十八の巻 忍びではなく、雪乃として
新月の翌日、玄斎が来た。
昼間だった。
月見庵の前の坂道に、玄斎が一人で立っていた。からくり忍軍はいない。歯車丸もいない。黒い着物に羽の紋、それだけだった。
こはくが気づいて、雪乃を呼んだ。
雪乃が外に出ると、玄斎は坂の途中で待っていた。
「話がしたい」
「こちらへ」
雪乃はそう言い、月見庵の中を示した。
玄斎は少し意外そうな顔をしたが、入った。
板の間に座ると、こはくが茶を出した。
玄斎は茶を受け取り、一口飲んだ。何も言わなかった。
お銀が奥から出てきた。玄斎を見て、一度だけ見て、また奥に入った。
雪乃は玄斎の向かいに座った。あやめは壁際に立っていた。
「話とは」
「昨夜のことだ。封印が強化された。今の俺の手段では、解けない」
「はい」
「別の方法を探せば、時間がかかる。新月は終わった。次の好機は一月後だ」
「その間に、こちらも準備を進めます」
「分かっている」
玄斎は茶碗を見た。
「それを言いに来たわけではない」
「では、何のために」
「昨夜、お前が言ったことを考えていた」
「何を言いましたか」
「次に来るときは、この町の人々を話の場に入れろと言った」
「言いました」
「それをするつもりだ」
雪乃は少し止まった。
「本気ですか」
「本気だ。俺がこの仕掛けを起動させることで、この町がどうなるかを、住んでいる者たちに説明する。そのうえで、それでも反対するなら、俺は別の手段を探す」
「反対されたら、諦めるということですか」
「諦めるとは言っていない。別の手段を探すと言った」
「どういう意味ですか」
「この町でなくていいかもしれない、ということだ」
玄斎は少し間を置いた。
「俺の目的は、力を持つことだ。道具でなくなることだ。この町の仕掛けを使うのが最短の方法だと思っていたが、昨夜、考えが少し変わった」
「どのように」
「この町に来た、最初の理由を思い出した」
「十年前、この仕掛けを発見したときですか」
「そのとおりだ。あの頃、俺はただ面白いと思って調べていた。誰かを利用しようとか、何かを動かそうとか、そういうことは考えていなかった。ただ、こんなものが地下にあるのかと、面白かった」
玄斎は窓の外を見た。
「面白いと思えることがあったのは、里を出てから、あの頃だけだった」
「里にいる間は」
「道具だった。面白いと思う前に、次の命令が来た」
「それで、里を出た」
「出させられた、の方が正確だが」
玄斎は茶を一口飲んだ。
「お前は昨夜、里が奪ったと言った。その通りだ。だが、俺は奪われたものを取り戻すために動いていたわけではなかった。奪った者に、力を見せつけたかった。それだけだった」
「復讐ではなく、証明したかった」
「証明、か。そういう言い方もできるな」
玄斎は少し笑った。
「証明して、それからどうするつもりでしたか」
「考えていなかった」
「昨夜も、そう言っていましたね」
「そうだ」
玄斎は雪乃を見た。
「お前は、任務の先に何があると思っているか」
「今は、任務の外にいます」
「どういう意味だ」
「この町にいる理由が、任務ではなくなりました。私の意思で、ここにいます」
「意思、か」
「里を出た理由が、玄斎さんと似ているかもしれません。道具として扱われていたことに、違和感があった」
「同じではない」
「同じとは言っていません。似ていると言いました」
「お前は里を憎んでいないのか」
「憎んでいません」
「なぜだ」
「憎むより、ここで生きる方が面白いので」
玄斎は少し間を置いた。
「面白い、か」
「はい」
「それは、何がそう思わせるんだ」
雪乃は少し考えた。
「毎日、新しいことがあります。こはくさんが新しい団子を作れば、それを食べます。きゅう太が川で変なものを見つければ、見に行きます。鈴音さんが何かを爆発させれば、後片付けを手伝います。あやめさんが草餅を美味いと言えば、それを聞きます。そういうことが、毎日あります」
「それが、面白いのか」
「はい」
玄斎はしばらく雪乃を見た。
「忍びが、そういうことを言うとは思わなかった」
