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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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10/22

十の巻 こはくの尻尾

 満月の二日前、玄斎の配下が動いた。

 昼過ぎのことだった。

 月見庵の昼の客が引いた頃、こはくが「少し買い出しに行ってきます」と言い、近くの荒物屋に向かった。雪乃は洗い物をしていた。行き先は近い。荒物屋なら坂を二つ下りたところだ。

 五分で終わると思っていた。

 十分が過ぎ、雪乃は手を止めた。

 気配がした。

 かすかだが、確かにある。機械のものだ。昨夜の縁日で感じたものに似ている。だが方向が、荒物屋の方だった。

 雪乃は仕事着のまま、月見庵を出た。


 坂を下りると、路地の入口でこはくを見つけた。

 こはくは荒物屋の前に立っており、三方から囲まれていた。

 からくり人形だった。縁日で出たものより大きい。高さが腰ほどある。三体が、じりじりとこはくに近づいている。刃は持っていない。代わりに、手から細い糸が伸びていた。絡め取るための仕掛けだ。

 路地には他に人がいない。荒物屋の主が戸口から顔を出していたが、怯えて声も出ないようだった。

 こはくは後退りながら、壁に背が当たった。

 雪乃は走った。

 人形の一体に跳びかかり、背中を掴んで投げた。石畳に叩きつけると、金属が軋む音がして動きが鈍った。残り二体が雪乃に向き直った。

「雪乃さん」

「下がっていてください」

 二体が同時に動いた。一体の糸を避け、もう一体の腕を掴んで向きを変える。糸が自分の人形に絡まり、二体が縺れた。その間に最初の一体が立ち上がりかけていた。

 雪乃は手裏剣を三枚、投げた。

 それぞれの関節部に当たり、三体とも動きが止まった。

 路地が静かになった。

 雪乃はこはくを振り返った。

「怪我はありますか」

「ないです」

こはくは壁から離れ、人形を見た。「三体、いました。急に出てきて」

「気づくのが遅れました。申し訳ありません」

「雪乃さんのせいじゃないです」

 荒物屋の主がおずおずと戸口から出てきた。

「大丈夫か、こはく嬢ちゃん」

「大丈夫です。すみません、大騒ぎになってしまって」

「いや、こっちこそ何もできなくて。あのう、さっきの娘さんは」

「うちの人です」

 うちの人、というこはくの言葉に雪乃は一瞬止まったが、今それを言葉にする状況ではなかった。

「人形を持ち帰っていいですか」

こはくは荒物屋の主に訊いた。

「どうぞどうぞ、どうか持っていってください」


 月見庵に戻り、人形を裏庭に置いた。

 こはくはどこかぼんやりしていた。買い出しの荷物を厨房に置き、それから裏庭に出てきた。

「大丈夫ですか」

雪乃は訊いた。

「大丈夫です。ただ」

こはくは少し間を置いた。

「また出そうになりました」

「狐火が」

「はい。三体に囲まれたとき、怖くて、手が反応しました。でも、雪乃さんが来てくれたので、止められました」

「止められてよかったです」

「でも、次はどうか分かりません」

こはくは自分の手を見た。

「玄斎という人が、何度も来るなら。感情が揺れるたびに、出そうになる。いつか、止められない時が来るかもしれない」

 雪乃はこはくの横顔を見た。

 不安な顔だった。こはくがそういう顔を見せるのは少ない。笑ってごまかすか、それとも平静を装うかのどちらかだ。今は、それもしていなかった。

「少し、話してもいいですか」

「何を」

「玄斎のことと、こはくさんの狐火のことを、私が分かっている範囲で」

「はい」

 こはくは頷いた。


 二人は裏庭の縁台に座った。

 雪乃は話した。

 黒羽玄斎が元忍びであること。里を出たあと、からくりと忍術を組み合わせた技術を持つようになったこと。猫又坂の地下に何かが仕掛けられており、それを起動するために特殊な力が必要な可能性があること。こはくの狐火が、その鍵になる可能性があること。

