十七の巻 動き出すからくり城
新月の日の朝、地面が揺れた。
朝の仕込みの最中だった。
厨房の棚が揺れ、鍋が鳴り、軒先の風鈴が一斉に鳴った。揺れは三度あり、それぞれ短かったが、三度目は少し長かった。
雪乃は外に出た。
坂道の石畳が、一部、浮き上がっていた。わずかな隙間だったが、確かに地面が動いていた。
温泉宿の方から湯けむりが増えていた。いつもの量より多い。源泉の圧力が上がっている。
鈴音が走ってきた。
「地下の管に、圧力の急上昇がある。昨夜から続いていたけど、今朝になって一気に上がった」
「玄斎が動き始めましたか」
「今夜が新月だから、玄斎はもう準備を始めている。分岐点を塞ぐ部品は、今日の昼前に設置を終える予定だった。間に合うかもしれない」
「間に合わせましょう」
「ただ、問題がある」
鈴音は息を整えた。
「地下の状態が変わっていて、昨日測った圧力と今は違う。部品の調整が必要かもしれない。地下に入って確かめないと分からない」
「今すぐ行きますか」
「行く。雪乃さんも来てほしい」
あやめ、こはく、きゅう太、たまと合流し、六人で動いた。
地上の守りは、農家の男を中心とした町の人々に任せた。農家の男には昨夜のうちに、何かあれば今日だという話をしていた。農家の男は頷き、坂の下から上まで見張りを立てると言った。
川岸から水路に入り、分岐点に向かった。
地下は昨日より温度が上がっていた。管を触ると、熱が伝わってくる。圧力が上がっている証拠だ。
「急いだ方がいいです」
鈴音はそう言いながら、工具を出した。
分岐点は、またたび湯の岩場に続く管と、猫又亭に続く管が合流する場所だ。ここを塞げば、中枢への流路が遮断される。
鈴音が部品を当てた。形は合っている。固定する工具を取り出し、作業を始めた。
雪乃は周囲を警戒した。
しばらく、音は管の振動だけだった。
十分ほど経った頃、きゅう太が言った。
「奥から、気配がする」
雪乃は耳を澄ませた。
かすかな金属音だ。からくりの音ではない。人の足音だ。複数いる。
「来ます」
「あと少し」
鈴音が言った。工具が動いている。
「もう少しだけ」
「急いでください」
「急いでる」
金属音が近づいた。
からくり忍軍だった。
水路の奥から、人形が来た。今まで見たものと違う。水中を歩けるよう改造されており、膝まで水に浸かっても動きが鈍らない。四体が一列で来た。
「あやめさん」
「分かった」
あやめが前に出た。水路の幅は狭い。一度に来られるのは一体か二体だ。それがあやめにとって有利な状況を作っていた。
雪乃は後方を確かめた。こちらからも来る可能性がある。
「こはくさん、たまさん、鈴音さんの後ろを」
「はい」
こはくが返事をした。
あやめが先頭の一体と接触した。水の中での戦いは、動きが制限される。あやめは水路の壁を使い、人形の腕を壁に押し当てて関節を外した。一体が止まった。
二体目が来た。
あやめが対処している間、雪乃は後方から来る気配を探った。
来た。
後方から二体。こはくたちとの間に割り込もうとしている。
「こはくさん、下がってください」
「でも鈴音ちゃんが」
「大丈夫。行きます」
雪乃は後方の二体に向かった。水が跳ねた。狭い水路で二体同時は難しいが、壁と天井を使えば動ける。一体の頭上に乗り、関節を外した。一体が崩れた。もう一体の腕を掴み、向きを変えた。
「できた」
鈴音の声がした。
雪乃は振り返った。
鈴音が部品から手を離し、立ち上がっていた。
「固定完了。これで分岐点は塞がれた。中枢への主要な流路は遮断されたと思う」
「思う、ですか」
「確認はこれからだけど、計算上は大丈夫なはず」
「計算上は、という言い方が気になります」
「大丈夫。たぶん」
水路から川岸に出ると、空が変わっていた。
雲が厚く、風が強い。だが天気のせいだけではない。坂の上から、湯けむりが大量に流れ下りてきていた。温泉の圧力が、さらに上がっている。
そして、地面が揺れた。
