八の巻 妖怪縁日、月夜のふたり
翌日。川沿いの畑に野菜の差し入れを届けに行った帰り、川岸で水切りをしていたきゅう太が駆け寄ってきた。
「雪乃ねえちゃん、縁日、知ってるか」
「何の縁日ですか」
「妖怪縁日だよ。毎年この時期にやるんだ。人間も来ていいやつ。屋台がいっぱい出て、からくり見世物もあって、お化け提灯が踊るんだ」
「今年もやりますか」
「やるやる。三日後だよ。こはくねえちゃんも来るか?」
「私が決めることではありませんが」
「来てよ。おいら、案内してあげる」
きゅう太は尻尾のないところをぶんぶん振るような勢いで言い、川に飛び込んで去っていった。
月見庵に戻ってこはくに話すと、こはくの目が輝いた。
「縁日ですか。行きましょう、絶対行きましょう!」
「仕事があります」
「三日後は夕方から開くんです。閉店後に行けます。お銀さんに聞いてみます」
お銀に話すと、「行ってこい。ただし深夜になる前に戻れ」と言った。それで決まった。
三日後の夕方、閉店と同時にこはくが着替えてきた。
紺地に白い花の着物で、帯は薄い水色だ。普段は作業着か、接客用の小紋を着ていることが多い。改まった着物姿を見るのは初めてで、雪乃は少し目が止まった。
「変ですか」
こはくが訊いた。
「変ではありません」
「雪乃さんも着替えましょうよ。旅装束のままでは縁日らしくないですよ」
「任務中なので」
「縁日も任務です。警備という名目で一緒に回ってください」
こはくは言い切った。雪乃は少し考えて、持ってきた着物の中から一枚を選んだ。灰青の地に細い縞が入ったもので、目立たない色だ。
「それを選ぶのですね」
「何か問題がありますか」
「問題はないですけど。もう少し明るい色はないんですか」
「これが一番動きやすい色です」
「動きやすい色というものが存在するのですね」
こはくは笑い、雪乃はそれ以上言い返さなかった。
猫又坂の妖怪縁日は、坂の上の広場で開かれた。
広場には普段、井戸と古い社があるだけだが、縁日の夜は別の場所になる。提灯が数十並び、屋台が左右に連なり、社の前には小さな舞台が組まれている。
人も妖怪も、区別なく混じっていた。
二本の角を持つ鬼が焼き鳥を売っており、河童が飴細工を作っており、狸が酒の入った瓢箪を抱えて踊っている。人間の子どもたちは妖怪の屋台の前に列を作り、おとなたちは温泉まんじゅうを頬張りながら見物している。
きゅう太がどこからか現れた。
「来た来た! こっちに面白いのがあるぞ」
「きゅう太くん、浴衣を着ているんですね」
こはくが突っ込んだ。
きゅう太は、人間の子どもが着るような小さな浴衣を着ていた。きゅうりの絵柄だ。本人はいたって真剣な顔をしている。
「おいらは縁日の正装だぞ」
「似合ってますよ」
「分かってる。こっちに来い」
きゅう太に引っ張られ、雪乃とこはくは広場に入った。
最初に連れていかれたのは、射的の屋台だった。
屋台の主は古狸で、白髪交じりの顎ひげを生やしている。棚に人形や菓子が並び、竹の筒に小さな弾を入れて的を狙う。
「やってみますか」
こはくが雪乃を見た。
「得意ではありません」
「射的を得意ではないんですか」
「これは、勝手が違います」
「じゃあ、わたしがやってみます」
こはくは竹筒を受け取り、狙いを定めた。真剣な顔で、息を吸い、吐いた。弾を放った。
外れた。
「もう一回」
また外れた。
「もう一回」
「三回目も外れたね」
きゅう太が笑いながら言った。
「言わなくていいです」
こはくは竹筒を返し、雪乃を見た。
「雪乃さん、やってみてください」
「先ほど得意ではないと言いました」
「でも、外れてほしくないので」
論理の筋が通っていないが、こはくに頼まれると断りにくい。雪乃は竹筒を受け取った。
的を見た。小さな招き猫の人形だ。
息を整えた。手裏剣と弾は違うが、照準の取り方は変わらない。重心を確かめ、弾を放った。
人形が倒れた。
「すごい! もう一回」
きゅう太が褒めた。
「もう一回やれば人形が増えます」
「増えたら嬉しいです」
こはくが笑っていた。雪乃はもう一回だけやり、小さな狐の人形を取った。
「これをどうするのですか?」
「持ち帰ります」
「なぜ狐を選んだのですか?」
「棚の端にあったので」
こはくは何か言いたそうな顔をしたが、言わなかった。
飴細工の屋台に寄り、月見まんじゅうを食べ、からくり見世物を三人で見た。
からくり見世物は、小さな舞台に人形が並び、自動で動く仕組みになっている。茶を運ぶ人形、手を振る子ども、刀を振るう武士。精緻な動きに、観客から歓声が上がった。雪乃は人形の背中の構造を目で追い、猫又亭の人形との違いを比べた。こちらは改造されていない、本来のからくりだ。
