五の巻 河童の子と迷子のきゅうり
ある日の昼過ぎ、縁台に腰を下ろした常連客の野菜売りの老人が、団子を食べながらお銀に言った。
「川沿いの畑のきゅうりが、根こそぎなくなっとる。三軒やられた。妖怪の仕業じゃないかと、皆で騒いどるよ」
「三軒も。量はどのくらい」
「一晩で百本は下らん。それも、決まって夜中に消える。昼間は誰も来ない」
雪乃は調理場から聞きながら、洗い物の手を止めた。
夜中に大量のきゅうりが消える。人ではなく妖怪の仕業と見られている。川沿いの畑が狙われている。
からくり忍軍との関係を考えた。だが、きゅうりに戦略的な価値はない。これは別の話だろうと、雪乃はひとまず判断した。
「困ったことじゃ。夏が来る前にきゅうりが尽きたら、漬物も出前も作れない。月見庵さんも困るじゃろ」
「うちも川沿いの畑から仕入れているので、困ります。何か分かったら教えてください」
こはくがそう言うと、老人は頷き、団子をもう一本頼んだ。
翌朝、こはくが言い出した。
「調べに行きましょう」
朝の仕込みを終え、お銀に昼までには戻ると告げ、雪乃とこはくは川沿いの畑へ向かった。
猫又坂の東側、街道から少し外れたところに細い川が流れている。川沿いに畑が続いており、春から夏にかけて野菜が育つ。きゅうりの他にも茄子や豆を作る農家が並んでいた。
被害に遭った畑の一つを訪ねると、農家の夫婦が途方に暮れた顔をして立っていた。
「三日で全部やられた。柵も意味なかった。何が来たのかも分からない」
雪乃は畑を調べた。土の状態を確かめ、柵の壊れ方を見る。柵は上から押し倒されたのではなく、根元から引き抜かれていた。力があるが、大きな体のものではない。足跡は、ない。ただ、畑の土が所々で丸く濡れていた。
川の方から、何かが来た。
「水の中から上がってきた可能性があります。川の様子を確かめてもよいですか」
雪乃は農家に言った。
「ああ、構わないが。川から妖怪が来るとすれば、河童か? でも河童はそんな悪さをしないと聞くが」
農家の男は首を傾けた。
雪乃とこはくは川に向かった。
川岸に下りると、水は思ったより透き通っていた。
春の雪解け水が混じって、水量は多めだ。川底の石が透けて見えるほど水が澄んでいるが、所々に深い淀みがある。川岸の泥には何かが這い出た跡がついていた。
「いますね」
こはくが言った。
「気配がします」
雪乃は川下の方を見た。大きな岩が川の中に張り出しており、その陰に何かがいる。じっとして動かないが、確かに気配がある。
「こはくさんは下がっていてください」
「大丈夫ですよ、わたしも行きます」
雪乃はこはくを止めるのを諦めた。こはくに「下がっていてください」が通じないことは、幽霊騒動で学んでいた。
二人は川岸を進んだ。岩に近づくと、気配が強くなる。何かが縮こまっている。
「おいら、何もしてないぞ」
声がした。
岩の陰から、頭が覗いた。青みがかった肌、大きな丸い目、頭のてっぺんに小さな皿。子どもの河童だった。人間でいえば十歳くらいの大きさで、びしょびしょに濡れており、胸の前に抱えているものがある。
きゅうりだった。
三本、大事そうに抱えている。
「おいらは何もしてない。ちょっと、ちょっとだけ取っただけだぞ」
「百本は少し多くありませんか」
こはくが突っ込んだ。
「食べてないぞ。ほとんど持って帰っただけだぞ」
「どこへ持って帰ったのですか?」
河童の子は少し黙った。丸い目が揺れた。
「川の下の方。おいらのうちの近くに、みんながいるんだ」
「みんな、というのは」
「河童のみんな。食べ物がなくなったんだ。川の流れが変わって、おいらたちが住んでるとこに食べ物が来なくなった。だから、上の方に取りに来た」
