十九の巻 狐火と、ただのこはく
玄斎が月見庵に来てから、三日が経った。
その間、玄斎は薪割りを覚え、帳簿を確かめ、昼の片付けを手伝った。最初の日は薪割りに時間がかかり、お銀に「腕の使い方が違う」と言われて黙って教わっていた。二日目は少し慣れた。三日目は、雪乃より早く終わらせた。
「からくりの設計ができる人は、手の動かし方を理解するのが早い」
鈴音が感心した顔で言った。
「褒めているのか」
「褒めています」
「からかっているのかと思った」
「両方です」
玄斎は鈴音を見た。鈴音は既に次の発明の作業に入っており、玄斎のことを見ていなかった。
三日目の夕方、たまが来た。
裏庭に雪乃とこはくがいると、たまが縁台に座った。
「封印の状態を確かめた」
「どうでしたか」
雪乃が訊いた。
「こはくが強化した封印は、しっかり機能している。ただ」
「ただ」
「永久に続くものではない。時間が経てば、少しずつ弱まる。強化の効果は、おそらく半年ほどで元の状態に戻る」
「半年後には、また強化が必要ですか」
「そうじゃ。こはくが定期的にやれば、封印は保てる。ただ、根本的な解決には、別の方法が要る」
「根本的な解決とは」
「仕掛けの中枢を、永続的に止めることじゃ。起動できない状態にするか、あるいは仕掛けそのものを解体するか」
「解体できますか」
「できるかもしれない。ただ、解体すれば温泉も止まる。この町の温泉は、仕掛けが動いているから出ている。解体すれば、温泉が消える」
雪乃は少し考えた。
「玄斎さんに相談すべき話かもしれません」
「そうじゃの。あの男は仕掛けをよく知っている。解体せずに、温泉を保ちながら起動を不可能にする方法を、知っているかもしれない」
「話してみます」
「それともう一つ」
たまはこはくを見た。
「こはくよ」
「はい」
「封印の強化を、もう一度やってみるつもりはあるか」
「はい。必要なら、いつでも」
「今夜、やってみたい。前回より落ち着いた状態でやれば、より深く強化できると思う。玄斎が圧力をかけていない今の状態で、こはくの力がどこまで届くか、確かめておきたいのじゃ」
「今夜でいいです」
「地下に降りることになる。雪乃も来るか」
「来ます」
夜、三人で地下に降りた。
水路を通り、歯車の広間を抜け、中枢の空間に入った。
歯車は止まっていた。管の振動も静かだ。新月の夜の騒動から三日が経ち、地下は落ち着いていた。
こはくは台の前に立った。
たまが言った。
「前回と同じように。ただし、今回は急がなくていい。丁寧に、奥まで届けることを意識しろ」
「奥まで、というのは」
「封印の中心じゃ。前回は外側を強化した。今回は、中心まで届けることができれば、より深く固まる」
「中心がどこか、分かりますか」
「感じれば分かる。光を灯したとき、どこかに引っ張られる感覚があるはずじゃ」
「やってみます」
こはくは目を閉じた。
雪乃は少し後ろに立ち、見ていた。
光が現れた。今回は最初から安定していた。練習の成果だ。こはくの手のひらに、青白い光が穏やかに宿った。
こはくが台に手を当てた。
光が台に移った。
台の表面を伝い、刻み目の中に入っていく。前回より速く、深く入っていく。
しばらく経って、こはくが言った。
「引っ張られる感覚があります。ここの奥の方から」
「そこに向かって届けろ。押し込むのではなく、向かっていくように」
「向かっていく」
光が、台の奥へ進んだ。
歯車の広間の方まで、かすかな光が届いた。
そして、止まった。
「届きません」
こはくが言った。
「どこまで届いたか」
「台の、半分くらいまで。それより奥に、何かがあって、進めない感じがします」
「何かとは」
「固いものではなくて、揺れているものです。不安定な感じで」
「それが封印の中心じゃ。百年前に封じた術が、今も動いている。揺れているのは、仕掛けからの圧力をずっと受けているからじゃ」
「揺れているから、近づけない」
「揺れているから、近づきにくい。難しいのは、揺れに合わせて入っていくことじゃ」
「揺れに合わせる」
「波のようなものじゃ。引いたとき、そこに入れ。押し寄せるときは、待て」
こはくは黙った。
台の光が、揺れ始めた。リズムを探っているように見えた。
雪乃はこはくを見ていた。
こはくの顔は、集中している顔だった。眉が少し寄り、口元が引き締まっている。だが、焦りはない。先日の練習から、こはくの落ち着き方が変わっていた。
光が、また動いた。
奥へ、少し進んだ。
