十六の巻 茶屋を守る者たち
翌朝、月見庵に人が来た。
雪乃が夜明け前から警戒のために起きていると、日が出る頃に、坂を上ってくる足音がした。一人ではない。複数だ。
身構えたが、からくりの気配ではなかった。
暖簾の外から声がかかった。
「こはく、いるか」
川沿いの農家の男の声だった。
こはくが出てくると、農家の男が立っていた。その後ろに、荒物屋の主と、大工の夫婦と、温泉宿の番頭と、何人かの顔見知りが続いていた。
「昨日、変なことがあったと聞いた。怪我はないか」
「大丈夫です。皆さん、こんな朝早くに」
「心配して来た。それだけだ」
農家の男は言った。
「何かできることがあれば、言え。うちは力仕事なら任せてくれ」
「うちは道具を貸せる」
荒物屋の主が言った。
「うちは人手が出せる」
大工が言った。
お銀が帳場から出てきた。集まった人々を見て、一度だけ目を閉じた。
「入れ。茶を出す」
月見庵の板の間に、十人ほどが集まった。
お銀が茶を配り、こはくが残っていた草餅を出した。雪乃は隅に立ち、様子を見ていた。
農家の男が言った。
「事情を全部話してくれなくていい。ただ、この町に何か厄介なことが起きているのは分かった。月見庵が関係しているのも分かった。だから来た」
「迷惑をかけています」
こはくが申し訳なさそうにしていた。
「迷惑とは思っていない。またたび湯の幽霊騒動のとき、こはくちゃんに助けてもらった。今度はこっちが動く番だ」
番頭が言った。
「具体的に何が起きているのかは、私から話します」
雪乃は前に出た。
集まった人々が雪乃を見た。雪乃は少し間を置いてから、話し始めた。
「私は忍者です。この町に潜入任務で来ましたが、今は任務とは別に、この町を守るために動いています」
誰も驚かなかった。
「やっぱりそういう人だったか。屋根を走るのを見たとき、そう思った」
農家の男が言った。
「黒羽玄斎という元忍びが、猫又坂の地下にある古いからくりの仕掛けを起動しようとしています。成功すれば、この町が動く。今ここで暮らしている皆さんを、気づかせないまま巻き込む可能性があります」
「町が動く、というのは」
大工が訊いた。
「字義通りです。猫又坂は、古い時代に移動できるように作られた町です。地下の仕掛けを動かせば、文字通り、この場所を離れて移動します」
しばらく、静かになった。
「それは、困る。またたび湯がなくなっては」
番頭が眉をひそめた。
「ここを離れる気はない」
農家の男が言った。
「新月の夜、玄斎が本格的に動きます。その間に、地下の封印を強化して、玄斎が仕掛けに近づけないようにする必要があります」
「で、あたしらは何をすればいい」
お銀が訊いた。
「地上の守りをお願いしたいです。玄斎は地下からだけでなく、地上からも動いてきます。からくり人形を使います。町の人々が安全でいられるよう、見張りと誘導を頼みたい」
「できる」
農家の男が即座に言った。
「具体的にどう動けばいいか、教えてくれ」
大工が言った。
話し合いは一刻ほど続いた。
見張りの場所を決め、人形が来たときの避難の経路を確認し、誰がどこを担当するかを決めた。農家の男は坂の下を担当し、番頭はまたたび湯の周囲を見る。大工の夫婦は月見庵の近くに常駐し、荒物屋の主は物資の調達を引き受けた。
妖怪たちにも声をかける、という話も出た。
「猫又坂の妖怪は、皆この町に暮らしている。何かあれば力を貸してくれるはずだ。たまさんは既に動いているだろうが、他の者にも声をかけてみる」
番頭が伝える。
「お願いします」
雪乃はそう言って、頭を下げた。
人々が帰り始めた。
最後に出ていくとき、農家の男が雪乃に言った。
「あんた、忍者だったのか」
「はい」
「忍者が月見庵の手伝いをしていたのか」
「そういうことになります」
「変わっているな」
「よく言われます」
農家の男は少し笑い、坂を下りていった。
人々が帰ると、月見庵が静かになった。
お銀は帳場に戻り、帳簿を開いた。
「お銀さん」
こはくが呼んだ。
「何だ」
「臨時休業を、もう少し続けますか」
「続けない」
お銀は帳簿から目を上げた。
「今日から開ける」
「でも、状況が」
「こはくが帰ってくる場所がなければ、意味がない」
こはくは少し止まった。
「帰ってくる場所が、なくなるわけではないですよ」
「あるだけでは足りない。開いていなければ、帰ってきた気がしない」
お銀はそれだけ言い、帳簿に戻った。
こはくは雪乃を見た。
「開けましょう」
「手伝います」
「草餅が残っています。昼の客に出しましょう」
「昨日作ったものですが、大丈夫ですか」
「保存してありますから。雪乃さん、よもぎを刻んでもらえますか」
「はい」
雪乃は頷いた。
昼になると、客が来た。
事情を知っている者もいれば、知らない者もいた。どちらも、いつも通りに座り、団子を頼み、茶を飲んだ。
雪乃は配達に出た。
坂を歩きながら、昨日のことを考えた。
