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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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18/22

十八の巻 忍びではなく、雪乃として

 新月の翌日、玄斎が来た。

 昼間だった。

 月見庵の前の坂道に、玄斎が一人で立っていた。からくり忍軍はいない。歯車丸もいない。黒い着物に羽の紋、それだけだった。

 こはくが気づいて、雪乃を呼んだ。

 雪乃が外に出ると、玄斎は坂の途中で待っていた。

「話がしたい」

「こちらへ」

雪乃はそう言い、月見庵の中を示した。

 玄斎は少し意外そうな顔をしたが、入った。


 板の間に座ると、こはくが茶を出した。

 玄斎は茶を受け取り、一口飲んだ。何も言わなかった。

 お銀が奥から出てきた。玄斎を見て、一度だけ見て、また奥に入った。

 雪乃は玄斎の向かいに座った。あやめは壁際に立っていた。

「話とは」

「昨夜のことだ。封印が強化された。今の俺の手段では、解けない」

「はい」

「別の方法を探せば、時間がかかる。新月は終わった。次の好機は一月後だ」

「その間に、こちらも準備を進めます」

「分かっている」

玄斎は茶碗を見た。

「それを言いに来たわけではない」

「では、何のために」

「昨夜、お前が言ったことを考えていた」

「何を言いましたか」

「次に来るときは、この町の人々を話の場に入れろと言った」

「言いました」

「それをするつもりだ」

 雪乃は少し止まった。

「本気ですか」

「本気だ。俺がこの仕掛けを起動させることで、この町がどうなるかを、住んでいる者たちに説明する。そのうえで、それでも反対するなら、俺は別の手段を探す」

「反対されたら、諦めるということですか」

「諦めるとは言っていない。別の手段を探すと言った」

「どういう意味ですか」

「この町でなくていいかもしれない、ということだ」

玄斎は少し間を置いた。


「俺の目的は、力を持つことだ。道具でなくなることだ。この町の仕掛けを使うのが最短の方法だと思っていたが、昨夜、考えが少し変わった」

「どのように」

「この町に来た、最初の理由を思い出した」

「十年前、この仕掛けを発見したときですか」

「そのとおりだ。あの頃、俺はただ面白いと思って調べていた。誰かを利用しようとか、何かを動かそうとか、そういうことは考えていなかった。ただ、こんなものが地下にあるのかと、面白かった」

 玄斎は窓の外を見た。

「面白いと思えることがあったのは、里を出てから、あの頃だけだった」

「里にいる間は」

「道具だった。面白いと思う前に、次の命令が来た」

「それで、里を出た」

「出させられた、の方が正確だが」

 玄斎は茶を一口飲んだ。

「お前は昨夜、里が奪ったと言った。その通りだ。だが、俺は奪われたものを取り戻すために動いていたわけではなかった。奪った者に、力を見せつけたかった。それだけだった」

「復讐ではなく、証明したかった」

「証明、か。そういう言い方もできるな」

玄斎は少し笑った。

「証明して、それからどうするつもりでしたか」

「考えていなかった」

「昨夜も、そう言っていましたね」

「そうだ」

 玄斎は雪乃を見た。

「お前は、任務の先に何があると思っているか」

「今は、任務の外にいます」

「どういう意味だ」

「この町にいる理由が、任務ではなくなりました。私の意思で、ここにいます」

「意思、か」

「里を出た理由が、玄斎さんと似ているかもしれません。道具として扱われていたことに、違和感があった」

「同じではない」

「同じとは言っていません。似ていると言いました」

「お前は里を憎んでいないのか」

「憎んでいません」

「なぜだ」

「憎むより、ここで生きる方が面白いので」

 玄斎は少し間を置いた。

「面白い、か」

「はい」

「それは、何がそう思わせるんだ」

 雪乃は少し考えた。

「毎日、新しいことがあります。こはくさんが新しい団子を作れば、それを食べます。きゅう太が川で変なものを見つければ、見に行きます。鈴音さんが何かを爆発させれば、後片付けを手伝います。あやめさんが草餅を美味いと言えば、それを聞きます。そういうことが、毎日あります」