止まった。
「引いたとき、です。感じますが、引くタイミングが早いです」
こはくが伝える。
「もう少し待て。引いてから、一拍おいて」
「一拍おいて」
次の試みで、光が奥に入った。
台全体が、青白く光った。
それは、一瞬のことだった。
台だけでなく、壁の刻み目まで光が広がった。地下の空間全体が、穏やかに照らされた。
それから、光がゆっくりと消えた。
こはくが手を台から離した。
一歩後退り、壁に背を当てた。
「できました」
こはくは疲れた声だったが、穏やかだった。
「感じるか」
たまが訊いた。
「はい。前より、しっかりしています。固い感じがします」
「よくやった」
たまは珍しく、すぐに言った。
「これで、半年どころか、もっと保つかもしれない。こはくの力は、思っていたより深いところまで届く」
「たまさんも、知らなかったのですか」
「知らなかった。こはくがここまでできるとは、正直、思っていなかった」
「思っていなかった、とはっきり言うのですね」
「そういうものじゃ。できるかどうかは、やってみないと分からない。お前はやった。それが大事じゃ」
こはくは少し笑った。
「ありがとうございます、たまさん」
「礼はいい。だが、まだ終わりではないぞ。仕掛けの根本的な解決は、これからじゃ」
「玄斎さんと話します」
「そうじゃ」
地下から出ると、夜風が冷たかった。
春が終わり、夏が近づいている。夜の風はまだ涼しく、猫又坂の石畳を吹き渡っていた。
三人は月見庵に戻った。
玄斎が縁台にいた。
こはくを見て、少し何かを言いかけた。
「地下から来たのか」
「はい。封印を強化してきました。たまさんに教えてもらいながら」
「どうだった」
「今回は中心まで届きました」
玄斎はしばらく黙った。
「中心まで届いたなら、今の俺の手段では解けない。おそらく、かなり長い時間、保つ」
「たまさんもそう言っていました。ただ、根本的な解決には、仕掛けをどうにかする必要があると」
「解体の話か」
「温泉が止まることは困ります。それ以外の方法がありますか」
玄斎は少し考えた。
「一つ、方法がある」
「何ですか」
「仕掛けの起動部分だけを切り離すことじゃ。温泉を動かす部分は残したまま、移動に関わる歯車系だけを外す。設計図が残っているなら、できるかもしれない」
「設計図はありますか」
「ない。だが、実物を見れば、どこを外せばいいか分かる。鈴音に手伝ってもらえれば、可能だと思う」
「鈴音さんは喜んで手伝うと思います」
「爆発はしないか」
「します、たぶん」
「困る」
「小さい爆発だとご本人は言っています」
「それが不安だ」
こはくが笑った。雪乃も少し笑った。
「一緒に考えてもらえますか。鈴音さんと、玄斎さんと、三人で」
「からくりの専門家が二人で作業するのか」
「喧嘩しそうですか」
「喧嘩はしない。ただ、意見が分かれるかもしれない」
「分かれてから考えましょう」
玄斎は少し間を置いた。
「分かった。明日、鈴音と話す」
玄斎が帳場に入り、お銀と明日の作業の話をしに行った。
縁台に、雪乃とこはくが残った。
「疲れましたか?」
雪乃が訊いた。
「少し。でも、悪くない疲れです」
「そうですか」
「頑張ったあとの疲れは、気持ちいいですよ。何もしていないのに疲れる疲れとは、違う感じがします」
「何もしていないのに疲れることがあるのですか」
「ありますよ。何かを我慢しているとき、誰かに気を使っているとき、気づかれないようにしているとき。そういうときは、体を動かしていなくても疲れます」
「こはくさんも、そういう疲れを感じていましたか」
「猫又坂に来る前は、毎日そういう疲れでした。正体を隠して、普通に見せて、怖がられないようにして」
「今は」
「今は、隠していないので。雪乃さんにも、たまさんにも、鈴音ちゃんにも。お銀さんも知っています。だから疲れない」
「きゅう太にも話しましたか」
「あの子は、最初から気にしていないので、話す必要がありませんでした」
「そういう気にしなさは、楽ですね」
「はい。きゅう太くんはそういう点で、いいです」
夜風が吹いた。
こはくが少し身を縮めた。
「寒いですか」
「少しだけ」
雪乃は立ち上がり、店の中から薄手の羽織を持ってきて、こはくに渡した。
「ありがとうございます」
「疲れているなら、早く休んだ方がいいです」
「もう少しいます。こういう夜が、好きなので」
「こういう夜とは」
「静かで、涼しくて、話せる人が隣にいる夜です」
雪乃は少し止まった。
