一の巻 くノ一、茶屋の庭に落っこちる
屋根の上を走るとき、音を立ててはならない。
瓦を踏む足は軽く。影は月明かりの外へ。息は殺し、心は凪がせる。
それが、霧隠雪乃が幼いころから叩き込まれてきた忍びの心得だった。
だから、屋根瓦を三枚ずらし、軒先の風鈴を鳴らし、しまいには干してあった大根を巻き込んで茶屋の裏庭へ落ちたのは、完全に不覚だった。
「……任務に支障なし」
誰にともなく言い訳をして、雪乃は仰向けのまま夜空を見上げた。
春先の月は白く、どこか団子に似ていた。そんなことを考えてしまった時点で、空腹もまた任務に支障をきたしているのかもしれない。
潜入先は、街道沿いの宿場町・猫又坂。人と妖が知らないふりで隣り合い、湯けむりと提灯の明かりが夜ごと坂道を満たす町。その中心にある茶屋「月見庵」を探れ。
それが、雪乃に与えられた命だった。
雪乃は身を起こそうとして、頭の上に何かが乗っていることに気づいた。干し大根だった。
忍びとして、あまりに不名誉な姿である。
「ええと……」
ふいに、頭上から声がした。雪乃は反射的に懐へ手を入れ、手裏剣に指をかける。
塀の向こうから、提灯を手にした少女がこちらをのぞき込んでいた。丸い目。柔らかそうな髪。夜の闇の中でも、なぜかあたたかく見える笑顔。
「お客さん……では、なさそうですね」
少女は少し考えてから、にこりと笑った。
「でも、お腹は空いてそうです」
「……」
雪乃は、干し大根を頭から取り除いた。
干し大根は、思ったより立派だった。
任務の記録に残すべきか、雪乃は一瞬だけ迷った。
残さないことにした。
どうしてこんな状況になったのか。少し、話を遡る必要がある。
忍びの里を発ったのは、昨日の夜のことだ。
里長から直々に任務を言い渡されたとき、雪乃は正直なところ驚いた。潜入調査は先輩のくノ一に任せることが多く、十六歳の雪乃のような若手は主に訓練か、近辺の見張りに回されるのが常だったからだ。
「猫又坂に、妖怪とからくりを使った反乱計画があるという情報が入った。月見庵という茶屋が拠点になっているとも聞く。旅の者に扮し、内部から調べよ。くれぐれも正体を悟られるな」
雪乃は頭を下げ、「御意」と答えた。
心に波風は立てない。それも忍びの心得である。
ただひとつだけ、頭の隅に引っかかったことがある。猫又坂は、人と妖怪が共存する温泉の町だと聞いていた。任務の資料には、坂道を包む湯けむりと、朝霧の白さについて書かれた古い記事が挟まれていた。
それを読んだとき、なぜか少しだけ胸がほどけた気がしたが、雪乃はとうとう里を出るまで、その理由を考えないようにした。
道中は順調だった。三十里あまりの山道も、忍びの足であれば半日に満たない。街道を避け、杉林と沢筋を縫うように走った。雪乃は得意なのだ、こういうことが。孤独な移動、正確な方位、体一つで自然の中を進むこと。
問題は、猫又坂に入ってからだった。
宿場町は、想像より賑やかだった。
夜のことを考えていたくせに、まず昼間から人がいる。街道に面した茶屋や土産物屋は軒を連ね、旅籠からは笑い声と湯の香りが漏れている。妖怪の姿もある。狸らしき者が酒屋の暖簾を出し、小鬼が荷車を引いている。皆、当たり前の顔で当たり前のように町に混じっていた。
雪乃はその賑わいの端で、少しだけ立ち止まった。
なぜ立ち止まったのか、自分でも分からない。ただ、提灯の橙色と湯けむりの白が坂道の上に重なる光景が、どこか胸をざわつかせた。
忍びとして、情報収集に徹するべき状況である。感傷は後回しにすべきだ。
雪乃は意識を切り替え、月見庵を探して坂を上った。
茶屋はすぐに分かった。坂の中ほど、古い梅の木を横に従えた小さな店だ。店の前には「月見庵」と書かれた行灯が下がり、まだ昼過ぎだというのに、縁台に客が三人ばかり座って団子を食べている。
雪乃は少し離れた場所から様子を見た。
看板娘らしい少女が、団子の皿を運んでいる。年は雪乃と同じくらいか、少し下。淡い栗色の髪を肩のあたりで結び、薄桃色の前掛けをしていた。足取りは軽く、客との距離の取り方がうまい。皿を置く角度、声をかける間、笑うタイミング。そのどれもが自然で、店に立つことに慣れているのが分かった。明るい声で客に話しかけ、何かを言っては笑い声を引き出している。奥から、女将らしき大柄な女性が顔を出し、少女に何かを言いつけた。