「それが、面白いのか」

「はい」

 玄斎はしばらく雪乃を見た。

「忍びが、そういうことを言うとは思わなかった」

「私は忍びですが、今はここで生きている人間でもあります」

「忍びではなく、雪乃として生きている、ということか」

 雪乃は少し止まった。

 玄斎の言い方が、思っていたより正確だった。

「そうかもしれません」


 玄斎は茶碗を縁台に置いた。

「一つ、頼みがある」

「何でしょう」

「この町の人々に、話をしたい。仕掛けのことと、俺のやろうとしていたことを、説明したい。お前が言った通りにする」

「それは、玄斎さんが自分でできることでは」

「できるが、お前が仲介した方が、話を聞いてもらいやすい」

「私が信頼されているとは、限りません」

「月見庵で手伝いをして、川の詰まりを直して、幽霊騒動を調べて、縁日で人形を止めた。信頼されていないとは思わないが」

 雪乃は少し考えた。

「農家の男に話します。彼が決めることです」

「それで構わない」

「日時は、こちらが決めます」

「そうしてくれ」

 玄斎は立ち上がった。

「もう一つ」

「何でしょう」

「歯車丸のことだ」

「歯車丸さんが、何か」

「昨夜、今夜の任務を終了すると言い、帰ってこなかった」

 雪乃は少し止まった。

「帰ってこなかったとは」

「見当たらない。消えた」

 こはくが奥から出てきた。

「雪乃さん、昨夜からまたたび湯の前に、変なものがいます。たまさんが言っていました」

「変なもの、とは」

「からくり人形みたいな、でも動かない何かが、温泉の端の方にいるって」

 雪乃はあやめを見た。あやめは少し考えた。

「またたび湯に行ってみましょう」


 またたび湯の裏手、温泉が流れ出す岩場の端に、歯車丸が立っていた。

 動いていない。だが倒れてもいない。ただ、岩場の端で止まっており、目の赤い光が消えている。

 雪乃が近づいた。

「歯車丸さん」

 反応がなかった。

 こはくが隣に来た。歯車丸を見た。

「動いていませんね」

「電池が切れたのか、故障なのか」

鈴音が言った。いつの間にか来ていた。こういうことには鼻が利く。

「見てもいいですか」

「玄斎さんに聞いた方がいいかもしれません」

「聞く」

玄斎も来ていた。

 全員が岩場に集まっていた。

「見てくれ」

玄斎は鈴音に言った。

 鈴音は歯車丸の背中を開けた。内部を確かめ、しばらくして言った。

「故障ではない。動力が切れている。意図的に止めた状態だと思う」

「意図的に、とは」

玄斎が問いかけた。

「自分で止めた可能性がある」

「からくりが、自分で止まることはない」

「普通はそうです。でも、この設計は少し特殊で」

鈴音は内部を見ながら言った。

「命令を受け取るだけでなく、状況を評価する仕組みが入っている。もし評価した結果、動くことが適切でないと判断したなら、自分で止まることができる」

「そういう仕組みを入れた覚えはない」

「意図しなかった可能性もあります。こういう仕組みは、複雑な設計をしているうちに、自然に生まれることがある」

 玄斎は少し黙った。

「動かせるか」

「動力を補充すれば動く。でも」

鈴音は手を止めた。

「自分で止まることを選んだなら、理由があったと思う。動力を入れる前に、理由を確認した方がいいかもしれない」

「からくりに理由を確認する方法は、動かすしかない」

「そうですね」

 こはくが歯車丸の前に立った。

「歯車丸さん」

 呼んでも反応がない。

「昨夜、月見庵に来ていいと言いました。団子を食べに来ていいと言いました。だから来てください」

 しばらく、沈黙があった。

 歯車丸の目が、かすかに光った。

 消えた。

 また光った。

「動力が残っている。ほんの少しだけ」

 鈴音が伝える。

「歯車丸さん、玄斎さんの命令がなくても、団子を食べに来ていいですよ。うちの団子は、誰でも食べていいです」

 こはくがそう言うと、歯車丸の目が、今度は消えなかった。

 ゆっくりと、体が動いた。

「起動」

歯車丸は言った。いつもより小さな声だった。

「動力残量、極めて低い。行動可能時間、限定的」

「とりあえず立てますか?」

「立てます」

 こはくが問いかけると、歯車丸は立った。

「昨夜、なぜ止まっていたのですか?」

雪乃が訊いた。

「玄斎様の任務を終了したあと、次の命令を待機していました。命令が来なかった。待機しているうち、動力が低下した。動力を補充するか、待機を継続するかを判断する必要があった」

