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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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9/22

九の巻 うちの忍びさん

 翌朝、雪乃は早く目が覚めた。

 窓の外がまだ暗い時刻だった。昨夜のことを整理しようとしたが、考えが定まらなかった。人形の件、こはくへの狙い、狐火を出しかけたこと、そして最後に交わした言葉。

 雪乃さんは、忍者ですね。

 こはくはそう言った。確信を持って言った。驚いた顔でも、怯えた顔でもなかった。ただ、分かっていたことを口にしただけのような言い方だった。

 今夜は答えられません、と雪乃は言った。

 その言葉は、逃げだったのか。それとも、いつか答えるための準備期間を、自分に与えたのか。

 分からないまま、窓が明るくなった。


 朝の仕込みの時間、こはくはいつも通りだった。

 厨房に入り、出汁を取り、団子の生地を用意する。雪乃が下りてくると「おはようございます」と言い、湯気の立つ茶を出した。昨夜のことは、何も言わなかった。

 雪乃も言わなかった。

 だが、空気が昨日と少し違うことは、二人とも分かっていた。言葉にはしないが、お互いがそれを知っている、という状態だった。

 お銀が台所を通り過ぎながら、雪乃の腕を見た。

「軟膏、塗ったか」

「はい」

「深くないなら問題ない。無理をするな」

 それだけ言って、帳場に向かった。お銀は何も訊かない。昨夜の傷がどこでできたのかも、なぜ縁日の途中で傷を負ったのかも。ただ、治すことだけを言う。

 雪乃はその簡潔さを、ありがたく思った。


 昼前に、鈴音が来た。

 訪ねてきたのではなく、月見庵の前を通りかかったらしい。暖簾をくぐりながら「雪乃さんいる?」と声をかけた。

「います」

「よかった。昨夜、変なことがあったって聞いた。縁日で人形が出たって」

 噂は早い。雪乃は頷いた。

「持ち帰った部品があります」

「見たい。持ってきて」

 雪乃は部屋から昨夜の部品を取ってきた。鈴音は受け取り、その場で調べ始めた。こはくが茶を出した。鈴音は茶を飲みながら、部品から目を離さなかった。

「やっぱり同じだ。またたび湯と猫又亭と、全部同じ人が作ってる。昨夜のは少し小さいけど、設計の思想が一緒」

「昨夜の人形は、特定の相手に向かっていました」

「誰に」

 雪乃はこはくを見た。こはくは雪乃を見た。

「わたしに。来ていたのは、わたしを狙っていました」

「なんで?」

鈴音が訊いた。

「分かりません」

 鈴音はこはくを見て、それから雪乃に視線を向けた。

「雪乃さん、本当に旅人?」

「旅人です」

「嘘だ。昨夜の縁日で手裏剣を投げたって、きゅう太が見てた。きゅう太が教えてくれた」

 雪乃は少し目を閉じた。きゅう太が見ていたなら、もはや言い逃れは難しい。

「……仮に旅人でなかったとしても」

「忍者でしょ」

鈴音はあっさり言った。

「前から思ってたし、雪乃さんの動き方を見れば分かる。忍術と体術を知ってる人の動き方だもん」

「からくりの専門家は、忍術を見分けられるのですか」

「仕組みが気になるので。動きを見てると構造が分かる」

 鈴音は部品を机に置いた。

「別にいいよ、忍者でも。で、こはくちゃんを狙う理由が何かあるってこと?」

「可能性を考えています」

「玄斎、って名前、雪乃さんは知ってる?」

 雪乃は少し止まった。

「なぜその名が」

「岩場の管を調べてたら、痕跡があった。刻み文字が一字だけ残ってて。黒羽の羽、って書いてあった」

 黒羽玄斎。

「その名前、知ってる。うちの師匠の師匠が、昔教わったことがある人で。からくりと忍術を組み合わせた技術を持ってるって、文献に書いてあった」

「鈴音さんの師匠の師匠が」

「会ったことはないけど。すごい人だったって。でも里を出てから行方不明になったって書いてあった」

 里を出た。行方不明。玄斎の経歴と一致する。

「猫又坂の地下に何かある。管の設計を見ると、かなり大規模なものが地下で動いている。温泉の熱を使って何かを動かす仕組みだと思う。規模からすると、建物一つじゃない。もっと大きい」

