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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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19/22

十九の巻 狐火と、ただのこはく

 玄斎が月見庵に来てから、三日が経った。

 その間、玄斎は薪割りを覚え、帳簿を確かめ、昼の片付けを手伝った。最初の日は薪割りに時間がかかり、お銀に「腕の使い方が違う」と言われて黙って教わっていた。二日目は少し慣れた。三日目は、雪乃より早く終わらせた。

「からくりの設計ができる人は、手の動かし方を理解するのが早い」

鈴音が感心した顔で言った。

「褒めているのか」

「褒めています」

「からかっているのかと思った」

「両方です」

 玄斎は鈴音を見た。鈴音は既に次の発明の作業に入っており、玄斎のことを見ていなかった。


 三日目の夕方、たまが来た。

 裏庭に雪乃とこはくがいると、たまが縁台に座った。

「封印の状態を確かめた」

「どうでしたか」

雪乃が訊いた。

「こはくが強化した封印は、しっかり機能している。ただ」

「ただ」

「永久に続くものではない。時間が経てば、少しずつ弱まる。強化の効果は、おそらく半年ほどで元の状態に戻る」

「半年後には、また強化が必要ですか」

「そうじゃ。こはくが定期的にやれば、封印は保てる。ただ、根本的な解決には、別の方法が要る」

「根本的な解決とは」

「仕掛けの中枢を、永続的に止めることじゃ。起動できない状態にするか、あるいは仕掛けそのものを解体するか」

「解体できますか」

「できるかもしれない。ただ、解体すれば温泉も止まる。この町の温泉は、仕掛けが動いているから出ている。解体すれば、温泉が消える」

 雪乃は少し考えた。

「玄斎さんに相談すべき話かもしれません」

「そうじゃの。あの男は仕掛けをよく知っている。解体せずに、温泉を保ちながら起動を不可能にする方法を、知っているかもしれない」

「話してみます」

「それともう一つ」

たまはこはくを見た。

「こはくよ」

「はい」

「封印の強化を、もう一度やってみるつもりはあるか」

「はい。必要なら、いつでも」

「今夜、やってみたい。前回より落ち着いた状態でやれば、より深く強化できると思う。玄斎が圧力をかけていない今の状態で、こはくの力がどこまで届くか、確かめておきたいのじゃ」