雪乃は川を見た。言われてみれば、川の流れ方が少し変だ。上流の方で、水の筋が変わっている。何かが詰まって、水の流れを変えてしまっている。
「川が詰まっているのですか」
「上の方の岩場で、石が崩れたんだ。それで流れが変わって、おいらたちのとこに来る草や虫や魚が、ぜんぶ上の方に溜まるようになった。だから食べ物がなくて」
河童の子は話しながら、少し目が赤くなった。泣きそうな顔だが、堪えている。
「仲間がいっぱいいるんだ。みんなお腹を空かせてて、だから、悪いと思ったけど」
「名前は何というのですか?」
こはくが訊いた。
「きゅう太」
「きゅう太くん」
こはくはしゃがんで、きゅう太と目の高さを合わせた。
「事情は分かりました。悪いことをしたと分かっているなら、まず畑の人に謝りましょう」
「怒られるぞ」
「怒られます。でも、謝らないと続きの話ができません」
きゅう太はしばらく考えた。それから、こはくを見た。
「お姉ちゃんたちは、怒ってる?」
「怒っていません。でも、畑の人は困っています」
「……謝る」
きゅう太は頷いた。
農家への謝罪は、思ったより穏やかに済んだ。
きゅう太が申し訳なさそうに頭を下げ、こはくが経緯を説明し、雪乃が川の詰まりを直す提案をすると、農家の夫婦は顔を見合わせた。
「河童が困っていたなら、仕方ないか。川の流れが戻れば、これ以上やられることもないだろうし」
夫の方が言った。
「きゅうりは返せるぞ。まだ食べてないのがほとんどだから」
「いや、それは……まあ、少し返してくれれば」
妻の方がきゅう太を見て、少し笑った。
「腹を空かせた子どもに怒れないね。ただ、次からは取る前に声をかけてください。分けられるものなら分けるから」
「本当か!」
きゅう太の顔が明るくなった。
「ありがとう、ありがとうな!」
農家の夫婦は苦笑いをしながら頷いた。雪乃はその様子を見ながら、猫又坂が人と妖怪の関係について、里で教わった知識とずいぶん違うと改めて思った。里では、妖怪は制御するか遠ざけるかのどちらかだった。こうして、声をかけて分ければいいと笑える関係があるとは、思っていなかった。
川の詰まりを直すのは、雪乃の仕事になった。
上流の岩場まで行くと、確かに大きな石が崩れて川の筋をふさいでいた。量がある。人の手では動かせる重さではなかったが、雪乃には手段があった。
「少し下がっていてください」
雪乃はこはくときゅう太を川岸に下げ、川の中に立った。水が冷たい。春の雪解け水は、足首まで浸かると骨に染みるような冷たさだ。
雪乃は印を結んだ。
水遁の術だ。里で習った基本の一つで、水の流れを操る。大量の水を動かすことはできないが、方向を変えることはできる。詰まっている石の周囲の水流を強め、石を押し出す力に変える。
ごぼ、と音がした。石が動いた。水が石の側面を洗い、少しずつ向きが変わる。雪乃は術を維持しながら、水の力を石に当て続けた。
しばらくして、石が一つ転がった。
水の流れが、変わった。
細く詰まっていた川筋が開け、水が一気に下流へ向かう。きゅう太が川に飛び込み、流れを確かめた。
「流れた! ちゃんと下まで来てる!」
きゅう太は川の中で飛び跳ねた。水しぶきが上がり、こはくの着物の裾を少し濡らした。
「きゅう太くん」
「ごめん! でも、やった、やったぞ!」
きゅう太は川上と川下を何度も行き来し、流れが戻ったことを確かめた。その間、こはくは濡れた裾を絞り、雪乃は川から上がって水気を払った。
「雪乃さん、すごいですね」
「基本的なことです」
「水の流れを変えられるんですか」
「少しだけなら」
「雪乃さんって、本当にいろいろできるんですね」
