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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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2/22

二の巻 忍びの出前は速すぎる

 月見庵の朝は、早い。

 雪乃がそれを実感したのは、住み込み初日の夜明けのことだった。まだ空が群青のままのうちに、お銀が台所で火を起こす音がする。こはくは仕込みの続きをしながら、出汁の香りを坂道に漂わせる。雪乃が顔を洗って下りてくる頃には、すでに月見庵の一日が動き出していた。

「遅い」

「はい。申し訳ありません」

「謝らなくていい。明日から同じ時刻に起きなければいい。それだけだ」

 お銀は鍋の蓋を開け、湯気を確かめた。言葉が短く、的確で、無駄がない。雪乃はその物言いを、少しだけ好ましく思った。里の上の者に似ているようで、根本が違う。里の者は簡潔な言葉の裏に圧力があったが、お銀の言葉には圧がない。ただ、そういうものだという確信がある。

「雪乃さん、おはようございます」

 こはくが振り返った。割烹着を着て、頬に小麦粉の白い粉がついている。

「おはようございます」

「今日から正式に手伝いですよね。何ができますか?」

「……掃除、荷運び、力仕事なら問題ありません。接客は、不慣れです」

「正直ですね」

 こはくはくすりと笑った。

「じゃあ今日は、まず店の掃除から覚えましょうか。案内しますね」

 月見庵は、表から見るより奥行きがある。店先の縁台と囲い、奥に続く板の間、その先の調理場、二階の客間二部屋、裏庭と物置。こはくは手際よく説明しながら、雪乃を連れて歩いた。

「縁台はお客さんが一番最初に座る場所なので、念入りに。板の間は昼と夕方に客が来るので、その前に一度。調理場は基本わたしとお銀さんがやりますが、洗い物は手伝ってもらえると助かります」

「分かりました」

「雪乃さん、几帳面そうですね」

「……そう見えますか」

「はい。さっきから話を聞きながらちゃんとうなずいて、目線が全部動かないので」

 雪乃は少し黙った。それは忍びとして動揺を悟られないようにしている癖だったが、そういう説明は今、するべきではない。

「真面目な性格なので」

「いいことだと思いますよ。うちには必要な人材です」

 こはくは当たり前のように言い、縁台に布巾を投げてよこした。

 雪乃は受け取り、拭き始めた。


 午前中の掃除は、思いのほか早く終わった。

 雪乃は掃除が得意だった。正確には、細かく体を動かすことが苦にならない。板の間の節目に溜まった埃も、縁台の裏に張り付いた汚れも、指先の感覚で確かめながら丁寧にこなせる。忍びの訓練は、体の細部への意識を研ぎ澄ませる。それは掃除にも案外使えた。

「早い」

 こはくが目を丸くした。

「雪乃さん、もしかして掃除が好きですか」

「好きというより、手を動かしていると落ち着くので」

「それ、好きってことだと思いますよ」

 雪乃は何と言い返すべきか少し考えて、黙ることにした。

 昼前になると、客が来始めた。街道を歩く旅人、近くの温泉宿に泊まっている者、町の住人らしき顔なじみ。こはくは全員を笑顔で迎え、名前を呼び、団子や茶を運んだ。雪乃は洗い物と片付けをしながら、客の様子を観察した。

 任務の観点からだ。怪しい者がいないか、妙な物のやり取りがないか、反乱計画の匂いがしないか。

 だが、どこにも怪しいところはなかった。ただの、のんびりした茶屋だった。

「雪乃さん」

 昼を過ぎた頃、こはくが声をかけてきた。

「少しお願いがあるんですが」

「何でしょう」 

「温泉宿の『またたび湯』さんに、団子を届けてほしいんです。いつもは昼過ぎに持っていくんですが、今日は仕込みが立て込んでいて」

 雪乃は頷いた。配達ならできる。むしろ、町の様子を見て回るいい機会でもある。

「道は分かりますか」

 雪乃が訊くと、こはくは包みを用意しながら答えた。

「坂を上って、右に曲がったところにある宿ですよ。看板が出ているので、すぐ分かります」

 こはくは包みを渡してきた。笹の葉で包まれた団子が十本ほど入っている。

「ゆっくり行ってきてください。急がなくていいです」

 雪乃は包みを受け取り、月見庵を出た。


 こはくに言われた通り、坂道を上った。石畳が途切れたところを右へ折れると、温泉宿の大きな暖簾が見えた。湯けむりが屋根の上に流れ、空気がほんのり硫黄の香りを含んでいる。縁側に猫が三匹、並んで昼寝をしていた。