「私は忍びですが、今はここで生きている人間でもあります」
「忍びではなく、雪乃として生きている、ということか」
雪乃は少し止まった。
玄斎の言い方が、思っていたより正確だった。
「そうかもしれません」
玄斎は茶碗を縁台に置いた。
「一つ、頼みがある」
「何でしょう」
「この町の人々に、話をしたい。仕掛けのことと、俺のやろうとしていたことを、説明したい。お前が言った通りにする」
「それは、玄斎さんが自分でできることでは」
「できるが、お前が仲介した方が、話を聞いてもらいやすい」
「私が信頼されているとは、限りません」
「月見庵で手伝いをして、川の詰まりを直して、幽霊騒動を調べて、縁日で人形を止めた。信頼されていないとは思わないが」
雪乃は少し考えた。
「農家の男に話します。彼が決めることです」
「それで構わない」
「日時は、こちらが決めます」
「そうしてくれ」
玄斎は立ち上がった。
「もう一つ」
「何でしょう」
「歯車丸のことだ」
「歯車丸さんが、何か」
「昨夜、今夜の任務を終了すると言い、帰ってこなかった」
雪乃は少し止まった。
「帰ってこなかったとは」
「見当たらない。消えた」
こはくが奥から出てきた。
「雪乃さん、昨夜からまたたび湯の前に、変なものがいます。たまさんが言っていました」
「変なもの、とは」
「からくり人形みたいな、でも動かない何かが、温泉の端の方にいるって」
雪乃はあやめを見た。あやめは少し考えた。
「またたび湯に行ってみましょう」
またたび湯の裏手、温泉が流れ出す岩場の端に、歯車丸が立っていた。
動いていない。だが倒れてもいない。ただ、岩場の端で止まっており、目の赤い光が消えている。
雪乃が近づいた。
「歯車丸さん」
反応がなかった。
こはくが隣に来た。歯車丸を見た。
「動いていませんね」
「電池が切れたのか、故障なのか」
鈴音が言った。いつの間にか来ていた。こういうことには鼻が利く。
「見てもいいですか」
「玄斎さんに聞いた方がいいかもしれません」
「聞く」
玄斎も来ていた。
全員が岩場に集まっていた。
「見てくれ」
玄斎は鈴音に言った。
鈴音は歯車丸の背中を開けた。内部を確かめ、しばらくして言った。
「故障ではない。動力が切れている。意図的に止めた状態だと思う」
「意図的に、とは」
玄斎が問いかけた。
「自分で止めた可能性がある」
「からくりが、自分で止まることはない」
「普通はそうです。でも、この設計は少し特殊で」
鈴音は内部を見ながら言った。
「命令を受け取るだけでなく、状況を評価する仕組みが入っている。もし評価した結果、動くことが適切でないと判断したなら、自分で止まることができる」
「そういう仕組みを入れた覚えはない」
「意図しなかった可能性もあります。こういう仕組みは、複雑な設計をしているうちに、自然に生まれることがある」
玄斎は少し黙った。
「動かせるか」
「動力を補充すれば動く。でも」
鈴音は手を止めた。
「自分で止まることを選んだなら、理由があったと思う。動力を入れる前に、理由を確認した方がいいかもしれない」
「からくりに理由を確認する方法は、動かすしかない」
「そうですね」
こはくが歯車丸の前に立った。
「歯車丸さん」
呼んでも反応がない。
「昨夜、月見庵に来ていいと言いました。団子を食べに来ていいと言いました。だから来てください」
しばらく、沈黙があった。
歯車丸の目が、かすかに光った。
消えた。
また光った。
「動力が残っている。ほんの少しだけ」
鈴音が伝える。
「歯車丸さん、玄斎さんの命令がなくても、団子を食べに来ていいですよ。うちの団子は、誰でも食べていいです」
こはくがそう言うと、歯車丸の目が、今度は消えなかった。
ゆっくりと、体が動いた。
「起動」
歯車丸は言った。いつもより小さな声だった。
「動力残量、極めて低い。行動可能時間、限定的」
「とりあえず立てますか?」
「立てます」
こはくが問いかけると、歯車丸は立った。
「昨夜、なぜ止まっていたのですか?」
雪乃が訊いた。
