二の巻 忍びの出前は速すぎる
月見庵の朝は、早い。
雪乃がそれを実感したのは、住み込み初日の夜明けのことだった。まだ空が群青のままのうちに、お銀が台所で火を起こす音がする。こはくは仕込みの続きをしながら、出汁の香りを坂道に漂わせる。雪乃が顔を洗って下りてくる頃には、すでに月見庵の一日が動き出していた。
「遅い」
「はい。申し訳ありません」
「謝らなくていい。明日から同じ時刻に起きなければいい。それだけだ」
お銀は鍋の蓋を開け、湯気を確かめた。言葉が短く、的確で、無駄がない。雪乃はその物言いを、少しだけ好ましく思った。里の上の者に似ているようで、根本が違う。里の者は簡潔な言葉の裏に圧力があったが、お銀の言葉には圧がない。ただ、そういうものだという確信がある。
「雪乃さん、おはようございます」
こはくが振り返った。割烹着を着て、頬に小麦粉の白い粉がついている。
「おはようございます」
「今日から正式に手伝いですよね。何ができますか?」
「……掃除、荷運び、力仕事なら問題ありません。接客は、不慣れです」
「正直ですね」
こはくはくすりと笑った。
「じゃあ今日は、まず店の掃除から覚えましょうか。案内しますね」
月見庵は、表から見るより奥行きがある。店先の縁台と囲い、奥に続く板の間、その先の調理場、二階の客間二部屋、裏庭と物置。こはくは手際よく説明しながら、雪乃を連れて歩いた。
「縁台はお客さんが一番最初に座る場所なので、念入りに。板の間は昼と夕方に客が来るので、その前に一度。調理場は基本わたしとお銀さんがやりますが、洗い物は手伝ってもらえると助かります」
「分かりました」
「雪乃さん、几帳面そうですね」
「……そう見えますか」
「はい。さっきから話を聞きながらちゃんとうなずいて、目線が全部動かないので」
雪乃は少し黙った。それは忍びとして動揺を悟られないようにしている癖だったが、そういう説明は今、するべきではない。
「真面目な性格なので」
「いいことだと思いますよ。うちには必要な人材です」
こはくは当たり前のように言い、縁台に布巾を投げてよこした。
雪乃は受け取り、拭き始めた。
午前中の掃除は、思いのほか早く終わった。
雪乃は掃除が得意だった。正確には、細かく体を動かすことが苦にならない。板の間の節目に溜まった埃も、縁台の裏に張り付いた汚れも、指先の感覚で確かめながら丁寧にこなせる。忍びの訓練は、体の細部への意識を研ぎ澄ませる。それは掃除にも案外使えた。
「早い」
こはくが目を丸くした。
「雪乃さん、もしかして掃除が好きですか」
「好きというより、手を動かしていると落ち着くので」
「それ、好きってことだと思いますよ」
雪乃は何と言い返すべきか少し考えて、黙ることにした。
昼前になると、客が来始めた。街道を歩く旅人、近くの温泉宿に泊まっている者、町の住人らしき顔なじみ。こはくは全員を笑顔で迎え、名前を呼び、団子や茶を運んだ。雪乃は洗い物と片付けをしながら、客の様子を観察した。
任務の観点からだ。怪しい者がいないか、妙な物のやり取りがないか、反乱計画の匂いがしないか。
だが、どこにも怪しいところはなかった。ただの、のんびりした茶屋だった。
「雪乃さん」
昼を過ぎた頃、こはくが声をかけてきた。
「少しお願いがあるんですが」
「何でしょう」
「温泉宿の『またたび湯』さんに、団子を届けてほしいんです。いつもは昼過ぎに持っていくんですが、今日は仕込みが立て込んでいて」
雪乃は頷いた。配達ならできる。むしろ、町の様子を見て回るいい機会でもある。
「道は分かりますか」
雪乃が訊くと、こはくは包みを用意しながら答えた。
「坂を上って、右に曲がったところにある宿ですよ。看板が出ているので、すぐ分かります」
こはくは包みを渡してきた。笹の葉で包まれた団子が十本ほど入っている。
「ゆっくり行ってきてください。急がなくていいです」
雪乃は包みを受け取り、月見庵を出た。