 雪乃は門をくぐり、番頭に包みを渡した。

「月見庵さんからです」

「ありがとう。新しい手伝いさんかい。今日一番早い配達だよ」

「先ほど出たばかりですが」

「ならよほど足が速いね」

 番頭は笑い、中に引っ込んでいった。

 帰り道、雪乃は少し寄り道をした。

 任務だ。町の地理を把握することは、潜入任務の基本である。路地を確かめ、抜け道を探し、どこに人が集まりどこに人がいないか。猫又坂は複雑な造りをしていた。坂道を基軸に、横に細い路地が枝分かれし、その先に小さな広場があったり、突然行き止まりになったりする。

 そういう路地を歩いているとき、雪乃は気づいた。

 路地の隅で、小さなものが動いていた。

 影に身を潜める前に、目を凝らす。

 木箱の陰から覗いているのは、拳ほどの大きさの人形だった。歌舞伎の衣装を纏い、白い面をつけた、からくり人形のようだ。こちらに気づいたのか、すぐに木箱の後ろへ引っ込む。ただの置き物が転がっているのかと思ったが、違う。確かに、動いた。

 雪乃はゆっくりと近づいた。

 木箱の後ろに回ると、人形はいなかった。路地の奥へ通じる細い隙間がある。そこを通って逃げたらしい。

 からくり人形が、人目を避けて動いている。

 偶然かもしれない。ただの迷子のからくり玩具かもしれない。

 だが、雪乃の勘は微かに警戒の声を上げた。任務の中で培った、根拠のない確信の種類のものだ。

 しばらく路地を見ていたが、人形は戻ってこなかった。

 雪乃は引き返した。今日のところは記憶に留めるだけでいい。

ただ、ひとつだけ気になることがあった。

 人形が逃げ込んだ隙間の奥から、かすかに油の匂いがした。新しい油ではない。長いあいだ閉じられていた金具を、無理に動かしたときのような、古く重い匂いだった。

 猫又坂の地下に、何かがある。

 根拠はない。だが雪乃の中で、その感覚だけが小さく残った。


 月見庵に戻ると、店はまた客で賑わっていた。

 雪乃が暖簾をくぐって中に入ろうとすると、こはくが振り返った。

「おかえりなさい」

 ごく自然に、当たり前のように言った。

 雪乃は一瞬、足が止まった。

「……ただいま、戻りました」

 答えながら、妙な感覚があった。胸のどこかが、ほんの少しだけ、脈拍とは無関係に揺れた気がした。

 おかえり、と言われることが、これほど自然に響いたことが、今まであっただろうか。

 雪乃はその感覚をすぐに棚の奥にしまった。任務中に個人的な感慨を抱くのは未熟の証だ。冷静に、淡々と。それが忍びのあるべき姿である。

「またたび湯に届けてきました」

「ありがとうございます。道は分かりましたか」

「問題ありません」

「よかった。お銀さんが夕方の仕込みを手伝ってほしいって言ってましたよ。大根を切るのと、鍋の番です」

 雪乃は頷き、調理場に向かった。


 翌朝から、雪乃の評判が立ち始めた。

 発端は、またたび湯への配達だった。

 その日の午後、こはくから同じ頼まれ事をされた雪乃は、前日の道を頭に入れていたので迷わず歩いた。ただ今日は、途中で急な坂がひどく混んでいた。荷を抱えた商人、子ども、休憩中の旅人。団子の包みを抱えたままでは時間がかかる。

 雪乃は少し考えて、路地に入った。

 そして、屋根に上がった。

 別に、深く考えたわけではない。ただ、屋根伝いの方が早いというだけだ。忍びにとって、屋根は道の一部だ。瓦の上を音もなく走り、向こう側の路地へ降りる。またたび湯の裏手へ回り込み、配達の口へ包みを渡す。往復で、前日の半分も時間はかからなかった。