「玄斎様の任務を終了したあと、次の命令を待機していました。命令が来なかった。待機しているうち、動力が低下した。動力を補充するか、待機を継続するかを判断する必要があった」
「どちらを選びましたか」
「判断できなかった」
「なぜですか」
「動力を補充すれば、玄斎様の命令を待つ状態に戻る。しかし、玄斎様の命令の方向性と、月見庵での経験の間に、矛盾がある。その矛盾を解消せずに動くことが、適切かどうか判断できなかった」
「月見庵での経験とは」
「団子が美味かった。侵入成功の際も、入口から普通に入った。月見庵の人々は、本機を追い出さなかった。玄斎様の任務は月見庵に害をなすことを含んでいた。矛盾がある」
こはくが笑った。
「矛盾を解決しなくても、とりあえず団子を食べに来ていいですよ」
「矛盾は解決しなくていいのですか」
「全部の矛盾を解決してから動いていたら、何もできなくなります。まず来てみて、それから考えればいい」
「それが月見庵の方針ですか」
「月見庵の方針というか、わたしの考え方です」
「了解した。では団子を食べに行く。ただし動力の問題があり、速度が出ない。時間がかかる」
「ゆっくり来てください」
「玄斎様」
歯車丸が玄斎を向いた。
「何だ」
「本機は月見庵に行く。許可を求める必要があるか」
玄斎はしばらく歯車丸を見た。
「許可は不要だ」
「了解した」
「ただし」
玄斎は少し間を置いた。
「俺の分も、団子を頼んでくれ」
全員が玄斎を見た。玄斎は視線を外した。
歯車丸だけが、首をかくんと傾けた。
「追加命令確認。団子は一串か、二串か」
「……二串だ」
玄斎の声は、少し低かった。
「月見庵の団子を、ここで食べたことはなかった。いつも外から見ていただけだ」
「来てください。いつでも」
こはくが快く言った。
「今日はどうだ」
玄斎が訊いた。
「今日でも構いません」
午後、月見庵に全員が集まった。
農家の男、荒物屋の主、大工の夫婦、番頭、たま、きゅう太、鈴音、あやめ、雪乃、こはく、お銀。そして玄斎と歯車丸。
縁台と板の間に分かれて座り、こはくが団子を配った。
玄斎は縁台の端に座り、きなこ団子を受け取った。一口食べた。何も言わなかった。
「美味いか」
農家の男が訊いた。
「……悪くない」
「正直に言え」
こはくがにこにこしていた。
お銀は何も言わなかったが、目だけで答えを待っていた。
玄斎は逃げ場がないことを理解した。
「美味い」
「そうだろう。猫又坂一番の団子だ」
農家の男はきなこ団子を食べながら誇らしげに言った。
玄斎は黙った。
雪乃は板の間に座り、団子を食べながら、この場を見回した。
見知った顔が並んでいた。一月半前、雪乃が月見庵の裏庭に落ちたとき、誰一人ここにはいなかった。今は、全員がいる。
玄斎もいる。
農家の男が玄斎に訊いた。
「あんたが、からくりの仕掛けを動かそうとしていた人か」
「そうだ」
「なぜこの町を使おうとした」
「この町の地下に、古いからくりの仕掛けがある。十年前に発見した。動かすことができると分かって、使うことを考えた」
「動かしたら、この町はどうなる」
「移動する。今の場所を離れて、動く」
「困る。うちの畑がなくなる」
農家の男はきっぱり言った。
「移動しても、畑は続けられる」
「どこに移動するかも分からないのに、畑を続けられるか。水の出方も、土の具合も、全部変わる。困る」
「温泉は出続ける。からくりが動いている間は」
「またたび湯が動いても、この岩場でなければ意味がない」
番頭が言った。
「うちの宿は、猫又坂にあるから意味がある。場所が変われば、うちではなくなる」
「それは」
「場所が大事なんだ」
農家の男が続けた。
「ここに住んでいるから、この町が好きだ。どこかへ動いても、好きかどうかは分からない」
玄斎は黙った。
「あんたはこの町が好きか」
お銀が訊いた。
玄斎に向かって直接訊いた。他の者が静かになった。
「十年前は、好きだった」
「今は」
「分からない」
「好きなものを、壊そうとしていたのか」
「壊すつもりはなかった」