こはくに言われた通り、坂道を上った。石畳が途切れたところを右へ折れると、温泉宿の大きな暖簾が見えた。湯けむりが屋根の上に流れ、空気がほんのり硫黄の香りを含んでいる。縁側に猫が三匹、並んで昼寝をしていた。
雪乃は門をくぐり、番頭に包みを渡した。
「月見庵さんからです」
「ありがとう。新しい手伝いさんかい。今日一番早い配達だよ」
「先ほど出たばかりですが」
「ならよほど足が速いね」
番頭は笑い、中に引っ込んでいった。
帰り道、雪乃は少し寄り道をした。
任務だ。町の地理を把握することは、潜入任務の基本である。路地を確かめ、抜け道を探し、どこに人が集まりどこに人がいないか。猫又坂は複雑な造りをしていた。坂道を基軸に、横に細い路地が枝分かれし、その先に小さな広場があったり、突然行き止まりになったりする。
そういう路地を歩いているとき、雪乃は気づいた。
路地の隅で、小さなものが動いていた。
影に身を潜める前に、目を凝らす。
木箱の陰から覗いているのは、拳ほどの大きさの人形だった。歌舞伎の衣装を纏い、白い面をつけた、からくり人形のようだ。こちらに気づいたのか、すぐに木箱の後ろへ引っ込む。ただの置き物が転がっているのかと思ったが、違う。確かに、動いた。
雪乃はゆっくりと近づいた。
木箱の後ろに回ると、人形はいなかった。路地の奥へ通じる細い隙間がある。そこを通って逃げたらしい。
からくり人形が、人目を避けて動いている。
偶然かもしれない。ただの迷子のからくり玩具かもしれない。
だが、雪乃の勘は微かに警戒の声を上げた。任務の中で培った、根拠のない確信の種類のものだ。
しばらく路地を見ていたが、人形は戻ってこなかった。
雪乃は引き返した。今日のところは記憶に留めるだけでいい。
ただ、ひとつだけ気になることがあった。
人形が逃げ込んだ隙間の奥から、かすかに油の匂いがした。新しい油ではない。長いあいだ閉じられていた金具を、無理に動かしたときのような、古く重い匂いだった。
猫又坂の地下に、何かがある。
根拠はない。だが雪乃の中で、その感覚だけが小さく残った。
月見庵に戻ると、店はまた客で賑わっていた。
雪乃が暖簾をくぐって中に入ろうとすると、こはくが振り返った。
「おかえりなさい」
ごく自然に、当たり前のように言った。
雪乃は一瞬、足が止まった。
「……ただいま、戻りました」
答えながら、妙な感覚があった。胸のどこかが、ほんの少しだけ、脈拍とは無関係に揺れた気がした。
おかえり、と言われることが、これほど自然に響いたことが、今まであっただろうか。
雪乃はその感覚をすぐに棚の奥にしまった。任務中に個人的な感慨を抱くのは未熟の証だ。冷静に、淡々と。それが忍びのあるべき姿である。
「またたび湯に届けてきました」
「ありがとうございます。道は分かりましたか」
「問題ありません」
「よかった。お銀さんが夕方の仕込みを手伝ってほしいって言ってましたよ。大根を切るのと、鍋の番です」
雪乃は頷き、調理場に向かった。
翌朝から、雪乃の評判が立ち始めた。
発端は、またたび湯への配達だった。
その日の午後、こはくから同じ頼まれ事をされた雪乃は、前日の道を頭に入れていたので迷わず歩いた。ただ今日は、途中で急な坂がひどく混んでいた。荷を抱えた商人、子ども、休憩中の旅人。団子の包みを抱えたままでは時間がかかる。
雪乃は少し考えて、路地に入った。
そして、屋根に上がった。
別に、深く考えたわけではない。ただ、屋根伝いの方が早いというだけだ。忍びにとって、屋根は道の一部だ。瓦の上を音もなく走り、向こう側の路地へ降りる。またたび湯の裏手へ回り込み、配達の口へ包みを渡す。往復で、前日の半分も時間はかからなかった。
それが、誰かに見られていたらしい。
翌日の昼、月見庵に客が来た。
「昨日、屋根の上を飛んでいく娘を見たが、あれはここの子かい」
お銀は眉一つ動かさなかった。こはくは楽しそうに笑った。雪乃は内心で頭を抱えた。
「月見庵に、すごい新入りが来た」
