第19話 水は、命令では戻らない
何者かによって、再び閉ざされた北部調整槽の水門。
第七坑へ水が流れ込めば、ようやく救い出した地下も、村の水路も再び危険にさらされます。
リディア、カイ、そしてエリオット。
三人は同じ泥の中へ向かいます。
警鐘が鳴り続けていた。
一回。
二回。
三回。
村の中を走る人々の足音。
誰かが家畜を高い場所へ移し、誰かが子どもを家へ戻している。
少し前まで。
何かが起きても、ただ不安そうに立ち尽くしていた村だった。
今は違う。
「北側の溝、板を持っていけ!」
「豆畑には入るな! 水が来るぞ!」
「セリナ、記録板はこっちだ!」
声が飛び交う。
(ちゃんと、自分たちで動いている)
それを喜ぶ暇はなかった。
私たちは北部調整槽へ向かっていた。
先頭はカイ。
その後ろを兵が三人。
私。
そして――
「なぜ殿下まで来るのです」
カイが振り返らずに言った。
「先ほど答えた」
エリオットも走っている。
王族用の上等な外套はすでに脱ぎ、従者へ預けていた。
泥のついた靴は、そのままだ。
「私の名で続けられた事業だ。確認する」
「戦場見物ではありません」
「分かっている」
「危険なら戻ってもらいます」
「お前はいつから私に命令できる身分になった」
「この領内では、危険管理は俺の仕事です」
声が冷たい。
二人とも。
(今ここで張り合わないでちょうだい)
「お二人とも」
私は少し息を切らしながら言った。
「喧嘩をする余裕があるなら、足元を見て」
二人が同時に黙った。
山道の一部から、水が染み出している。
昨日までは乾いていた場所だ。
私は立ち止まる。
「もう水が回っています」
カイがしゃがむ。
「第七坑側へ?」
「たぶん」
断定はしない。
「調整槽の水門が完全に閉じているなら、圧が別の隙間へ逃げ始めている可能性もあるわ」
エリオットが土を見る。
「これだけで分かるのか」
「分かりません」
私は答えた。
「だから、見に行くのですわ」
エリオットは少しだけ眉を動かした。
何か言いかけて。
やめた。
そのまま走る。
◇
北部調整槽には、兵が二人倒れていた。
一人は意識がある。
もう一人は頭から血を流し、地面へ横たわっている。
「動かさないで!」
私はすぐに駆け寄った。
「リディア様」
カイが言う。
「水門は俺が見る」
「お願い」
私は負傷兵のそばへ膝をつく。
呼吸。
ある。
脈。
速い。
頭部に傷。
でも大量出血ではない。
「聞こえますか?」
兵の瞼が動く。
「……はい」
「吐き気は?」
「少し……」
「意識を失った?」
「分かり……ません」
「無理に起きないでちょうだい」
もう一人の兵は肩を押さえていた。
「何があったの?」
「背後から……」
「相手は?」
「見ていません」
「人数は?」
「分かりません。ただ……」
兵は悔しそうに歯を食いしばった。
「水門を見ていた相棒が倒れて、振り向いたら俺も殴られました」
「武器は?」
「棒か……何か」
(目撃なし)
誰がやったか。
今は分からない。
そして、今決める必要もない。
「この二人を村へ運んで」
エリオットの護衛が動こうとする。
私はすぐに言う。
「頭を揺らさないように。板を担架にして」
護衛が一瞬、私を見る。
エリオットが言った。
「従え」
「はっ」
兵たちが負傷者を運ぶ。
私は立ち上がり、水門を見る。
カイがすでに調べていた。
「やはり閉じられています」
「鎖は?」
「新しいものに替えられている」
昨日切った錆びた鎖ではない。
太い鉄鎖。
新しい南京錠。
さらに。
水門の歯車へ、再び白い固まりが詰め込まれていた。
エリオットが顔を険しくする。
「これを一晩で?」
「準備していたのでしょう」
カイが答える。
「誰かが水門を再閉鎖するつもりで」
エリオットがヴァルターの姿を探すように後ろを見る。
だが。
ヴァルターは来ていない。
屋敷へ残っている。
(疑いたくなるでしょうね)
私も同じだ。
でも。
「誰かを捕まえるのは後です」
私は水門の下へしゃがみ込んだ。
「まず流れを戻します」
カイが聞く。
「昨日と同じ方法で?」