「どちらを選びましたか」

「判断できなかった」

「なぜですか」

「動力を補充すれば、玄斎様の命令を待つ状態に戻る。しかし、玄斎様の命令の方向性と、月見庵での経験の間に、矛盾がある。その矛盾を解消せずに動くことが、適切かどうか判断できなかった」

「月見庵での経験とは」

「団子が美味かった。侵入成功の際も、入口から普通に入った。月見庵の人々は、本機を追い出さなかった。玄斎様の任務は月見庵に害をなすことを含んでいた。矛盾がある」

 こはくが笑った。

「矛盾を解決しなくても、とりあえず団子を食べに来ていいですよ」

「矛盾は解決しなくていいのですか」

「全部の矛盾を解決してから動いていたら、何もできなくなります。まず来てみて、それから考えればいい」

「それが月見庵の方針ですか」

「月見庵の方針というか、わたしの考え方です」

「了解した。では団子を食べに行く。ただし動力の問題があり、速度が出ない。時間がかかる」

「ゆっくり来てください」

「玄斎様」

歯車丸が玄斎を向いた。

「何だ」

「本機は月見庵に行く。許可を求める必要があるか」

 玄斎はしばらく歯車丸を見た。

「許可は不要だ」

「了解した」

「ただし」

玄斎は少し間を置いた。


「俺の分も、団子を頼んでくれ」

 全員が玄斎を見た。玄斎は視線を外した。

 歯車丸だけが、首をかくんと傾けた。

「追加命令確認。団子は一串か、二串か」

「……二串だ」 

 玄斎の声は、少し低かった。

「月見庵の団子を、ここで食べたことはなかった。いつも外から見ていただけだ」

「来てください。いつでも」

 こはくが快く言った。

「今日はどうだ」

 玄斎が訊いた。

「今日でも構いません」

 