という噂は、猫又坂の狭い宿場町において翌日には広まっていた。
「屋根を走れるくノ一が来た」という話が、なぜか「空を飛べる茶屋の娘が来た」に変わり、「神通力のある旅人が月見庵に住み着いた」になり、最終的に「月見庵は御利益のある茶屋だ」という噂になった。
客が、増えた。
「雪乃さんのおかげですよ。すごいですね」
こはくは褒める。
「……全くすごくありません」
「雪乃さんみたいに屋根を走れる人がいても、この町では『得意技のある人』くらいにしか思われませんよ。妖怪もいますから」
「それはそれで複雑な気持ちです」
雪乃は渋い顔をした。こはくはくすくす笑った。
ただ、客が増えたことで月見庵の忙しさは倍になった。
こはくは接客、お銀は調理、雪乃は洗い物と配達と、頼まれれば力仕事もこなす。昼の最も混む時刻には、縁台に座りきれない客が店の前に立って待つこともあった。
「こはくさん、出前は行けますか? 宿まで持ってきてくれると助かるんだが」
客の一人が言った。
「承ります。少々お待ちください」
こはくが笑って振り返り、雪乃を見た。
「雪乃さん、お願いできますか」
雪乃は頷いた。
出前、というものを雪乃は初めてやった。
重箱に団子と茶菓子を詰め、風呂敷で包んで抱える。客の泊まる宿は、猫又坂の坂を下りたところにある旅籠だ。遠くはない。
ただ、昼過ぎの猫又坂は混んでいた。荷車が道を塞ぎ、立ち話をする町人が道幅を半分にしている。
雪乃は少し考えた。
こはくは「ゆっくり行ってください」と言ったが、客を待たせるのは月見庵の評判に関わる。それに、腕に抱えた重箱の重さは問題ない。両手は自由だ。
屋根でいこう、と思った。
それが一番早い。
雪乃は路地に入り、塀を蹴り、屋根に上がった。瓦を踏む感触を確かめながら、坂の下に向かって走る。猫又坂の屋根は複雑に入り組んでいるが、昨日の寄り道で地理は把握してある。旅籠の大きな屋根が見えた。そのまま滑るように裏手に回り込み、縁側から中に入った。
「月見庵から出前です」
番頭が目を丸くした。
「ど、どこから来た」
「裏手から参りました」
「だから、どこから……」
番頭は縁側の外を見た。
道はない。
雪乃は、道がないことを今さら問題にする必要はないと思った。重箱を渡し、代金を受け取り、愛想よく頭を下げた。
帰り道も屋根を走ったが、今度は少し失策があった。
着地の際に、薪置き場の屋根で滑った。音が出た。下にいた老婆が顔を上げ、雪乃と目が合った。
「……ご機嫌よう」
雪乃は丁寧に頭を下げ、路地に降りた。
老婆は「また飛んでいった」と言ったらしく、その日のうちに「月見庵の娘は、出前が光の速さで届く」という噂が加わった。ついでに「団子を食べると足が速くなる」という話まで混じっていた。
こはくは否定したが、足腰に不安のある老人が二人、きなこ団子を追加で注文した。
夕方の閉店後、こはくと雪乃は店の後片付けをした。
こはくは串を洗いながら、鼻歌を歌っていた。雪乃は板の間を拭きながら、それを聞いていた。特に意識していたわけではない。ただ、耳に入ってきた。
「楽しそうですね」
気がつくと、声に出していた。
こはくが振り返った。
「そうですか? 楽しいですよ。雪乃さんが来てから、お客さんも増えたし、忙しくはなったけど、活気があって好きです」
「私のせいで忙しくなったなら、申し訳ありません」
「謝らなくていいですよ。嬉しい忙しさです」
こはくはそう言って、また串を洗った。
雪乃はしばらく黙って板の間を拭いていた。
ここまでの日々を振り返ると、任務の進捗はほとんどない。からくり人形を路地で目撃したこと以外に、反乱計画の手がかりらしきものは何も見つかっていない。月見庵の内側も、怪しいところは今のところ何もない。ただの、繁盛している茶屋だ。
里に報告することがあるとすれば、「現在調査中。特筆すべき情報なし」という一文だけだ。
任務としては、進んでいない。
