三の巻 狐火と月見団子
月見庵の厨房は、狭い。
調理場に二人が入ると、動くたびに肩が触れそうになる。こはくは慣れているから平気だが、雪乃は何度か棚の角に腰をぶつけ、そのたびに無言で耐えた。声を出さなかったのは忍びとしての意地だった。だが、棚の上の茶筒がカタカタ揺れたので、痛かったことはたぶん伝わっていた。
忍びとして、狭い場所は得意なはずだった。ただ、得意な狭さというのは、一人でいる場合の話だと気づいた。
「雪乃さん、そこの粉を取ってもらえますか」
こはくが指差したのは、棚の上段に置かれた白い袋だった。雪乃の目の高さより少し上にある。こはくには届かない高さだ。
「これですか」
「そうです、ありがとうございます」
こはくは袋を受け取り、木鉢に量を測って入れた。手際がいい。粉の量を目で判断し、水を少しずつ加えながら、手のひらで捏ね始める。
今日は、新しい団子を試作する日だった。
発端はお銀の一言だった。昨夜の閉店後、帳簿を眺めながらお銀が言ったのだ。
「春の終わりに向けて、一品増やしたい。こはく、何か考えてあるか」
こはくは即座に「あります」と答えた。草餅にきなこと黒蜜を重ねて、春から夏へ移る季節の味にしたいと言った。お銀は「やってみろ」と言い、話はそれで終わった。
「雪乃さん、よもぎはそこの籠に入ってます」
「これですか」
雪乃は籠を取り上げた。昨日の朝、こはくが裏山から摘んできたよもぎが、水気を切って束ねてある。濃い緑の香りがした。
「きれいに葉だけ取って、細かく刻んでもらえますか。茎は外してください」
雪乃は包丁を取り、作業を始めた。
葉を茎から分けるのは、細かい作業だ。だが雪乃の指は器用だった。薬草を刻む訓練は里でもやった。生薬の調合は忍びの基本知識のひとつで、材料の扱いは丁寧にすることを叩き込まれている。よもぎの葉は適度に柔らかく、刃の入り方が気持ちよかった。
「上手ですね」
こはくが横目で見て言った。
「料理、したことあるんですか」
「料理というほどではありません。薬草の調合を少し」
「ああ、なるほど。同じような作業ですね」
「似ています」
二人はしばらく並んで作業をした。こはくが生地を捏ね、雪乃がよもぎを刻む。鍋に湯が沸き始め、厨房に湯気が広がった。
「猫又坂に来る前から、料理は好きでしたか?」
雪乃は訊いた。昨夜、こはくが来る前のことを多く語らなかったのが少し引っかかっていた。踏み込みすぎない程度に、知ることができれば任務の参考になる。少なくとも、そういう理由を雪乃は自分に言い聞かせた。
「好きでしたよ。前にいたところでも、ご飯を作るのは好きで。でも、誰かに食べてもらうのは、ここに来てからですね」
「前はひとりだったのですか」
「ひとりというか……まあ、誰かのために作る機会があまりなかっただけです」
それ以上は語らなかった。雪乃も深く押さなかった。
「雪乃さんは、料理しますか」
「里では当番制で炊事をすることがありました。ただ、味には頓着しない者が多くて」
「じゃあ、美味しいものを作っても誰も喜ばないんですか」
こはくが少し残念そうな顔をした。
「そういうものでした」
「それは寂しいですね」
雪乃は答えなかった。
寂しいと思ったことは、なかった。ただ、今こはくに言われてみると、確かに何かが欠けていた気もする。誰かに「美味い」と言ってもらうことの意味を、雪乃は考えたことがなかった。
「よもぎ、いい香りですね」
こはくが話を変えた。意図的なのか天然なのか、雪乃には判断できなかった。
「春の匂いがします。猫又坂の春は短いので、今のうちに使いたくて」
こはくは捏ね上がった生地を丸め始めた。均等な大きさに手際よく仕上げていく。雪乃は刻んだよもぎを渡した。
「混ぜます。少しずつですよ、色が綺麗になるように」
こはくは緑を生地に馴染ませながら、軽く鼻歌を歌った。昨日も聞いた曲だ。題は知らないが、ゆったりした節で、厨房の湯気とよく合う。
草餅を茹で上げ、串に刺し、きなこをまぶす作業は昼過ぎまでかかった。
試作品を三本ほど作り、こはく、お銀、そして雪乃の三人で食べた。
「どうですか」
