。
前世で見たものと、とてもよく似ている。
豆科植物の根粒。
土の中にいる微生物と助け合い、植物が痩せた土地でも生きやすくなる仕組み。
ただし、ここは異世界だ。
見た目が似ているからといって、同じ働きをすると決めつけるのは危険だった。
「この丸いところが、石豆が痩せた土地でも生きられる理由の一つかもしれない」
「これが?」
「ええ。根の周りには目に見えないくらい小さな生き物がたくさんいて、植物と助け合っていることがあります」
セリナは地面を見下ろした。
「この土の中に?」
「たぶん、たくさん」
「踏んじゃってますけど」
思わず笑ってしまう。
「そのくらいなら大丈夫よ」
後ろにいた畑の男が尋ねた。
「じゃあ、石豆を育てたら土が良くなるのか?」
「その可能性はあります。でも、まだこの石豆が本当に同じ仕組みを持っているのか確認できていないし、この土地でどこまで役に立つかも分からないわ」
男が苦笑する。
「また“可能性”か」
「ええ。だから試すの」
村長が鼻を鳴らした。
「最近、その言葉を聞いても腹が立たなくなってきましたな」
「それは良い傾向ね」
「慣らされた気がしてならんのですが」
◇
最初に行ったのは、畑へ植えることではなかった。
布。
水。
木皿。
そして種。
それだけを机に並べる。
「畑に植えないんですか?」
セリナが不思議そうに聞く。
「まず種そのものが生きているか確かめるの」
倉庫に残っていた石豆の種は古い。
マーサ婆さんが保管していたものもある。
さらに、野生の株から取られた種も少しだけ残っていた。
私はそれぞれを分け、湿らせた布の上へ置いた。
「もし古い種がほとんど死んでいたら、畑へ植えて芽が出なくても、土が悪かったのか種が悪かったのか分からないでしょう?」
セリナが「あ」と声を上げる。
村長も横から覗き込んだ。
「先に種が生きているか確かめる。そうすれば、畑で無駄に種を失わずに済むということですな」
私は思わず村長を見る。
「今、とても素直に納得した?」
「聞き間違いでしょう」
「耳が遠いのは村長の方では?」
セリナが笑った。
◇
午後。
今度は北畑の端に、小さな試験区を四つ作った。
一区画目は、現在の白い土をそのまま。
二区画目は、白い表土を薄く取り除く。
三区画目には、その上で草地から持ってきた土を少し混ぜる。
四区画目は、同じ処置をしたあとに藁を薄く敷く。
灰は入れない。
以前、一時的に良い反応が出たからと灰を加えた結果、翌日から葉先が傷んだ。
その失敗は、今でも私のノートに残っている。
「前と同じことはしません」
私は区画札を書きながら言った。
エリオットが横から聞く。
「全部、良さそうな処置なら一つの畑に全部やれば早いのではないか?」
「それを前回やって、どれが良かったのか分からなくなりかけました」
「……経験済みか」
「ええ。立派な失敗ですわ」
「嬉しそうに言うな」
私は笑った。
「原因が分かる失敗なら、次に使えますもの」
カイが道具を持ちながら、淡々と言った。
「全畑へ広げてから失敗するよりはましでしょう」
エリオットがカイを見る。
「それくらいは分かる」
「なら問題ありませんね」
「お前は最近、私への返事が雑ではないか?」
「気のせいです」
私は二人を横目に見ながら、黙って札を書き続けた。
この二人は、意外なところで似ている。
どちらも言葉が少し硬い。
そして、自分が納得すれば仕事は早い。
◇
種を植える前に、村の倉庫も確認した。
麦。
大粒豆。
石豆。
根菜用の種。
食料用と翌年用を分ける。
非常用の袋には、決して手を出さない。
セリナが数を読み上げる。
「麦、十八袋」
村長が顔をしかめる。
「去年より少ないですな」
「大粒豆、六袋」
「それも冬には食料へ回すかもしれません」
「石豆は……二袋と半分」
畑の男が驚いた。
「そんなに残ってたのか?」
マーサ婆さんが笑う。
「誰も植えたがらなかったからでしょうね」
私は石豆の袋を見る。
誰も欲しがらなかった。
価値が低いと思われていた。
だからこそ、食べ尽くされず、種として残っていた。
(なんとも皮肉ね)
私は袋の一つへ印をつける。
「全部は使いません」
「どれくらい?」
「まず、片手で持てる程度」
男が目を丸くした。
「少なすぎないか?」
「失敗しても痛くない量から始めるの」
「また小さくか」
「ええ」
「いつになったら大きくやるんだ?」
私は少し考えてから答えた。
「小さな成功を、同じ条件でもう一度再現できた時。その次も成功した時。それで初めて広げます」
畑の男はしばらく私を見たあと、肩をすくめた。
「分かったよ。もう急かしても無駄なのは覚えた」
「学習が早くて助かるわ」
◇
翌朝。
私はセリナの声に起こされた。
正確には、扉を何度も叩く音に。
「リディア様!」
まだ眠い。
「……何?」
「出ました!」
私は目を閉じたまま考えた。
何が。
「出たんです!」
「だから、何が?」
「根!」
一瞬で目が覚めた。
私は上着を羽織り、髪もろくに整えないまま扉を開ける。
廊下には、皿を両手で持ったセリナが立っていた。
「見て!」
湿った布の上。
茶色い石豆。
その一粒の種皮が割れ、中から白い根がほんの数ミリだけ伸びている。
「あ……」
小さな声が漏れた。
たった一本。