 それが、誰かに見られていたらしい。


 翌日の昼、月見庵に客が来た。

「昨日、屋根の上を飛んでいく娘を見たが、あれはここの子かい」

 お銀は眉一つ動かさなかった。こはくは楽しそうに笑った。雪乃は内心で頭を抱えた。

「月見庵に、すごい新入りが来た」

 という噂は、猫又坂の狭い宿場町において翌日には広まっていた。

「屋根を走れるくノ一が来た」という話が、なぜか「空を飛べる茶屋の娘が来た」に変わり、「神通力のある旅人が月見庵に住み着いた」になり、最終的に「月見庵は御利益のある茶屋だ」という噂になった。

 客が、増えた。

「雪乃さんのおかげですよ。すごいですね」

 こはくは褒める。

「……全くすごくありません」

「雪乃さんみたいに屋根を走れる人がいても、この町では『得意技のある人』くらいにしか思われませんよ。妖怪もいますから」 

「それはそれで複雑な気持ちです」

 雪乃は渋い顔をした。こはくはくすくす笑った。

 ただ、客が増えたことで月見庵の忙しさは倍になった。

 こはくは接客、お銀は調理、雪乃は洗い物と配達と、頼まれれば力仕事もこなす。昼の最も混む時刻には、縁台に座りきれない客が店の前に立って待つこともあった。

「こはくさん、出前は行けますか? 宿まで持ってきてくれると助かるんだが」

 客の一人が言った。

「承ります。少々お待ちください」

 こはくが笑って振り返り、雪乃を見た。

「雪乃さん、お願いできますか」

 雪乃は頷いた。


 出前、というものを雪乃は初めてやった。

 重箱に団子と茶菓子を詰め、風呂敷で包んで抱える。客の泊まる宿は、猫又坂の坂を下りたところにある旅籠だ。遠くはない。

 ただ、昼過ぎの猫又坂は混んでいた。荷車が道を塞ぎ、立ち話をする町人が道幅を半分にしている。

 雪乃は少し考えた。

 こはくは「ゆっくり行ってください」と言ったが、客を待たせるのは月見庵の評判に関わる。それに、腕に抱えた重箱の重さは問題ない。両手は自由だ。

 屋根でいこう、と思った。

 それが一番早い。

 雪乃は路地に入り、塀を蹴り、屋根に上がった。瓦を踏む感触を確かめながら、坂の下に向かって走る。猫又坂の屋根は複雑に入り組んでいるが、昨日の寄り道で地理は把握してある。旅籠の大きな屋根が見えた。そのまま滑るように裏手に回り込み、縁側から中に入った。

「月見庵から出前です」

 番頭が目を丸くした。

「ど、どこから来た」

「裏手から参りました」

「だから、どこから……」

 番頭は縁側の外を見た。

 道はない。

 雪乃は、道がないことを今さら問題にする必要はないと思った。重箱を渡し、代金を受け取り、愛想よく頭を下げた。

 帰り道も屋根を走ったが、今度は少し失策があった。

 着地の際に、薪置き場の屋根で滑った。音が出た。下にいた老婆が顔を上げ、雪乃と目が合った。

「……ご機嫌よう」

 雪乃は丁寧に頭を下げ、路地に降りた。

 老婆は「また飛んでいった」と言ったらしく、その日のうちに「月見庵の娘は、出前が光の速さで届く」という噂が加わった。ついでに「団子を食べると足が速くなる」という話まで混じっていた。

 こはくは否定したが、足腰に不安のある老人が二人、きなこ団子を追加で注文した。


 夕方の閉店後、こはくと雪乃は店の後片付けをした。

 こはくは串を洗いながら、鼻歌を歌っていた。雪乃は板の間を拭きながら、それを聞いていた。特に意識していたわけではない。ただ、耳に入ってきた。

「楽しそうですね」

 気がつくと、声に出していた。

 こはくが振り返った。

「そうですか? 楽しいですよ。雪乃さんが来てから、お客さんも増えたし、忙しくはなったけど、活気があって好きです」

「私のせいで忙しくなったなら、申し訳ありません」

「謝らなくていいですよ。嬉しい忙しさです」

 こはくはそう言って、また串を洗った。

 雪乃はしばらく黙って板の間を拭いていた。

 ここまでの日々を振り返ると、任務の進捗はほとんどない。からくり人形を路地で目撃したこと以外に、反乱計画の手がかりらしきものは何も見つかっていない。月見庵の内側も、怪しいところは今のところ何もない。ただの、繁盛している茶屋だ。

