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くノ一お雪、里を抜けたら湯けむり茶屋の看板娘になりました ~任務で潜入したはずなのに、妖怪の町で帰る場所ができてしまいました~  作者: 明石竜


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17/22

十七の巻 動き出すからくり城

 新月の日の朝、地面が揺れた。

 朝の仕込みの最中だった。

 厨房の棚が揺れ、鍋が鳴り、軒先の風鈴が一斉に鳴った。揺れは三度あり、それぞれ短かったが、三度目は少し長かった。

 雪乃は外に出た。

 坂道の石畳が、一部、浮き上がっていた。わずかな隙間だったが、確かに地面が動いていた。

 温泉宿の方から湯けむりが増えていた。いつもの量より多い。源泉の圧力が上がっている。

 鈴音が走ってきた。

「地下の管に、圧力の急上昇がある。昨夜から続いていたけど、今朝になって一気に上がった」

「玄斎が動き始めましたか」

「今夜が新月だから、玄斎はもう準備を始めている。分岐点を塞ぐ部品は、今日の昼前に設置を終える予定だった。間に合うかもしれない」

「間に合わせましょう」 

「ただ、問題がある」

鈴音は息を整えた。

「地下の状態が変わっていて、昨日測った圧力と今は違う。部品の調整が必要かもしれない。地下に入って確かめないと分からない」

「今すぐ行きますか」

「行く。雪乃さんも来てほしい」


 あやめ、こはく、きゅう太、たまと合流し、六人で動いた。

 地上の守りは、農家の男を中心とした町の人々に任せた。農家の男には昨夜のうちに、何かあれば今日だという話をしていた。農家の男は頷き、坂の下から上まで見張りを立てると言った。

 川岸から水路に入り、分岐点に向かった。

 地下は昨日より温度が上がっていた。管を触ると、熱が伝わってくる。圧力が上がっている証拠だ。

「急いだ方がいいです」

鈴音はそう言いながら、工具を出した。

 分岐点は、またたび湯の岩場に続く管と、猫又亭に続く管が合流する場所だ。ここを塞げば、中枢への流路が遮断される。

 鈴音が部品を当てた。形は合っている。固定する工具を取り出し、作業を始めた。

 雪乃は周囲を警戒した。

 しばらく、音は管の振動だけだった。

 十分ほど経った頃、きゅう太が言った。

「奥から、気配がする」

 雪乃は耳を澄ませた。

 かすかな金属音だ。からくりの音ではない。人の足音だ。複数いる。

「来ます」

「あと少し」

鈴音が言った。工具が動いている。

「もう少しだけ」

「急いでください」

「急いでる」

 金属音が近づいた。

 からくり忍軍だった。

 水路の奥から、人形が来た。今まで見たものと違う。水中を歩けるよう改造されており、膝まで水に浸かっても動きが鈍らない。四体が一列で来た。

「あやめさん」

「分かった」

 あやめが前に出た。水路の幅は狭い。一度に来られるのは一体か二体だ。それがあやめにとって有利な状況を作っていた。

 雪乃は後方を確かめた。こちらからも来る可能性がある。

「こはくさん、たまさん、鈴音さんの後ろを」

「はい」

こはくが返事をした。

 あやめが先頭の一体と接触した。水の中での戦いは、動きが制限される。あやめは水路の壁を使い、人形の腕を壁に押し当てて関節を外した。一体が止まった。

 二体目が来た。

 あやめが対処している間、雪乃は後方から来る気配を探った。

 来た。

 後方から二体。こはくたちとの間に割り込もうとしている。

「こはくさん、下がってください」

「でも鈴音ちゃんが」

「大丈夫。行きます」

 雪乃は後方の二体に向かった。水が跳ねた。狭い水路で二体同時は難しいが、壁と天井を使えば動ける。一体の頭上に乗り、関節を外した。一体が崩れた。もう一体の腕を掴み、向きを変えた。