こはくは素直に感心した顔をしていた。正体に気づいた、というわけではないのかもしれない。こはくは以前から、雪乃が普通の旅人ではないと思っている節があった。だから今の言葉も、驚いているというより、確認しているような口振りだった。
雪乃は答えなかった。こはくも深く追わなかった。
水は元のように流れ始めた。
だが雪乃は、流れの奥に一瞬だけ別の音を聞いた気がした。川の音ではない。木でも石でもない。金属が水の下で震えるような、低い音だった。
猫又坂の水は、ただ山から流れているだけではないのかもしれない。
そう思ったが、今は確かめようがなかった。
きゅう太が川から上がってきた。
「お姉ちゃん、何者だ」
「旅人です」
「嘘だ。旅人が水を動かせるか」
「動かせる旅人もいます」
「いないぞ」
きゅう太はきっぱり言い、雪乃をじっと見た。
「でも、ありがとう。みんなも喜ぶ」
素直な感謝だった。雪乃は少しだけ戸惑った。感謝されること自体は珍しくないが、こういう、まっすぐな感謝は慣れていない。里での任務に対する評価は、「よくやった」か「次はこうしろ」のどちらかで、ありがとうという言葉はあまり出てこなかった。
「任務ではなかったので、礼には及びません」
雪乃は言ってから、少し後悔した。任務ではない、と口にしてしまった。
「任務? じゃあやっぱり普通の旅人じゃないじゃないか」
「気にしないでください」
「気になるぞ」
こはくがきゅう太の頭を軽く叩いた。
「雪乃さんは、聞かれたくないことは聞かれたくないんですよ」
「なんで」
「事情があるんです」
「ふーん」
きゅう太は納得したのかしていないのか分からない顔をしたが、追及をやめた。
「じゃあ、また川に来てもいいか。雪乃ねえちゃんに水の上を走るやつを見せてほしい」
「水の上は走れません」
「うそだ絶対できる」
「できません」
「絶対できる」
雪乃はこはくを見た。こはくは笑いを堪えている顔をしていた。助け舟を求めたが、来なかった。
月見庵に戻る道、雪乃はきゅう太から聞いた話を整理した。
川の詰まりは、石が崩れて起きたものだ。自然に起きた可能性もあるが、またたび湯の裏岩場で見つけた管のことが頭にあった。地下で何かが動いているなら、地盤に影響が出ることも考えられる。川の詰まりと、からくり騒動が、別々の事件とは言い切れない。
だが、今の段階では証拠がない。繋げて考えるには早い。
「雪乃さん」
こはくが並んで歩きながら言った。
「さっき、任務ではないって言いましたね」
雪乃は少し間を置いた。
「言いました」
「任務があって猫又坂に来たんですか」
「……旅の途中で、立ち寄っただけです」
「そうですか」
こはくはそれ以上聞かなかった。ただ、少しだけ、何かを考えているような顔をした。
雪乃は横を向いて、川の方を見た。水の音が遠くなり、坂道に足音が続く。
こはくは何も聞かなかった。
その沈黙の方が、雪乃には答えにくかった。
「雪乃さん、きゅう太くんのこと、助けてくれてよかったです」
「月見庵の仕入れのためでもあります。きゅうりが来なくなると困る」
「それだけじゃないでしょう」
こはくは前を向いたまま言った。
「困っている子がいたから、助けたんでしょう。理由はそれで十分だと思います」
雪乃は答えなかった。
答えられなかった、というのが正確だ。こはくの言い方が、いつも少しだけ急所を突く。雪乃が自覚していなかったことを、さらりと言葉にする。
困っている子がいたから、助けた。
任務かどうかは関係なく、そうしたかった。
そういうことを、雪乃はここに来るまで一度も考えたことがなかった。里では、そうした感情は訓練の邪魔になるとして、早い段階で押し込める癖がついていた。
「こはくさんは、人の気持ちを読むのが上手いですね」
「そうですか?」
「いつも、こちらが言葉にする前に分かっているような気がします」