今朝より強い揺れだった。石畳に入った隙間から、今度は蒸気が吹き出した。
「源泉の圧力が限界に近い」
たまが言った。
「分岐点を塞いだのに、どうしてですか?」
雪乃が訊くと、鈴音が答えた。
「玄斎が別の手段を使っている可能性がある。主要な流路は塞いだけど、分岐は他にもある。全部は把握しきれていなかった」
「つまり、まだ動かせる流路がある」
「あるかもしれない」
たまが坂の上を見た。
「地下の仕掛けが、一部起動している。完全ではない。ただ、封印に圧力がかかっている。このまま圧力が続けば、今夜を待たずに封印が緩む可能性がある」
「こはくさんの練習は」
雪乃はこはくを見た。
「できています。今すぐでもできます」
「今すぐは危険じゃ。地下の状態が安定していない。不安定な状態で封印を強化しようとすれば、力が分散する。封印が強化されるより、仕掛けが起動する方が先になる可能性がある」
「では、地下の状態を安定させてから」
「そうじゃ。玄斎の動きを止めて、圧力を下げてから」
「玄斎はどこにいますか」
たまは少し考えた。
「社の下、じゃろう。昨夜から地下の起動を始めていたなら、今は中枢の近くにいるはずじゃ」
空はいつの間にか、夕方の色に近づいていた。
坂を上り、社に向かった。
途中で、農家の男が来た。
「坂の下は大丈夫だ。人形が二体来たが、止めた」
「どうやって止めましたか」
雪乃は訊いた。
「大工の夫婦と三人で、角材で叩いた。うまく関節に当たって止まった」
「怪我はありませんか」
「問題ない」
農家の男は少し誇らしそうな顔をした。
「からくりの人形は、動きが読みやすいな。同じ動きを繰り返すから」
「そうです。助かりました」
「まだ来るか」
「来ると思います。引き続き頼みます」
「任せてくれ」
農家の男は坂を下りていった。
社の前に着いたとき、地面の揺れが始まった。
今までと違う揺れだった。
長い。止まらない。揺れながら、どこかから低い音が聞こえてきた。地の底から響くような、重い音だ。
「起動している」
たまが言った。
「完全にですか」
「完全ではない。ただ、一部が動き始めている。このまま進めば、町全体が動く」
地面の割れ目から、蒸気が噴き出した。
坂の石畳が一部、浮き上がった。
遠くから声がした。驚いた声、子どもの声、混乱の声。
「町の人々が」
こはくが呟く。
「たまさん、妖怪たちを動かせますか。人々の誘導を頼みたいです」
雪乃は訊いた。
「やろう」
雪乃は鈴音を見た。
「鈴音さん、分岐点以外に塞げる流路はありますか」
「探す。地下に戻れれば、別の場所を見つけられるかもしれない」
「きゅう太と一緒に動いてください。きゅう太は地下が一番速い」
「分かった。鈴音ねえちゃん、来い」
きゅう太が短く言った。
雪乃は次に、あやめを見た。
「あやめさんと私は社の下に向かいます。玄斎を止める必要があります」
「一緒に行きます。封印の強化は、わたしがやります。玄斎のところに行かなければ、できません」
「危険です」
「だから一緒に行くんです」
雪乃はこはくを見た。
こはくの目が、迷っていなかった。
「分かりました。一緒に行きます」
社の裏手から、地下への入口を探した。
昨日の調査で、社の下に空間があることは分かっていた。だが入口の場所は特定できていなかった。
あやめが社の床板を確かめた。
「ここだ」
板を持ち上げると、下に階段があった。狭く、暗い。
三人で降りた。
階段を降りると、通路が続いた。
水路より狭く、天井が低い。壁の管が振動しており、熱が伝わってくる。地下の動きが激しくなっている。
低い音が、足の裏から伝わってきた。
進むほど、音が大きくなった。
通路が開けた。
歯車の広間ではない。もっと奥の空間だ。
中枢だった。
石の台が中央にあり、その上に巨大な歯車が複数組み合わさっている。歯車が、動いていた。ゆっくりと、だが確実に。壁の管に圧力が伝わり、空間全体が振動している。