こはくが訊いた。お銀は一口食べ、少しの間、何も言わなかった。
「悪くない。きなこが少し多い」
「そうですね。次は加減します」
「黒蜜はかけるのか」
「あとから各自でかけてもらう形にしようと思って」
「それでいい。売り物にできる」
お銀の評価は短かったが、こはくは満足そうに頷いた。 雪乃は、今の一言が最大級の褒め言葉なのだと理解した。里で言えば、上忍が無言で頷くのと同じくらい重い。
雪乃は自分の分を一口食べた。よもぎの香りが鼻に抜け、きなこの甘みが続く。餅の弾力がちょうどいい。
「美味しいです」
雪乃がこう言うと、こはくが顔を向けた。
「本当ですか」
「はい。よもぎの加減がよくて、くどくありません」
「よかった」
こはくは、照れたような笑顔になった。
雪乃はその顔を見て、また例の感覚が来るのを察知し、意識的に視線を団子に戻した。
夕方の片付けが終わったのは、戌の刻を過ぎた頃だった。
こはくは売れ残りの草餅を小皿にまとめ、お銀に「今日はありがとうございました」と言って、自分の部屋に引き上げた。雪乃も二階の部屋に戻り、任務の記録を書き足した。
草餅の試作。こはくの料理の腕は確かで、食材の知識も豊富。裏山に薬草や山菜を採りに行く習慣がある模様。引き続き観察を続ける。
書いてから、少し止まった。
書いている内容が、監視記録というより何か別のものに近い気がした。だが、そういう考えは意味がないので棚上げにした。
雪乃は紙を折り、部屋の火を落とした。
横になろうとして、窓の外に目をやった。
裏庭に、青白い光が揺れていた。
雪乃は素早く身を起こした。忍びの反射で、すでに手は手裏剣に向かっている。
光は小さく、ゆらゆらと揺れている。炎のような形だが、炎にしては色が違う。提灯でもない。青白く、少し透けた光だ。
妖術の気配がする。
雪乃は窓から外を見た。裏庭の梅の木の根元に、その光はあった。動いているが、大きくはならない。誰かが操っているのか、自然発生しているのか、この距離では判断がつかない。
音もなく部屋を出た。廊下を滑るように進み、勝手口から裏庭に出る。
梅の木まで、五歩。
近づきながら気配を探ると、人の気配がある。
こはくだった。
梅の木の根元にしゃがみ込み、手のひらから青白い炎を灯している。こちらに気づいていない。小さな光を見つめながら、唇を動かしているが、声は聞こえない。
その光は、狐火に似ていた。
雪乃は三歩手前で止まった。
こはくが顔を上げた。
目が合った。
一瞬の沈黙があった。
こはくの手の光が、すっと消えた。
「見間違いですよ」
こはくは笑顔で言った。立ち上がりながら、何事もなかったような顔をした。
「月が梅の葉に当たって、おかしな光に見えることがあるんです。猫又坂あるあるです」
月は今夜、薄い雲の向こうにある。梅の葉が光を反射できるような位置にはない。
だが、雪乃はそれを指摘しなかった。
「そうですか」
ただ、そう言った。
こはくは少し雪乃を見て、それから「冷えますから、中に入りましょう」と言って先に歩き出した。
雪乃はその後ろ姿を見ながら、考えた。
こはくは何かを隠している。
だが、自分もこはくに対して隠していることがある。
追及できる立場ではないと、雪乃は思った。少なくとも、今は。
翌日も、翌々日も、雪乃はこはくの様子を観察した。
昼間のこはくは変わらなかった。客に笑いかけ、団子を運び、鼻歌を歌い、ときどき雪乃をからかった。
「雪乃さん、今日の出前は屋根を走りましたか」
「走っていません。普通に歩きました」
「噂になりませんでしたね」
「噂になる方が問題です」
「でも、町の人がちょっと楽しみにしてたみたいですよ。またたび湯の番頭さんが、今日の配達は普通だったって言ってました」
「何故そんな報告が来るのですか」
こはくはくすくすと笑い、雪乃は少し脱力した。
そういう日常の中で、雪乃はこはくの癖を少しずつ覚えた。
何かを考えているとき、人差し指で唇の端を触る。話しながら笑うとき、少しだけ声が高くなる。本当に楽しいときの笑いと、接客用の笑いは、目の細かり方が違う。
こういうことを、忍びは「観察」と呼ぶ。
