十の巻 こはくの尻尾
満月の二日前、玄斎の配下が動いた。
昼過ぎのことだった。
月見庵の昼の客が引いた頃、こはくが「少し買い出しに行ってきます」と言い、近くの荒物屋に向かった。雪乃は洗い物をしていた。行き先は近い。荒物屋なら坂を二つ下りたところだ。
五分で終わると思っていた。
十分が過ぎ、雪乃は手を止めた。
気配がした。
かすかだが、確かにある。機械のものだ。昨夜の縁日で感じたものに似ている。だが方向が、荒物屋の方だった。
雪乃は仕事着のまま、月見庵を出た。
坂を下りると、路地の入口でこはくを見つけた。
こはくは荒物屋の前に立っており、三方から囲まれていた。
からくり人形だった。縁日で出たものより大きい。高さが腰ほどある。三体が、じりじりとこはくに近づいている。刃は持っていない。代わりに、手から細い糸が伸びていた。絡め取るための仕掛けだ。
路地には他に人がいない。荒物屋の主が戸口から顔を出していたが、怯えて声も出ないようだった。
こはくは後退りながら、壁に背が当たった。
雪乃は走った。
人形の一体に跳びかかり、背中を掴んで投げた。石畳に叩きつけると、金属が軋む音がして動きが鈍った。残り二体が雪乃に向き直った。
「雪乃さん」
「下がっていてください」
二体が同時に動いた。一体の糸を避け、もう一体の腕を掴んで向きを変える。糸が自分の人形に絡まり、二体が縺れた。その間に最初の一体が立ち上がりかけていた。
雪乃は手裏剣を三枚、投げた。
それぞれの関節部に当たり、三体とも動きが止まった。
路地が静かになった。
雪乃はこはくを振り返った。
「怪我はありますか」
「ないです」
こはくは壁から離れ、人形を見た。「三体、いました。急に出てきて」
「気づくのが遅れました。申し訳ありません」
「雪乃さんのせいじゃないです」
荒物屋の主がおずおずと戸口から出てきた。
「大丈夫か、こはく嬢ちゃん」
「大丈夫です。すみません、大騒ぎになってしまって」
「いや、こっちこそ何もできなくて。あのう、さっきの娘さんは」
「うちの人です」
うちの人、というこはくの言葉に雪乃は一瞬止まったが、今それを言葉にする状況ではなかった。
「人形を持ち帰っていいですか」
こはくは荒物屋の主に訊いた。
「どうぞどうぞ、どうか持っていってください」
月見庵に戻り、人形を裏庭に置いた。
こはくはどこかぼんやりしていた。買い出しの荷物を厨房に置き、それから裏庭に出てきた。
「大丈夫ですか」
雪乃は訊いた。
「大丈夫です。ただ」
こはくは少し間を置いた。
「また出そうになりました」
「狐火が」
「はい。三体に囲まれたとき、怖くて、手が反応しました。でも、雪乃さんが来てくれたので、止められました」
「止められてよかったです」
「でも、次はどうか分かりません」
こはくは自分の手を見た。
「玄斎という人が、何度も来るなら。感情が揺れるたびに、出そうになる。いつか、止められない時が来るかもしれない」
雪乃はこはくの横顔を見た。
不安な顔だった。こはくがそういう顔を見せるのは少ない。笑ってごまかすか、それとも平静を装うかのどちらかだ。今は、それもしていなかった。
「少し、話してもいいですか」
「何を」
「玄斎のことと、こはくさんの狐火のことを、私が分かっている範囲で」
「はい」
こはくは頷いた。
二人は裏庭の縁台に座った。
雪乃は話した。
黒羽玄斎が元忍びであること。里を出たあと、からくりと忍術を組み合わせた技術を持つようになったこと。猫又坂の地下に何かが仕掛けられており、それを起動するために特殊な力が必要な可能性があること。こはくの狐火が、その鍵になる可能性があること。
こはくは黙って聞いた。
「だから、わたしを狙っているのですか」
「鈴音さんとの話では、その可能性が高いと判断しています」
「地下の仕掛けを動かすために、わたしの力を使いたい」
「はい」
「それを許してしまったら、何が起きるか分かりますか」
「まだ分かりません。ただ、規模が大きいことは確かです。町全体が影響を受ける可能性があります」
こはくは縁台の端を、両手で握った。
「怖いですね」
「はい」
「わたしの力のせいで、町が危ない」
「こはくさんのせいではありません。玄斎がそういう計画を立てているというだけです」