 午後、月見庵に全員が集まった。

 農家の男、荒物屋の主、大工の夫婦、番頭、たま、きゅう太、鈴音、あやめ、雪乃、こはく、お銀。そして玄斎と歯車丸。

 縁台と板の間に分かれて座り、こはくが団子を配った。

 玄斎は縁台の端に座り、きなこ団子を受け取った。一口食べた。何も言わなかった。

「美味いか」

農家の男が訊いた。

「……悪くない」

「正直に言え」

 こはくがにこにこしていた。

 お銀は何も言わなかったが、目だけで答えを待っていた。

 玄斎は逃げ場がないことを理解した。

「美味い」

「そうだろう。猫又坂一番の団子だ」

農家の男はきなこ団子を食べながら誇らしげに言った。

 玄斎は黙った。

 雪乃は板の間に座り、団子を食べながら、この場を見回した。

 見知った顔が並んでいた。一月半前、雪乃が月見庵の裏庭に落ちたとき、誰一人ここにはいなかった。今は、全員がいる。

 玄斎もいる。

 農家の男が玄斎に訊いた。

「あんたが、からくりの仕掛けを動かそうとしていた人か」

「そうだ」

「なぜこの町を使おうとした」

「この町の地下に、古いからくりの仕掛けがある。十年前に発見した。動かすことができると分かって、使うことを考えた」

「動かしたら、この町はどうなる」

「移動する。今の場所を離れて、動く」

「困る。うちの畑がなくなる」

農家の男はきっぱり言った。

「移動しても、畑は続けられる」

「どこに移動するかも分からないのに、畑を続けられるか。水の出方も、土の具合も、全部変わる。困る」

「温泉は出続ける。からくりが動いている間は」

「またたび湯が動いても、この岩場でなければ意味がない」

番頭が言った。

「うちの宿は、猫又坂にあるから意味がある。場所が変われば、うちではなくなる」

「それは」

「場所が大事なんだ」

農家の男が続けた。

「ここに住んでいるから、この町が好きだ。どこかへ動いても、好きかどうかは分からない」

 玄斎は黙った。

「あんたはこの町が好きか」

お銀が訊いた。

 玄斎に向かって直接訊いた。他の者が静かになった。

「十年前は、好きだった」

「今は」

「分からない」

「好きなものを、壊そうとしていたのか」

「壊すつもりはなかった」

「形が変われば、別のものになる。それは壊すことと同じだ」

お銀は玄斎を見た。

「何かを得たいなら、壊さずに得る方法を探せ。それだけだ」

 玄斎はお銀を見た。

「簡単に言う」

「簡単ではない。難しい。だが、難しいからできないとは言っていない」

 玄斎はしばらく黙った。


「雪乃」

「はい」

「里への復讐、という言葉をお前たちは使った。俺は否定した。だが」

「はい」

「否定しきれない部分がある」

「分かっています」

「里のやり方は間違っている。忍びを道具として使うことは、間違っている。それを変えたいと思ってきた」

「変えたいという気持ちは、正しいと思います」

「だが、この町を使うことが答えではないと、昨夜から思っている」

「では、どうしますか」

 玄斎は少し間を置いた。

「分からない。ただ、ここにいる間に、考えたい。まだ、ここにいていいか」

「構わない」

お銀が言った。

「ただし、団子を焦がしたら叱る。それがうちの掟だ」

 玄斎は少し止まった。

「……団子を焼くつもりはない」

「焼く羽目になることもある。そういうものだ」

 きゅう太が笑った。こはくが笑った。鈴音が笑った。農家の男が笑った。

 あやめは笑わなかったが、顔が緩んでいた。

 玄斎は笑わなかった。だが、何かが変わった顔をしていた。


 夕方、人々が帰り始めた。

 農家の男が最後に出ていくとき、雪乃に言った。

「玄斎という人、信頼していいか」

「まだ分かりません」

「正直だな」

「信頼できるかどうかは、これから決まります。今夜の話を聞いて、どう動くかを見れば、少しずつ分かると思います」

「そういうものか」

「そういうものだと思います」

「分かった。また来る」

 農家の男は坂を下りていった。


 夜になった。

 月見庵に残ったのは、雪乃、こはく、お銀、あやめ、玄斎、歯車丸だった。

 玄斎は縁台に座ったまま、坂道を見ていた。

 雪乃は玄斎の隣に座った。

「一つ、聞いてもいいですか」

「何だ」

「最初にこの町に来たとき、何が面白かったのですか」

「地下の仕掛けだ」

「仕掛けのどこが」

「誰かが、こんなものを作ったということが」

玄斎は少し間を置いた。

「こんな精緻なものを、誰も知らないまま地下に残していった。名前も残さず、記録も残さず、ただ作って、ここに置いていった」

「名前を残さないことが、好きだったのですか」

「名前を残さないことが、自由だと思った。誰かの記録の中に入らなくても、作ったものが残れば、それでいい。里では、全部の記録が管理された。いつ、誰が、何のために動いたか、全部記録された。それが窮屈だった」

「記録されずに、ただ作ることがしたかった」

「そうかもしれない」

「今もそうですか」

「今は」

玄斎は少し考えた。


「分からない。ただ、昨夜、封印が強化されたとき、初めて思ったことがある」

「何を思いましたか」

「この仕掛けを作った者も、誰かに使われたのではないかと思った。使われて、誰かのために作らされた。だから名前を残さなかったのかもしれない」

「それは、玄斎さんと似ていますね」

「そうだ。似ていると思った。だから、壊したくないと思った」

「壊したくない」

「動かすことと壊すことが同じだと、お前の女将が言った。その通りかもしれない」

 雪乃は坂道を見た。

 提灯が揺れ、猫又坂の夜が続いていた。

「玄斎さん」

「何だ」

「里のやり方を変えることが、本当にしたいことなら、それはこの町を動かさなくてもできると思います」

「どうやってだ」

「私が里を出て、ここで生きている。それだけで、少し変わります」

「一人の忍びが里を出ることで、里が変わるとは思えない」

「すぐには変わりません。でも、里の外で生きている忍びがいるということが、誰かの目に触れれば、その誰かが考えます。私は何もしなくても、ここで生きていることが、何かになります」