「今夜でいいです」

「地下に降りることになる。雪乃も来るか」

「来ます」


 夜、三人で地下に降りた。

 水路を通り、歯車の広間を抜け、中枢の空間に入った。

 歯車は止まっていた。管の振動も静かだ。新月の夜の騒動から三日が経ち、地下は落ち着いていた。

 こはくは台の前に立った。

 たまが言った。

「前回と同じように。ただし、今回は急がなくていい。丁寧に、奥まで届けることを意識しろ」

「奥まで、というのは」

「封印の中心じゃ。前回は外側を強化した。今回は、中心まで届けることができれば、より深く固まる」

「中心がどこか、分かりますか」

「感じれば分かる。光を灯したとき、どこかに引っ張られる感覚があるはずじゃ」

「やってみます」

 こはくは目を閉じた。

 雪乃は少し後ろに立ち、見ていた。

 光が現れた。今回は最初から安定していた。練習の成果だ。こはくの手のひらに、青白い光が穏やかに宿った。

 こはくが台に手を当てた。

 光が台に移った。

 台の表面を伝い、刻み目の中に入っていく。前回より速く、深く入っていく。

 しばらく経って、こはくが言った。

「引っ張られる感覚があります。ここの奥の方から」

「そこに向かって届けろ。押し込むのではなく、向かっていくように」

「向かっていく」

 光が、台の奥へ進んだ。

 歯車の広間の方まで、かすかな光が届いた。

 そして、止まった。

「届きません」

こはくが言った。

「どこまで届いたか」

「台の、半分くらいまで。それより奥に、何かがあって、進めない感じがします」

「何かとは」

「固いものではなくて、揺れているものです。不安定な感じで」

「それが封印の中心じゃ。百年前に封じた術が、今も動いている。揺れているのは、仕掛けからの圧力をずっと受けているからじゃ」

「揺れているから、近づけない」

「揺れているから、近づきにくい。難しいのは、揺れに合わせて入っていくことじゃ」

「揺れに合わせる」

「波のようなものじゃ。引いたとき、そこに入れ。押し寄せるときは、待て」

 こはくは黙った。

 台の光が、揺れ始めた。リズムを探っているように見えた。

 雪乃はこはくを見ていた。

 こはくの顔は、集中している顔だった。眉が少し寄り、口元が引き締まっている。だが、焦りはない。先日の練習から、こはくの落ち着き方が変わっていた。

 光が、また動いた。

 奥へ、少し進んだ。

 止まった。

「引いたとき、です。感じますが、引くタイミングが早いです」

 こはくが伝える。

「もう少し待て。引いてから、一拍おいて」

「一拍おいて」

 次の試みで、光が奥に入った。

 台全体が、青白く光った。


 それは、一瞬のことだった。

 台だけでなく、壁の刻み目まで光が広がった。地下の空間全体が、穏やかに照らされた。

 それから、光がゆっくりと消えた。

 こはくが手を台から離した。

 一歩後退り、壁に背を当てた。

「できました」

こはくは疲れた声だったが、穏やかだった。

「感じるか」

たまが訊いた。

「はい。前より、しっかりしています。固い感じがします」

「よくやった」

 たまは珍しく、すぐに言った。

「これで、半年どころか、もっと保つかもしれない。こはくの力は、思っていたより深いところまで届く」

「たまさんも、知らなかったのですか」

「知らなかった。こはくがここまでできるとは、正直、思っていなかった」

「思っていなかった、とはっきり言うのですね」

「そういうものじゃ。できるかどうかは、やってみないと分からない。お前はやった。それが大事じゃ」

 こはくは少し笑った。

「ありがとうございます、たまさん」

「礼はいい。だが、まだ終わりではないぞ。仕掛けの根本的な解決は、これからじゃ」

「玄斎さんと話します」

「そうじゃ」


 地下から出ると、夜風が冷たかった。

 春が終わり、夏が近づいている。夜の風はまだ涼しく、猫又坂の石畳を吹き渡っていた。

 三人は月見庵に戻った。

 玄斎が縁台にいた。

 こはくを見て、少し何かを言いかけた。

「地下から来たのか」

「はい。封印を強化してきました。たまさんに教えてもらいながら」

「どうだった」

「今回は中心まで届きました」

 玄斎はしばらく黙った。

「中心まで届いたなら、今の俺の手段では解けない。おそらく、かなり長い時間、保つ」

「たまさんもそう言っていました。ただ、根本的な解決には、仕掛けをどうにかする必要があると」

「解体の話か」

「温泉が止まることは困ります。それ以外の方法がありますか」

 玄斎は少し考えた。

「一つ、方法がある」

「何ですか」

「仕掛けの起動部分だけを切り離すことじゃ。温泉を動かす部分は残したまま、移動に関わる歯車系だけを外す。設計図が残っているなら、できるかもしれない」

「設計図はありますか」

「ない。だが、実物を見れば、どこを外せばいいか分かる。鈴音に手伝ってもらえれば、可能だと思う」

「鈴音さんは喜んで手伝うと思います」

「爆発はしないか」

「します、たぶん」

「困る」

「小さい爆発だとご本人は言っています」

「それが不安だ」

 こはくが笑った。雪乃も少し笑った。

「一緒に考えてもらえますか。鈴音さんと、玄斎さんと、三人で」

「からくりの専門家が二人で作業するのか」

「喧嘩しそうですか」

「喧嘩はしない。ただ、意見が分かれるかもしれない」

「分かれてから考えましょう」

 玄斎は少し間を置いた。

「分かった。明日、鈴音と話す」


 玄斎が帳場に入り、お銀と明日の作業の話をしに行った。

 縁台に、雪乃とこはくが残った。

「疲れましたか?」

雪乃が訊いた。

「少し。でも、悪くない疲れです」

「そうですか」

「頑張ったあとの疲れは、気持ちいいですよ。何もしていないのに疲れる疲れとは、違う感じがします」

