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第20話 戻った水を、まだ畑に入れないで

第20話です。


北部調整槽の水門が戻り、北水路には少しずつ水が流れ始めました。


三年間、待ち続けた水。


村人たちは当然、その水をすぐ畑へ入れようとします。


しかしリディアは――。

「水だ!」


朝。


その声で、私は目を覚ました。


「北の水路に水が来てるぞ!」


続いて、走る足音。


遠くで子どもの声。


窓を開ける。


まだ朝靄の残る村を、人々が北へ向かって走っていた。


昨日。


北部調整槽の水門を戻した。


夜のうちに、古い水路を通ってきた水が村へ届いたらしい。


私は上着を羽織った。


机の上には昨夜のノート。


最後の一行。


《蛙 一匹――戻る兆し》


「……増えていたらいいけれど」


そうつぶやき。


部屋を出た。


◇


北水路の周囲には、すでに人だかりができていた。


「本当に流れてる!」


「昔みたいだ!」


「おい、板を持ってこい! 畑へ引くぞ!」


男たちが、水路横の小さな堰へ集まっている。


その先は北畑。


板を外せば、水が畑側の溝へ流れ込む構造だった。


「待って!」


思わず大きな声が出た。


全員がこちらを見る。


畑の男が笑った。


「リディア様! ちょうどよかった! 水が戻ったぞ!」


「ええ、見えているわ」


「なら早く畑へ――」


「入れないで」


笑顔が止まった。


「……え?」


私は水路へ近づく。


「まだ、その水を畑へ入れないでちょうだい」


男の顔から、喜びが消えた。


周囲もざわつく。


「なんでだ?」


「せっかく水が戻ったのに」


「作物が植えられるんじゃないのか?」


期待していた。


当然だ。


三年間。


水が足りない。


畑が枯れる。


そう思い続けてきた。


ようやく水が来た。


今すぐ畑へ流したい。


その気持ちは分かる。


でも。


「水が戻ったことと」


私は水路を見た。


「その水を安全に使えることは、別なの」


空気が重くなる。


村長が杖をつきながら、人混みを分けてきた。


「また、待てとおっしゃる?」


「ええ」


「三年待って、さらにですかな」


言葉はきつい。


けれど。


以前とは違う。


怒っているのではなく。


理由を求めている。


私はうなずいた。


「水門を切り替えたのは昨日よ。第七坑にたまっていた水や、赤茶けた水がまだ古い水路へ残っている可能性があります」


畑の男が水を見る。


今朝の水は。


昨日より澄んでいる。


だが。


完全な透明ではない。


水路の底には、細かい赤茶色の泥も残っている。


「見た目はきれいだぞ」


「見た目だけでは分からないわ」


私自身。


何度もそう言ってきた。


「この水で畑を洗うつもりが、逆に悪いものを広げてしまうかもしれない」


「じゃあ、どうする?」


畑の男が聞いた。


昔なら。


「また駄目なのか」


だった。


今は。


「どうする?」


私は少しだけ笑った。


「確かめます」


村長がため息をつく。


「結局、そこへ戻るのですな」


「便利でしょう?」


「あなたにとっては」


◇


木の器を五つ用意した。


北水路。


清水枝。


井戸。


昨日まで赤茶けた水が出ていた採石場側。


そして雨水。


色。


匂い。


沈殿物。


簡単に比較する。


もちろん。


これだけで安全性を断定することはできない。


この世界には、水質分析装置などない。


だから。


別の方法も使う。


「草を持ってきました!」


セリナが、小さな鉢を抱えて走ってきた。


北畑の端に生き残っていた丈夫な草。


同じ大きさの株を五つ。


「ありがとう」


「全部同じくらいにしてあります」


「誰が?」


「村長さんと比べました」


私は村長を見る。


「ずいぶん協力的になったのね」


「間違った株を持ってこられては、比較になりませんからな」


「立派な研究助手ですわ」


「助手ではありませんぞ」


セリナが笑う。


「でも昨日、葉っぱの高さを測ってましたよね」


「……必要だっただけですな」


もう一人。


カイが歩いてくる。


「朝から何をしているかと思えば」


「水の比較よ」