 鈴音は伝えた。

「町全体の規模ですか」

「そのくらいかもしれない」

 三人は少しの間、黙った。

「わたしの狐火が、それと関係していると思いますか?」

 こはくが訊いた。鈴音が驚いた顔をした。

「こはくちゃん、狐火を使えるの?」

「少しだけ。昨夜、出そうになりました」

「へえ。それって、特殊な熱源になる?」

「なるかもしれません。普通の火より、少し性質が違うので」

 鈴音は考え込んだ。

「地下の仕掛けを起動するための、鍵みたいなもの、かな。普通の火では起動できなくて、狐火のような特殊な力が必要とか」

「だから狙っている可能性がある」

雪乃がそう言うと、こはくは少しの間、黙っていた。自分の力が、何かを動かす鍵になる。それを誰かが利用しようとしている。

「怖いですか?」

雪乃は訊いた。

「少しだけ。でも、怖がっていても仕方がないですね」


 鈴音が帰ったあと、昼の客が来て、雪乃は洗い物と配達をこなした。

 夕方の片付けが終わり、お銀が帳場に引いてから、こはくが雪乃に言った。

「少し話せますか」

「はい」

「裏庭で」

 二人は裏庭に出た。梅の木が夕暮れの中に影を作っている。春の終わりの風が、少し冷たかった。

 こはくは梅の木の根元に立ち、雪乃を向いた。

「昨夜、言いましたね。いつか答えてくれますか、と訊いたら、はい、と言ってくれました」

「言いました」

「今日でもいいですか」

 雪乃は少し間を置いた。

 ここで話すことは、任務の逸脱に当たるかもしれない。こはくに正体を明かすことは、里の規則では禁じられている。だが、こはくはもう知っている。それを雪乃が認めるか認めないかの問題だ。

「……はい」

「雪乃さんは、忍者ですか?」

「はい」

 こはくは少しの間、何も言わなかった。

「猫又坂に来た理由は、任務ですか?」

「はい」

「月見庵を、調べるために来ましたか?」

 雪乃は目を伏せなかった。

「はい」

 沈黙があった。

 雪乃はこはくの顔を見た。こはくは梅の木を見ていた。その横顔が、どういう感情を表しているか、今の雪乃には読めなかった。

「そうでしたか」

 こはくはそれだけ言った。

「ごめんなさい。騙していました」

「騙していた、というか」

こはくは少し考えた。

「最初から正直に言えない事情があったんでしょう」

「そうです。でも、それは言い訳で」

「言い訳でも事実でもどっちでもいいです」

こはくが雪乃の方を向いた。

「雪乃さんが、ここに来てから、本気でここのことを考えてくれていたことは分かっています。またたび湯のことも、きゅう太くんのことも、昨夜の縁日のことも。任務だからやっていたわけじゃないでしょう」

「……全部が任務ではありませんでした」

「それで十分です」

 こはくの声は、穏やかだった。傷ついていないとは言えないと、雪乃には分かった。一瞬だけ、最初に答えを聞いたとき、こはくの目が揺れた。だが、こはくはそれを飲み込んだ。