「でも、わたしが関係しているのは確かです」
「そうです。だから、教えました。知っていた方がいいと思って」
こはくはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと言った。
「雪乃さんは、わたしに全部話してくれましたね」
「はい」
「任務中なのに」
「必要だと判断しました」
「そうですか」
こはくは少し笑った。
「ありがとうございます」
その夜、遅い時刻のことだった。
雪乃が部屋で記録を書いていると、裏庭の方から音がした。大きな音ではない。だが、雪乃の耳には届いた。
窓を開けると、裏庭に人影があった。
こはくだった。
だが様子が違った。
昼間持ち帰った人形の一体が、また動いていた。壊したはずの関節が、何かの拍子に噛み合ったらしく、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。こはくはそれを見て、後退りしていた。
雪乃は窓から飛び降りた。
人形の間に入り、動きを止めた。関節を外し、今度は完全に動けないようにした。
こはくの息が、少し乱れていた。
「大丈夫ですか」
「はい、ただ、びっくりして」
「怖かったですか」
「少し」
こはくは自分の手を見た。
青白い光が、指先に滲んでいた。
今度は、止まらなかった。
光が手のひら全体に広がり、そこで止まった。狐火だ。昼間より大きく、裏庭をぼんやりと照らした。
こはくは固まっていた。
止めようとして、止められない。そういう顔だった。
「大丈夫です」
雪乃は穏やかな声で言った。
「きれいですよ」
こはくが雪乃を見た。
「怖くないですか」
「きれいだと言いました」
こはくの手の光が、少し揺れた。
「でも、これがあるから狙われて、これが出てしまうから、町が危なくて」
「こはくさん」
「自分でも、制御できなくて、いつか誰かを傷つけてしまうかもしれなくて」
雪乃はこはくの目の前に立った。
こはくの手の光が、雪乃の顔を照らした。青白い色だが、温かい光だった。
「こはくさんの火は、冷たくないですね」
「え」
「狐火というから、冷たいものかと思っていました。でも、温かい」
「……温かいです。わたしの火は、なぜかそうなので」
「月見庵の竈の火に似ています」
こはくが少し止まった。
「竈の火、ですか」
「朝に火を入れると、厨房が温かくなります。それに似ています。こはくさんの火は」
こはくの目が、少し揺れた。
光が、少し揺れた。
「怖くないですか、本当に」
「怖くありません」
「正体を知っても」
「知っています。知った上で言っています」
こはくはしばらく、雪乃を見ていた。
それから、光がゆっくりと小さくなった。こはくが自分で収めたのではなく、自然に落ち着いていくような消え方だった。
手のひらの光が消えると、裏庭が暗くなった。
月明かりだけが残った。
こはくが、泣いていた。
声は出していない。ただ、目から、涙が伝っていた。
雪乃はどうすればいいか、少し分からなかった。里では、泣いている者に対する対応を習っていない。任務中に感情を出すことは弱さだと教わったし、慰めるという行為を自然にできるほど、雪乃は他者との経験が豊かではなかった。
それでも、何もしないということは、できなかった。
雪乃は、こはくの隣に座った。
縁台は狭い。肩が触れるくらいの距離になった。
何も言わなかった。
しばらく、二人で月を見た。
「雪乃さんが忍びでも、わたしは怖くありません」
「はい」
「だから、わたしが狐でも、怖がらないでいてくれますか」
「今、怖がっていません」
「これからも」
「これからも、怖がりません」
こはくは少し俯いた。涙が一粒、膝の上に落ちた。
「ありがとうございます」
小さな声だった。
雪乃は何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。見つからなかったが、それでよかった気がした。言葉より、ただここにいることの方が、今のこはくには必要なものだと思った。
しばらくして、こはくが顔を上げた。
「雪乃さん」
「はい」
「耳と尻尾、出てきても大丈夫ですか」
雪乃は少し止まった。
「耳と尻尾が」
