七の巻 忍びの里から来た少女
朝の仕込みが終わった頃だった。
雪乃が縁台を拭いていると、坂の上から人が下りてくる気配がした。気配の消し方が上手い。普通の旅人ではない。雪乃は布巾を持ったまま、何気ない素振りで坂の方を見た。
女だった。
旅装束に、深編笠。編笠の縁から覗く目が、まっすぐ月見庵を見ている。背筋が伸びており、歩き方に無駄がない。
雪乃は縁台を拭く手を止めなかった。
女は月見庵の前で足を止めた。編笠を少し上げ、雪乃と目を合わせた。
「久しぶり、雪乃」
その声を聞いた瞬間、雪乃の指先が止まりかけた。
里で何度も聞いた声だった。訓練場で、任務前の廊下で、失敗した新人の背後で。感情をあまり乗せない、平坦な声。
霞丸あやめだった。
雪乃より一つ年上の、里でも指折りの若手のくノ一である。
あやめを店の中に入れるわけにはいかなかった。
こはくとお銀がいる。話の内容によっては、二人に聞かれるべきではないことがある。
「少し待ってください」
雪乃は布巾を持ったまま店の中に入り、こはくに「知り合いが来たので外で話してきます」と告げた。こはくは頷いた。余計なことは訊かなかった。
外に出ると、あやめは坂の脇の細い路地に移動していた。人目から外れる場所を、自然に選ぶ。里での訓練が染み付いている。
路地に入ると、あやめは編笠を外した。
切れ長の目。短く結んだ黒髪。幼い頃から同じ訓練を受けてきた。里での成績は常にあやめが上だった。
「任務の報告が遅い」
開口一番、あやめはそう言った。挨拶はなかった。
「調査は続けています」
「二十日が過ぎた。里への報告は一度もない」
「動きがあるたびに報告する手段がない。伝令を使えば足がつく」
「言い訳をするなら、もっとましなものを用意しなさい」
あやめの声は穏やかだった。怒っているわけではない。ただ、どこまでも平坦だった。
「調査の現状を報告しなさい。里に持ち帰る」
雪乃は少し考えた。何を話し、何を話さないか。隠すことで任務に支障が出るなら話すべきだ。だが、こはくのことは話さない。まだその段階ではない。
「またたび湯とからくり芝居小屋に、同じ作りの仕掛けが取り付けられていた。からくりと忍術の知識を持つ者の仕業と考えられる。岩場と小屋の床下に管が仕掛けられており、地下の何かと繋がっている可能性がある」
「黒羽玄斎の関与は」
雪乃は少し止まった。あやめが既に名前を知っている。
「名前が挙がっています。猫又坂に以前来たことがある人物で、この町に詳しい」
「里でも、玄斎が動いているという情報が入っている。お前の任務は、玄斎の計画を止めることだ。現状では、何もできていない」
「仕掛けの全容が分かっていない段階で動けば、見落とすものが出ます。またたび湯の幽霊騒動、川の詰まり、からくり人形。どれも別の事件に見えますが、使われているものは近いです。古いからくり。水の流れ。人目を避ける小型の人形。すべて、猫又坂の地下に向かっています」
「地下か」
「はい。月見庵そのものが拠点なのではなく、月見庵の近くにある何かを、誰かが利用しようとしているのかもしれません」
あやめはしばらく黙っていた。
「慎重なのか、それとも動けない理由があるのか」
あやめは雪乃をまっすぐ見た。
「月見庵で働いていると聞いた」
「潜入のための偽装です」
「二十日間の潜入は長い。偽装が目的なら、既に必要な情報は手に入っているはずだ」
雪乃は答えなかった。
「月見庵の者たちと、必要以上に関わっているのではないか」
「任務に必要な関係を築いています」
「本当に、そう思っているか」
あやめの声に、初めて微かな色が混じった。問い詰めているというより、確かめている。
雪乃は視線を外さなかった。
「任務を遂行するために、ここにいます」
あやめはしばらく雪乃を見た。それから、編笠を被り直した。
「次の満月までに成果がなければ、お前は里へ戻される。それを伝えに来た」
「分かりました」
「それだけか」
「それだけです」
あやめは一度だけ、路地の奥を見た。月見庵の方向だ。
「関わるな、余計なことに」
それだけ言い、あやめは坂を上っていった。
店に戻ると、こはくが茶を用意していた。
「大丈夫ですか」
「問題ありません。知り合いが通りかかっただけです」
「そうですか」
こはくはそれ以上聞かなかった。ただ、茶を雪乃の前に置いた。
雪乃は茶を飲んだ。温かかった。