「できた」

鈴音の声がした。

 雪乃は振り返った。

 鈴音が部品から手を離し、立ち上がっていた。

「固定完了。これで分岐点は塞がれた。中枢への主要な流路は遮断されたと思う」

「思う、ですか」

「確認はこれからだけど、計算上は大丈夫なはず」

「計算上は、という言い方が気になります」

「大丈夫。たぶん」


 水路から川岸に出ると、空が変わっていた。

 雲が厚く、風が強い。だが天気のせいだけではない。坂の上から、湯けむりが大量に流れ下りてきていた。温泉の圧力が、さらに上がっている。

 そして、地面が揺れた。

 今朝より強い揺れだった。石畳に入った隙間から、今度は蒸気が吹き出した。

「源泉の圧力が限界に近い」

 たまが言った。

「分岐点を塞いだのに、どうしてですか?」

 雪乃が訊くと、鈴音が答えた。

「玄斎が別の手段を使っている可能性がある。主要な流路は塞いだけど、分岐は他にもある。全部は把握しきれていなかった」

「つまり、まだ動かせる流路がある」

「あるかもしれない」

 たまが坂の上を見た。

「地下の仕掛けが、一部起動している。完全ではない。ただ、封印に圧力がかかっている。このまま圧力が続けば、今夜を待たずに封印が緩む可能性がある」

「こはくさんの練習は」

 雪乃はこはくを見た。

「できています。今すぐでもできます」

「今すぐは危険じゃ。地下の状態が安定していない。不安定な状態で封印を強化しようとすれば、力が分散する。封印が強化されるより、仕掛けが起動する方が先になる可能性がある」

「では、地下の状態を安定させてから」

「そうじゃ。玄斎の動きを止めて、圧力を下げてから」

「玄斎はどこにいますか」

 たまは少し考えた。

「社の下、じゃろう。昨夜から地下の起動を始めていたなら、今は中枢の近くにいるはずじゃ」

 