まだ葉すらない。
でも。
昨日までは、何もなかった。
「どの種?」
「マーサ婆さんが保管してたやつ!」
「倉庫の古い種は?」
「まだです」
「野生の方は?」
「二つ、少し割れそう」
私はすぐにノートを開く。
日付。
時間。
種の種類。
個数。
《マーサ保管石豆 二十粒中 一粒発根確認》
文字を書く手が、いつもより少し速くなる。
セリナが横から私の顔を覗き込んだ。
「リディア様」
「何?」
「嬉しい?」
昨日なら。
たぶん。
まだ結果は分からない、と答えていた。
でも。
今日は。
その白い根を見ていると、そんな言葉を挟む気になれなかった。
「ええ」
私は笑った。
「すごく嬉しいわ」
セリナも笑った。
◇
その日の午後。
発根が確認できたものを含め、最初の十粒だけを北畑の小区画へ植えた。
村人たちも見に来ている。
村長。
マーサ婆さん。
畑の男。
カイ。
そしてエリオット。
私は一粒ずつ、間隔を空けて土へ置く。
「十粒か」
エリオットが言った。
「ええ」
「国の統計なら数字にすら入らない」
「そうでしょうね」
私は一粒へ土をかぶせる。
「そんな小さな試験に、意味があるのか?」
「今のところは、ほとんどありませんわ」
「ないのか」
「十粒だけなら」
次の一粒。
「でも、一粒が育って」
さらに一粒。
「種を取って」
次。
「その種をまた植えて」
最後の一粒へ土をかぶせる。
「それを何度も繰り返せば、いつか十粒ではなくなるでしょう?」
エリオットは、何も植えられていないように見える土を見下ろした。
「効率が悪い」
「最初から百を欲しがって百を失うより、一を十にできる方法を見つけた方が、この村には必要です」
「それでも遅い」
私は少し笑った。
「国だって、最初から何万人もいたわけではないでしょう?」
その言葉に、エリオットが黙った。
後ろで村長が小さく「ほう」と笑う。
カイも、わずかに口元を緩めていた。
◇
夕方。
村人が帰ったあとも、私は十粒を植えた小区画の前に残っていた。
札へ書く。
《石豆 第一試験区》
その横で、セリナがもう一本の札を立てる。
《踏まないで》
私は思わず笑った。
「大事ね、それ」
「村長さんが、子どもが入るかもしれないから絶対書けって」
見ると、少し離れた場所を村長が何も知らない顔で歩いている。
本当に。
変わった。
「今日も最後までいるんですね」
いつの間にか、カイが隣へ来ていた。
「もう終わるわ」
「珍しい」
「信用がないわね」
「実績がありますから」
二人で、まだ何も出ていない土を見る。
「十粒」
カイが言う。
「ええ」
「育つと思いますか?」
私は少し考えた。
「分からないわ」
「そう言うと思いました」
「でも、育ってほしい」
夕方の風が吹く。
乾いた土の匂いの中に、以前にはなかった湿った匂いが混じっている。
カイが畑を見たまま言った。
「もし全部駄目でも、またやるのでしょう」
「ええ」
「十一粒目を?」
私は笑った。
「そうね」
「なら、大丈夫です」
私は彼を見る。
「何が?」
カイは相変わらず畑を見たままだった。
「この村です」
それだけ。
理由は言わない。
でも。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
「カイ様」
「はい」
「今の言葉、覚えておくわ」
「記録はしないでください」
「どうしようかしら」
「本当にやめてください」
笑った。
何も起きない夕方だった。
敵も来ない。
秘密も増えない。
ただ、白い畑の中に十粒の種が眠っている。
まだ芽はない。
成果もない。
けれど。
昨日までは、この畑へ何かを植えることさえ、誰も未来の話だと思っていなかった。
私は土を見ながら、ふと思う。
王都では価値が低いと言われる。
この村でも忘れられていた。
石だらけの土地でしか役に立たない。
そんな小さな豆。
(……なんだか、他人とは思えないわね)
無能。
役に立たない。
価値が低い。
そう呼ばれたものほど、置かれる場所が変われば違う意味を持つことがある。
私は土の中の十粒へ、心の中でそっと語りかけた。
(急がなくていいわ)
ゆっくり根を出して。
この土地がもう一度、生きられる場所なのか。
私たちに教えてちょうだい。
---
第21話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回、リディアが最初の作物として選んだのは、村人たちが望んだ麦ではなく、これまで「価値の低い作物」とされてきた石豆でした。
大量に収穫できることよりも、まずはこの土地で生き残れること。
失敗しても、村の大切な種を失わないこと。
そして、痩せた土を戻す助けになる可能性があること。
そんな小さな理由を一つずつ重ね、白い北畑へ植えられたのは、たった十粒です。
次回は、その十粒が実際に芽を出すのか。
そして、石豆をきっかけに、村に久しぶりの“食べる楽しみ”が戻り始めます。
大量収穫を目指すのではなく、
「まず生き残ること」
「失敗しても種を失わないこと」
「痩せた土でも育つ可能性があること」
を優先します。
そして、白い北畑へ植えられたのは、たった十粒。
次回は、この十粒をきっかけに、村に久しぶりの“食べる楽しみ”が戻り始めます。