怪しい様子は、ない。
だが、怪しい様子がない場所ほど内側に何かが潜んでいる。それも里での教えだ。
雪乃は夜まで待つことにした。
ところが、夜になって問題が起きた。
腹が、鳴った。
朝から何も食べていない。道中は任務に集中していた。猫又坂に着いてからも、潜入のタイミングを計りながらずっと物陰にいた。気力と体術でどうにかなると思っていたが、夜の帳が下りたあたりで限界が来た。
空腹は、忍術でごまかせない。それだけは里でも教わらなかった。
雪乃は腹を押さえながら、夜の町を見回した。
猫又坂の夜は、昼より少し賑やかだ。提灯が自分で歩いている。猫が塀の上で妙に人間めいた座り方をしている。どこかから三味線の音が聞こえ、川の方からは水の戯れるような声がする。
月見庵には、まだ明かりがある。
雪乃は屋根伝いに近づくことにした。夜目は利く。気配を殺す術は得意だ。まず屋根から内部を窺い、それから状況を判断しようと思った。
そして、失敗した。
古い宿場町の屋根は、里の訓練場のものとは勝手が違う。猫又坂の瓦は年代物で、踏む角度によって簡単にずれる。軒先の風鈴は、存在を確認する前に触れてしまった。そして大根は、まさか干してあるとは思っていなかった。
裏庭に落ちたとき、音はそれほど大きくなかったと思う。だが、体の節々が痛み、頭に大根が乗っており、腹の減りは変わらない。
任務は、始まる前から雲行きが怪しかった。
「どうぞ」
先ほどの少女は縁台に雪乃を座らせ、茶と団子を持ってきた。きなこのかかった、丸くて素直な形の団子である。
雪乃は膝の上に手を置き、乱れた袖をそっと直した。旅装束は土で少し汚れ、肩のあたりには干し大根の葉がまだ一枚くっついている。黒髪は背の半ばで結んでいたが、落ちた拍子にいくらかほつれて、頬の横に細い毛束がかかっていた。目つきはまっすぐで、表情は硬い。けれど、団子を前にした瞬間だけ、その硬さがほんの少し揺らいだ。
雪乃はそれを見て、一瞬だけ迷った。
「私は、ただの旅の者です。お代はお支払いします」
「旅の者が裏庭に降ってきたんですか」
少女は首を傾けながら、どこか楽しそうに目を細めた。
「事情があるなら、聞きません。大丈夫です、うち、怪しい人も変な人も歓迎なので」
「……変な人扱いは心外です」
「でも、屋根から大根と一緒に落ちてきた人が怒るのはおかしいと思いますよ」
言い返せなかった。
雪乃は黙って頭を下げ、団子を一口食べた。
甘かった。きなこの香りが鼻に抜け、柔らかな餅が舌に溶けた。空腹のせいだけではなく、本当に美味い。雪乃はもう一口食べ、それから少し落ち着いた気持ちで少女を見た。
「……お名前を聞いても」
「こはくです。月見庵の看板娘ですよ」
こはくは名乗ってから、にっこりとした。
「あなたは?」
「雪乃、と言います。霧隠雪乃」
「雪乃さん。いい名前ですね」
こはくはそれだけ言って、空になった茶碗に茶を継ぎ足した。
名前を褒められたのは、いつぶりだろうと雪乃は思った。里では名よりも役割で呼ばれることが多かった。
問題は、次に起きた。
縁台の雪乃に、奥から声がかかったのである。
「こはく、何してる」
戸が開き、先ほど店の奥にいた女性が顔を出した。四十を少し過ぎたくらいか、髪を高く結い上げ、前掛けに手を拭いながらこちらを見ている。目つきは鋭く、何かを計るような眼差しだった。
こはくが「裏庭に落ちてきたお客さんです」と説明するより先に、女将は雪乃をまじまじと見た。
「……旅の者か」
雪乃は頭を下げた。
「はい。猫又坂を通りかかった者です。ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない。ただ、妙な落ち方をするもんだ」
女将は少しの間、黙って雪乃を見た。
雪乃は目を伏せず、まっすぐ視線を返した。里で教わった通り、潜入中に怪しまれたなら堂々としていることが最も疑いを薄める。
女将は小さく鼻を鳴らした。