 こはくは黙って聞いた。

「だから、わたしを狙っているのですか」

「鈴音さんとの話では、その可能性が高いと判断しています」

「地下の仕掛けを動かすために、わたしの力を使いたい」

「はい」

「それを許してしまったら、何が起きるか分かりますか」

「まだ分かりません。ただ、規模が大きいことは確かです。町全体が影響を受ける可能性があります」

 こはくは縁台の端を、両手で握った。

「怖いですね」

「はい」

「わたしの力のせいで、町が危ない」

「こはくさんのせいではありません。玄斎がそういう計画を立てているというだけです」

「でも、わたしが関係しているのは確かです」

「そうです。だから、教えました。知っていた方がいいと思って」

 こはくはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと言った。

「雪乃さんは、わたしに全部話してくれましたね」

「はい」

「任務中なのに」

「必要だと判断しました」

「そうですか」

こはくは少し笑った。

「ありがとうございます」


 その夜、遅い時刻のことだった。

 雪乃が部屋で記録を書いていると、裏庭の方から音がした。大きな音ではない。だが、雪乃の耳には届いた。

 窓を開けると、裏庭に人影があった。

 こはくだった。

 だが様子が違った。

 昼間持ち帰った人形の一体が、また動いていた。壊したはずの関節が、何かの拍子に噛み合ったらしく、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。こはくはそれを見て、後退りしていた。

 雪乃は窓から飛び降りた。

 人形の間に入り、動きを止めた。関節を外し、今度は完全に動けないようにした。

 こはくの息が、少し乱れていた。

「大丈夫ですか」

「はい、ただ、びっくりして」

「怖かったですか」

「少し」

 こはくは自分の手を見た。

 青白い光が、指先に滲んでいた。

 今度は、止まらなかった。

 光が手のひら全体に広がり、そこで止まった。狐火だ。昼間より大きく、裏庭をぼんやりと照らした。

 こはくは固まっていた。

 止めようとして、止められない。そういう顔だった。

「大丈夫です」

 雪乃は穏やかな声で言った。

「きれいですよ」

 こはくが雪乃を見た。

「怖くないですか」

「きれいだと言いました」

 こはくの手の光が、少し揺れた。

「でも、これがあるから狙われて、これが出てしまうから、町が危なくて」

「こはくさん」

「自分でも、制御できなくて、いつか誰かを傷つけてしまうかもしれなくて」

 雪乃はこはくの目の前に立った。

 こはくの手の光が、雪乃の顔を照らした。青白い色だが、温かい光だった。

「こはくさんの火は、冷たくないですね」

「え」

「狐火というから、冷たいものかと思っていました。でも、温かい」

「……温かいです。わたしの火は、なぜかそうなので」

「月見庵の竈の火に似ています」

 こはくが少し止まった。

「竈の火、ですか」

「朝に火を入れると、厨房が温かくなります。それに似ています。こはくさんの火は」

 こはくの目が、少し揺れた。

 光が、少し揺れた。

「怖くないですか、本当に」

「怖くありません」

「正体を知っても」

「知っています。知った上で言っています」

 こはくはしばらく、雪乃を見ていた。

 それから、光がゆっくりと小さくなった。こはくが自分で収めたのではなく、自然に落ち着いていくような消え方だった。

 手のひらの光が消えると、裏庭が暗くなった。

 月明かりだけが残った。


 こはくが、泣いていた。

 声は出していない。ただ、目から、涙が伝っていた。

 雪乃はどうすればいいか、少し分からなかった。里では、泣いている者に対する対応を習っていない。任務中に感情を出すことは弱さだと教わったし、慰めるという行為を自然にできるほど、雪乃は他者との経験が豊かではなかった。

 それでも、何もしないということは、できなかった。

 雪乃は、こはくの隣に座った。

 縁台は狭い。肩が触れるくらいの距離になった。

 何も言わなかった。

 しばらく、二人で月を見た。

「雪乃さんが忍びでも、わたしは怖くありません」

「はい」

「だから、わたしが狐でも、怖がらないでいてくれますか」

「今、怖がっていません」

「これからも」

「これからも、怖がりません」

 こはくは少し俯いた。涙が一粒、膝の上に落ちた。

「ありがとうございます」

 小さな声だった。

 雪乃は何も言わなかった。言葉を探したが、見つからなかった。見つからなかったが、それでよかった気がした。言葉より、ただここにいることの方が、今のこはくには必要なものだと思った。