「何もしていないのに疲れることがあるのですか」

「ありますよ。何かを我慢しているとき、誰かに気を使っているとき、気づかれないようにしているとき。そういうときは、体を動かしていなくても疲れます」

「こはくさんも、そういう疲れを感じていましたか」

「猫又坂に来る前は、毎日そういう疲れでした。正体を隠して、普通に見せて、怖がられないようにして」

「今は」

「今は、隠していないので。雪乃さんにも、たまさんにも、鈴音ちゃんにも。お銀さんも知っています。だから疲れない」

「きゅう太にも話しましたか」

「あの子は、最初から気にしていないので、話す必要がありませんでした」

「そういう気にしなさは、楽ですね」

「はい。きゅう太くんはそういう点で、いいです」

 夜風が吹いた。

 こはくが少し身を縮めた。

「寒いですか」

「少しだけ」

 雪乃は立ち上がり、店の中から薄手の羽織を持ってきて、こはくに渡した。

「ありがとうございます」

「疲れているなら、早く休んだ方がいいです」

「もう少しいます。こういう夜が、好きなので」

「こういう夜とは」

「静かで、涼しくて、話せる人が隣にいる夜です」

 雪乃は少し止まった。

「私が隣にいることが、その条件に入っていますか」

「入っています。というか、一番大事な条件です」

「そうですか」

「そうです」

こはくは前を向いたまま言った。

「雪乃さん、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「これからどうするつもりですか」

「これから、とは」

「玄斎の件が片付いて、里のこともある程度落ち着いたら、雪乃さんはどうするつもりですか」

 雪乃は少し考えた。

「ここにいます」

「ここに、というのは」

「月見庵です。お銀さんに許可をもらえれば、引き続き手伝いをします」

「お銀さんには、もう話しましたか」

「まだです」

「話した方がいいですよ。お銀さんは、雪乃さんのことを必要な人だと思っています」

「どうして分かるのですか」

「先週、わたしに言っていました。雪乃が出ていくようなことになったら、引き止めろと」

「……お銀さんが」

「はい。だから、話した方がいいです。向こうも待っていると思います」

 雪乃は月見庵の帳場の方を見た。

 お銀が帳簿を閉じるところが、窓から見えた。

「明日、話します」

「よかった」

 こはくは少し肩の力を抜いた。

「もう一つ、聞いてもいいですか」

「何でしょう」

「わたしのことは」

「こはくさんのことは、どういうことですか?」

「月見庵にいる理由の中に、わたしは入っていますか?」

 雪乃は少し間を置いた。

 長い間ではなかった。

「入っています」

「どのくらい入っていますか?」

「どのくらい、と言われても」

「大事な方から順番をつけると、何番目ですか?」

「順番はつけられません」

「なぜですか」

「月見庵にいる理由が、全部で一つのことだからです。お銀さんがいて、こはくさんがいて、町の人がいて、この場所がある。それが全部合わさって、ここにいたいという一つの理由になっています。順番をつけたら、別々になってしまいます」

 こはくはしばらく黙った。


「雪乃さんは」

「はい」

「不器用ですね」

「そうですか」

「でも、とても嬉しいです」

「どちらですか」

「両方です」

こはくは雪乃を見た。

「ありがとうございます」

「礼を言われることは言っていません」

「言っています。わたしの基準では」

「こはくさんの基準は、よく分かりません」

「分からなくていいです。わたしが嬉しいので、それで十分です」

 こはくはそこで一度、坂道の方を見た。

「わたし、月見庵では、ただのこはくでいたかったんです」

 こはくは小さく笑った。

「半妖だから優しくされるのも、半妖だから怖がられるのも、どちらも嫌でした。お銀さんの店で団子を作って、お客さんに美味しいって言ってもらって、雪乃さんにおかえりなさいって言う。そういう自分でいたかったんです」

 雪乃は何も言えなかった。

 言えないまま、夜の坂道を見た。

 提灯が坂を照らし、遠くから三味線の音がかすかに聞こえた。猫又坂の夜が続いていた。


 翌日の朝、雪乃はお銀に話した。

 帳場の前に立ち、「ここにいさせてください」と言った。

 お銀は帳簿から目を上げ、雪乃を見た。

「今まで、いたじゃないか」

「正式に、ということです。任務ではなく、住み込みの手伝いとして」

「里との関係は」

「解決していません。ただ、私は里に戻らないつもりです。問題が起きれば、そのときに対処します」

「問題が起きれば、月見庵に迷惑がかかるかもしれないが」

「はい。それでも、ここにいたいです」

 お銀はしばらく雪乃を見た。

「一つだけ聞く」

「はい」

「ここにいることを、後悔しないか」

「しません」

「確かか」

「確かです」

 お銀は少し間を置いた。

「分かった。住み込みの手伝いとして、置いてやる」

「ありがとうございます」

「礼はいい。ただし、団子を焦がしたら叱る」

「はい」

「あと」

お銀は帳簿を開いた。

「薪割りは雪乃の方が早い。玄斎の分と合わせて、毎朝頼む」

「分かりました」

「それだけだ。行け」

 雪乃は帳場を離れた。

 廊下を歩きながら、少し立ち止まった。

 里を出てから、ここまで来た。

 任務で来て、任務ではなくなって、それでもここにいる。

 里の記録には、抜け忍として残るかもしれない。罰が来るかもしれない。問題が起きれば、そのときに対処する。

 だが今は、月見庵にいる。

 それが、今の雪乃の場所だった。


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