「月見庵から出ていきますか」

こはくが訊いた。

「出ていくべきかもしれません」

「どうして」

「正体を明かした以上、潜入としての意味がなくなります。お銀さんにも、迷惑をかけてしまった」

「出ていかないでください。任務が終わるまで、ここにいてください」

「こはくさん」

「わたしは怒っていません。びっくりしたけど、怒っていない。それに」

こはくは少し間を置いた。

「雪乃さんがいなくなる方が、困ります」

「困る、とは」

「人手が足りなくなります。あと、寂しいです」

 最後の言葉は、こはくらしくないくらい、素直だった。照れ隠しもなく、からかいもなく、ただそのまま言った。

 雪乃は何も言えなかった。

 言えないまま、少しの間、梅の木と夕空を見ていた。

「……迷惑をかけることになるかもしれません。玄斎がこはくさんを狙っているなら、私がここにいることで、標的になりやすい」

「それは、いてもいなくても変わらないと思います」

「なぜですか」

「玄斎という人が、わたしの力を必要としているなら、わたしがどこにいても狙ってくる。なら、雪乃さんがいた方が、わたしは安心できます」

 論理は正しかった。雪乃には反論できなかった。

「……分かりました。任務が続く間は、ここにいます」

「ありがとうございます」

 こはくは少し表情を和らげた。それからふと、何かを思いついたように言った。

「一つだけ、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「忍者だから、忍術が使えますよね」

「はい」

「うちの裏庭の草むしりも、一瞬でできたりしますか」

 雪乃は少し固まった。

「……できません」

「そうですか」

こはくはにっこりした。

「残念です」

「何が残念なのですか」

「早く終わったら、その分、団子を食べる時間が増えると思って」

「草むしりと団子の関係が分かりません」

「あります」

「どこにですか」

「うちの中では、あります」

 雪乃は反論できなかった。こはくの言う「うちの中」の論理は、雪乃には時々理解できなかった。

 だが、こはくが笑っていることは分かった。さっきまでの穏やかな横顔が、またいつものこはくに戻っていた。

「雪乃さん」

「何ですか」

「忍びさん、って呼んでもいいですか」

「何故ですか」

「だって、忍びさんなので」

「名前で呼んでください」

「じゃあ、こっそりそう呼ばせてください。うちの忍びさん」

「こっそりの意味が分かっていないと思います」

「分かっています。うちの忍びさん」

 雪乃はため息をついた。こはくは笑った。

 夕暮れの裏庭に、梅の葉が揺れた。


 その夜、雪乃は部屋で長い時間をかけて記録を書いた。

 こはくに正体を明かしたこと。こはくが引き止めたこと。引き続き月見庵に留まること。

 書きながら、一つのことを考えていた。

 あやめがいる。満月まで、あと数日だ。あやめに、こはくへの正体開示を報告すべきかどうか。

 報告すれば、あやめはこはくを任務に関係する存在として扱う。こはくの狐火のことも、伝わることになる。

 報告しなければ、里への情報が欠ける。任務の逸脱になる。

 雪乃はしばらく筆を持ったまま、動かなかった。

 昨夜の縁日で、こはくが言った。任務で調べていたなら、それは少しだけ、複雑な気持ちです。

 その言葉を、こはくは飲み込んで、それでも雪乃を引き止めた。

 雪乃は筆を置いた。

 報告の内容を、今夜は決めなかった。決められなかったのではなく、決めなかった。明日、あやめと話してから考える。そう決めた。

 それは、忍びとしての判断ではないかもしれない。

 だが今夜は、そうした。


 眠りにつく前、窓の外を見た。

 月が、ほぼ満ちていた。丸くなりかけた月が、猫又坂の屋根を白く照らしている。

 あやめが来る。期限の話をしに来る。

 雪乃は目を閉じた。

 うちの忍びさん、とこはくが言った声が、頭の中にあった。

 忍びさん。忍びではあるが、さんが付いている。こはくの言い方では、それはただの呼び名ではなくて、どこか大切にしている呼び方に聞こえた。

 里では、雪乃は番号で呼ばれることもあった。名前で呼ばれても、それは役割に付属した名前だった。

 うちの、という言葉が頭に残った。

 月見庵に属している、という意味だ。

 それが雪乃には、なぜか、里に属していたときより自然に感じられた。

 なぜそう感じるのか、考え始めて、眠りに落ちた。答えは夢の中に消えた。

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