四の巻 温泉宿の幽霊騒動
猫又坂に幽霊が出る、という噂が立ったのは、四月に入った頃のことだった。
最初に言い出したのは、またたび湯に泊まった旅の商人だった。夜中に廊下を歩く音がして、目を覚ましたら白い影が窓の外を横切ったという。翌朝、同じ宿に泊まっていた別の客も同じことを言った。二人の話が食い違わなかったので、噂は信憑性を帯びた。
それから三日のうちに、またたび湯の客足が目に見えて減った。
月見庵にも影響が出た。またたび湯と月見庵は、坂道を挟んで近い位置にある。温泉に来る客が減れば、茶屋に寄る客も減る。お銀は帳簿を眺めながら渋い顔をした。
「たまのところが参っている。幽霊騒ぎが長引くようなら、うちも困る」
たま、というのはまたたび湯の湯守だと、こはくから聞いていた。雪乃はまだ顔を合わせたことがない。
「調べてみましょうか。雪乃さんと一緒に」
お銀は少し考えてから、頷いた。
「頼む。ただし無理はするな。本当に変なものがいたなら、手を出さずに戻ってこい」
「大丈夫です」
こはくはそう言い、雪乃を見た。
「雪乃さんも来てくれますか」
断る理由はなかった。むしろ、からくり人形の件と繋がりがあるかもしれない。任務の観点からも、行くべきだった。
「参ります」
またたび湯は、猫又坂の坂の上、温泉が湧く岩場のすぐ手前にある。
月見庵より古い建物で、木の柱が黒光りしている。暖簾は紺地に白で「またたび湯」と書かれており、軒下に風鈴が五つ並んでいた。昼間でも湯けむりが絶えず流れ、宿の周囲に薄い霧がかかったように見える。
雪乃とこはくが訪ねると、番頭が困り果てた顔で出てきた。
「こはく嬢ちゃん、助かります。騒ぎが続いて、昨夜もまた客が一人出て行ってしまって」
「最初に音がしたのはどの辺りですか?」
「二階の東の廊下です。決まってその辺りから音がするようで」
雪乃は宿の外観を確かめた。二階の東側には廊下が走っており、障子張りの客間が三部屋並んでいる。廊下の外は岩場に面しており、下は温泉の源泉に近い。
「たまさんは?」
こはくが訊いた。
「奥でお休みです。最近はずっとあの調子で」
番頭は苦笑いをした。
たまは、宿の奥の小部屋にいた。
小柄な少女だった。見た目は十二、三歳くらいだが、物腰にどこか年月の重みがある。着物の袖から白い手首が覗き、耳のあたりに猫のそれに似た丸みがある。猫又だ、と雪乃は冷静に判断した。
部屋に入ると、たまは薄目を開けた。
「こはく。久しぶりじゃの」
「たまさん、お加減はどうですか?」
「悪くはない。眠いだけじゃ」
たまはそれから、雪乃を見た。しばらく無言で見てから、小さく鼻を動かした。
「月見庵の新しい子か」
「霧隠雪乃と申します。此度はお力になれればと思い、参りました」
「礼儀正しいのぅ。珍しい」
たまは体を起こした。眠そうな目のまま、茶を一口飲んだ。
「幽霊の話は番頭から聞いたか」
「はい。二階の東廊下に音がして、白い影が見えると」
「わしも確かめた。だが、わしには何の気配も感じられなかった。妖のものではないと思う」
雪乃は少し考えた。妖怪が妖気を感じないというなら、生き物の気配ではないかもしれない。
「からくりの可能性はありますか?」
「からくり?」
たまが目を細めた。眠そうだった目に、少しだけ光が戻った。
「なぜそう思う」
「最近、からくり人形が人目を避けて動いているのを見かけました。この騒動と関係があるかもしれないと思いまして」
たまはしばらく雪乃を見た。
「鋭いのぅ。ただの旅人ではないな」
「……よく言われます」
こはくがくすりと笑った。雪乃はこはくを見ないようにした。
「夜に来い。昼間は音がしない。夜の戌の刻過ぎに、東廊下の突き当たりで待っていろ。わしも行く」
夜まで時間があったので、雪乃とこはくは一度月見庵に戻り、昼の仕事をこなした。
夕方の閉店後、こはくは手早く着替え、手提げに何かを入れた。
「何を持っていくのですか」
「団子です」