彼の手には。


温かい飲み物。


私を見る。


「朝食は?」


「あとで」


「そう言うと思いました」


カップを差し出される。


「飲みながらやってください」


私は受け取った。


昨日と同じ薬草茶。


「ありがとうございます」


「今日はちゃんと寝ましたか」


「寝たわ」


「何刻」


「……三刻くらい?」


カイの眉間に皺が寄る。


「足りません」


「昨日より増えているでしょう?」


「比較対象がおかしい」


後ろから声がした。


「植物だけでなく、自分も記録した方がよさそうだな」


エリオットだった。


朝から。


まだいる。


王都へ戻る予定を延ばし、調査を続けている。


服は昨日より簡素だった。


それでも辺境には似合わない。


「殿下まで早いのね」


「昨夜の騒ぎで寝られると思うか?」


「私は寝ましたわ」


カイが横から言う。


「三刻です」


「カイ様」


なぜ報告する。


エリオットが呆れた顔をした。


「それは寝たとは言わない」


(まさかエリオットにまで注意されるとは思わなかったわ)


「今は私の睡眠ではなく、水の話をしましょう」


「逃げたな」


「聞こえません」


◇


試す方法は単純だった。


同じ土。


同じ草。


水だけを変える。


「これで何が分かる?」


エリオットが尋ねた。


「植物が、どの水を嫌うか」


「安全性が分かるのか?」


「そこまでは言えないわ」


私は答える。


「でも、少なくとも強い生育障害が出る水なら分かる可能性があります」


「植物を検査道具にする?」


「植物に教えてもらう、の方が私は好きね」


五つの鉢。


それぞれへ同じ量の水。


今。


目に見える変化はない。


村人たちは待っている。


一分。


二分。


何も起きない。


畑の男が言った。


「……終わりか?」


「始まったところよ」


「どれくらい待つ?」


「今日いっぱい」


「今日!?」


「できれば数日」


「水をかけただけで!?」


「植物ですもの」


村長が鼻を鳴らす。


「聞くだけ無駄ですぞ。研究者の“すぐ”は、我々と違うようですからな」


「でも植物から見れば、とても早いわ」


「ほら」


笑いが起きた。


小さな。


いつもの笑い。


(いいわね)


こういう時間。


事件が起きていない時間。


誰も剣を抜いていない。


誰も証拠を奪おうとしていない。


ただ。


草がどうなるかを、みんなで見ている。


私はそれが。


思った以上に好きだった。


◇


次は畑。


水を直接流す前に。


小さな区画だけで試す。


北畑のさらに端。


食料を作っていない場所。


一辺が数歩ほど。


「ここを使います」


私は地面へ線を引いた。


「何をするの?」


セリナがしゃがむ。


「土を洗うの」


「洗う?」


「ええ」


白い土。


表面には、まだ塩のような白い膜がある。


「もし白いものが水に溶けやすい成分なら、きれいな水を少しずつ流して、外へ出せる可能性があります」


エリオットが聞く。


「大量に流せば早いのでは?」


「駄目」


「またか」


「大量に流すと、悪い成分が畑の下へ移動するだけかもしれない。それに土そのものが流れるわ」


「少しずつ?」


「ええ」


私は浅い溝を作る。


入口。


試験区。


出口。


流れた水は、食用畑へ戻さず。


小さな受け池へ。


「出口の水を見るのね」


セリナが言った。


私は少し驚いた。


「そうよ」


「最初と最後で色が違うか、見るんでしょう?」


「……正解」


セリナの顔が明るくなる。


村長が言った。


「最近、この子は畑を見る目が細かくなりましたな」


「村長さんが毎日細かいんです」


「間違いは直しておかねば」


二人とも。


変わっている。


私はうれしくなった。


「セリナ」


「はい」


「今日の試験、あなたが記録してくれる?」


「私が?」


「ええ」


「全部?」


「水を入れた時間。量。入口の色。出口の色。土の表面。それから草」


セリナは木片を強く握った。


「やります」


「分からなかったら?」


「勝手に書かないで、聞きます」


私は笑った。


「それでいいわ」


(教えるというのは、こういうことなのかもしれない)


