十一の巻 月見庵、臨時休業
満月の夜に、月見庵が襲われた。
昼間は何も変わらなかった。
朝から客が来て、こはくが団子を運び、雪乃が配達をこなし、お銀が仕込みをした。あやめが一度、坂の上から様子を見に来て、雪乃に目を向けたが、近づいてはこなかった。満月の期限が今夜だということを、二人とも知っていた。
夕方の閉店後、雪乃はいつも通り片付けをした。
こはくと並んで串を洗い、板の間を拭き、残った団子を翌日の仕込みのために保存した。何も変わらない夕方だった。
ただ一つだけ違うことがあった。
雪乃の背中が、一日中、少しだけ緊張していた。
根拠のない予感がある。そういうものが、忍びの勘として里では重視されていた。根拠がなくても、体が知っていることがある。
お銀が帳場に入り、こはくが自分の部屋に上がった頃、雪乃は裏庭に出た。
夜の空気を確かめた。
静かだった。静かすぎる夜というのがある。虫の声が聞こえない。風が止まっている。猫が一匹も屋根にいない。
雪乃は縁台に座り、耳を澄ませた。
それから十分ほど経った頃、来た。
最初の音は、坂の上からだった。
からくり特有の金属音だ。今まで聞いてきたものより大きく、重い。一体ではない。複数の足音が、坂を下りてくる。
雪乃は月見庵の中に飛び込んだ。
「お銀さん」
帳場を開けると、お銀が顔を上げた。
「来ます。人を呼んでください。こはくさんを二階から下ろさないでください」
お銀は一瞬で状況を読んだ。余計なことは訊かなかった。立ち上がり、「分かった」と言った。
雪乃は店の外に出た。
坂の上から来たのは、五体だった。
今まで見た人形より大型で、高さが胸ほどある。黒い甲冑を纏い、腕に槌のような形の装置を備えている。目が赤く光り、足音が石畳を響かせる。
先頭の一体が、月見庵の暖簾を目指した。
雪乃は前に出た。
「ここを通る必要はありません」
人形は止まらなかった。
雪乃は先頭の一体の腕を掴み、向きを変えた。槌が石畳を叩いた。衝撃が足に来た。力が、今までの人形と違う。
残り四体が動いた。
雪乃は二体の間をくぐり、一体の背中に乗り、関節を外した。倒れた一体を蹴り、別の一体の軌道を変える。
動きが速い。今まで対峙したからくり人形とは、格が違う。
槌が月見庵の壁を掠めた。壁板が軋んだ。
雪乃は三体を相手にしながら、残り二体が店の裏に回っていることに気づいた。
間に合わない。
月見庵の裏から、音がした。壁が揺れた。
中から、お銀の声がした。
「こはく、動くな」
続いて、木が割れる音。
雪乃は三体の人形を棚上げにして、裏庭に回った。
裏庭の壁が一部、壊されていた。裏から回り込んだ二体が、壁を突き破って中に入ろうとしていた。一体はすでに裏庭に入っており、もう一体が壁の穴から身を入れかけていた。
お銀が、裏庭の一体の前に立っていた。
手に、薪を持っていた。
人形が腕を振るった。お銀が薪でそれを受けた。吹き飛んだ。縁台に背中から当たり、縁台が折れた。
「お銀さん」
雪乃は人形に向かった。壁の穴から入ろうとしていたもう一体の腕を掴み、引き抜いた。外に投げ、地面に叩きつけた。
裏庭の一体が、また動いた。
雪乃は体術で正面から受けた。腕に衝撃が走った。
人形の頭部に踵を落とした。金属が変形し、動きが止まった。
坂の上からの三体が、裏庭に回り込んできた。
五体、同時に相手にする状況になった。
雪乃は一歩引いた。
このまま戦えば、月見庵がさらに壊れる。お銀は縁台のところで動かない。
雪乃は奥義を使うことを決めた。
印を結んだ。
分身の術だ。里で習った中で最も基本的な奥義の一つだが、条件が整っていなければ使えない。月明かりと影がある。十分だ。
雪乃の影が、動いた。
三つに分かれた影がそれぞれ実体を持ち、人形たちの注意を引いた。本体の雪乃は最も大型の一体の背後に回り、制御部を破壊した。
一体が止まった。
分身を崩し、別の一体に向かった。
五体を全部止めるまでに、もう半刻かかった。
全ての人形が止まったとき、雪乃は膝をついた。
一度だけ、地面に手をついた。腕が震えていた。五体同時は、今の自分には少し重かった。
「雪乃さん」
こはくが裏庭に出てきた。
「動くなと言いましたよ」
お銀の声がした。縁台の残骸のところから、お銀が立ち上がろうとしていた。
「お銀さん」
こはくが駆け寄った。
「大丈夫ですか、どこか」
「腰をやった。たいしたことはない」
お銀は自力で立ち上がった。顔が少し歪んでいたが、倒れなかった。
「雪乃」
お銀が呼んだ。名前で。呼び捨てだったが、初めてだった。
「はい」
「よくやった」
雪乃は何も言えなかった。
月見庵の損傷を確かめると、裏庭の壁が一部崩れており、縁台が折れ、調理場に続く扉の蝶番が外れていた。表の暖簾と看板は無事だったが、壁板に槌の跡が残っていた。