「鈴音ちゃんに見せたい」
こはくが言った。
「呼べばよかったですね」
「声をかけたんですが、実験中で来られなかったんです。何かが爆発していました」
「またですか」
「小さい方だったので大丈夫だと言っていました」
雪乃は大丈夫ではないと思ったが、言うのをやめた。
きゅう太が知り合いの河童の子どもたちを見つけ、「またな」と言って走っていった。残された雪乃とこはくは、広場をゆっくり歩いた。
夜が深くなるにつれ、縁日の明かりが増した。提灯が揺れ、舞台では三味線が鳴り始めた。妖怪たちが踊り出し、人間の観客が手拍子を打つ。
「楽しいですね」
こはくが言い、
「そうですね」
雪乃は相槌を打った。
答えてから、少し驚いた。楽しい、という言葉が自然に肯定できた。
雪乃は任務として広場を見回していた。怪しい人物がいないか、からくり忍軍の気配がないか。だがそれと同時に、屋台の明かりを見て、甘い香りを嗅いで、三味線の音を聞いて、確かに楽しいと思っていた。
二つが、矛盾なく同時にあった。
舞台の演目が始まり、広場の人波が前方に集まった。
こはくが「こっちから見ましょう」と言い、社の脇の石段に導いた。少し高い場所から広場が見渡せる。
二人で石段に並んで座った。
舞台では狐の面をつけた踊り手が舞っている。扇を広げ、袖を翻し、提灯の明かりの中で動く。
「きれいですね」
「はい」
「猫又坂の縁日、毎年来ているんですが、毎年見とれてしまいます」
「こはくさんが踊ったら、うまそうですね」
こはくが雪乃を見た。
「急に何ですか」
「そういう動きが、向いていそうだと思って」
「褒めてくれているんですか」
「事実を言っています」
「雪乃さんの褒め方はやっぱり不器用ですね」
こはくは笑った。雪乃は少し口をつぐんだ。
しばらく、二人で踊りを見た。
こはくが穏やかな声で言った。
「雪乃さん、ここが好きになりましたか。猫又坂が」
「……好きかどうかは、分かりません」
「分からない、ですか」
「でも」
雪乃は少し間を置いた。
「悪くないと思っています。ここで過ごす時間が」
こはくは何も言わなかった。ただ、少し微笑んだ気がした。
「わたしはここ以外に居場所がないんです」
小さな声だった。舞台の音楽に混じって、雪乃の耳にだけ届くくらいの。
「猫又坂が全部です。月見庵が全部です。だから、ここが好きかと訊かれたら、好きというより、ここが全てで」
「全て、ですか」
「前のところを出てきてから、ずっとそうです。ここに来て、お銀さんに拾ってもらって、こはくとして生きてきた。他の場所での暮らし方を、わたしは知らないので」
雪乃は横を向き、こはくを見た。
こはくは舞台を見ていた。提灯の橙色の光が横顔を照らしている。笑っているが、さっき雪乃が言い当てた、本当に楽しいときの顔とは少し違う。
何かを言おうとした。
そのとき、空気が変わった。
雪乃の背中を、冷たいものが走った。
気配だ。人ではない、機械のものだ。広場の外から近づいてくる。
雪乃は立ち上がった。
「こはくさん、ここを動かないでください」
「え、何が」
「来ます」
社の裏手から、影が現れた。
膝ほどの高さの、からくり人形だ。猫又亭で暴れたものより小さいが、動きが速い。黒い甲冑を纏い、小さな刃を持っている。目の部分が赤く光っている。
人形は雪乃を無視した。
まっすぐ、こはくに向かった。
「雪乃さん」
こはくの声が変わった。
雪乃は人形の前に出た。刃が振られた。腕を動かし、軌道をずらした。衣の袖が裂けた。
人形は止まらない。もう一度刃を振り、こはくに向かおうとする。
雪乃は手裏剣を抜いた。
縁日の広場で手裏剣を投げれば、正体が割れる。周囲には人がいる。縁日の人波は舞台の方に集まっているが、社の近くにも何人かいる。
一瞬、迷った。
こはくが叫んだ。
「雪乃さん、後ろ」
雪乃は体を回した。二体目だ。社の反対側から来ていた。
迷っている場合ではなかった。
雪乃は手裏剣を投げた。一体目の関節部分に当たり、腕の動きが止まる。二体目に向かい、蹴りを入れた。小さな体が石段を転がった。
「伏せてください」
こはくはすでに石段の陰に入っていた。
雪乃は二体の人形を同時に見た。一体目は腕が動かないまま、それでも足を動かしてこはくに向かおうとしている。二体目は立ち上がり、刃を構え直した。
奥義を使えば早い。だが、人目がある。
考えながら体を動かし、一体目の頭部に踵を落とした。金属の音がして、人形が崩れた。二体目が雪乃の背中に回り込もうとした。
こはくの手が、伸びた。
青白い光が、こはくの指先に集まった。
雪乃は見た。