「さっき狐火が出たとき、出かけていたんです。今は引っ込めていますが、少し楽にしていいなら」
「誰も見ていません。お銀さんも寝ています」
「雪乃さんが見ています」
「見ても構いません」
こはくはしばらく雪乃を見た。それから、少し力を抜いた。
こはくの頭の両側に、ふわりと耳が現れた。狐の耳だ。白く、先端が薄い金色になっている。背後に、尾が一本、ゆっくりと揺れ始めた。月明かりに照らされて、白い毛が光った。
雪乃は見た。驚きはなかった。
こはくの耳は、月明かりの中で、穏やかに揺れていた。
「わたし、怖い顔をしていませんね」
「怖くないと言いました」
「本当に怖くないんですね」
こはくは少し笑った。
「変な人ですね、雪乃さんは」
「忍びなので、変なものは見慣れています」
「わたし、変なものですか」
「変なものではありません。言い方が悪かった」
「謝らなくていいです。なんか、ほっとしました」
こはくは縁台の上で、少し体の力を抜いた。尾がゆったりと揺れた。
「こうしていると、楽なんです。隠すのに、力がいるので。全部しまっていると、疲れてしまって」
「こはくさんの前では、いつでも出していていいです」
「本当ですか」
「誰も来ない場所で、お銀さんがいないときなら」
「お銀さんは、知っていると思います、たぶん。でも言わない人なので」
「そうですか」
「たまさんも知っています。鈴音ちゃんは、今日の話の流れからすると、薄々気づいていそう」
「猫又坂は、そういうことに寛容な町ですね」
「妖怪がいますから。わたしみたいなのがいても、おかしくない雰囲気があります。だから、ここを選んで来たんだと思います。自分が」
「前のところでは、隠していたのですか」
「ずっと隠していました。疲れて、それで、ここに来ました」
雪乃はそれを聞いて、少し胸に何かが来た感じがした。うまく言葉にできなかったが、こはくが猫又坂に来た理由が、少し分かった気がした。
隠し続けて疲れて、隠さなくていい場所を探してきた。
自分も、何かを隠し続けていた。里での日々、感情を出さないことを覚え、役に立つことだけを考えて、他のことを全部後回しにしてきた。
違う種類の疲れだが、根っこが似ているかもしれない。
「雪乃さん」
「はい」
「隣に座ってくれていますね」
「はい」
「このまま、少しいてもいいですか」
「いいです」
こはくは少し肩の力を抜いた。尾が、雪乃の方にわずかに傾いた。
雪乃は縁台に座ったまま、月を見た。
満月の前夜だった。月はほぼ丸く、猫又坂の屋根と坂道を白く照らしていた。
隣で、こはくの尾が穏やかに揺れていた。
しばらく経って、こはくが言った。
「雪乃さん、一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「月見庵に来てよかったと思いましたか。今まで、ここで過ごして」
雪乃は少し考えた。
正直に答えることを選んだ。
「はい。よかったと思っています」
「任務のためじゃなく」
「任務のためじゃなく」
こはくは前を向いたまま、少し笑った。
「よかった」
それだけ言った。
雪乃も、それで十分だと思った。
深夜になる前に、二人は中に入った。
こはくは耳と尻尾を収め、着物の袖を直し、いつものこはくに戻った。戻ってから、雪乃に言った。
「おやすみなさい、忍びさん」
「おやすみなさい」
「今夜は、ありがとうございました」
「礼には及びません」
「及びます」
こはくはにっこりした。
「雪乃さんはいつもそういうことを言いますね。及びますよ、ちゃんと」
雪乃は何も言えなかった。
こはくは廊下を歩いて、自分の部屋に入った。
雪乃は自分の部屋に戻り、灯りを落とした。
横になって、目を閉じた。
今夜のことを整理しようとしたが、うまくできなかった。整理するより先に、ただいろいろなことが頭の中にあった。こはくの手の光、月明かりの中の白い尾、怖くないですか、と訊いた声、怖くありません、と答えた自分。
こはくは秘密を見せた。
雪乃は秘密を受け取った。
二人は今夜、互いの秘密を全部知った上で、同じ縁台に並んで座った。
それが何を意味するのか、雪乃にはまだ言葉がなかった。
ただ、今夜という夜が、これまでの夜と少し違うことだけは、確かに分かった。




