十三の巻 あやめの刃
鈴音との話し合いは、半日かかった。
工房に入ると、鈴音はすでに地下の管の写しを広げていた。雪乃がたまから聞いた話を伝えると、鈴音は写しの上に書き込みをしながら、ひとつひとつ確認していった。
「源泉の真下に中枢がある。管はそこに向かって走っている。合ってる」
「地下の構造は、どこまで分かりましたか」
「またたび湯の岩場から猫又亭の床下まで、管が繋がっていることは分かった。他にも分岐がある。猫又坂の地下全体に、網の目みたいに広がってる」
「全部を把握するには」
「もっと調べないといけない。地下水路を通れば、直接確かめられると思う。きゅう太に頼めないかな。川から地下水路に入れる場所を知ってるかもしれない」
「きゅう太に頼みましょう」
「あと」
鈴音は写しの一点を指で押さえた。
「中枢への道を塞ぐなら、管の要所を止めればいい。全部止める必要はなくて、源泉に一番近い分岐点を塞げば、中枢への経路が遮断できると思う」
「その分岐点はどこですか」
「またたび湯の岩場の、さらに奥。今は人が入れない場所だけど、地下水路から回れば行ける」
「次の新月までに、できますか」
「やってみないと分からないけど、やる」
鈴音はきっぱり言った。十四歳の顔に、迷いがなかった。
「危険があります」
「爆発より危なくないでしょ」
「そうとは言い切れませんが」
「大丈夫。わたし、本当に危ないときは逃げ方を知ってるので」
雪乃は少し考えて、頷いた。
問題は、その翌日に起きた。
朝、雪乃が月見庵の前を掃いていると、あやめが坂を下りてきた。いつもの旅装束だが、表情がいつもより硬かった。
「話がある」
雪乃は箒を置いた。
あやめは路地に入り、雪乃を手招きした。
「里から伝令が来た。昨夜、里の早便で届いた」
「内容は」
「お前の帰還命令が出た。私が期限を延ばすと報告したことに対して、里が正式に命令を出した。お前を今すぐ連れ戻せ、という内容だ」
雪乃は少し間を置いた。
「あやめさんの判断を、里が覆したのですか」
「そういうことだ」
あやめは視線を外した。
「私の越権行為だったと、そう判断された」
「あやめさんが叱責を受けましたか」
「それは関係ない」
「関係があります」
「ない」
あやめは雪乃の方を向いた。
「里の命令だ。お前は今日、月見庵を出て、私と共に帰還する。それが命令だ」
雪乃はあやめを見た。
あやめの目が、まっすぐ雪乃を見ていた。その奥に、別のものがある気がした。雪乃には、それが何かを言葉にできなかった。
「帰りません」
雪乃ははっきりと言った。
あやめの目が、少し変わった。
「命令だと言った」
「聞こえています」
「里の命令に従わなければ、お前は抜け忍になる」
「分かっています」
「分かっていて、従わないのか」
「はい」
あやめはしばらく雪乃を見た。何かを考えている時間があった。
「理由を言え」
「新月まであまり時間がありません。その間に玄斎を止めなければ、この町が動く。今、私が離れれば、止める手が足りなくなります」
「それは任務の都合だ。里が判断することだ」
「里はこの町の人々のことを知らない。知らないまま、命令を出している」
「里の命令が間違っていると言うのか」
「間違っているとは言いません。ただ、今ここにいる私には、従えない理由があります」
「任務ではなく、個人的な理由があるということか」
雪乃は少し間を置いた。
「両方です」
あやめはため息をついた。
「お前と話していると、疲れる」
「すみません」
「謝るな。謝るなら従え」
「従えません」
「…………」
あやめはしばらく黙った。
それから、着物の袖から何かを取り出した。
小さな刃だった。任務用の短刀だ。あやめが雪乃に向けた。
「戦え。勝てば、里への報告は考える。負ければ、連れ帰る」
「戦う必要がありますか」
「ある。里への口実が必要だ。私がお前に負けたという事実があれば、連れ帰れなかった理由になる」
雪乃はあやめを見た。
あやめは刃を向けたまま、まっすぐ雪乃を見ていた。口実、という言葉を使った。つまり、あやめはすでに、雪乃を連れ帰るつもりがない。ただ、その理由を形にする必要がある。
「分かりました」
雪乃は構えた。
竹林は、猫又坂の北の外れにある。
人通りはない。鈴音の工房より先の、道が細くなるところに入口がある。竹が密集しており、昼間でも薄暗い。足元は竹の葉が積もっており、音が立ちにくい。
あやめが場所を選んだ。理由は言わなかったが、雪乃には分かった。町の人の目から外れた場所で、かつ、広さがある。忍びが本気で動ける場所だ。
二人は竹林の中程で向き合った。
「本気でやれ」
「あやめさんも本気ですか」
「当然だ。加減したら失礼だろう」
あやめが動いた。
速かった。里での訓練で常に雪乃の上にいただけある。踏み込みが深く、刃の軌道が読みにくい。雪乃は体を半歩引き、腕で軌道をずらした。
あやめがすぐに引いた。次の動きに移る前の、わずかな間隙。