「私が隣にいることが、その条件に入っていますか」
「入っています。というか、一番大事な条件です」
「そうですか」
「そうです」
こはくは前を向いたまま言った。
「雪乃さん、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「これからどうするつもりですか」
「これから、とは」
「玄斎の件が片付いて、里のこともある程度落ち着いたら、雪乃さんはどうするつもりですか」
雪乃は少し考えた。
「ここにいます」
「ここに、というのは」
「月見庵です。お銀さんに許可をもらえれば、引き続き手伝いをします」
「お銀さんには、もう話しましたか」
「まだです」
「話した方がいいですよ。お銀さんは、雪乃さんのことを必要な人だと思っています」
「どうして分かるのですか」
「先週、わたしに言っていました。雪乃が出ていくようなことになったら、引き止めろと」
「……お銀さんが」
「はい。だから、話した方がいいです。向こうも待っていると思います」
雪乃は月見庵の帳場の方を見た。
お銀が帳簿を閉じるところが、窓から見えた。
「明日、話します」
「よかった」
こはくは少し肩の力を抜いた。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「わたしのことは」
「こはくさんのことは、どういうことですか?」
「月見庵にいる理由の中に、わたしは入っていますか?」
雪乃は少し間を置いた。
長い間ではなかった。
「入っています」
「どのくらい入っていますか?」
「どのくらい、と言われても」
「大事な方から順番をつけると、何番目ですか?」
「順番はつけられません」
「なぜですか」
「月見庵にいる理由が、全部で一つのことだからです。お銀さんがいて、こはくさんがいて、町の人がいて、この場所がある。それが全部合わさって、ここにいたいという一つの理由になっています。順番をつけたら、別々になってしまいます」
こはくはしばらく黙った。
「雪乃さんは」
「はい」
「不器用ですね」
「そうですか」
「でも、とても嬉しいです」
「どちらですか」
「両方です」
こはくは雪乃を見た。
「ありがとうございます」
「礼を言われることは言っていません」
「言っています。わたしの基準では」
「こはくさんの基準は、よく分かりません」
「分からなくていいです。わたしが嬉しいので、それで十分です」
こはくはそこで一度、坂道の方を見た。
「わたし、月見庵では、ただのこはくでいたかったんです」
こはくは小さく笑った。
「半妖だから優しくされるのも、半妖だから怖がられるのも、どちらも嫌でした。お銀さんの店で団子を作って、お客さんに美味しいって言ってもらって、雪乃さんにおかえりなさいって言う。そういう自分でいたかったんです」
雪乃は何も言えなかった。
言えないまま、夜の坂道を見た。
提灯が坂を照らし、遠くから三味線の音がかすかに聞こえた。猫又坂の夜が続いていた。
翌日の朝、雪乃はお銀に話した。
帳場の前に立ち、「ここにいさせてください」と言った。
お銀は帳簿から目を上げ、雪乃を見た。
「今まで、いたじゃないか」
「正式に、ということです。任務ではなく、住み込みの手伝いとして」
「里との関係は」
「解決していません。ただ、私は里に戻らないつもりです。問題が起きれば、そのときに対処します」
「問題が起きれば、月見庵に迷惑がかかるかもしれないが」
「はい。それでも、ここにいたいです」
お銀はしばらく雪乃を見た。
「一つだけ聞く」
「はい」
「ここにいることを、後悔しないか」
「しません」
「確かか」
「確かです」
お銀は少し間を置いた。
「分かった。住み込みの手伝いとして、置いてやる」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただし、団子を焦がしたら叱る」
「はい」
「あと」
お銀は帳簿を開いた。
「薪割りは雪乃の方が早い。玄斎の分と合わせて、毎朝頼む」
「分かりました」
「それだけだ。行け」
雪乃は帳場を離れた。
廊下を歩きながら、少し立ち止まった。
里を出てから、ここまで来た。
任務で来て、任務ではなくなって、それでもここにいる。
里の記録には、抜け忍として残るかもしれない。罰が来るかもしれない。問題が起きれば、そのときに対処する。
だが今は、月見庵にいる。
それが、今の雪乃の場所だった。