「形が変われば、別のものになる。それは壊すことと同じだ」
お銀は玄斎を見た。
「何かを得たいなら、壊さずに得る方法を探せ。それだけだ」
玄斎はお銀を見た。
「簡単に言う」
「簡単ではない。難しい。だが、難しいからできないとは言っていない」
玄斎はしばらく黙った。
「雪乃」
「はい」
「里への復讐、という言葉をお前たちは使った。俺は否定した。だが」
「はい」
「否定しきれない部分がある」
「分かっています」
「里のやり方は間違っている。忍びを道具として使うことは、間違っている。それを変えたいと思ってきた」
「変えたいという気持ちは、正しいと思います」
「だが、この町を使うことが答えではないと、昨夜から思っている」
「では、どうしますか」
玄斎は少し間を置いた。
「分からない。ただ、ここにいる間に、考えたい。まだ、ここにいていいか」
「構わない」
お銀が言った。
「ただし、団子を焦がしたら叱る。それがうちの掟だ」
玄斎は少し止まった。
「……団子を焼くつもりはない」
「焼く羽目になることもある。そういうものだ」
きゅう太が笑った。こはくが笑った。鈴音が笑った。農家の男が笑った。
あやめは笑わなかったが、顔が緩んでいた。
玄斎は笑わなかった。だが、何かが変わった顔をしていた。
夕方、人々が帰り始めた。
農家の男が最後に出ていくとき、雪乃に言った。
「玄斎という人、信頼していいか」
「まだ分かりません」
「正直だな」
「信頼できるかどうかは、これから決まります。今夜の話を聞いて、どう動くかを見れば、少しずつ分かると思います」
「そういうものか」
「そういうものだと思います」
「分かった。また来る」
農家の男は坂を下りていった。
夜になった。
月見庵に残ったのは、雪乃、こはく、お銀、あやめ、玄斎、歯車丸だった。
玄斎は縁台に座ったまま、坂道を見ていた。
雪乃は玄斎の隣に座った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「最初にこの町に来たとき、何が面白かったのですか」
「地下の仕掛けだ」
「仕掛けのどこが」
「誰かが、こんなものを作ったということが」
玄斎は少し間を置いた。
「こんな精緻なものを、誰も知らないまま地下に残していった。名前も残さず、記録も残さず、ただ作って、ここに置いていった」
「名前を残さないことが、好きだったのですか」
「名前を残さないことが、自由だと思った。誰かの記録の中に入らなくても、作ったものが残れば、それでいい。里では、全部の記録が管理された。いつ、誰が、何のために動いたか、全部記録された。それが窮屈だった」
「記録されずに、ただ作ることがしたかった」
「そうかもしれない」
「今もそうですか」
「今は」
玄斎は少し考えた。
「分からない。ただ、昨夜、封印が強化されたとき、初めて思ったことがある」
「何を思いましたか」
「この仕掛けを作った者も、誰かに使われたのではないかと思った。使われて、誰かのために作らされた。だから名前を残さなかったのかもしれない」
「それは、玄斎さんと似ていますね」
「そうだ。似ていると思った。だから、壊したくないと思った」
「壊したくない」
「動かすことと壊すことが同じだと、お前の女将が言った。その通りかもしれない」
雪乃は坂道を見た。
提灯が揺れ、猫又坂の夜が続いていた。
「玄斎さん」
「何だ」
「里のやり方を変えることが、本当にしたいことなら、それはこの町を動かさなくてもできると思います」
「どうやってだ」
「私が里を出て、ここで生きている。それだけで、少し変わります」
「一人の忍びが里を出ることで、里が変わるとは思えない」
「すぐには変わりません。でも、里の外で生きている忍びがいるということが、誰かの目に触れれば、その誰かが考えます。私は何もしなくても、ここで生きていることが、何かになります」
「それで満足するのか」
「満足しています。今のところは」
玄斎は少し間を置いた。
「お前は変わっているな、と昨夜も言ったが」