こはくを止められなかった。玄斎に連れて行かれた。あやめが守ってくれた。きゅう太が動いてくれた。そして今日、月見庵に人が来た。
一人では、できないことがあった。
里では、一人で動くことが基本だった。複数で動くときも、それぞれが独立して動き、連携は最小限だった。信頼は、任務の中で機能的に確立するものであって、それ以上のものではなかった。
ここでは、違う。
農家の男が朝早くに来たのは、月見庵を心配したからだ。ただそれだけだ。利益も任務も関係なく、心配して来た。そういうことが、今まで雪乃の世界にはなかった。
配達を終え、坂を下りながら、雪乃は鈴音の工房に寄った。
「昨日の件、聞きました。こはくちゃんは大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「よかった。作業を続けています。分岐点を塞ぐ部品は、あと三日で完成します」
「たまさんとの封印強化の話は」
「たまさんに昨日会いました。封印の構造を教えてもらいました。こはくちゃんの狐火で、強化できる可能性が高いです。ただ、正確なやり方をこはくちゃんに練習してもらう必要があります」
「いつできますか?」
「構造の把握は今日中に終わります。明日から練習できます。新月まで五日。短いですが、やるしかありません」
「分かりました。こはくさんに伝えます」
「あと」
鈴音は少し声を落とした。
「雪乃さん、昨日、こはくちゃんが連れて行かれたとき、どうするつもりでしたか」
「取り戻しに行くつもりでした」
「一人で」
「あやめさんがいましたが」
「でも、もし一人だったら、どうしていましたか」
「一人でも行きました」
鈴音は少し雪乃を見た。
「なんで、ですか」
「こはくさんがいないと、困るので」
「困る、というのは」
「月見庵に帰ったとき、こはくさんがいなかったら……おかえりなさい、と言う人がいないので」
鈴音はしばらく雪乃を見た。それから、少し笑った。
「そういうこと、言えるようになったんですね、雪乃さん」
「変なことを言いましたか」
「変じゃないです。むしろ、いいことだと思います」
鈴音は作業に戻った。
「あと三日で部品が完成します。新月の二日前には準備が整います」
「お願いします」
月見庵に戻ると、あやめが縁台にいた。
草餅を食べていた。こはくが向かいに座って、何か話していた。
雪乃が近づくと、二人が顔を上げた。
「おかえりなさい」
こはくが言った。
「ただいま、戻りました」
「あやめさんに、今日の動きを聞いていました。農家の皆さんが来てくれた話とか」
「聞かせてもらった。この町の者たちは、動きが速い」
「自分たちの町ですから」
「里では、そういうことはない。里の者たちは、命令を待つ」
「命令がなければ動けないのですか?」
「そういう訓練を受けている。動いていいかどうかを、常に上位の者に確認する」
「それは、辛くないですか」
あやめは少し間を置いた。
「辛いとは考えたことがなかった。そういうものだと思っていた」
「そういうものじゃない場所もあります。ここでは、何かあれば自分で判断していいです。間違えたらあとで話せばいい。それだけです」
「間違えても、咎められないのか」
「お銀さんには叱られます。でも、次はこうしろと言ってもらえます。追い出されたりはしません」
あやめは草餅を見た。
「この草餅は、毎日作っているのか」
「毎日ではないですが、よく作ります。あやめさん、口に合いましたか」
「悪くない」
「よかった。よもぎの量が、最近ようやく安定してきたんです」
「そうか」
あやめはもう一口食べた。
雪乃は縁台に腰を下ろした。
「あやめさん、今日の警戒をどうするか、相談したいです」
「そのために来た」
「夜の巡回は、私とあやめさんで交代しましょう。鈴音さんの部品が完成するのが三日後。そこから地下の分岐点を塞ぐ作業に入る。地上の守りは、町の人々に頼んでいます」
「地下を塞ぐとき、玄斎が邪魔をしてくる可能性がある」
「はい。その際の対応も考えておく必要があります」
「二人では足りないかもしれない」
「たまさんがいます。きゅう太もいます。鈴音さんも戦えないわけではありません」
「からくりの道具を作る人間が、戦えるとは思えないが」
「爆発させます」
雪乃がそう言うと、あやめは少し止まった。
「爆発」
「鈴音さんは、爆発するものをよく作ります。それを使えます」
「……当てにしていいものか」
「小さい爆発だとご本人は言っています」
「小さい、という基準が心配だが」
「私も心配していますが、ないよりはいいと思って」
こはくが笑った。あやめは笑わなかったが、顔が少し緩んだ。
夕方、鈴音がやってきた。
手に、小さな箱を持っていた。
「できた。早かったでしょ」
「三日後と言っていませんでしたか」
こはくは突っ込んだ。
「急いだ。部品を先に作って、組み立てながら調整した。設計通りに動くかどうかは、地下でテストしないと分からないけど、理論上は大丈夫なはず」