玄斎が台の前に立っていた。
こちらに背を向け、台の刻み目に何かをしている。
その隣に、歯車丸がいた。
玄斎の配下のからくり忍者だ。今まで直接見たことはなかったが、姿から分かった。黒い甲冑、機械的な動き、目の部分が赤く光っている。
玄斎が振り返った。
「来たか」
驚いていなかった。
「分岐点を塞いだのは知っている。だが、それだけでは止まらない」
「他の流路を使っているのですか」
「この仕掛けは、一つの流路だけで動くほど単純ではない。お前たちが塞いだのは、主要な流路の一つだ。他にもある」
「全部は塞げない、と言いたいのですか」
「そういうことだ」
玄斎は台に手を置いた。
「猫又坂は、この場所に縛られすぎている。お前も忍びなら分かるはずだ。場所に情を置くから、判断が鈍る。温泉、畑、茶屋、坂道、古い家。どれも大事そうに抱えているが、形のあるものは移せる。壊れたなら直せばいい。足りないなら作り直せばいい」
「月見庵も、ですか」
雪乃は訊いた。
「店は、また建てられる」
玄斎は迷わず答えた。
「団子の作り方も、帳簿も、客の名前も、記録に残せばいい。場所にこだわる必要はない」
雪乃の指が、わずかに動いた。
「……こはくさんが、毎朝見ている霧もですか」
「霧は、条件が揃えばまた出る」
「お銀さんが毎日拭いている縁台も」
「板なら替えられる」
「ここで、ただいまと言われることも」
玄斎は一瞬だけ黙った。
「言葉は、別の場所でも言える」
雪乃は、そのとき初めて、玄斎をはっきり敵だと思った。
「あとは最後の手順だけだ。こはくを連れてきたか」
「連れてきました。ただし、あなたの望む通りにはしません」
「こはくの狐火を中枢に流せば、封印が解ける。狐火は、からくりの補助動力になる。お前の力は、この町を動かす鍵だ」
「使いますが、封印を解くためには使いません」
玄斎は少し止まった。
「何をするつもりだ」
「封印を強化します」
玄斎は少し笑った。
「強化できると思うか。今の仕掛けの動きを見ろ。既に封印に圧力がかかっている。お前が強化しようとしても、圧力に負ける」
「試してみなければ分かりません」
「試す時間がない」
玄斎が指を動かした。
壁から、からくり人形が出てきた。
六体。今まで見た中で最大の数が、一度に現れた。
「あやめさん」
雪乃は呼んだ。
「分かった」
あやめが人形に向かった。
玄斎が台に近づいた。
雪乃は玄斎の前に出た。
「通しません」
「通るつもりはない。ここでやる」
玄斎は台の刻み目に手を当てた。起動手順の最終手順を、別の方法で実行しようとしている。
「こはくの狐火がなくても、できるのですか」
「完全にはできない。だが、不完全でも動く。完全に動かすより時間はかかるが、今夜の新月なら間に合う」
「新月でなければ、できないのですか」
「できる。だが、町は大きすぎる。普段の圧では、動き出す前に仕掛けが止まる。新月の夜だけ、封印が薄くなり、地下水の流れが歯車に向く」
「だから今朝から動かし始めていたのですか」
「そうだ。新月の底に合わせるためにな」
玄斎と雪乃は向き合った。
「戦う気はない」
玄斎は言った。
「では動かないでください」
「動かないが、台は渡さない」
「こはくさん」
雪乃が呼ぶ。
「はい」
「今すぐ封印に向かえますか」
「台の中心に触れる必要があります」
「玄斎の横を通る必要がありますね」
「はい」
「私が引きつけます。その間に」
「分かりました」
玄斎が雪乃を見た。
「引きつける、か。だがこはくが台に触れれば、私が止める。お前が引きつけても、こはくは通れない」
「そうでしょうか」
雪乃は玄斎に向かった。
正面から、まっすぐ。忍びとして、最も速い動きで。
玄斎が対処した。雪乃の腕を取ろうとした。
雪乃はそれを受け、流した。玄斎の体勢が崩れる前に、次の動きに移った。
玄斎が雪乃に集中した。
その一瞬、こはくが動いた。
玄斎の横を、すり抜けた。