「お銀だ。この店の女将をやってる。あんた、今夜の宿はあるか」
「まだ決めておりません」
「そうか。ならうちに泊まりな。安くはないが、妙なところよりましだ」
雪乃は少し驚いた。ずいぶん話が早い。
「ですが、私はただの旅人で……」
「旅人が裏庭で仰向けになってたことは、今夜限りで忘れてやる。飯も出す。その代わり、朝は早い。文句があるか」
文句があるわけがなかった。むしろ、これ以上ない好条件だった。飯が出る。宿もある。調査対象の内側にも入れる。忍びの心得にはなかったが、雪乃はこの状況を「完全勝利」と判断した。ただし、頭の干し大根の件を除けば。
ともあれ、調査対象の店に正当な理由で入り込める。
それでも雪乃は一瞬、ためらった。
お銀の目が、何かを見通しているような気がしたからだ。怪しんでいるわけではないかもしれない。ただ、深くを読もうとしている種類の眼差しがある。
それは、里の上の者が持つ目に、少し似ていた。
「……お世話になります」
雪乃は、頭をぺこりと下げた。
店の奥に続く居間には、小さな囲炉裏がある。こはくは夜の仕込みをしながら、ときどき火を確かめた。お銀は帳簿を広げ、筆を走らせていた。
雪乃は隅に座り、静かにしていた。
こういう場所が、苦手だった。
緊張しているのではない。ただ、どこにいればいいか分からない。里では部屋も役割も決まっていた。飯を食う場所も、眠る場所も、全部決まっていた。こういう、誰かの生活の中に混じるということを、雪乃はあまりしたことがない。
「雪乃さん、これ食べますか」
こはくが、小さな皿を差し出してきた。山菜を炒めたものだ。
「仕込みで余ったやつです。捨てるのも勿体ないので」
「……いただきます」
「山菜、好きですか」
「嫌いではありません」
雪乃は素直に受け取り、箸をつけた。
味がちゃんとしていた。きちんと調味されており、山菜の苦みが活きている。こはくは料理が上手いらしい。
「雪乃さん、どこから来たんですか?」
「……山の方から」
「猫又坂に何か用事が?」
「少し、調べたいことがあって」
曖昧に答えても、こはくは深く追わなかった。代わりに、自分のことを話した。
月見庵に来てもう三年になること。猫又坂は不思議な町だけど居心地がいいこと。一番好きな仕事は、お客さんが団子を食べて「美味い」と言う顔を見ることだということ。
雪乃は聞きながら、こはくの声が思ったより心地よいことに気づいた。
高すぎず、低すぎず。話の速さが均一で、聞いていて疲れない。
「猫又坂には変わったことが多いですよ。夜になると提灯が一人で歩くし、川の方から変な声がするし、先月は温泉宿で幽霊が出たって騒ぎがありましたし」
「幽霊、ですか」
「まあ、たぶん違うと思いますけど」
こはくはあっさりと言った。
「でも、不思議があった方が楽しいじゃないですか。毎日同じだと、飽きますよね」
「……そういうものでしょうか」
雪乃には、よく分からなかった。里での日々は、毎日同じだった。それが当然だと思っていた。変化は任務の中にしかなく、それも楽しむためのものではなく、こなすためのものだった。
「雪乃さんは、楽しいって思うことありますか」
こはくが不意に訊いた。
「……考えたことが、なかったかもしれません」
「そうですか」
こはくは特に不思議がることもなく、炉の火を直した。
「じゃあ、猫又坂にいる間に、少し考えてみてください。この町、案外そういうのが見つかる場所ですよ」
雪乃は答えなかった。
何と言えばいいか分からなかったのと、こはくの言葉が予想外に胸に刺さったのとで、少しの間、言葉を失っていた。
その夜、雪乃は月見庵の裏手にある小さな湯殿を使わせてもらった。
五右衛門風呂だった。丸い鉄の風呂釜に、木の板を沈めて入る形で、雪乃は最初、その板をどう扱えばいいのか少し迷った。
「雪乃さん、湯加減いかがですか?」
戸の向こうから、こはくの声がした。
「少し、熱いです」
「すみません。猫又坂のお湯、少し熱めなんです。水を足してください」
「承知しました」
雪乃は桶で水を足し、もう一度そっと足を入れた。
湯はまだ熱かったが、山道と屋根と裏庭への落下でこわばっていた体には、じわじわと染みた。