「うーん」
こはくは少し考えた。
「なんとなく、ですよ。雪乃さんは分かりやすいので」
「分かりやすい、とは」
「感情が顔に出ないのに、気配には出るんですよね。何かを考えているとき、少し間が変わるので」
雪乃は黙った。忍びとして、気配が読まれるのは問題だ。だが、こはくに読まれることに対して、警戒の気持ちがあまり起きないのは何故だろうと思った。
「わたしも似たようなものですよ。笑っていれば大丈夫に見えますから。でも、雪乃さんはたまに気づきますよね。笑い方が違うとき」
雪乃は少し驚いた。こはくが自分から、そういうことを言うのは初めてだった。
「気づいていました」
「そうだと思いました。だから、聞いてこないんだなって」
「聞かれたくなさそうだったので」
「ありがとうございます」
こはくは穏やかな声で言った。
月見庵の屋根が見えてきた。夕方の光に照らされ、古い瓦が橙色に染まっている。
夕方、こはくは月見庵の残り野菜を仕分けした。
茄子、葱、大根の端、きゅうり。普段なら翌日の仕込みに使うものだが、少し多めに分けて竹の籠に詰めた。
「これをきゅう太くんに届けます」
こはくがお銀に言った。
「勝手にしろ。ただし、今後も川沿いの畑に迷惑をかけないよう、よく言い含めておけ」
「はい」
「それと」
お銀は少し間を置いた。
「河童の子どもが食べ物に困るなら、毎日少しずつ余りを出してやってもいい。ただし月見庵の残りものだ。選り好みは許さない」
こはくの顔が明るくなった。
「お銀さん」
「余計なことを言うな。行ってこい」
お銀は帳簿に目を戻した。
雪乃はその様子を、調理場から見ていた。お銀は言葉が少ないが、決断が早い。困っている者がいれば、理屈より先に手が動く。それを当然のことのように、大げさにせず行う。
雪乃はそういう大人を、里では見たことがなかった。
川に行くと、きゅう太はもういた。岩の上で待っていたらしく、竹の籠を見て目を丸くした。
「何これ」
「月見庵からの差し入れです。毎日ではないけど、余りが出たら届けます。お銀さんが言ってました」
「お銀のおばちゃんが?」
「そうです」
きゅう太はしばらく竹の籠を見た。それから顔を上げた。
「おいら、ちゃんとお礼言う。直接言う」
「お銀さん、照れますよ」
「照れてもいい。ちゃんと言う」
きゅう太は籠を両手で抱え、川に向かって叫んだ。
「おーい、食い物来たぞー!」
しばらくして、川の中からいくつかの頭が出てきた。きゅう太より小さいものから、少し大きいものまで、五、六人の河童の子どもたちだ。全員が大きな目で籠を見て、それからこはくと雪乃を見た。
「人間だ」
子どもの一人が言った。
「助けてくれた人たちだ。怖くないぞ」
きゅう太がそう言うと、河童の子どもたちは少しずつ近づいてきた。一人が恐る恐るこはくを見上げた。こはくは目の高さを合わせるようにしゃがみ、にこりと笑った。
「こんにちは」
河童の子どもたちは、ぱっと顔を明るくした。
雪乃はその様子を少し離れたところから見ていた。こはくが子どもたちに囲まれ、笑い声が川岸に広がる。きゅう太が嬉しそうに竹の籠を指差し、みんなに説明している。
任務ではなかった。今日一日、反乱計画の調査はほとんど進んでいない。からくり騒動の糸口も、新しい手がかりは得られていない。
それでも、今日という一日が、何か意味のあるものだった気がした。
雪乃はその感覚が何なのか、言葉にできなかった。ただ、川の音と子どもたちの声を聞きながら、少しの間だけ、それを考えた。
「雪乃ねえちゃんも来い」
きゅう太が叫んだ。
「水の上は走れないので」
「走らなくていいから来い」
雪乃は少しの間、川岸に立っていた。
それから、歩いていった。