こはくは自分の手を見ていた。光が指先に宿っている。止めようとして、止められない、という顔をしていた。
こはくが唇を噛んだ。
光が、消えた。
こはくの手が、素早く石段の陰に引っ込んだ。
雪乃は二体目の人形に向き直り、腕を掴んで関節を逆に折った。からくりが軋む音がして、人形が止まった。
広場の方を見た。舞台の演目が続いており、こちらに気づいた者は少ない。社の周囲にいた二、三人が驚いた顔でこちらを見ていたが、何が起きたか把握できていないようだった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。雪乃さんは」
こはくの声は落ち着いていた。
「問題ありません」
雪乃は袖の裂けた箇所を確かめた。深くは切れていない。
「雪乃さん、怪我を」
「浅いです」
こはくが立ち上がり、雪乃の腕を見た。細い傷が一本、走っている。
「手ぬぐいを」
こはくは帯の間から手ぬぐいを出した。
「巻いておきましょう」
「大げさです」
「大げさじゃないです。動脈は大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「ならよかった」
こはくは雪乃の腕に手ぬぐいを巻いた。近い。こはくの息が、腕のすぐそばにある。雪乃は視線をどこに置くか、少し困った。
「人形、また来ますか」
こはくが訊いた。
「今夜は二体だったと思います。偵察か、試しのようなものかもしれません」
「わたしを狙っていましたね」
「はい」
「なぜわたしを」
雪乃は答えなかった。こはくが半妖だということ、狐火があること、それが玄斎の計画に関係しているという可能性を、まだこはくには話していない。
「分かりません」
結局、嘘をついた。
こはくは雪乃を見た。しばらく、まっすぐ見た。
「分からない、ですか」
「今夜のところは、そう言うしかありません」
「そうですか」
こはくは視線を外し、崩れた人形を見た。
「雪乃さんは、忍者ですね」
穏やかな声だった。
雪乃は少し止まった。
「……どうしてそう思うのですか」
「手裏剣を持っていて、人形の関節を正確に攻撃して、袖が裂けても顔色が変わらない。それに、月見庵の屋根から落ちてきた最初の日から、ずっと周りを見ていました。人の動きも、屋根の位置も、逃げ道も。普通の旅人は、そこまで見ません」
「旅人にも、そういう人はいます」
「いないと思います」
こはくは笑わなかった。
「雪乃さんが忍者でも、わたしは怖くありません」
雪乃は答えられなかった。
「ただ、わたしのことを、任務で調べていたなら、それは少しだけ、複雑な気持ちです」
雪乃は目を伏せなかった。こはくの言葉を、まっすぐ受け取った。
「今夜は答えられません」
「いつか、答えてくれますか」
「……はい」
こはくは少しの間、雪乃を見た。
それから、手ぬぐいの結び目を確かめた。
「しっかり巻けました。ちゃんと手当てしてくださいね」
「はい」
「帰りましょうか。お銀さんが心配します」
二人は社の石段を下りた。広場では縁日がまだ続いており、三味線の音が夜に溶けていた。提灯が揺れ、人と妖怪が笑い合っている。
さっきまでと同じ縁日の光景だが、雪乃には少し違って見えた。
こはくが隣を歩いている。手ぬぐいを巻いた腕が、少し温かい。
任務のことを、しばらくだけ、考えるのをやめた。
考えるのをやめたことに、気づいた。
だが、それを問題にする気が、今夜に限っては起きなかった。
月見庵に戻ると、お銀が起きていた。
「遅い」とお銀は言い、二人を見た。雪乃の腕の手ぬぐいを見て、一瞬目が止まった。何も言わなかった。
「座れ。飯が残っている」
三人で遅い夕食をとった。お銀は飯をよそいながら、何も訊かなかった。ただ、雪乃の腕の傷に、あとで軟膏を塗れとだけ言った。
食事のあと、雪乃は部屋に戻った。
崩れた人形の部品を、袖に入れて持ち帰ってあった。机の上に出し、確かめた。
やはり、同じ作りだ。鈴音に明日渡す。
部品を包み直して、雪乃は横になった。
今夜、こはくは狐火を出しかけた。それを自分で止めた。こはくの制御は、思っていたより安定していない。感情が揺れると、出てしまいそうになる。
玄斎がこはくを狙っているなら、こはくの力を目的としているはずだ。それが何のためかは、まだ分からない。
だが、人形がこはくを狙ってきた夜、雪乃がこはくの前に出た。
任務のためだったか。
考えたが、答えは出なかった。けれど、どちらでもよかった気がした。こはくが危なかった。だから出た。それだけだった。
窓の外の月は、満月まであと少しだった。白く、穏やかに、猫又坂の夜を照らしていた。