こはくは手提げを持ち上げた。きなこ団子が三串と、月見団子が二串、丁寧に笹で包まれている。
「幽霊退治に団子は必要ありませんが」
「でも、たまさんに差し入れしたいですし。夜更かしするなら甘いものがあった方がいいですよ」
雪乃には反論する気が起きなかった。こはくの提案はいつも微妙に正しい。
またたび湯に着くと、たまがもう廊下の端で待っていた。昼間と同じ着物で、提灯を一つ持っている。
「来たか」
「お待たせしました。よかったら」
こはくが団子を差し出した。
「気が利くの」
たまは団子を受け取り、一串をその場で食べた。満足そうに目を細めた。
「では始めよう」
戌の刻を過ぎた頃、東廊下に音がした。
最初はかすかだった。床板を叩くような、規則正しい音。一定のリズムで、止まらない。
雪乃は耳を澄ました。音の方向を探る。廊下の奥、突き当たりの壁の向こうから聞こえる。
「あそこです」
小声で言うと、こはくとたまが頷いた。
三人は廊下を進んだ。たまの提灯が板張りの床を照らし、影が細長く伸びる。音は近づくにつれて大きくなった。もはや音というより振動だ。壁の向こうが、何かの機械のように動いている。
突き当たりの壁の前に立った。
音はここから出ていた。
雪乃は壁を調べた。指先で叩きながら、密度を確かめる。左側は詰まっている。右側は少し空洞音がした。
「右側に仕掛けがあります」
雪乃は壁板の継ぎ目に指をかけた。少し力を入れると、一枚だけ外れる構造になっていた。
中は、小さな空間だった。
提灯を近づけると、奥に何かが見えた。
人形だった。膝ほどの高さの、からくり人形だ。白い着物を纏い、黒髪をまとめ、能面のような白い顔をしている。その人形が、自らの意思で動いていた。腕を上げ、下げ、体を左右に揺らす。足の部分から、規則正しい音が出ていた。
「これが幽霊の正体ですか」
こはくが言った。驚くというより、納得したような声だった。
「しかし」
たまが眉を寄せた。
「この人形は知っている。宿に昔からある飾り物じゃ。動くような仕掛けはなかった」
雪乃は人形を取り出し、手に持った。重みがある。普通の人形より重い。
背中の合わせ目に指を入れたら、外れた。
中に、見慣れない部品が詰め込まれていた。歯車と、細い管と、小さな鏡のようなもの。元からある部品ではない。あとから取り付けられたものだ。
「改造されています」
雪乃は部品を一つ取り出して、光に当てた。精緻な作りだ。素人の細工ではない。
「いつからここに?」
こはくが訊いた。
「一月ほど前から音がするようになった」
番頭が廊下から首を伸ばして伝えた。
「でも人形は昔からある飾り物で、まさか動き出すとは思わなくて」
雪乃は人形の背中を改めて見た。改造された痕跡は丁寧に消されているが、見る者が見れば分かる。それほど腕のいい者の仕事だ。
「鈴音さんに見せた方がいいかもしれません」
こはくが言った。鈴音、という名前を雪乃は月見庵での雑談の中で聞いたことがある。からくり工房で働く少女だと。
「ここ以外にも仕掛けがあるかもしれません。調べた方がいいと思います」
雪乃は人形を持ちながら、宿全体を見回した。
東廊下だけではないかもしれない。この宿のどこかに、他にも改造された置き物や、仕掛けが隠されている可能性がある。
「番頭さん、宿の隅々を確かめさせてもらえますか」
「いいよ」
宿の調査は半刻ほどかかった。
雪乃は壁を叩き、床の板を確かめ、棚の上の置き物を一つひとつ手に取った。こはくは宿の人に話を聞き、何日前から何があったかを丁寧に整理した。たまは廊下の端で団子を食べながら、妖気の有無を確かめた。
結果、見つかったものがあった。
一階の土間に近い柱の裏に、小さな箱が打ち付けてあった。中に入っていたのは、人形にあったものと同じ部品だ。こちらは音を出す機能はなく、細い糸が天井近くまで伸びている。糸の先は外壁の隙間に抜けており、風が吹くたびに引かれる構造になっていた。
糸が引かれると、二階の窓に薄い白い布が揺れる仕掛けだった。