台の前に立った。
玄斎が振り返った。
「止まれ」
「止まりません」
こはくは手を台の中心に当てた。
目を閉じた。
光が、灯った。
だが、光はすぐに揺らいだ。台の奥から、逆向きの圧が押し返してくる。青白い火が、風に吹かれた灯のように細くなった。
「……っ」
こはくの肩が震えた。
「言ったはずだ。今の封印には圧力がかかっている」
玄斎は穏やかな声で言った。
「灯すだけでは足りない。押し潰される」
雪乃は玄斎の前に立ったまま、こはくの方を見なかった。
見れば、迷う。
だから前だけを見た。
「こはくさん」
「はい」
「大丈夫です。私はここにいます」
こはくは、小さく息を吸った。
「……はい」
青白い光が、台から広がった。
歯車の広間が照らされた。
動いていた歯車が、少し速度を落とした。
玄斎が止まった。
「なぜ。封印が強化されている。今の状態で、なぜそれができる」
「たまさんに教えてもらいました。灯すように、と」
こはくは目を閉じたまま言った。
「圧力がかかっている状態では、普通はできない」
「そうかもしれません、でも、雪乃さんがいますから」
「関係ない」
「あります。雪乃さんが引きつけてくれているから、わたしは落ち着いて灯せます」
玄斎は少し止まった。
光が広がり続けた。
歯車の速度がさらに落ちた。
玄斎が台に向かおうとした。
雪乃が前に出た。
「通しません」
「どけ、霧隠の娘」
「どきません」
「こはくの力は、お前が利用しているだけだ」
「違います。こはくさんは、自分で決めています」
「忍びがこの町に来たのは、任務のためだ。こはくを守るのも、任務のためだ。それがなくなれば、お前はここを離れる。こはくはまた一人になる」
「それはどうでしょうか」
「どういう意味だ」
「私は、任務よりも先に、ここにいる理由を持ちました」
玄斎は少し間を置いた。
「忍びが、任務より大事なものを持てるとは思わない」
「玄斎さんも、持っていたのではありませんか。里にいたとき、任務より大事だと思っていた研究が」
雪乃は問いかけた。
「それは」
「里がそれを奪った。だから、玄斎さんはここまで来た」
玄斎は黙った。
「奪われた怒りは、本物だと思います。里のやり方が間違っていると思うことも、分かります。でも、この町を動かすことが、その答えになりますか」
「復讐だとは言っていない」
「では、何のためですか」
「力を持てば、次は里に命令される側ではなくなる。道具ではなくなる」
「道具ではなくなることと、この町の人々を巻き込むことは、別のことです」
「この町は、移動する仕掛けの上に作られている。使われる運命にあった」
「この町の人たちは、仕掛けの部品ではありません」
玄斎が雪乃を見た。
長い沈黙があった。
光が、広間全体に広がっていた。
歯車が、止まっていた。
こはくの手が台から離れた。
光が、ゆっくりと消えた。
「封印、できました。たぶん、大丈夫です」
こはくは疲れた声だった。
「たぶん、ですか」
「確認はたまさんにしてもらいますが、感触としては、できていると思います」
雪乃は玄斎を見た。
玄斎は台を見ていた。歯車が止まっている。管の振動が、少し弱まっている。
「封印が強化された」
玄斎の声は小さかった。
「はい」
「今の状態では、起動できない」
「はい」
玄斎は少し笑った。今まで見てきた芝居がかった笑いではなく、本当に、何かを認めたような笑い方だった。
「負けた、というわけか」
「そうは言っていません」
「負けた。今夜は」
玄斎は台から手を放した。
中枢の広間に、止まった歯車の余韻だけが残った。
「歯車丸」
歯車丸が、玄斎のそばに来た。
「命令確認。次の指示を待機します」
機械的な声だった。
「指示はない。今夜は終わりだ」
「了解。ただし確認ですが」
歯車丸は少し間を置いた。
「月見庵の団子は、次回の任務後に食べることは可能ですか」
雪乃は少し止まった。
こはくが、疲れた顔のまま笑った。