忍びの里にも湯浴みの場はあった。だが、そこは体を洗うための場所で、こうして誰かに湯加減を訊かれる場所ではなかった。
戸の向こうで、こはくが「無理しないでくださいね」と言った。
雪乃は湯の中で、少しだけ返事が遅れた。
「……はい」
湯けむりの向こうで、自分がどこか知らない場所に来てしまったことを、雪乃はようやく実感した。
風呂から上がると、こはくが廊下で待っていた。
「お部屋、二階に用意してあります。狭いですけど、布団はちゃんと干してありますから」
「ありがとうございます」
風呂から上がっても、体の奥に湯の温かさが残っていた。
その夜の月見庵は、表から見るよりずっと温かかった。
雪乃は、月見庵の二階の小部屋をあてがわれた。
古い建付けの引き戸、丸窓から見える梅の木の影、燭台に揺れる小さな炎。部屋は狭く、荷物を置けばほとんど余白がない。だが清潔で、布団は干した香りがした。
雪乃は布団の上に正座して、任務の整理をした。
潜入は成功した。月見庵に入り込むことができた。女将のお銀は、雪乃の正体に勘づいているかもしれないが、今のところ穏やかだ。看板娘のこはくは──
雪乃はそこで、少し止まった。
こはくは、警戒するべき対象だ。調査対象の茶屋の看板娘であり、何らかの計画に関わっている可能性がある。だから動向を監視し、言動の裏を読まなければならない。
頭では分かっている。
ただ、さきほどの山菜の味が、まだ舌に残っていた。
雪乃はそっと息を吐き、横になった。
窓の外で、梅の枝が春風に揺れている。どこか遠くで、川の音がする。提灯が一つ、坂道をふらふらと歩いていった。
猫又坂の夜は、里よりずっと音が多い。だがうるさくなく、どこか柔らかい音だった。
任務は、始まったばかりだ。
雪乃は目を閉じ、明日のことを考えた。
ただ眠りに落ちる前のほんの一瞬、こはくが笑いかけた顔が、なぜか浮かんできた。
忍びとして、まずい傾向だと思った。
だがもう、雪乃は眠っていた。
翌朝、雪乃が目覚めたのは、日の出よりも早い時刻だった。
忍びの習慣である。里では夜明け前から修練が始まる。体が勝手に起きる。
しかし起き上がって気づいた。ここは里ではない。
雪乃は窓を少し開け、外を見た。
猫又坂の朝は、静かだった。霧が坂道の低い場所に溜まり、温泉から立つ湯けむりと混じって、町全体がぼんやりと白く霞んでいる。遠くで鳥が鳴いた。
美しいと思った。それも、考えてから気づくのではなく、見た瞬間に思った。
「早いですね」
声がして、雪乃は振り向いた。
廊下に、こはくが立っていた。両手に盆を持っており、湯気の立つ茶碗と、白い饅頭が乗っている。
「お銀さんが、目が覚めたなら朝ごはんの前にこれを持って行けって」
「……まだ夜明け前ですが」
「こはくさんも早起きなんですか、って訊こうとしたでしょう。わたしはいつもこのくらいに仕込みの準備をするんです」
雪乃が言う前に言い当てられ、少し口をつぐんだ。
「どうぞ」
こはくは盆を差し出した。饅頭は温かく、手の中でほわほわとしていた。
「猫又坂の朝、きれいでしょう。霧が出る日は特にそうなんです」
こはくは窓の外を見た。横顔に、霧の白さが映っている。
「わたし、この景色がとても好きで。毎朝見るのに、毎朝新しい感じがします」
雪乃は答えなかった。
ただ、こはくの言う意味が、少しだけ分かる気がした。
「雪乃さん」
こはくが振り返った。
「もし、働き口を探してるなら、うちで手伝いをしませんか。お銀さんも、さっき同じことを言ってたんです。よかったら、少し考えてみてください」
雪乃は、饅頭を持ったまま少し黙った。
断る理由は、ない。むしろ渡りに船だ。月見庵の内側に入れるなら、調査は格段にやりやすくなる。任務を考えれば、即座に受けるべきだ。
だから雪乃は、頷いた。
任務のために。当然、そのために。
「……お世話になります」
そう言いながら、なぜか少しだけ、胸の奥が軽くなった気がした。
雪乃はその感覚の意味を考えようとして、やめた。
任務中に余計なことを考えるのは、忍びとして未熟だからだ。
朝霧の中、月見庵の一日が始まった。