満月まで、あと十日ほどある。あやめが戻ってくるまでに、玄斎の計画の全容を掴む必要がある。分かっていることを整理しよう。またたび湯と猫又亭への仕掛け。岩場と床下の管。地下に何かが走っている。それが何なのかを明らかにしなければ、次の手が打てない。
鈴音がまだ管を調べている。そちらの結果が出れば、手がかりが増えるかもしれない。
「雪乃さん」
こはくが呼んだ。
「さっきの方、また来ると思いますか」
雪乃は少し考えた。
「来るかもしれません」
「そうですか」
こはくは少し間を置いた。
「怖い顔をしていましたね。知り合いとは、仲がいいのですか」
「……昔から知っています。仲がいいかどうかは、分かりません」
「難しい関係なのですね」
「そういうものかもしれません」
こはくは頷き、自分の仕事に戻った。
あやめが再び現れたのは、その日の夕方だった。
昼の客が帰り、こはくが仕込みをしている時間だ。お銀は帳簿の作業をしている。雪乃が裏庭で薪を割っていると、塀の向こうからあやめの声がした。
「少し、いいか」
雪乃は斧を置き、塀の外に出た。
あやめは塀に背を預け、腕を組んでいた。昼間と同じ旅装束だが、編笠は持っていない。
「まだいたのですか」
「宿を取った。猫又坂の調査は、私もする」
「里からの命令ですか」
「お前の監視も兼ねている」
雪乃は黙った。
「お前の報告の内容が薄すぎる。二十日でその程度しか掴めていないなら、追加の人員を出すのは当然だ」
「私一人で足ります」
「里はそう判断しなかった」
あやめは視線を月見庵の方に向けた。
「中に入ってもいいか」
「何のためにですか」
「茶を飲みたい。それだけだ」
雪乃は考えた。断れば怪しまれる。受け入れれば、あやめとこはくが同じ場所に立つ。
「一杯だけなら」
あやめが店に入ると、こはくが振り返った。
「いらっしゃいませ」
笑顔のまま、こはくはあやめを見た。あやめはこはくを見た。
一瞬、空気が止まった気がした。
「お連れの方ですか?」
こはくがあやめに訊いた。
「通りかかっただけだ」
「では、ゆっくりしていってください。今日の団子は草餅です。よかったら」
あやめは縁台に座った。雪乃は少し離れた場所に立った。
こはくが茶と草餅を運んできた。あやめは受け取り、一口食べた。何も言わなかった。
「美味しくないですか?」
こはくが訊いた。
「……悪くない」
「よかった」
こはくはにこりとした。
「よもぎの加減は難しくて、まだ試行錯誤しています。気になるところがあれば言ってください」
あやめはこはくを見た。こはくは笑顔のまま、あやめを見返した。
どちらも視線を外さなかった。
あやめが先に目を伏せた。茶を飲んだ。
「名前は」
「こはくです。月見庵の看板娘をしています。あなたは」
「通りがかりの者だ」
「そうですか。雪乃さんのお知り合いと聞きました」
「昔の知り合いだ」
「仲がよさそうですね」
あやめは少し沈黙した。
「そういうわけではない」
「でも、わざわざ会いに来たんでしょう」
「任務で来た。個人的な理由ではない」
「そうなんですか」
こはくはまだ笑っていた。
「でも、任務だけで人は動かないと思います。わたしは」
あやめが顔を上げた。
「余計なことを言うな」
「ごめんなさい」
こはくは素直に頭を下げた。
「でも、雪乃さんのお知り合いなら、うちに来てくださっていいですよ。いつでも」
あやめは答えなかった。
草餅をもう一口食べ、茶を飲み、立ち上がった。
「代金を」
「結構です。雪乃さんのお知り合いは、お代はいりません」
「そうはいかない。置いておく」
あやめは小銭を縁台に置き、店を出た。
雪乃はあやめを見送りながら、こはくを見た。こはくは普通の顔をしていた。
「面白い方ですね」
「そうですか」
「根は真面目で、でもどこか悲しそうでした」
雪乃は答えなかった。
あやめが悲しそうかどうか、雪乃には分からなかった。ただ、里を出てからあやめのことを考える機会が少なかったことに、今更気づいた。
翌日の昼過ぎ、あやめが路地で雪乃を呼び止めた。
出前から戻る道だった。人通りは少なく、話せる状況だとあやめが判断したらしい。
「月見庵の看板娘のことだが」
「こはくさんが何ですか」
「気になることがある」
「何が」
「昨日、店にいたとき、気配が揺れた。一瞬だけ、普通ではない何かを感じた」
雪乃は表情を動かさなかった。
「気のせいではないでしょうか」
「私が気のせいで間違えると思うか」
雪乃は少し間を置いた。
「猫又坂には妖怪もいます。妙な気配があってもおかしくない」
「そうかもしれない。ただ、あの娘の笑顔は……計算されたものではなかった。それだけは確かだ」