「可能です。来ていいですよ。いつでも」
「感謝します。では今夜の任務を終了します」
玄斎は雪乃を見た。
「霧隠の娘」
「はい」
「お前の言っていること、全部は理解できない。だが、一つだけ答えを持っていないことがあった」
「何でしょう」
「この町を動かした先に、俺は何を得るつもりだったか」
「考えていなかったのですか」
「里への復讐、とお前たちは言う。俺は否定した。だが、否定できる理由を持っていなかった」
玄斎は台を見て、止まった歯車を見た。
「今夜は引く。ただし、終わりではない」
「分かっています」
「また来る」
「来ても構いません。ただ、次に来るときは、この町の人々を話の場に入れてください。玄斎さんが何をしたいのか、この町がどういうものなのか、住んでいる人たちが知る権利があります」
玄斎はしばらく雪乃を見た。
「変わった忍びだな」
「よく言われます」
玄斎は踵を返した。歯車丸があとに続いた。
通路の奥に消えた。
三人だけが、中枢の空間に残った。
あやめが人形を六体、全部止めていた。
「終わったか」
あやめが訊いた。
「今夜は」
雪乃が答えた。
「玄斎は」
「引きました」
あやめは崩れた人形を見た。
「引いた、というのは完全に退いたわけではないだろう」
「そうです。また来ます」
「そのときはそのときか」
「そのときはそのときです」
あやめは少し何かを言いかけて、やめた。
こはくが壁に背を当て、座り込んだ。
「疲れました」
「大丈夫ですか」
雪乃が訊いた。
「大丈夫です。ただ、少し休みたいです」
「今すぐ出なくても構いません」
「雪乃さんも座ってください。腕の傷が、また開いているので」
雪乃は腕を見た。確かに滲んでいた。
「あとで手当てを」
「今してください」
こはくは帯から手ぬぐいを出した。
「座って」
「こはくさんこそ疲れているのに」
「座ってください」
雪乃は座った。
こはくが傷に手ぬぐいを当てた。あやめが壁に背を当て、腕を組んで立っていた。
地下の音が、静かになっていた。
歯車は止まっている。管の振動は弱まっている。温泉の圧力は、少しずつ下がっていくだろう。
「封印は、どのくらい保ちますか」
あやめが訊いた。
「たまさんに確認してもらわないと、正確には分かりません。ただ、今夜よりは強くなっています」
こはくが答えた。
「次に玄斎が来るまでに、もっと強化できますか」
「練習を続けます」
「そうか」
あやめは少し間を置いた。
「こはく」
「はい」
「今夜のことは、よくやった」
こはくは少し驚いた顔をした。
「あやめさんが、そういうことを言うとは思いませんでした」
「言ったことがなかったか」
「はい」
「そうか」
あやめはまた少し間を置いた。
「言うべきときには、言う」
「ありがとうございます」
「礼はいい」
あやめは視線を外した。
地下から出ると、夜の猫又坂が広がっていた。
地面の揺れは止まっていた。湯けむりは、いつもの量に戻りつつあった。坂の石畳は所々に傷があったが、崩れてはいなかった。
町の人々が坂に出ていた。
農家の男が走ってきた。
「終わったか」
「今夜は終わりました」
「怪我人は出なかった。物が少し壊れたが、たいしたことはない」
「ありがとうございます」
雪乃が頭を下げた。
「こはくは大丈夫か」
「大丈夫です。心配をかけてすみません」
こはくが答えた。
「心配するのは当然だ。月見庵が関係することは、うちらの問題でもある」
農家の男はそれだけ言い、坂を下りていった。
月見庵の灯りが見えた。
お銀が戸口に立っていた。
三人が坂を下りてくるのを見て、お銀は中に入った。
雪乃たちが月見庵に着くと、食事が用意されていた。
お銀は「座れ」とだけ言い、飯をよそった。
三人は座り、食べた。
こはくが「美味しいです」と言い、あやめが「悪くない」と言い、雪乃は何も言わなかった。
ただ、確かに美味かった。
新月の夜が、穏やかに過ぎていった。