 空はいつの間にか、夕方の色に近づいていた。

 坂を上り、社に向かった。

 途中で、農家の男が来た。

「坂の下は大丈夫だ。人形が二体来たが、止めた」

「どうやって止めましたか」

雪乃は訊いた。

「大工の夫婦と三人で、角材で叩いた。うまく関節に当たって止まった」

「怪我はありませんか」

「問題ない」

農家の男は少し誇らしそうな顔をした。

「からくりの人形は、動きが読みやすいな。同じ動きを繰り返すから」

「そうです。助かりました」

「まだ来るか」

「来ると思います。引き続き頼みます」

「任せてくれ」

 農家の男は坂を下りていった。


 社の前に着いたとき、地面の揺れが始まった。

 今までと違う揺れだった。

 長い。止まらない。揺れながら、どこかから低い音が聞こえてきた。地の底から響くような、重い音だ。

「起動している」

たまが言った。

「完全にですか」

「完全ではない。ただ、一部が動き始めている。このまま進めば、町全体が動く」

 地面の割れ目から、蒸気が噴き出した。

 坂の石畳が一部、浮き上がった。

 遠くから声がした。驚いた声、子どもの声、混乱の声。

「町の人々が」

こはくが呟く。

「たまさん、妖怪たちを動かせますか。人々の誘導を頼みたいです」

雪乃は訊いた。

「やろう」

 雪乃は鈴音を見た。

「鈴音さん、分岐点以外に塞げる流路はありますか」

「探す。地下に戻れれば、別の場所を見つけられるかもしれない」

「きゅう太と一緒に動いてください。きゅう太は地下が一番速い」

「分かった。鈴音ねえちゃん、来い」

 きゅう太が短く言った。

 雪乃は次に、あやめを見た。

「あやめさんと私は社の下に向かいます。玄斎を止める必要があります」

「一緒に行きます。封印の強化は、わたしがやります。玄斎のところに行かなければ、できません」

「危険です」

「だから一緒に行くんです」

 雪乃はこはくを見た。

 こはくの目が、迷っていなかった。

「分かりました。一緒に行きます」


 社の裏手から、地下への入口を探した。

 昨日の調査で、社の下に空間があることは分かっていた。だが入口の場所は特定できていなかった。

 あやめが社の床板を確かめた。

「ここだ」

 板を持ち上げると、下に階段があった。狭く、暗い。

 三人で降りた。


 階段を降りると、通路が続いた。

 水路より狭く、天井が低い。壁の管が振動しており、熱が伝わってくる。地下の動きが激しくなっている。

 低い音が、足の裏から伝わってきた。

 進むほど、音が大きくなった。

 通路が開けた。

 歯車の広間ではない。もっと奥の空間だ。

 中枢だった。

 石の台が中央にあり、その上に巨大な歯車が複数組み合わさっている。歯車が、動いていた。ゆっくりと、だが確実に。壁の管に圧力が伝わり、空間全体が振動している。

 玄斎が台の前に立っていた。

 こちらに背を向け、台の刻み目に何かをしている。

 その隣に、歯車丸がいた。

 玄斎の配下のからくり忍者だ。今まで直接見たことはなかったが、姿から分かった。黒い甲冑、機械的な動き、目の部分が赤く光っている。

 玄斎が振り返った。

「来たか」

驚いていなかった。

「分岐点を塞いだのは知っている。だが、それだけでは止まらない」

「他の流路を使っているのですか」

「この仕掛けは、一つの流路だけで動くほど単純ではない。お前たちが塞いだのは、主要な流路の一つだ。他にもある」

「全部は塞げない、と言いたいのですか」

「そういうことだ」

玄斎は台に手を置いた。

「猫又坂は、この場所に縛られすぎている。お前も忍びなら分かるはずだ。場所に情を置くから、判断が鈍る。温泉、畑、茶屋、坂道、古い家。どれも大事そうに抱えているが、形のあるものは移せる。壊れたなら直せばいい。足りないなら作り直せばいい」