お銀は損傷を一通り見て、「明日、直す」と言った。
「臨時休業にします」
こはくが言った。
「当然だ」
お銀は頷いた。
「ただし、長くは休まない。二日で直す」
「二日で直りますか」
「町の人に頼む。困ったときはお互い様だ、何人か来てくれる」
お銀は腰をさすりながら、帳場に向かった。
「二人とも、怪我はないか」
「私は大丈夫です」
雪乃が答えると、こはくも頷いた。
「わたしも」
「なら今夜は休め。明日、話す」
翌朝、月見庵の前に人が来た。
お銀が今朝のうちに声をかけたらしく、大工の夫婦、荒物屋の主、川沿いの農家の男、それにきゅう太まで来ていた。
「何があったんですか」
荒物屋の主が訊いた。
「少し、騒ぎがあって。詳しい話はあとでする。今は直すのが先だ」
お銀が答える。
「分かりました。任せてください」
人々が裏庭に入り、壁の損傷を確かめ始めた。きゅう太は材料の木材を運ぶ手伝いをすると言い張り、自分の半分ほどの太さの板を抱えてよたよた歩いた。
「おいら、力持ちだぞ」
「きゅう太くん、ありがとうございます」
「月見庵が壊れたら、団子が食べられないからな」
「それが理由ですか」
「それだけじゃないぞ。こはくねえちゃんとこが困ってるからだ。おいら、困ってる人を助けるぞ」
きゅう太は胸を張った。こはくが笑った。
雪乃は修理の手伝いをしながら、その様子を見ていた。
昨夜、月見庵が壊された。お銀が怪我をした。裏庭の壁が崩れた。
それでも今朝、人が来た。
頼んだから来た、ということは分かっている。だがそれだけではないとも分かった。お銀が声をかけたとき、誰も断らなかった。月見庵が困っているなら、と言って来た。
雪乃は、里での任務のことを考えた。
任務で誰かを守るとき、それは目的のためだった。守ることで次の段階に進む。守ることで情報を得る。守ることで任務を完遂する。守ること自体が目的であることは、あまりなかった。
ここは違う。
月見庵を守りたいと思っている人が、今朝、何人も来た。月見庵が好きだから、こはくやお銀が好きだから、ここがなくなると困るから。それぞれの理由があって、来た。
雪乃はその事実の重みを、修理の木材を運びながら、じっくりと考えた。
昼過ぎ、壁の修理がおおむね終わった頃、あやめが来た。
坂の上から下りてきて、月見庵の前に立った。損傷した外壁と、修理をしている人々を見た。
「何があった」
雪乃は外に出た。
「昨夜、玄斎の配下と思われるからくり人形が来ました。五体です」
「全部止めたか」
「はい」
「怪我は」
「お銀さんが腰を打ちました。私は問題ありません」
あやめは月見庵を見た。修理をしている人々を見た。きゅう太が木材を落として「あいたー」と叫んでいるのを見た。
「今夜、期限だ」
あやめは伝えた。
「分かっています」
「成果の報告を求める」
「分かっています」
あやめは少し間を置いた。
「ただ」
「はい」
「昨夜の件を見れば、玄斎が本格的に動き始めていることは明白だ。今、お前を里に戻せば、この町を守る手が減る」
雪乃は少し止まった。
「あやめさん、それは」
「報告事項だ。私が里に戻って伝える」
あやめは雪乃を見た。
「お前はしばらくここに残れ。それが今の任務だ」
「……里はそれを認めますか」
「認めさせる。私からの報告という形で」
雪乃はあやめを見た。あやめの顔は、いつも通り穏やかだった。だが、その穏やかさの中に、昨日とは違う何かがあった。
「なぜ、そうしてくれるのですか」
「任務の判断だ」
「それだけですか」
あやめは少し視線を外した。
「……お前がここで笑っているのを見た。縁日の夜に、石段に座っていたのを見た。遠くからだったが、見えた」
「あやめさんが来ていたのですか」
「監視だ」
「はい」
「お前が笑っているのを見て」
あやめは一呼吸置いた。
「腹が立った」
「腹が立ったのに、期限を延ばしてくれるのですか」
「腹が立ったのは、羨ましかったからだ。お前にそれが言えなかった、私に」
あやめは視線を戻した。
「それだけだ。余計なことを聞くな」
雪乃は何も言わなかった。
言わなかったが、あやめの言葉を、胸の中で受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。任務の判断だと言った」
「それでも」
あやめはため息をついた。雪乃が里にいたとき、あやめがため息をついたのを見たことがなかった。
「報告の内容を整理しておけ。私が里に戻る前に聞く。今夜、坂の上の茶屋で話す」
「分かりました」
あやめは踵を返し、坂を上り始めた。
三歩ほど歩いて、止まった。
「月見庵の団子」
あやめは背中を向けたまま言った。
「はい」