「待って」
私は耳を澄ませた。
水門の向こう。
ごう。
ごう。
昨日より音が大きい。
水位が上がっている。
「そのまま開けたら危険だわ」
「なぜ」
エリオットが尋ねる。
「昨日は徐々に切り替えた。でも今は、水門の向こうにかなり水がたまっている」
「なら早く開けるべきだろう」
「一気に開ければ、西の放水路へ大量の水が流れるわ」
「それが目的ではないのか」
「放水路がその量に耐えられる保証は?」
エリオットが止まる。
「……ないな」
「ええ」
私は地図を広げた。
「水を逃がすのは必要。でも、逃がしすぎても駄目」
「面倒だな」
エリオットが言う。
「水は命令を聞いてくれませんもの」
私は地図へ線を引いた。
「だから、道を作ります」
◇
最初に。
西側放水路の下流へ兵を送った。
崩れ。
詰まり。
村側へ水が戻る場所がないか。
確認。
次に。
豆畑近くの古い排水池。
すでに黒い水を一部受けている。
そこにも村人がいる。
勝手に水門へ触れないよう指示。
さらに。
第七坑排気口。
鐘の回数と地下水位の変化を確認。
「ここまで必要なのか」
エリオットが聞く。
私は水門を見ながら答える。
「一か所だけ見て水を動かすと、別の場所で壊れます」
「戦場の補給路と同じか」
思わぬ例えだった。
私は少し考える。
「近いかもしれませんわ」
「なら最初からそう言え」
「植物と水の方が私には分かりやすいの」
「私には分かりにくい」
「殿下に合わせて研究しているわけではありませんもの」
カイが小さく息を吐いた。
笑ったのかもしれない。
エリオットが彼を見る。
「何か?」
「何も」
「今、笑っただろう」
「気のせいです」
(カイ様、村長に似てきたわね)
伝令の兵が戻る。
「西側放水路、途中に枝と泥の詰まりあり! 今、村人が除去しています!」
別の兵。
「排水池はまだ余裕があります!」
さらに。
「第七坑側、鐘は二回! 水位が再び上がり始めています!」
時間がない。
「先に水門を少しだけ開けます」
カイが工具を持つ。
「鎖を切る」
エリオットが言った。
「私もやる」
カイが睨む。
「必要ありません」
「二人の方が早い」
「殿下に怪我をされると面倒です」
「お前が怪我をするのはいいのか」
「仕事ですから」
「なら、これも私の仕事だ」
エリオットが剣を抜いた。
装飾用ではない。
ちゃんと使われている剣だ。
カイは数秒、彼を見た。
「鎖の右側を」
「分かった」
二人が立つ。
カイが一撃。
金属音。
エリオットが続ける。
二撃。
鎖が食い込む。
三撃目。
ばきん。
鉄鎖が落ちた。
ただし。
水門は動かない。
白い固まりが歯車を固定している。
私は近づく。
「ここからは削ります」
エリオットが剣を戻す。
「どのくらい?」
「少しずつ」
「具体的には」
「歯車が一段動く程度」
「一段?」
「昨日、一気に動かしたでしょう?」
「見ていない」
「ああ、そうだったわね」
私は木の道具を差し込んだ。
カイがその手を止める。
「あなたはやらない」
「なぜ」
「昨日から寝ていない」
「少し寝ましたわ」
「一刻も寝ていません」
エリオットがこちらを見る。
「本当か?」
「今それは関係ないでしょう」
「ある」
なぜか二人から責められる。
(この組み合わせ、嫌だわ)
「では、指示だけ出します」
私は少し下がる。
カイと兵が固まりを削る。
エリオットも道具を取った。
上等な手袋が白い粉で汚れる。
額に汗。
袖には泥。
王都の大広間では、絶対に見なかった姿だ。
(本当に来たのね)
少しだけ。
不思議だった。
婚約者だった頃。
私は、エリオットが何を考えているのか分からなかった。
彼も私の植物の話を理解しようとはしなかった。
今は。
同じ水門の前で。
同じ泥に膝をついている。
だからといって。
昔へ戻りたいとは、全く思わない。
それだけは。
よく分かった。
◇
「動きます!」
歯車が鳴る。
ぎ。
ぎぎ。
「止めて!」
私は言った。
全員が手を離す。
水門は、ほんの少しだけ開いた。
隙間から。
水が流れ込む。
最初は細い。
すぐに太くなる。
