九の巻 うちの忍びさん
翌朝、雪乃は早く目が覚めた。
窓の外がまだ暗い時刻だった。昨夜のことを整理しようとしたが、考えが定まらなかった。人形の件、こはくへの狙い、狐火を出しかけたこと、そして最後に交わした言葉。
雪乃さんは、忍者ですね。
こはくはそう言った。確信を持って言った。驚いた顔でも、怯えた顔でもなかった。ただ、分かっていたことを口にしただけのような言い方だった。
今夜は答えられません、と雪乃は言った。
その言葉は、逃げだったのか。それとも、いつか答えるための準備期間を、自分に与えたのか。
分からないまま、窓が明るくなった。
朝の仕込みの時間、こはくはいつも通りだった。
厨房に入り、出汁を取り、団子の生地を用意する。雪乃が下りてくると「おはようございます」と言い、湯気の立つ茶を出した。昨夜のことは、何も言わなかった。
雪乃も言わなかった。
だが、空気が昨日と少し違うことは、二人とも分かっていた。言葉にはしないが、お互いがそれを知っている、という状態だった。
お銀が台所を通り過ぎながら、雪乃の腕を見た。
「軟膏、塗ったか」
「はい」
「深くないなら問題ない。無理をするな」
それだけ言って、帳場に向かった。お銀は何も訊かない。昨夜の傷がどこでできたのかも、なぜ縁日の途中で傷を負ったのかも。ただ、治すことだけを言う。
雪乃はその簡潔さを、ありがたく思った。
昼前に、鈴音が来た。
訪ねてきたのではなく、月見庵の前を通りかかったらしい。暖簾をくぐりながら「雪乃さんいる?」と声をかけた。
「います」
「よかった。昨夜、変なことがあったって聞いた。縁日で人形が出たって」
噂は早い。雪乃は頷いた。
「持ち帰った部品があります」
「見たい。持ってきて」
雪乃は部屋から昨夜の部品を取ってきた。鈴音は受け取り、その場で調べ始めた。こはくが茶を出した。鈴音は茶を飲みながら、部品から目を離さなかった。
「やっぱり同じだ。またたび湯と猫又亭と、全部同じ人が作ってる。昨夜のは少し小さいけど、設計の思想が一緒」
「昨夜の人形は、特定の相手に向かっていました」
「誰に」
雪乃はこはくを見た。こはくは雪乃を見た。
「わたしに。来ていたのは、わたしを狙っていました」
「なんで?」
鈴音が訊いた。
「分かりません」
鈴音はこはくを見て、それから雪乃に視線を向けた。
「雪乃さん、本当に旅人?」
「旅人です」
「嘘だ。昨夜の縁日で手裏剣を投げたって、きゅう太が見てた。きゅう太が教えてくれた」
雪乃は少し目を閉じた。きゅう太が見ていたなら、もはや言い逃れは難しい。
「……仮に旅人でなかったとしても」
「忍者でしょ」
鈴音はあっさり言った。
「前から思ってたし、雪乃さんの動き方を見れば分かる。忍術と体術を知ってる人の動き方だもん」
「からくりの専門家は、忍術を見分けられるのですか」
「仕組みが気になるので。動きを見てると構造が分かる」
鈴音は部品を机に置いた。
「別にいいよ、忍者でも。で、こはくちゃんを狙う理由が何かあるってこと?」
「可能性を考えています」
「玄斎、って名前、雪乃さんは知ってる?」
雪乃は少し止まった。
「なぜその名が」
「岩場の管を調べてたら、痕跡があった。刻み文字が一字だけ残ってて。黒羽の羽、って書いてあった」
黒羽玄斎。
「その名前、知ってる。うちの師匠の師匠が、昔教わったことがある人で。からくりと忍術を組み合わせた技術を持ってるって、文献に書いてあった」
「鈴音さんの師匠の師匠が」
「会ったことはないけど。すごい人だったって。でも里を出てから行方不明になったって書いてあった」
里を出た。行方不明。玄斎の経歴と一致する。
「猫又坂の地下に何かある。管の設計を見ると、かなり大規模なものが地下で動いている。温泉の熱を使って何かを動かす仕組みだと思う。規模からすると、建物一つじゃない。もっと大きい」
鈴音は伝えた。
「町全体の規模ですか」
「そのくらいかもしれない」
三人は少しの間、黙った。
「わたしの狐火が、それと関係していると思いますか?」
こはくが訊いた。鈴音が驚いた顔をした。
「こはくちゃん、狐火を使えるの?」
「少しだけ。昨夜、出そうになりました」
「へえ。それって、特殊な熱源になる?」
「なるかもしれません。普通の火より、少し性質が違うので」
鈴音は考え込んだ。
「地下の仕掛けを起動するための、鍵みたいなもの、かな。普通の火では起動できなくて、狐火のような特殊な力が必要とか」
「だから狙っている可能性がある」
雪乃がそう言うと、こはくは少しの間、黙っていた。自分の力が、何かを動かす鍵になる。それを誰かが利用しようとしている。
「怖いですか?」
雪乃は訊いた。
「少しだけ。でも、怖がっていても仕方がないですね」
鈴音が帰ったあと、昼の客が来て、雪乃は洗い物と配達をこなした。
夕方の片付けが終わり、お銀が帳場に引いてから、こはくが雪乃に言った。
「少し話せますか」
「はい」
「裏庭で」
二人は裏庭に出た。梅の木が夕暮れの中に影を作っている。春の終わりの風が、少し冷たかった。
こはくは梅の木の根元に立ち、雪乃を向いた。
「昨夜、言いましたね。いつか答えてくれますか、と訊いたら、はい、と言ってくれました」
「言いました」
「今日でもいいですか」
雪乃は少し間を置いた。
ここで話すことは、任務の逸脱に当たるかもしれない。こはくに正体を明かすことは、里の規則では禁じられている。だが、こはくはもう知っている。それを雪乃が認めるか認めないかの問題だ。
「……はい」
「雪乃さんは、忍者ですか?」
「はい」