「はい」
「やはり変わっている。ただ」
「ただ」
「変わっていることが、悪いとは思わなくなった」
雪乃は少し考えた。
「玄斎さんも、変わっているのではないですか。忍びがからくりを研究するのは、変わっていますから」
「変わっているか」
「里では、そう言われたのでしょう」
「そうだ。道具がよけいなことをするなと言われた」
「でも、やめなかった」
「やめなかった」
「それが、玄斎さんが変わっている部分で、玄斎さん自身の部分だと思います」
玄斎はしばらく黙った。
こはくが茶を持ってきた。玄斎と雪乃の前に置いた。
「難しい話をしていますか」
こはくが訊いた。
「難しい話を、している」
玄斎が答えた。
「難しい話は、団子と茶があった方がまとまりやすいですよ」
「根拠はあるか」
「月見庵では、だいたいそうなので」
玄斎は茶を受け取った。一口飲んだ。
「ここに、もう少しの間、置いてもらえるか」
玄斎は、こはくに言った。
「どのくらいですか」
「分からない。しばらく」
「構いません。ただし、お銀さんの許可が要ります」
「女将に、頼み方はあるか」
「正直に話せば、聞いてくれます。お銀さんは、正直な人が好きです」
玄斎は帳場の方を見た。お銀が帳簿を広げていた。
「……難しそうだ」
「大丈夫ですよ」
こはくは笑った。
「最初は叱られるかもしれませんが、それで終わりにはなりません」
玄斎がお銀に話しに行った。
雪乃とこはくは縁台に並んで座り、それを遠くから見ていた。
玄斎が話し、お銀が聞いた。お銀が何か言い、玄斎が答えた。しばらく、二人は話していた。
「どうなりますかね」
こはくが問いかけた。
「お銀さんなので、分かりません」
「追い出したりはしないと思いますが」
「追い出すとは思いませんが、条件を出すと思います」
「何の条件でしょう」
「分かりません。お銀さんのことなので」
しばらくして、玄斎が縁台に戻ってきた。
「どうでしたか」
雪乃が訊いた。
「置いてもらえることになった」
「条件は」
「朝の薪割りと、月末の帳簿の計算を手伝えと言われた」
「薪割りができますか」
「帳簿の計算はできる。薪割りは、やったことがない」
「私が教えます」
「忍びが薪割りを教えるのか」
「月見庵では、薪割りも仕事のうちです」
玄斎は少し笑った。
「では、頼む」
その夜遅く、縁台に雪乃一人が残っていた。
こはくは自分の部屋に入り、あやめは宿に戻り、玄斎は空き部屋に案内された。歯車丸は裏庭に置いてある。鈴音が明日、動力を補充しに来ると言っていた。
月のない夜空に、星が出ていた。
雪乃は記録紙を取り出した。
書くことが、たくさんあった。玄斎が来たこと、封印の強化に成功したこと、歯車丸が自分で止まっていたこと、月見庵に皆が集まったこと。
だが、書く前に少し止まった。
里への報告として書くべき内容と、自分のために書く内容が、以前は明確に分かれていた。里への報告が先で、自分の記録は後だった。
今は逆になっていた。
雪乃は少し考えて、里への報告を書くのをやめた。今夜は、自分のために書く。
「今日、玄斎が来た。月見庵で話をした。人々と向き合い、自分が何をしようとしていたかを話した。答えはまだ出ていないが、出そうとしている。それで十分だと思う」
書いてから、少し間を置いた。
「私は今日も月見庵にいた。任務ではなく、ここにいた。それが今の私の場所だと思っている。忍びであることは変わらない。だが、忍びとしてだけ生きることは、もうできない。雪乃として生きている」
書き終えて、紙をたたんだ。
里への報告は、また明日書く。
今夜は、ここにいるということだけを、確かめた。
縁台から立ち上がり、月見庵の中に入った。
廊下を歩いて、自分の部屋に向かった。
こはくの部屋の前を通った。
明かりが消えていた。
雪乃は少し立ち止まった。
おやすみなさい、と小さく言った。声には出なかった。
自分の部屋に入り、灯りを落とした。
横になって、目を閉じた。
月のない夜空の下、猫又坂は静かだった。
新月の夜が、終わっていた。