「月見庵も、ですか」

 雪乃は訊いた。

「店は、また建てられる」

 玄斎は迷わず答えた。

「団子の作り方も、帳簿も、客の名前も、記録に残せばいい。場所にこだわる必要はない」

 雪乃の指が、わずかに動いた。

「……こはくさんが、毎朝見ている霧もですか」

「霧は、条件が揃えばまた出る」

「お銀さんが毎日拭いている縁台も」

「板なら替えられる」

「ここで、ただいまと言われることも」

 玄斎は一瞬だけ黙った。

「言葉は、別の場所でも言える」 

 雪乃は、そのとき初めて、玄斎をはっきり敵だと思った。

「あとは最後の手順だけだ。こはくを連れてきたか」

「連れてきました。ただし、あなたの望む通りにはしません」

「こはくの狐火を中枢に流せば、封印が解ける。狐火は、からくりの補助動力になる。お前の力は、この町を動かす鍵だ」

「使いますが、封印を解くためには使いません」

 玄斎は少し止まった。

「何をするつもりだ」

「封印を強化します」

 玄斎は少し笑った。

「強化できると思うか。今の仕掛けの動きを見ろ。既に封印に圧力がかかっている。お前が強化しようとしても、圧力に負ける」

「試してみなければ分かりません」

「試す時間がない」

 玄斎が指を動かした。

 壁から、からくり人形が出てきた。

 六体。今まで見た中で最大の数が、一度に現れた。

「あやめさん」

雪乃は呼んだ。

「分かった」

 あやめが人形に向かった。

 玄斎が台に近づいた。

 雪乃は玄斎の前に出た。

「通しません」

「通るつもりはない。ここでやる」

 玄斎は台の刻み目に手を当てた。起動手順の最終手順を、別の方法で実行しようとしている。

「こはくの狐火がなくても、できるのですか」

「完全にはできない。だが、不完全でも動く。完全に動かすより時間はかかるが、今夜の新月なら間に合う」

「新月でなければ、できないのですか」

「できる。だが、町は大きすぎる。普段の圧では、動き出す前に仕掛けが止まる。新月の夜だけ、封印が薄くなり、地下水の流れが歯車に向く」

「だから今朝から動かし始めていたのですか」

「そうだ。新月の底に合わせるためにな」 

玄斎と雪乃は向き合った。

「戦う気はない」

玄斎は言った。

「では動かないでください」

「動かないが、台は渡さない」

「こはくさん」

雪乃が呼ぶ。

「はい」

「今すぐ封印に向かえますか」

「台の中心に触れる必要があります」

「玄斎の横を通る必要がありますね」

「はい」

「私が引きつけます。その間に」

「分かりました」

 玄斎が雪乃を見た。

「引きつける、か。だがこはくが台に触れれば、私が止める。お前が引きつけても、こはくは通れない」

「そうでしょうか」

 雪乃は玄斎に向かった。

 正面から、まっすぐ。忍びとして、最も速い動きで。

 玄斎が対処した。雪乃の腕を取ろうとした。

 雪乃はそれを受け、流した。玄斎の体勢が崩れる前に、次の動きに移った。

 玄斎が雪乃に集中した。

 その一瞬、こはくが動いた。

 玄斎の横を、すり抜けた。

 台の前に立った。

 玄斎が振り返った。

「止まれ」

「止まりません」

 こはくは手を台の中心に当てた。

 目を閉じた。

 光が、灯った。

 だが、光はすぐに揺らいだ。台の奥から、逆向きの圧が押し返してくる。青白い火が、風に吹かれた灯のように細くなった。

「……っ」

 こはくの肩が震えた。

「言ったはずだ。今の封印には圧力がかかっている」

 玄斎は穏やかな声で言った。

「灯すだけでは足りない。押し潰される」

 雪乃は玄斎の前に立ったまま、こはくの方を見なかった。

 見れば、迷う。

 だから前だけを見た。

「こはくさん」

「はい」

「大丈夫です。私はここにいます」

 こはくは、小さく息を吸った。

「……はい」

 青白い光が、台から広がった。

 歯車の広間が照らされた。

 動いていた歯車が、少し速度を落とした。

 玄斎が止まった。

「なぜ。封印が強化されている。今の状態で、なぜそれができる」

「たまさんに教えてもらいました。灯すように、と」

こはくは目を閉じたまま言った。

「圧力がかかっている状態では、普通はできない」

「そうかもしれません、でも、雪乃さんがいますから」

「関係ない」

「あります。雪乃さんが引きつけてくれているから、わたしは落ち着いて灯せます」

 玄斎は少し止まった。

 光が広がり続けた。

 歯車の速度がさらに落ちた。

 玄斎が台に向かおうとした。

 雪乃が前に出た。

「通しません」

「どけ、霧隠の娘」

「どきません」

「こはくの力は、お前が利用しているだけだ」

「違います。こはくさんは、自分で決めています」

「忍びがこの町に来たのは、任務のためだ。こはくを守るのも、任務のためだ。それがなくなれば、お前はここを離れる。こはくはまた一人になる」

「それはどうでしょうか」

「どういう意味だ」

「私は、任務よりも先に、ここにいる理由を持ちました」

 玄斎は少し間を置いた。

「忍びが、任務より大事なものを持てるとは思わない」

「玄斎さんも、持っていたのではありませんか。里にいたとき、任務より大事だと思っていた研究が」

 雪乃は問いかけた。

「それは」

「里がそれを奪った。だから、玄斎さんはここまで来た」

 玄斎は黙った。

「奪われた怒りは、本物だと思います。里のやり方が間違っていると思うことも、分かります。でも、この町を動かすことが、その答えになりますか」

「復讐だとは言っていない」

「では、何のためですか」

「力を持てば、次は里に命令される側ではなくなる。道具ではなくなる」

「道具ではなくなることと、この町の人々を巻き込むことは、別のことです」