 里に報告することがあるとすれば、「現在調査中。特筆すべき情報なし」という一文だけだ。

 任務としては、進んでいない。

 それなのに、月見庵で過ごす時間が不思議と充実した気がしている。それが、雪乃には少し不可解だった。

「雪乃さん」

 こはくが声をかけた。串をまとめて棚に置き、雪乃の方を向く。

「今日、出前で屋根を走ったでしょう。また噂になってましたよ」

「……承知しています」

「お客さんが喜んでたので、よかったと思いますよ。旅籠の番頭さんが、速くて助かったって言ってました」

 こはくは少しだけ頭を傾けて、雪乃を見た。

「雪乃さんって、やっぱり普通の旅人じゃないですよね」

 雪乃は動かなかった。

 布巾を持つ手は止めず、視線もそらさず、平静を保った。それが自分にできる最善だった。

「……何をもって、そう思うのですか」

「うーん……特別何かがあるわけじゃないんですけど、なんとなく、です。雪乃さんはどこか、周りをずっと見ている感じがするので」

「旅人は用心深いものです」

「そうですね」

 こはくはあっさり頷いた。追及を続ける気はないらしい。

「まあ、事情があるなら聞きません。うちに来てくれたのは嬉しいので、それで十分です」

 雪乃は少し、答えに詰まった。

 こはくは相手を追い詰めない。踏み込みそうになって止まる。それが計算なのか天性なのか、雪乃には判断がつかない。だが、どちらにしても、雪乃にとっては扱いにくい相手だ。

 警戒を解かせてしまう。それが、一番やっかいだった。

「……こはくさんは」

 雪乃は、自分でも意外なことに、口を開いた。

「この町に来る前は、どこにいたのですか?」

 こはくは少し黙った。ほんの一瞬だが、雪乃の目には分かった。何かが、かげった。

「遠いところです。ここより、ずっと不便な場所でした」

「家族は」

「……いません。今は、ここがうちです」

 声は明るいままだった。だが、さっきの一瞬は確かにあった。

 雪乃は深く問わなかった。自分も聞かれたくないことがある。それと同じだと思ったからだ。

「そうですか」

 それだけ言って、雪乃は板の間を拭き続けた。

 しばらく、二人は黙って片付けをした。鍋のカチャカチャという音と、遠くの川の音だけが聞こえた。

 居心地が悪いわけではなかった。

 ただの沈黙だったが、雪乃はそれをしばらく、ただの沈黙として受け取っていた。


 その夜、雪乃は部屋で昼間の路地のことを考えた。

 からくり人形が、人目を避けて動いていた。

 猫又坂では妖怪も動くし、からくり細工を扱う店もある。それ自体は珍しいことではないかもしれない。だが、あの人形には不自然なところがあった。逃げた、という点だ。

 ただのからくり玩具は、人から逃げない。

 それに、逃げた速さがある。一瞬で隙間に入り込んだ。精緻な動きだった。普通の玩具ではないと、体の感覚が言っていた。

 雪乃は文机に向かい、小さな紙に記した。

 見聞きしたことを書き留めるのは里での習慣だ。任務の記録になるし、思考を整理する助けにもなる。


からくり人形・白面・歌舞伎衣装。南側路地。人目を避けた動き。追跡できず。

 

それだけ書いて、紙をたたんだ。

証拠とも言えないが、最初の手がかりの欠片ではある。

 雪乃は布団に横になり、天井を見た。

 今日も、忙しかった。掃除、配達、出前、洗い物、夕方の仕込み手伝い。こういう時間の使い方は、里では考えられなかった。訓練か、実戦か、待機か。それが雪乃の知っている暮らしの形だった。

 けれど、料理の香りと客の声と、こはくの鼻歌と、お銀の短い言葉で満ちた時間は、全く別のものだった。 

 悪くない、と思った。

 思ってから、少し驚いた。

 任務中に「悪くない」などと思うのは、油断だ。好ましく感じれば感じるほど、判断が鈍る。それは里で何度も言われたことだ。

 だが、悪くないと思ったのは、本当だった。

 雪乃は目を閉じた。

 明日は何の仕事が来るだろう、とぼんやり考えた。そういうことを考えながら眠りにつくのも、初めてのことだった。

 春の夜の猫又坂は、どこかでまだ起きている者がいるのか、遠くにかすかな笑い声がして、それがやがて川の音に混じって消えた。

 雪乃は、それを聞きながら眠った。


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