「これが白い影の正体ですか」
こはくが糸を手に取って言った。
「よくできていますね。風の向きによって揺れるので、毎回同じ時刻に出るわけでもない。信憑性が出る」
「ただ悪戯にしては手が込みすぎています。宿に人を来させなくする目的がある」
「なぜこの宿を狙うのじゃ。またたび湯に、誰かの恨みを買うようなことがあったかの」
たまは困惑顔を浮かべていた。
「心当たりはありません」
番頭が首を振った。
「ただ、一月ほど前に、宿の裏手の岩場を調べていた人がいたのは見ました。職人風の者で、声をかけたら去って行きましたが」
雪乃は記録した。一月前、職人風の人物が宿の裏を調べていた。その後、人形が改造されていた。
「部品を鈴音さんに見せましょう。この作りが誰のものか、分かるかもしれません」
こはくが提案すると、雪乃は頷いた。
ただ、雪乃はもう一度、宿の裏手の方を見た。
一月前に職人風の者がいたという岩場。人形に仕込まれていた見慣れない部品。宿の中に隠されていた小箱。
どれも、ただ客を怖がらせるためだけの仕掛けにしては、手が込みすぎている。
それに、東廊下の奥で一度だけ聞こえた低い響きが、まだ耳に残っていた。床下より深い場所で、大きな歯車が噛み合ったような音だった。
またたび湯の下に、何かがある。
雪乃はそう思ったが、今は確かめようがなかった。
鈴音の工房は、猫又坂の北の端にあった。
からくり工房、と看板が出ているが、看板の文字は半分消えかけており、軒先に奇妙な形の金属部品が吊り下がっていた。扉は半開きで、中から金属を叩く音がする。
こはくが「鈴音ちゃん」と声をかけると、音が止まった。
出てきたのは、小柄な少女だった。十四くらいだろうか。前髪を短く切り、作業着の袖を肘まで捲り上げ、頬に油の汚れをつけている。目だけが大きく、好奇心の塊のような印象だった。
「こはくちゃんだ。どうしたの、こんな夜に」
鈴音はこはくの隣の雪乃を見て、目を丸くした。
「誰?」
「月見庵の手伝いの雪乃さん。頼みがあって来たんです」
「頼み!」
鈴音の顔が明るくなった。頼みという言葉が好きらしい。
「どんな? 機械が壊れた? からくりを作りたい? 忍具の改良依頼?」
「最後のは何故出てくるのですか」
雪乃は思わず口に出た。鈴音が雪乃を見た。
「なんとなく、そういう感じの人だなって」
雪乃はこはくを見た。こはくは知らないふりをして空を見ていた。
「これを見てほしいのです」
雪乃は布に包んだ部品を取り出し、鈴音に渡した。鈴音は受け取ると同時に表情が変わった。目が細くなり、部品を光に当てて確かめる。指先でなぞり、歯車の噛み合わせを確認し、管の材質を爪で叩く。
しばらく、完全に無言だった。
「どこで手に入れた?」
鈴音が訊いた。さっきまでの軽い口調とは少し違う、真剣な声だった。
「またたび湯の幽霊騒動の原因でした。古い人形に取り付けられていたものです」
「幽霊の、原因」
鈴音は部品を持ったまま、しばらく考えた。
「これ、猫又坂の職人の作りじゃない」
雪乃は冷静に言う。
「この歯車の噛み合わせ、うちの工房とも、坂の下の工房とも違う。もっと細かい。精度が全然違う。こんな作りができる人、猫又坂にはいない」
「どこの作りだと思いますか」
「分からない。でも……」
鈴音は歯車を指でなぞりながら、眉を寄せた。
「見たことがない技術じゃないんだよね。どこかで見た気がする。思い出せないだけで」
「思い出したら教えてもらえますか」
「うん。預かっていい?」
「お願いします」
鈴音は部品を胸に抱え、工房の奥に消えかけて、また振り返った。
「ねえ、雪乃さん」
「何でしょう」
「もしかして、すごく動ける人?」
雪乃は少し間を置いた。
「……普通だと思います」
「噂聞いたよ。屋根を走る月見庵の人でしょ? もしかして忍者?」
「旅人です」
「えー」
鈴音は明らかに信じていない顔をしたが、追及はしなかった。
「また来てね。話したいことあるし」