それなのに、月見庵で過ごす時間が不思議と充実した気がしている。それが、雪乃には少し不可解だった。
「雪乃さん」
こはくが声をかけた。串をまとめて棚に置き、雪乃の方を向く。
「今日、出前で屋根を走ったでしょう。また噂になってましたよ」
「……承知しています」
「お客さんが喜んでたので、よかったと思いますよ。旅籠の番頭さんが、速くて助かったって言ってました」
こはくは少しだけ頭を傾けて、雪乃を見た。
「雪乃さんって、やっぱり普通の旅人じゃないですよね」
雪乃は動かなかった。
布巾を持つ手は止めず、視線もそらさず、平静を保った。それが自分にできる最善だった。
「……何をもって、そう思うのですか」
「うーん……特別何かがあるわけじゃないんですけど、なんとなく、です。雪乃さんはどこか、周りをずっと見ている感じがするので」
「旅人は用心深いものです」
「そうですね」
こはくはあっさり頷いた。追及を続ける気はないらしい。
「まあ、事情があるなら聞きません。うちに来てくれたのは嬉しいので、それで十分です」
雪乃は少し、答えに詰まった。
こはくは相手を追い詰めない。踏み込みそうになって止まる。それが計算なのか天性なのか、雪乃には判断がつかない。だが、どちらにしても、雪乃にとっては扱いにくい相手だ。
警戒を解かせてしまう。それが、一番やっかいだった。
「……こはくさんは」
雪乃は、自分でも意外なことに、口を開いた。
「この町に来る前は、どこにいたのですか?」
こはくは少し黙った。ほんの一瞬だが、雪乃の目には分かった。何かが、かげった。
「遠いところです。ここより、ずっと不便な場所でした」
「家族は」
「……いません。今は、ここがうちです」
声は明るいままだった。だが、さっきの一瞬は確かにあった。
雪乃は深く問わなかった。自分も聞かれたくないことがある。それと同じだと思ったからだ。
「そうですか」
それだけ言って、雪乃は板の間を拭き続けた。
しばらく、二人は黙って片付けをした。鍋のカチャカチャという音と、遠くの川の音だけが聞こえた。
居心地が悪いわけではなかった。
ただの沈黙だったが、雪乃はそれをしばらく、ただの沈黙として受け取っていた。
その夜、雪乃は部屋で昼間の路地のことを考えた。
からくり人形が、人目を避けて動いていた。
猫又坂では妖怪も動くし、からくり細工を扱う店もある。それ自体は珍しいことではないかもしれない。だが、あの人形には不自然なところがあった。逃げた、という点だ。
ただのからくり玩具は、人から逃げない。
それに、逃げた速さがある。一瞬で隙間に入り込んだ。精緻な動きだった。普通の玩具ではないと、体の感覚が言っていた。
雪乃は文机に向かい、小さな紙に記した。
見聞きしたことを書き留めるのは里での習慣だ。任務の記録になるし、思考を整理する助けにもなる。
からくり人形・白面・歌舞伎衣装。南側路地。人目を避けた動き。追跡できず。
それだけ書いて、紙をたたんだ。
証拠とも言えないが、最初の手がかりの欠片ではある。
雪乃は布団に横になり、天井を見た。
今日も、忙しかった。掃除、配達、出前、洗い物、夕方の仕込み手伝い。こういう時間の使い方は、里では考えられなかった。訓練か、実戦か、待機か。それが雪乃の知っている暮らしの形だった。
けれど、料理の香りと客の声と、こはくの鼻歌と、お銀の短い言葉で満ちた時間は、全く別のものだった。
悪くない、と思った。
思ってから、少し驚いた。
任務中に「悪くない」などと思うのは、油断だ。好ましく感じれば感じるほど、判断が鈍る。それは里で何度も言われたことだ。
だが、悪くないと思ったのは、本当だった。
雪乃は目を閉じた。
明日は何の仕事が来るだろう、とぼんやり考えた。そういうことを考えながら眠りにつくのも、初めてのことだった。
春の夜の猫又坂は、どこかでまだ起きている者がいるのか、遠くにかすかな笑い声がして、それがやがて川の音に混じって消えた。
雪乃は、それを聞きながら眠った。