ごおお。
西側放水路へ水が走る。
「まだ動かさないで!」
私は耳を澄ます。
水音。
地面の振動。
放水路側の石壁。
大きな崩れの音はない。
伝令を待つ。
数分。
長く感じる。
やがて兵が走って戻った。
「下流、流れ確認! 石壁は持っています!」
「詰まりは?」
「除去完了! 水は旧河川側へ抜けています!」
「排水池は?」
別の伝令。
「水位、上昇停止!」
「第七坑!」
「水位上昇が鈍りました!」
よし。
「もう一段」
水門を少し動かす。
待つ。
確認。
さらに一段。
また待つ。
エリオットがじれたように言う。
「一気に開ければ早い」
私は首を振る。
「早く結果が出ることと、早く正しい結果へ着くことは違いますわ」
「……研究者らしいな」
「褒めています?」
「半分だけ」
「十分です」
三度目。
水門を動かす。
ついに。
西側放水路へ、本来の流れに近い量の水が流れ始めた。
同時に。
第七坑側の水音が弱くなる。
伝令が走る。
「鐘、一回です!」
一回。
昨日の合図なら。
作業開始。
あるいは。
了解。
私は息を吐いた。
「流れは戻ったわ」
村人たちから、小さな歓声が上がった。
派手ではない。
疲れた人たちが。
ようやく息を吐いたような声だった。
◇
「終わりではありません」
私はすぐに言った。
歓声が止まる。
村長が苦笑した。
「喜ばせてから落とすのがお好きですな」
「事実ですわ」
私は水門を見る。
「水を戻しただけ。これで畑が明日から緑になるわけではありません」
畑の男が聞く。
「どれくらいかかる?」
「分からない」
正直に答える。
「土に何がどれだけ残っているか。水がどこまで入れ替わるか。季節。雨。全部見ないと」
「一年?」
「もっとかもしれない」
村人たちの顔が曇る。
でも。
昔とは違う。
誰も「なら無駄だ」とは言わなかった。
私は続ける。
「だから、小さく確かめましょう」
「北畑の試験を続ける」
「水路沿いの植物を記録する」
「井戸水も毎日見る」
「食べられる作物をいきなり全部植えない」
セリナが木片へ書く。
村長もそれを見る。
「また記録ですか」
「ええ」
「本当に好きですな」
「村長も最近、確認するでしょう?」
「あなたにうつされたのでしょうな」
私は少し笑った。
エリオットは。
そのやり取りを黙って見ていた。
やがて聞く。
「この者たちに、全部教えたのか」
「全部ではありません」
「では、なぜ動ける」
私は村人を見る。
「自分たちで見ているからですわ」
「自分たちで?」
「私がいなくても続けられるように」
エリオットは何も言わない。
私は続ける。
「誰か一人が正解を持つ村では、また同じことが起きますもの」
王都の命令。
役人。
学者。
商会。
誰かが言ったことを。
ただ信じる。
その結果。
村は呪いを信じた。
だから。
観察する人を増やす。
記録する人を増やす。
疑える人を増やす。
それが。
土地を治すことと同じくらい大事なのだと思う。
◇
昼過ぎ。
水門周辺の安全を確認してから、私たちは村へ戻った。
途中。
北水路のそばで。
私は足を止めた。
「待って」
カイがすぐに振り返る。
「何ですか」
「ここ」
水路の縁。
石の隙間。
昨日までは乾いた白い泥がこびりついていた場所。
そこが。
湿っている。
ほんのわずかに。
透明な水が流れていた。
赤茶色ではない。
完全な清水とも言い切れない。
でも。
以前より明らかに色が薄い。
私はしゃがみ込んだ。
「触らないでください」
カイが言う。
「分かっているわ」
木の器ですくう。
匂い。
鉄臭さは弱い。
濁りも少ない。
「セリナ」
「はい!」
「これも記録して」
「水の色?」
「ええ。時刻も」
セリナが書き始める。
その時。
水路の縁から。
何かが跳ねた。
ぴょん。
小さな影。
「……何?」
セリナが目を丸くする。
石の下へ逃げ込んだ。
小さな蛙だった。
たった一匹。
村長が覗き込む。
「蛙ですな」
「いましたっけ?」
セリナが聞く。
畑の男が首を振る。
「最近は見てねえな。昔は雨の後によく鳴いてたけど」
私は水路を見る。