「理論上は、ということは」
「実際には、分からない。でも、やってみないと分からないので」
「鈴音さん」
「何」
「爆発する可能性はありますか」
「ある」
「どのくらい」
「半分くらい」
「鈴音さん」
「大丈夫大丈夫。爆発しても、小さいから。それより、封印の練習の方が大事だと思う。こはくちゃんにすぐ始めてもらいたい」
「やります」
「今夜から練習できますか」
「たまさんを呼べますか」
鈴音がこはくに訊いた。
「声をかけてみます」
こはくはまたたび湯に使いを出した。
半刻後、たまが来た。眠そうな顔で来て、縁台に座り、お銀が出した茶を飲んだ。
「練習をするのか」
「はい。教えてもらえますか」
「やってみよう。裏庭で」
裏庭に、全員が集まった。
こはく、たま、鈴音、あやめ、雪乃。月明かりが庭を照らしていた。
たまがこはくに向かい合った。
「封印は、力を込めるのではなく、灯すことが大事じゃ。押し込もうとすると、逆に解けてしまう可能性がある。ちょうど、灯りを灯すように。冷静に、そこに置くように」
「灯すように」
「狐火を出してみよ。ただし、今まで出したときより、落ち着いて出してみろ」
こはくは目を閉じた。
しばらく、静かだった。
手のひらに、光が現れた。
今まで見たものと、少し違った。広がる前に止まっている。揺れが少なく、安定している。
「そうじゃ。その状態を保て」
「難しいです。出そうとすると、広がります」
「出そうとするな。ただ、そこにいさせろ」
「そこにいさせる」
「火に、場所を与えろ。押し込むのではなく、居場所を作ってやれ」
こはくは少し間を置いた。
光が、落ち着いた。
揺れが止まった。
たまが頷いた。
「それが封印に使える火じゃ。それを地下の封印の中心に届けれるよう、練習を続けろ。届けるのは、遠くに投げるのではなく、歩いて持っていくように」
「歩いて持っていく」
「そうじゃ。急がなくていい。確実に届ければいい」
こはくはもう一度やった。
今度は、最初から安定していた。
雪乃は見ていた。
こはくの手の光が、今夜は温かい色をしていた。青白い色だが、冷たくない。月見庵の竈の火に似ていると、雪乃が最初に言った通りの光だった。
「上手いじゃろ」
たまはこはくに言った。
「そうですか」
「最初からそれができる者はいない。お前は特別に向いている」
「わたしの火が、壊すためのものではないからですか」
「そうじゃ。宿す火は、封印に向いている。破壊する火では、封印は補強できない」
「よかった」
こはくは少し笑った。
「役に立てるとしたら、そっちの方がいいですから」
練習が終わり、たまが帰り、鈴音が帰り、あやめが夜の巡回に出た。
裏庭に、こはくと雪乃だけが残った。
梅の木が夜風に揺れていた。
「うまくできましたか」
雪乃が訊いた。
「たまさんに言われた通りにやれば、できます。でも、一人でやるときに同じようにできるかが、心配です」
「練習を続ければ、できるようになります」
「そうだといいですが」
こはくは手のひらを見た。
「昨日、玄斎さんに言われたことを考えていました」
「何を言われましたか」
「感情が揺れれば、自然に出る、と。制御がまだ完全ではない、と」
「それは、今日の練習でどうでしたか」
「冷静にしていれば、冷静に出せました。玄斎さんの前では、怖くて揺れてしまいました」
「次は揺れても大丈夫なように、今から練習しておきましょう」
「揺れても大丈夫な練習、というのはどういうものですか」
「揺れながら、灯すことです」
「難しそうです」
「難しいです。でも、できるようになります」
「どうしてそう言い切れますか」
「今日、初めてやって、すぐにできたからです」
こはくは少し止まった。
「それは、褒めてくれていますか」
「事実を言っています」
「雪乃さんの褒め方は、やっぱり不器用ですね」
「そうですか」
「でも、嬉しいです」
こはくは手のひらに、もう一度光を灯した。小さく、安定した光だ。
月明かりと、こはくの火が、裏庭を照らした。
「新月まで、あと五日ですね」
「はい」
「できることをやります。雪乃さんも、無理しすぎないでください」
「無理しすぎ、ではなく、無理はします」
「その言い方、わたしが言ったものですよ」
「借りました」
こはくは笑った。
「返してくれなくていいです。持っていてください」
裏庭の風が、梅の葉を揺らした。
新月まで、五日。
やることがある。仲間がいる。守るものがある。
雪乃はこはくの横に立ち、手のひらの光を見た。
温かい色だった。
新月の前夜まで、月見庵はいつも通りに開きながら、いつも通りではない準備を続けた。
こはくは毎晩、たまと封印の練習をした。雪乃とあやめは交代で町を巡回し、鈴音は地下の部品を何度も調整した。
町の人々も、見張りの場所と避難の道を覚えた。
湯けむりは日ごとに濃くなり、地下の音は、少しずつ近づいてきた。