こはくは少しの間、何も言わなかった。
「猫又坂に来た理由は、任務ですか?」
「はい」
「月見庵を、調べるために来ましたか?」
雪乃は目を伏せなかった。
「はい」
沈黙があった。
雪乃はこはくの顔を見た。こはくは梅の木を見ていた。その横顔が、どういう感情を表しているか、今の雪乃には読めなかった。
「そうでしたか」
こはくはそれだけ言った。
「ごめんなさい。騙していました」
「騙していた、というか」
こはくは少し考えた。
「最初から正直に言えない事情があったんでしょう」
「そうです。でも、それは言い訳で」
「言い訳でも事実でもどっちでもいいです」
こはくが雪乃の方を向いた。
「雪乃さんが、ここに来てから、本気でここのことを考えてくれていたことは分かっています。またたび湯のことも、きゅう太くんのことも、昨夜の縁日のことも。任務だからやっていたわけじゃないでしょう」
「……全部が任務ではありませんでした」
「それで十分です」
こはくの声は、穏やかだった。傷ついていないとは言えないと、雪乃には分かった。一瞬だけ、最初に答えを聞いたとき、こはくの目が揺れた。だが、こはくはそれを飲み込んだ。
「月見庵から出ていきますか」
こはくが訊いた。
「出ていくべきかもしれません」
「どうして」
「正体を明かした以上、潜入としての意味がなくなります。お銀さんにも、迷惑をかけてしまった」
「出ていかないでください。任務が終わるまで、ここにいてください」
「こはくさん」
「わたしは怒っていません。びっくりしたけど、怒っていない。それに」
こはくは少し間を置いた。
「雪乃さんがいなくなる方が、困ります」
「困る、とは」
「人手が足りなくなります。あと、寂しいです」
最後の言葉は、こはくらしくないくらい、素直だった。照れ隠しもなく、からかいもなく、ただそのまま言った。
雪乃は何も言えなかった。
言えないまま、少しの間、梅の木と夕空を見ていた。
「……迷惑をかけることになるかもしれません。玄斎がこはくさんを狙っているなら、私がここにいることで、標的になりやすい」
「それは、いてもいなくても変わらないと思います」
「なぜですか」
「玄斎という人が、わたしの力を必要としているなら、わたしがどこにいても狙ってくる。なら、雪乃さんがいた方が、わたしは安心できます」
論理は正しかった。雪乃には反論できなかった。
「……分かりました。任務が続く間は、ここにいます」
「ありがとうございます」
こはくは少し表情を和らげた。それからふと、何かを思いついたように言った。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「忍者だから、忍術が使えますよね」
「はい」
「うちの裏庭の草むしりも、一瞬でできたりしますか」
雪乃は少し固まった。
「……できません」
「そうですか」
こはくはにっこりした。
「残念です」
「何が残念なのですか」
「早く終わったら、その分、団子を食べる時間が増えると思って」
「草むしりと団子の関係が分かりません」
「あります」
「どこにですか」
「うちの中では、あります」
雪乃は反論できなかった。こはくの言う「うちの中」の論理は、雪乃には時々理解できなかった。
だが、こはくが笑っていることは分かった。さっきまでの穏やかな横顔が、またいつものこはくに戻っていた。
「雪乃さん」
「何ですか」
「忍びさん、って呼んでもいいですか」
「何故ですか」
「だって、忍びさんなので」
「名前で呼んでください」
「じゃあ、こっそりそう呼ばせてください。うちの忍びさん」
「こっそりの意味が分かっていないと思います」
「分かっています。うちの忍びさん」
雪乃はため息をついた。こはくは笑った。
夕暮れの裏庭に、梅の葉が揺れた。
その夜、雪乃は部屋で長い時間をかけて記録を書いた。
こはくに正体を明かしたこと。こはくが引き止めたこと。引き続き月見庵に留まること。
書きながら、一つのことを考えていた。
あやめがいる。満月まで、あと数日だ。あやめに、こはくへの正体開示を報告すべきかどうか。
報告すれば、あやめはこはくを任務に関係する存在として扱う。こはくの狐火のことも、伝わることになる。
報告しなければ、里への情報が欠ける。任務の逸脱になる。
雪乃はしばらく筆を持ったまま、動かなかった。
昨夜の縁日で、こはくが言った。任務で調べていたなら、それは少しだけ、複雑な気持ちです。
その言葉を、こはくは飲み込んで、それでも雪乃を引き止めた。
雪乃は筆を置いた。
報告の内容を、今夜は決めなかった。決められなかったのではなく、決めなかった。明日、あやめと話してから考える。そう決めた。
それは、忍びとしての判断ではないかもしれない。
だが今夜は、そうした。
眠りにつく前、窓の外を見た。
月が、ほぼ満ちていた。丸くなりかけた月が、猫又坂の屋根を白く照らしている。
あやめが来る。期限の話をしに来る。
雪乃は目を閉じた。
うちの忍びさん、とこはくが言った声が、頭の中にあった。
忍びさん。忍びではあるが、さんが付いている。こはくの言い方では、それはただの呼び名ではなくて、どこか大切にしている呼び方に聞こえた。
里では、雪乃は番号で呼ばれることもあった。名前で呼ばれても、それは役割に付属した名前だった。
うちの、という言葉が頭に残った。
月見庵に属している、という意味だ。
それが雪乃には、なぜか、里に属していたときより自然に感じられた。
なぜそう感じるのか、考え始めて、眠りに落ちた。答えは夢の中に消えた。