蛙がいたから安全。
そんな簡単な話ではない。
偶然かもしれない。
どこかから移動してきただけかもしれない。
でも。
生き物が戻ってきた。
それは。
記録する価値がある。
「今日の日付を書いて」
私は言った。
「北水路で蛙一匹確認」
セリナが笑う。
「一匹だけでも?」
「一匹だからこそよ」
私は微笑んだ。
「明日、二匹になるかもしれないでしょう?」
村長が鼻を鳴らす。
「ならんかもしれませんぞ」
「その時は、一匹のままと書きます」
「本当に夢がありませんな」
「村長に言われたくないわ」
周囲から、小さな笑いが起きた。
久しぶりに。
事件と関係のない笑いだった。
エリオットは。
水路を見つめていた。
「こんなことで嬉しいのか」
私は彼を見る。
「ええ」
「蛙一匹だぞ」
「だから?」
「国は救えない」
「今日のところは、それでいいの」
私は水路を見る。
「土地は、王命一つで治らないもの」
「少しずつ戻る」
「そして、戻り始めたことを見逃さない」
(それが私の仕事だわ)
エリオットは黙った。
しばらく。
蛙が消えた石の隙間を見ていた。
◇
夕方。
屋敷へ戻ると。
さすがに体が重かった。
部屋へ入る。
扉を閉める。
誰もいない。
その瞬間。
膝から力が抜けた。
「……はぁ」
椅子へ座る。
手を見る。
震えている。
今さらだった。
水門が壊れた時。
兵が倒れていた時。
第七坑へ再び水が流れ込んでいると聞いた時。
怖かった。
エリオットと話した時も。
婚約を戻すと言われた時も。
ヴァルターのことも。
全部。
(私、思っていたより怖かったのね)
誰かの前では。
判断を止められない。
だから。
怖さを後ろへ置いていた。
今になって。
まとめて戻ってきた。
私は机へ肘をついた。
目を閉じる。
しばらく。
何も考えたくなかった。
こん。
小さな音。
扉が叩かれる。
「リディア様」
カイだった。
私は慌てて背筋を伸ばす。
「何?」
扉は開かない。
「ここに置きます」
「何を?」
「温かい飲み物です」
それだけ。
足音が遠ざかる。
「……入らないの?」
思わず聞いた。
足音が止まった。
扉の向こうから返事。
「今は、一人の方がよさそうでしたので」
私は黙った。
(本当に、この人は)
少しだけ。
泣きそうになった。
悲しいわけではない。
たぶん。
安心した。
「カイ様」
「はい」
「ありがとう」
「休んでください」
「命令?」
「お願いです」
「……分かったわ」
足音が今度こそ遠ざかる。
扉を開ける。
床に。
木のカップが置いてあった。
湯気。
薬草茶。
甘くはない。
いつもの、この土地の味。
私は両手でカップを持つ。
温かい。
窓の外を見る。
遠く。
白い畑。
その向こう。
細い水路が夕日に光っている。
今日。
水が戻った。
蛙が一匹いた。
それだけ。
たったそれだけ。
でも。
昨日まではなかったものだ。
私はノートを開いた。
今日の記録。
北部調整槽。
再閉鎖確認。
負傷兵二名。
水門段階開放。
西側放水路、通水。
第七坑水位、上昇停止。
北水路。
水色改善傾向。
そして。
最後に一行。
蛙、一匹。
そこまで書いて。
少し考える。
その横へ、小さく付け加えた。
――戻る兆し。
(明日も、見に行こう)
大きな勝利ではない。
国も救っていない。
畑もまだ白い。
それでも。
今日は。
水が、ほんの少しだけ。
本来の道を思い出した。
第19話を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、新たな陰謀を追うよりも、再び閉じられた北部調整槽を安全に開き直し、第七坑への水の流入を止めることに集中しました。
エリオットも王子として命令するのではなく、実際に泥の中へ入り、水門を動かす作業へ加わっています。
そして北水路には、小さな蛙が一匹。
土地の再生は、劇的には進みません。
けれど、リディアたちは“昨日までなかった変化”を一つずつ記録し始めます。
次回は、戻り始めた水を使って、村の土地をどう再生していくのか――本格的な再生計画へ進みます。