「それで満足するのか」

「満足しています。今のところは」

 玄斎は少し間を置いた。

「お前は変わっているな、と昨夜も言ったが」

「はい」

「やはり変わっている。ただ」

「ただ」

「変わっていることが、悪いとは思わなくなった」

 雪乃は少し考えた。

「玄斎さんも、変わっているのではないですか。忍びがからくりを研究するのは、変わっていますから」

「変わっているか」

「里では、そう言われたのでしょう」

「そうだ。道具がよけいなことをするなと言われた」

「でも、やめなかった」

「やめなかった」

「それが、玄斎さんが変わっている部分で、玄斎さん自身の部分だと思います」

 玄斎はしばらく黙った。

 こはくが茶を持ってきた。玄斎と雪乃の前に置いた。

「難しい話をしていますか」

こはくが訊いた。

「難しい話を、している」

玄斎が答えた。

「難しい話は、団子と茶があった方がまとまりやすいですよ」

「根拠はあるか」

「月見庵では、だいたいそうなので」

 玄斎は茶を受け取った。一口飲んだ。

「ここに、もう少しの間、置いてもらえるか」

玄斎は、こはくに言った。

「どのくらいですか」

「分からない。しばらく」

「構いません。ただし、お銀さんの許可が要ります」

「女将に、頼み方はあるか」

「正直に話せば、聞いてくれます。お銀さんは、正直な人が好きです」

 玄斎は帳場の方を見た。お銀が帳簿を広げていた。

「……難しそうだ」

「大丈夫ですよ」

こはくは笑った。

「最初は叱られるかもしれませんが、それで終わりにはなりません」


 玄斎がお銀に話しに行った。

 雪乃とこはくは縁台に並んで座り、それを遠くから見ていた。

 玄斎が話し、お銀が聞いた。お銀が何か言い、玄斎が答えた。しばらく、二人は話していた。

「どうなりますかね」

こはくが問いかけた。

「お銀さんなので、分かりません」

「追い出したりはしないと思いますが」

「追い出すとは思いませんが、条件を出すと思います」

「何の条件でしょう」

「分かりません。お銀さんのことなので」

 しばらくして、玄斎が縁台に戻ってきた。

「どうでしたか」

雪乃が訊いた。

「置いてもらえることになった」

「条件は」

「朝の薪割りと、月末の帳簿の計算を手伝えと言われた」

「薪割りができますか」

「帳簿の計算はできる。薪割りは、やったことがない」

「私が教えます」

「忍びが薪割りを教えるのか」

「月見庵では、薪割りも仕事のうちです」

 玄斎は少し笑った。

「では、頼む」


 その夜遅く、縁台に雪乃一人が残っていた。

 こはくは自分の部屋に入り、あやめは宿に戻り、玄斎は空き部屋に案内された。歯車丸は裏庭に置いてある。鈴音が明日、動力を補充しに来ると言っていた。

 月のない夜空に、星が出ていた。

 雪乃は記録紙を取り出した。

 書くことが、たくさんあった。玄斎が来たこと、封印の強化に成功したこと、歯車丸が自分で止まっていたこと、月見庵に皆が集まったこと。

 だが、書く前に少し止まった。

 里への報告として書くべき内容と、自分のために書く内容が、以前は明確に分かれていた。里への報告が先で、自分の記録は後だった。

 今は逆になっていた。

 雪乃は少し考えて、里への報告を書くのをやめた。今夜は、自分のために書く。

「今日、玄斎が来た。月見庵で話をした。人々と向き合い、自分が何をしようとしていたかを話した。答えはまだ出ていないが、出そうとしている。それで十分だと思う」

 書いてから、少し間を置いた。

「私は今日も月見庵にいた。任務ではなく、ここにいた。それが今の私の場所だと思っている。忍びであることは変わらない。だが、忍びとしてだけ生きることは、もうできない。雪乃として生きている」

 書き終えて、紙をたたんだ。

 里への報告は、また明日書く。

 今夜は、ここにいるということだけを、確かめた。

 縁台から立ち上がり、月見庵の中に入った。

 廊下を歩いて、自分の部屋に向かった。

 こはくの部屋の前を通った。

 明かりが消えていた。

 雪乃は少し立ち止まった。

 おやすみなさい、と小さく言った。声には出なかった。

 自分の部屋に入り、灯りを落とした。

 横になって、目を閉じた。

 月のない夜空の下、猫又坂は静かだった。

 新月の夜が、終わっていた。

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