雪乃は意外に思った。
「任務と関係ありますか?」
「ないかもしれない」
「なら、今は置いておいた方がいい」
あやめは雪乃を見た。
「お前、あの娘をかばっているか」
「情報が不十分な段階で対象を絞るのは、任務の基本に反します」
「それが理由か」
「他に理由がありますか」
あやめはしばらく雪乃を見た。それから、少し視線を外した。
「変わった、お前」
「変わっていません」
「変わっている。里にいたときと、顔が違う」
雪乃は答えなかった。
「里にいたときは、そういう顔をしていなかった」
「どういう顔ですか」
「……分からない。ただ、違う」
あやめは腕を組んだ。どこか、落ち着かない様子だった。あやめがそういう様子を見せるのは、珍しかった。
「一つ聞いていいですか」
「何だ」
「あやめさんは、この任務に自分の意思で来ましたか。それとも命令で来ましたか」
あやめは少し止まった。
「命令だ。当然だろう」
「命令でなければ、来なかったですか」
「……それを聞いてどうする」
「ただ、聞きたかっただけです」
あやめは答えなかった。
坂の上から人が下りてくる音がして、二人は自然に離れた。
夕方、雪乃は店の外で縁台の修理をしていた。
板が一枚、傷んでいた。お銀が「直せるなら直してくれ」と言い、雪乃が工具を借りた。細かい作業は、苦にならない。
あやめが坂を下りてきた。月見庵の前で足を止め、雪乃を見た。
「手伝う」
「結構です」
「命令だ。手伝う」
命令ではないだろう、と思ったが雪乃は言わなかった。あやめは隣に腰を下ろし、板を押さえた。雪乃が釘を打つ作業がやりやすくなった。
しばらく、二人で黙って作業をした。
あやめが口を開いた。
「お前は、ここが気に入っているか」
「任務中です」
「任務中の話をしていない。ここが、気に入っているかと訊いた」
雪乃は少し間を置いた。
「……悪くない、と思います」
「そうか」
「あやめさんは、里が好きですか」
あやめは板を押さえる手を少し止めた。
「好き嫌いで考えたことがなかった」
「私もそうでした」
「今は、どうだ」
雪乃は釘を打ちながら、少し考えた。
「里が嫌いになったわけではありません。ただ、他の場所を知ったら、考え方が変わりました」
「他の場所を知ったら、里には戻れなくなる」
「そういうことを言いたいですか」
「……違う」
あやめは視線を板に落とした。
「ただ、羨ましいと思っただけだ」
雪乃は少し止まった。
あやめが、羨ましいと言った。
「あやめさんは」
「何だ」
「任務が終わったら、里に戻りますか」
「当然だ。他にどこに行く」
「行きたいところは、ないですか?」
あやめは答えなかった。
縁台の修理が終わった。板がしっかりした。雪乃は工具を片付け、あやめは立ち上がった。
「次の満月までに、成果を出せ」
あやめはそれだけ言い、坂を上っていった。
その背中を見ながら、雪乃は考えた。
里で、あやめは優秀だった。誰よりも訓練をこなし、命令に従い、任務を完遂した。それが当然だと思っていた。あやめにとっても、そうだったはずだ。
だが、羨ましいと言った。
雪乃が持っているものを、あやめは羨んでいる。
それが何かを、あやめ自身は言葉にできなかったかもしれない。だが雪乃には、少し分かる気がした。
夜、雪乃は部屋で記録を書いた。
あやめが来たこと、監視役として猫又坂に留まることを書いた。任務の期限が満月まであること。玄斎の関与が里でも把握されていること。
書きながら、別のことを考えていた。
満月まで、十日ほど。
その間に、玄斎の計画の全容を掴む。地下の仕掛けが何なのかを明らかにする。そのためには、鈴音の調査を待ちながら、自分でも動く必要がある。
やるべきことは、ある。
ただ、一つだけ、今まで考えていなかったことがあった。
任務が終わったら、どうなるのか。
里への帰還か、次の任務か。猫又坂を離れることになる。月見庵を離れることになる。
そこまで考えて、雪乃は筆を置いた。
こはくが「おかえりなさい」と言う声が、頭の中で聞こえた気がした。
任務中に考えるべきことではない。
雪乃は記録をたたみ、灯りを落とした。窓の外では、月が少しずつ満ちていた。丸くなりかけた月が、夜の猫又坂を白く照らしていた。
任務のことだけを、考えようとした。
しかし眠りに落ちるまでの短い間、雪乃の頭には月見庵の温かい灯りが浮かんでいた。それを消すことが、その夜だけは、うまくできなかった。