私が全部やるのではない。


私がいなくても。


同じように見る人を増やす。


◇


最初の水を流した。


少量。


水が白い土へ染み込む。


すぐには出口へ来ない。


待つ。


やがて。


ちょろ。


細い流れ。


出口へ出た水は。


少し白く濁っていた。


「白い!」


セリナが声を上げる。


「入口は澄んでたのに!」


畑の男たちも近づく。


「土の白いやつが溶けたのか?」


「可能性はあるわ」


私は器へ出口水を取る。


しばらく置く。


底へ細かな泥。


上には薄い濁り。


「成功?」


セリナが聞く。


私は首を振った。


「まだ」


「ですよね」


セリナが先に答えた。


私は思わず笑った。


「よく分かってきたわね」


「リディア様、すぐ成功って言わないから」


「いいことよ」


村長がぼそり。


「少し面倒なところまで似てきましたな」


「聞こえていますわ」


◇


昼。


朝に作った五つの鉢を見る。


変化が出始めていた。


採石場側の水を使った鉢。


葉が少し垂れている。


北水路。


わずかに下がっているものの、大きな変化なし。


井戸水。


似た程度。


清水枝。


ほぼ変化なし。


雨水。


ほぼ変化なし。


「採石場の水だけ違う」


セリナが言った。


「そう見えるわね」


「じゃあ北水路は安全?」


「そこまでは言えない」


「やっぱり」


少し残念そうにする。


私は笑った。


「でも、悪い結果ではないわ」


「悪くない?」


「少なくとも、この草に対しては採石場側の水ほど強い反応が出ていない」


それだけ。


でも。


大事。


エリオットも鉢を見ている。


「これを続けるのか」


「ええ」


「何日も?」


「ええ」


「効率が悪い」


「だから記録するの」


「意味が分からん」


「同じ失敗を何度もしないためよ」


カイが言った。


「軍でも同じでしょう」


エリオットが彼を見る。


「何が」


「斥候を出す。地形を見る。敵を調べる。いきなり全軍を突撃させない」


エリオットが黙る。


私はカイを見る。


「ずいぶん説明が上手になったわね」


「殿下向けに翻訳しただけです」


エリオットが嫌そうな顔をする。


「お前は私を馬鹿だと思っていないか?」


「思っていません」


カイは即答した。


少し間を置く。


「ただ、植物には詳しくないと」


「それは事実だ」


(この二人、変なところで合うのよね)