「この町は、移動する仕掛けの上に作られている。使われる運命にあった」

「この町の人たちは、仕掛けの部品ではありません」

 玄斎が雪乃を見た。 


 長い沈黙があった。

 光が、広間全体に広がっていた。

 歯車が、止まっていた。

 こはくの手が台から離れた。

 光が、ゆっくりと消えた。

「封印、できました。たぶん、大丈夫です」

こはくは疲れた声だった。

「たぶん、ですか」

「確認はたまさんにしてもらいますが、感触としては、できていると思います」

 雪乃は玄斎を見た。

 玄斎は台を見ていた。歯車が止まっている。管の振動が、少し弱まっている。

「封印が強化された」

玄斎の声は小さかった。

「はい」

「今の状態では、起動できない」

「はい」

 玄斎は少し笑った。今まで見てきた芝居がかった笑いではなく、本当に、何かを認めたような笑い方だった。

「負けた、というわけか」

「そうは言っていません」

「負けた。今夜は」

 玄斎は台から手を放した。

 中枢の広間に、止まった歯車の余韻だけが残った。

「歯車丸」

 歯車丸が、玄斎のそばに来た。

「命令確認。次の指示を待機します」

機械的な声だった。

「指示はない。今夜は終わりだ」

「了解。ただし確認ですが」

歯車丸は少し間を置いた。

「月見庵の団子は、次回の任務後に食べることは可能ですか」

 雪乃は少し止まった。

 こはくが、疲れた顔のまま笑った。

「可能です。来ていいですよ。いつでも」

「感謝します。では今夜の任務を終了します」

 玄斎は雪乃を見た。

「霧隠の娘」

「はい」

「お前の言っていること、全部は理解できない。だが、一つだけ答えを持っていないことがあった」

「何でしょう」

「この町を動かした先に、俺は何を得るつもりだったか」

「考えていなかったのですか」

「里への復讐、とお前たちは言う。俺は否定した。だが、否定できる理由を持っていなかった」

 玄斎は台を見て、止まった歯車を見た。

「今夜は引く。ただし、終わりではない」

「分かっています」

「また来る」

「来ても構いません。ただ、次に来るときは、この町の人々を話の場に入れてください。玄斎さんが何をしたいのか、この町がどういうものなのか、住んでいる人たちが知る権利があります」

 玄斎はしばらく雪乃を見た。

「変わった忍びだな」

「よく言われます」

 玄斎は踵を返した。歯車丸があとに続いた。

 通路の奥に消えた。


 三人だけが、中枢の空間に残った。

 あやめが人形を六体、全部止めていた。

「終わったか」

あやめが訊いた。

「今夜は」

雪乃が答えた。

「玄斎は」

「引きました」

 あやめは崩れた人形を見た。

「引いた、というのは完全に退いたわけではないだろう」

「そうです。また来ます」

「そのときはそのときか」

「そのときはそのときです」

 あやめは少し何かを言いかけて、やめた。

 こはくが壁に背を当て、座り込んだ。

「疲れました」

「大丈夫ですか」

雪乃が訊いた。

「大丈夫です。ただ、少し休みたいです」

「今すぐ出なくても構いません」

「雪乃さんも座ってください。腕の傷が、また開いているので」

 雪乃は腕を見た。確かに滲んでいた。

「あとで手当てを」

「今してください」

こはくは帯から手ぬぐいを出した。

「座って」

「こはくさんこそ疲れているのに」

「座ってください」

 雪乃は座った。

 こはくが傷に手ぬぐいを当てた。あやめが壁に背を当て、腕を組んで立っていた。

 地下の音が、静かになっていた。

 歯車は止まっている。管の振動は弱まっている。温泉の圧力は、少しずつ下がっていくだろう。

「封印は、どのくらい保ちますか」

あやめが訊いた。

「たまさんに確認してもらわないと、正確には分かりません。ただ、今夜よりは強くなっています」

 こはくが答えた。

「次に玄斎が来るまでに、もっと強化できますか」

「練習を続けます」

「そうか」

あやめは少し間を置いた。

「こはく」

「はい」

「今夜のことは、よくやった」

 こはくは少し驚いた顔をした。

「あやめさんが、そういうことを言うとは思いませんでした」

「言ったことがなかったか」

「はい」

「そうか」

あやめはまた少し間を置いた。


「言うべきときには、言う」

「ありがとうございます」

「礼はいい」

 あやめは視線を外した。

 地下から出ると、夜の猫又坂が広がっていた。

 地面の揺れは止まっていた。湯けむりは、いつもの量に戻りつつあった。坂の石畳は所々に傷があったが、崩れてはいなかった。

 町の人々が坂に出ていた。

 農家の男が走ってきた。

「終わったか」

「今夜は終わりました」

「怪我人は出なかった。物が少し壊れたが、たいしたことはない」

「ありがとうございます」

雪乃が頭を下げた。

「こはくは大丈夫か」

「大丈夫です。心配をかけてすみません」

こはくが答えた。

「心配するのは当然だ。月見庵が関係することは、うちらの問題でもある」

 農家の男はそれだけ言い、坂を下りていった。

 月見庵の灯りが見えた。

 お銀が戸口に立っていた。

 三人が坂を下りてくるのを見て、お銀は中に入った。

 雪乃たちが月見庵に着くと、食事が用意されていた。

 お銀は「座れ」とだけ言い、飯をよそった。

 三人は座り、食べた。

 こはくが「美味しいです」と言い、あやめが「悪くない」と言い、雪乃は何も言わなかった。

 ただ、確かに美味かった。

 新月の夜が、穏やかに過ぎていった。


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