 しばらくして、こはくが顔を上げた。

「雪乃さん」

「はい」

「耳と尻尾、出てきても大丈夫ですか」

 雪乃は少し止まった。

「耳と尻尾が」

「さっき狐火が出たとき、出かけていたんです。今は引っ込めていますが、少し楽にしていいなら」

「誰も見ていません。お銀さんも寝ています」

「雪乃さんが見ています」

「見ても構いません」

 こはくはしばらく雪乃を見た。それから、少し力を抜いた。

 こはくの頭の両側に、ふわりと耳が現れた。狐の耳だ。白く、先端が薄い金色になっている。背後に、尾が一本、ゆっくりと揺れ始めた。月明かりに照らされて、白い毛が光った。

 雪乃は見た。驚きはなかった。

 こはくの耳は、月明かりの中で、穏やかに揺れていた。

「わたし、怖い顔をしていませんね」

「怖くないと言いました」

「本当に怖くないんですね」

こはくは少し笑った。

「変な人ですね、雪乃さんは」

「忍びなので、変なものは見慣れています」

「わたし、変なものですか」

「変なものではありません。言い方が悪かった」

「謝らなくていいです。なんか、ほっとしました」

 こはくは縁台の上で、少し体の力を抜いた。尾がゆったりと揺れた。

「こうしていると、楽なんです。隠すのに、力がいるので。全部しまっていると、疲れてしまって」

「こはくさんの前では、いつでも出していていいです」

「本当ですか」

「誰も来ない場所で、お銀さんがいないときなら」

「お銀さんは、知っていると思います、たぶん。でも言わない人なので」

「そうですか」

「たまさんも知っています。鈴音ちゃんは、今日の話の流れからすると、薄々気づいていそう」

「猫又坂は、そういうことに寛容な町ですね」

「妖怪がいますから。わたしみたいなのがいても、おかしくない雰囲気があります。だから、ここを選んで来たんだと思います。自分が」

「前のところでは、隠していたのですか」

「ずっと隠していました。疲れて、それで、ここに来ました」

 雪乃はそれを聞いて、少し胸に何かが来た感じがした。うまく言葉にできなかったが、こはくが猫又坂に来た理由が、少し分かった気がした。

 隠し続けて疲れて、隠さなくていい場所を探してきた。

 自分も、何かを隠し続けていた。里での日々、感情を出さないことを覚え、役に立つことだけを考えて、他のことを全部後回しにしてきた。

 違う種類の疲れだが、根っこが似ているかもしれない。

「雪乃さん」

「はい」

「隣に座ってくれていますね」

「はい」

「このまま、少しいてもいいですか」

「いいです」

 こはくは少し肩の力を抜いた。尾が、雪乃の方にわずかに傾いた。

 雪乃は縁台に座ったまま、月を見た。

 満月の前夜だった。月はほぼ丸く、猫又坂の屋根と坂道を白く照らしていた。

 隣で、こはくの尾が穏やかに揺れていた。


 しばらく経って、こはくが言った。

「雪乃さん、一つ聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「月見庵に来てよかったと思いましたか。今まで、ここで過ごして」

 雪乃は少し考えた。

 正直に答えることを選んだ。

「はい。よかったと思っています」

「任務のためじゃなく」

「任務のためじゃなく」

 こはくは前を向いたまま、少し笑った。

「よかった」

 それだけ言った。

 雪乃も、それで十分だと思った。


 深夜になる前に、二人は中に入った。

 こはくは耳と尻尾を収め、着物の袖を直し、いつものこはくに戻った。戻ってから、雪乃に言った。

「おやすみなさい、忍びさん」

「おやすみなさい」

「今夜は、ありがとうございました」

「礼には及びません」

「及びます」

こはくはにっこりした。

「雪乃さんはいつもそういうことを言いますね。及びますよ、ちゃんと」

 雪乃は何も言えなかった。

 こはくは廊下を歩いて、自分の部屋に入った。

 雪乃は自分の部屋に戻り、灯りを落とした。

 横になって、目を閉じた。

 今夜のことを整理しようとしたが、うまくできなかった。整理するより先に、ただいろいろなことが頭の中にあった。こはくの手の光、月明かりの中の白い尾、怖くないですか、と訊いた声、怖くありません、と答えた自分。

 こはくは秘密を見せた。

 雪乃は秘密を受け取った。

 二人は今夜、互いの秘密を全部知った上で、同じ縁台に並んで座った。

 それが何を意味するのか、雪乃にはまだ言葉がなかった。

 ただ、今夜という夜が、これまでの夜と少し違うことだけは、確かに分かった。


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