◇


午後。


村の中央に。


大きな木板を立てた。


そこへ。


これからやることを書く。


私は村人の前に立つ。


「土地を戻すには、順番が必要です」


木板。


一。


水の流れを戻す。


二。


危険な水を畑へ入れない。


三。


小さな区画で土を洗う。


四。


草や根を使って土を守る。


五。


食用作物は最後。


ざわつく。


やはり。


五番目。


そこがつらい。


「最後なのか……」


「食い物はまだか」


私はうなずいた。


「ごめんなさい」


誤魔化さない。


「私は、来月豊作になりますとは言えないわ」


村人の顔が曇る。


「でも」


私は北畑を指す。


「今までと違うことが一つあります」


誰も口を開かない。


「原因が分からないまま、作物を植えていた」


「枯れた」


「また植えた」


「また枯れた」


「今は」


一。


水を見る。


二。


土を見る。


三。


少し試す。


四。


結果を見る。


「失敗しても、全部を失わない方法を作っています」


村長が静かに言った。


「種を守る、ということですな」


「ええ」


「希望を売るのではなく?」


私は村長を見る。


「結果を積むの」


村長の口元が。


ほんの少しだけ緩んだ。


「それなら」


杖を鳴らす。


「以前よりは信用できますな」


◇


その日の夕方。


事件は起きなかった。


誰も襲ってこない。


王都から命令も来ない。


黒い箱も増えない。


ただ。


北畑で。


午前中に水を通した試験区を見ていた。


白い膜。


朝より。


少し薄く見える。


本当に薄くなったのか。


水で濡れてそう見えるだけなのか。


まだ分からない。


だから。


記録。


「表面白化」


セリナが木片へ書く。


「朝を三本線。夕方を二本線?」


「いいと思うわ。ただし、“減った”と書かないで」


「見た感じだけだから?」


「ええ」


「“少なく見える”?」


「それがいいわ」


書く。


セリナの文字は。


少し歪んでいる。


でも。


読める。


私は試験区の端を見る。


昨日まで寝ていた草。


そのうち一本に。


新しい葉が出ていた。


小さな。


ほんの数ミリ。


「セリナ」


「はい?」


「ここ」


彼女がしゃがむ。


「あ」


目が丸くなる。


「新しい葉?」


「たぶん」


「成功!?」


言いかけて。


自分で止めた。


「……まだですね」


私は笑った。


「ええ」


セリナも笑う。


「でも、記録していい?」


「もちろん」


木片へ。


《新葉らしきもの 一》


その後ろで。


村長が見ていた。


何も言わない。


気づいていないふりをしている。


でも。


明らかに。


口元が少し緩んでいた。


「村長」


「何ですかな」


「うれしい?」


「何をおっしゃる」


「草」


「まだ一本でしょう」


「ええ」


「その程度で喜んでは、後で恥をかきますぞ」


そう言って。


立ち去る。


十歩ほど行ったところで。


畑の男へ声をかけていた。


「おい」


「何だ?」


「あの試験区は踏むでないぞ」


「分かってるよ」


「子どもにも言っておきなされ」


私はセリナを見る。


セリナも私を見る。


二人で。


小さく笑った。


◇


夜。


屋敷の廊下。


自室へ戻ろうとすると。


エリオットが窓辺に立っていた。


「殿下?」


「一つ聞きたい」


「何でしょう」


「お前は」


少し間がある。


「この村を、どこまで戻すつもりだ」


「どこまで?」


「元どおりか」


私は考えた。


「元どおりではないわ」


エリオットがこちらを見る。


「なぜ」


「元どおりにしたら」


窓の外の白い畑を見る。


「また、誰かに水を変えられた時、同じように壊れるでしょう?」


私は続けた。


「だから、前より強くしたいの」


水路を記録する。


土を見る人を増やす。


薬草を育てる。


種を守る。


異常を早く見つける。


誰かの命令だけを信じない。


「土地だけではなく?」


エリオットが聞く。


「村ごと、ですわ」


しばらく。


彼は何も言わなかった。


やがて。


「王都では」


低く言う。


「国を強くするとは、兵と金を増やすことだと教わる」


「間違ってはいないでしょうね」


「お前は違うと?」


「足元が枯れた国に」


私は答えた。


「強い兵だけいても、食べるものがなくなるわ」


エリオットは黙った。


「……私は」


何かを言いかける。


しかし。


やめた。


「いや」


それだけ。


立ち去っていく。


(何だったのかしら)


分からない。


でも。


追わない。


今は。


畑の方が気になる。


部屋へ戻る。


ノートを開いた。


今日の記録。


北水路。


植物試験開始。


採石場側水使用株、葉下垂傾向。


北水路水使用株、大きな変化なし。


土壌洗浄小区画。


出口水、白濁。


夕方、表面白化が少なく見える。


そして。


《新葉らしきもの 一》


私はその一行を。


しばらく見ていた。


派手な奇跡ではない。


王都が驚くような成果でもない。


村を食べさせるには。


何の役にも立たないほど小さな葉。


でも。


昨日はなかった。


今日。


生まれた。


私はノートの端へ。


誰にも見せる予定のない言葉を、小さく書いた。


《うれしい》


そして。


少し恥ずかしくなって。


消そうとして。


やめた。


失敗だけではない。


こういう気持ちも。


残しておいていいのかもしれない。


窓の外。


水路の方から。


小さく。


蛙の鳴き声がした。


一度。


もう一度。


私は顔を上げる。


「……二匹?」


確かめに行きたくなる。


立ち上がり。


すぐに座った。


(今日は、寝ましょう)


少しくらい。


私も学習する。



第20話を読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、水が戻ったからといってすぐに畑へ入れるのではなく、リディアたちが「水そのもの」と「土を洗う方法」を小さな試験から確認し始めました。


セリナは、リディアの指示を待つだけではなく、自分で比較し、記録する側へ成長しています。


そして試験区には、ほんの小さな新しい葉が一枚。


まだ収穫でも、成功でもありません。


けれど、土地は確かに反応し始めています。


次回は、この小さな変化を足がかりに、村で“最初に育てるもの”を決めていきます。


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