だが、雪乃はだんだんそれが観察なのかどうか、自信がなくなってきていた。
三日目の夕方、雪乃は裏山に行こうとしているこはくを、偶然に見た。
店の片付けが終わり、雪乃が裏庭に出ると、こはくが門の方を向いて歩いていた。提灯は持っていない。着替えもしていない、普段着のままだった。
「こはくさん」
声をかけると、こはくが振り返った。一瞬だけ、何かに気づいたような顔をした。
「雪乃さん。どうしました?」
「いえ、裏の物置に用があっただけです。どちらへ」
「ちょっと、裏山の方へ」
「夜に?」
「山菜の様子を見たくて。よもぎの新芽が出てるかもしれないので」
雪乃は頷いた。理由は筋が通っている。だが、提灯も持たず、夜の山へ一人で向かうのは不自然だ。
「一緒に行きましょうか。夜道は危ないので」
「大丈夫ですよ。すぐそこですし」
「遠慮しないでください。私は夜目が利くので、むしろ役立てます」
こはくは少しの間、雪乃を見た。
「……本当に、夜目が利くんですか」
「はい」
「すごいですね」
こはくは笑ったが、今夜の山行きには雪乃を連れて行くつもりがないことが、雪乃には分かった。
「今日はやめておきます。明日の明るいうちに行きます」
こはくはそう言って、踵を返した。
雪乃は黙って見送った。
こはくが角を曲がり、路地に入るまでを目で追った。
角の向こうで、一瞬だけ、ふわりとしたものが揺れた。
月明かりを受けて、白く光った。
尻尾のような、影だった。
雪乃はそれを、確かに見た。
部屋に戻って、雪乃は記録紙を取り出した。
書こうとして、手が少し止まった。
書けば任務の記録になる。こはくが何かを隠していること、裏庭で狐火のようなものを灯していたこと、夜の裏山へ向かおうとしたこと、角の向こうで尾らしき影が見えたこと。全部書けば、報告の材料になる。
里に知らせるべき情報だ。
雪乃は筆を持った。
だが、書き出すまでに少し時間がかかった。
こはくは自分に嘘をついた。見間違いですよ、と笑って言った。
だが雪乃も、こはくに嘘をついている。ただの旅の者、と名乗り続けている。
二人は互いに、見えない場所を持って、それでも毎日、並んで厨房に立っている。
雪乃はそういうことを考えてから、自分が任務とは全く別のことを考えていることに気づき、強制的に思考を切り替えた。
感傷は後回しにするべきだ。
こはくの秘密の可能性。裏庭で狐火に似た光を確認。夜の裏山に向かう習慣がある模様。角の向こうで尾のような影を目撃。引き続き観察を続ける。
書いた。
書いてから、紙をたたんで押し入れの奥に入れた。
窓の外を見た。今夜は雲が少なく、月がよく見えた。白くて丸い月だった。
こはくは今、どこにいるだろう。裏山の暗い木立の中で、狐の尾を揺らしながら、何をしているだろう。
雪乃はそういうことを考えていることに気づき、また意識的に考えるのをやめた。
それにしても、今日の草餅は本当に美味かった。残りをもう一本もらえばよかった、と思ったのは、完全に任務と関係のない感想だった。
翌朝、こはくはいつも通り早くに起きて仕込みをしていた。
雪乃が台所に下りると、こはくが「おはようございます」と振り返った。昨夜のことには一切触れなかった。
「今日も草餅を仕込みます。雪乃さん、よもぎの葉、お願いできますか」
「はい」
雪乃は籠を手に取った。
昨夜のことを訊くつもりはなかった。自分も訊かれたくないことがある。それはお互い様だ。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
こはくが何を隠していようと、今この厨房で団子を作っているこはくは、昨日と同じこはくだ。それは変わらない。
「雪乃さん、今日の昼は混みますよ。草餅を出す日だって、もう噂が立ってるみたいで」
「いつの間に」
「猫又坂は狭い町ですから」
こはくはにこりと笑った。その笑顔が、接客用のものではないことを、雪乃はもう見分けられるようになっていた。
「じゃあ、たくさん作りましょう」
雪乃は包丁を取り、よもぎを刻み始めた。
春の緑の香りが、厨房に広がった。