「悪くなかった」
それだけ言い、坂を上っていった。
夕方、修理がほぼ終わった。
壁は直り、縁台は新しい板に替わり、扉の蝶番も付け直された。表の暖簾は洗って干した。看板を磨いた。
手伝いに来てくれた人々が帰り、こはくとお銀と雪乃の三人で、修理後の月見庵を確かめた。
「二日と言ったが、一日で終わった」
お銀が言った。
「皆さんが来てくれたので」
こはくが言う。
「そうだ」
お銀は縁台を手で叩いた。新しい板は、まだ木の香りがした。
「月見庵は一人のものではない。坂に関わる人みんなのものだ。だから、みんなが直してくれる」
「お銀さん」
「腰は明日には治る。心配するな」
お銀はこはくを見た。
「こはく」
「はい」
「怖かったか、昨夜」
「少しだけ」
「そうか」
お銀は少し間を置いた。
「怖くない方がおかしい。ただ、逃げなかった。それでいい」
こはくは頷いた。
お銀は雪乃を見た。
「雪乃」
「はい」
「礼を言う」
「礼には及びません」
「及ぶ。こはくを守った。月見庵を守った。それは里の任務とは別のことだ、お前にとって。違うか」
お銀にきっぱりと言われ、雪乃は少し間を置いた。
「……違いません」
「なら、礼を言う。ありがとう」
お銀は帳場に向かった。
雪乃は縁台の前に立ち、木の香りのする新しい板を見た。
ここは直った。
けれど、直らなかったかもしれない。
自分がここにいるから、月見庵が狙われた。そう考えることを、雪乃は完全には否定できなかった。
二階の部屋に戻り、荷物をまとめかけた。
忍び刀、着替え、記録紙、里から持ってきた道具袋。風呂敷の端を結べば、いつでも出られる。
里では、それが当たり前だった。任務が終われば、痕跡を残さず離れる。
そのとき、階下からこはくの声がした。
「雪乃さん、あとでお茶、淹れますね」
雪乃は風呂敷の端を見つめた。
しばらくして、結び目を作る前に手を離した。
日が落ちてから、一通の文が届いた。
坂の上に文が置かれていたと、通りかかった子どもが届けに来た。宛名は「月見庵の忍び」とだけあった。
雪乃は開いた。
文字は流れるように美しい筆跡だった。
忍びが茶屋の看板娘とは、ずいぶん平和な夢を見るようになったな。夢は夢だ。夢の中の居場所は、目が覚めれば消える。猫又坂の地下には、お前たちが知らないものが眠っている。次の新月の夜、それが目を覚ます。お前が来ないなら、里の者たちがこの町を焼く前に、俺が先に動く。選べ、霧隠雪乃。忍びとして生きるか、茶屋の夢の中で溺れるか。
落款はなかった。だが分かった。
黒羽玄斎からの文だった。
雪乃はしばらく、文を持ったまま立っていた。
次の新月。半月後。
選べ、と書いてあった。だが、選ぶ必要はない。雪乃はすでに決めていた。決めていたことに、この文を読んで気づいた。
里の忍びとして動くことと、この町を守ることは、今の雪乃にとって矛盾しない。
ただ、先に守るものは決まっていた。
雪乃は文を折り、懐にしまった。
月見庵の灯りが、窓から漏れていた。
お銀が帳簿を見ている灯りだ。こはくが翌日の仕込みの準備をしている灯りだ。
あやめに見せる。今夜、坂の上の茶屋で話すときに。
玄斎が動く前に、こちらが動く必要がある。それまでに、地下の全容を把握しなければならない。
雪乃は月見庵に入った。
「こはくさん」
「はい」
こはくが厨房から顔を出した。
「明日から、少し動きます。鈴音さんにも声をかけてください」
「玄斎のことですか」
「はい。時間がありません」
こはくは頷いた。
「分かりました。夕飯、食べてから出かけてください。お腹が空いていたら、動けないでしょう」
「今夜、あやめさんと話すことがあります。あやめさんの分も」
雪乃が言いかけると、こはくは先回りして頷いた。
「じゃあ、三人分、用意します」
雪乃は少し止まった。
「あやめさんが来ることを前提にしていますか」
「連れてきてください。雪乃さんの知り合いなら、うちで食べていいんです。この間も言いましたよ」
「あやめさんは、こはくさんのことを」
「任務対象と思っているかもしれませんね。でも、わたしは思っていないので」
こはくは厨房に戻り、鍋をかき混ぜ始めた。
雪乃は少しの間、厨房の入口に立っていた。
月見庵の灯りは、今夜も温かかった。昨夜、壁が壊され、縁台が折れても、今夜はまた灯りがある。
玄斎の文には、夢の中の居場所は消える、と書いてあった。
だが、今夜の月見庵は、夢には見えなかった。新しい板の縁台も、鍋の香りも、こはくの鼻歌も、全部、確かにここにあるものだった。
消えない、と思った。
消させない、と思った。
それが任務なのか個人的な感情なのか、今の雪乃には区別がつかなかった。そしてどちらでも、やることは変わらないと思った。