扉が閉まった。
またたび湯に戻る道、雪乃とこはくは並んで坂を下りた。
夜の猫又坂は静かだった。提灯が一つ、坂の向こうを一人でふらふら歩いている。遠くから三味線の音が流れてきた。
「鈴音ちゃん、ちゃんとした子でしょう」
「腕はあると思います。部品を見る目が確かでした」
「からくりのことなら、猫又坂で一番詳しいですよ。変なものも作るけど、本当に必要なものを頼むと、びっくりするくらいいいものを作ってくれます」
「変なものとは」
「爆発しました」
「何が」
「試作品が、いろいろと」
雪乃は少し黙った。
「近くにいたのですか」
「大丈夫でした。小さい爆発だったので」
「大丈夫ではないと思います」
こはくはくすりと笑った。雪乃は笑わなかったが、少しだけ力が抜けた。
「それより、幽霊の正体は分かりましたけど、誰がやったのかはまだ分かりません」
「そうですね」
「またたび湯を狙った理由も」
「いくつか可能性があります。一つは、宿を潰すことで誰かが得をする。もう一つは、宿そのものが目的ではなく、あの場所に人を近づけさせないことが目的だった可能性」
「あの場所、というのは」
「宿の裏手の岩場です。温泉の源泉に近い。一月前に職人風の人物がそこを調べていた。何かを隠した、あるいは仕掛けた可能性があります」
こはくが少し考えた。
「調べますか」
「明日、昼に確かめてみます」
「一緒に行きます」
「危ないかもしれません」
「雪乃さんがいれば大丈夫そうなので」
こはくは当たり前のように言った。雪乃はその当たり前さに少し戸惑い、答えるのが遅れた。
「……分かりました」
翌日、雪乃とこはくは宿の裏の岩場を調べた。
岩場は湯けむりが常に漂い、足元が滑りやすい。源泉に近い岩は熱を持っており、手を触れると温かい。雪乃は岩の間を慎重に進みながら、地面を確かめた。
三十分ほどで、見つかった。
岩の割れ目に、細い管が差し込まれていた。人の手で取り付けたものだ。管の先は地面の下へ続いており、どこかに繋がっている。
「これは何でしょう」
こはくが訊いた。
「分かりません。ただ、最近取り付けられたものです。金属に錆がない」
雪乃は管を引き抜こうとしたが、深く差し込まれており、動かなかった。無理に抜くと何が起きるか分からない。
「鈴音さんに見せましょう」
「また頼むのですか」
「向こうも話したいことがあると言っていたので、ちょうどいいと思います」
雪乃は管の位置と向きを頭に刻み、岩場を後にした。
またたび湯の番頭に、仕掛けを取り除いたことを告げると、番頭は深く頭を下げた。
「助かりました。今夜から安心して開けられます」
「岩場の管については、しばらく触れないでください。何かを調べてから、改めてご報告します」
「分かりました。何でも協力しますので」
月見庵に戻る道、こはくが言った。
「雪乃さん、あの管、怪しいと思いますか?」
「思います」
「さっきの部品と、繋がりがある気がします。からくり人形を改造した人と、岩場に管を仕掛けた人が同じなら」
「その可能性が高い」
「猫又坂に、何かを仕掛けようとしている人がいる、ということですね」
こはくは冷静にそう言った。普段より声が低い。
雪乃は頷いた。
「こはくさんは、思ったより鋭いですね」
「そうですか?」
こはくは少し意外そうな顔をした。
「褒めてくれているんですか」
「事実を言っています」
「雪乃さんの褒め方はいつも不器用ですね」
雪乃は返す言葉を持たなかった。不器用かどうか、自分では判断できなかった。
月見庵の暖簾が見えてきた。お銀が店の前を掃いている。
「二人とも遅い。飯は食ったか」
「まだです」
「なら入れ。団子の残りがある」
お銀は箒を壁に立てかけ、中に入った。
雪乃とこはくもあとに続いた。
月見庵の中は温かく、昼間に炊いた出汁の香りがかすかに残っていた。雪乃はそれをいつの間にか、帰ってきた場所の匂いとして覚えていた。
いつから覚えたのか、雪乃には分からなかった。