雪乃はその間隙に踏み込んだ。
あやめの刃を持つ手首を取り、向きを変えた。あやめが体ごと流れを受け、距離を取った。
二人は止まった。
「速くなった」
「あやめさんも」
「里で訓練を続けている。当然だ」
また動いた。今度はあやめが先に動かず、雪乃を待った。
雪乃は動いた。正面から踏み込み、あやめの刃の内側に入ろうとした。あやめが体を開き、雪乃の腕を取った。投げようとする。雪乃は受け身を取りながら、あやめの腕を引いた。二人が同時に体勢を崩した。
竹の葉が舞った。
二人は間合いを取り、息を整えた。
「雪乃」
「はい」
「聞いていいか」
「何でしょう」
「月見庵に、本当に居たいと思っているか」
雪乃は少し止まった。戦いの途中で、そういう問いが来るとは思っていなかった。
「はい」
「任務でなくなっても、ここにいたいか」
「はい」
「なぜだ」
「……言葉にするのが、難しいですが」
「難しくていい。言え」
雪乃は竹林の薄暗さの中で、あやめの目を見た。
「ここでは、私が役に立つことをしなくても、ここにいていいと言われました。役に立つから居場所があるのではなく、ただいるから居場所がある、という場所です。そういう場所が、里にはなかった」
あやめは何も言わなかった。
「こはくさんが、おかえりなさいと言います。それだけのことです。ただ、それだけのことが、里では一度もなかった」
「……おかえりなさい」
あやめが繰り返した。小さな声だった。
「はい」
「それが、そんなに」
あやめは少し視線を外した。
「大事なのか」
「私には、大事でした」
あやめはしばらく黙った。竹林が風に揺れた。葉の擦れる音が続いた。
「私には、そういう場所がない」
声が、少し変わっていた。平坦ではなかった。
「里に戻れば、また任務だ。また命令を待つだけだ。お前がここで笑っているのを見て、腹が立ったのは」
「はい」
「羨ましかったからだ。お前に言ったことがある。それは本当だ。私には、帰りたい場所がない」
雪乃はあやめを見た。
あやめの顔が、今まで見たことのない表情をしていた。里で訓練を受けていたときも、任務で顔を合わせたときも、こういう顔を見たことがなかった。
「あやめさん」
「何だ」
「月見庵に来てください。任務が終わったあとでも、来ていいと思います」
「里の忍びが、そう簡単に」
「こはくさんが言っていました。いつでも来てほしいと」
「あの娘が」
「お銀さんも、困った人を追い返すような人ではありません」
あやめは少し沈黙した。
「お前は、里に戻らないつもりか」
「玄斎の件が片付いたあとのことは、まだ分かりません。ただ」
「ただ」
「今は、ここにいます。私の意思で」
あやめはしばらく雪乃を見た。
それから、短刀を収めた。
「続きをやれ」
「え」
「戦いの続きをやれ。口実が必要だと言った。有耶無耶にするわけにはいかない」
「……はい」
二人は再び構えた。
今度は、速かった。
あやめが踏み込んだ。雪乃は受け、流し、あやめの軸足を払った。あやめが体勢を崩した。雪乃はあやめの背後に回り込み、短刀を持つ腕を取った。
あやめが止まった。
雪乃も止まった。
二人は動かなかった。
「私の負けだ」
「あやめさんが本気でないのは、分かっていました」
「負けは負けだ」
「はい」
あやめは腕を解かれ、立った。短刀を鞘に戻した。竹の葉を払った。
「里への報告は、私が書く。お前が私を破った、という内容で出す」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
あやめは雪乃をじろりと睨んだ。
「ただし、これで終わりではない。里が次の人員を送ってくる可能性がある。その前に、玄斎の件を片付けろ」
「はい」
「新月まで。お前が言った通り、今ここを離れることは得策ではないと、私もそう判断する。それが私の任務上の結論だ」
「分かりました」
あやめは竹林の出口に向かって歩き始めた。
三歩ほど歩いて、止まった。
「雪乃」
「はい」
あやめは振り返らなかった。
「玄斎の件が終わったら」
「はい」
「もう一度、話す機会をもらえるか。お前と、ちゃんと」
雪乃は少し止まった。
あやめが、そういうことを言う人ではないと思っていた。少なくとも、今まではそうだった。
「はい。玄斎の件が終わったら、話しましょう」
「月見庵で、か」
「月見庵で」
「……団子を食べながら、か」
「こはくさんが用意してくれると思います」
あやめはそれ以上言わず、竹林を出ていった。
雪乃は竹林に一人残った。
葉が揺れ、風が通り抜けた。
あやめが帰りたい場所がない、と言った。里にいる間も、任務の合間も、あやめは一度も帰りたい場所を持てなかった。それを今まで言わなかったのは、言う言葉を持っていなかったからだろうと、雪乃は思った。
里では、そういう言葉を持つ機会がなかった。
雪乃も、猫又坂に来るまでは、そういう言葉を知らなかった。おかえりなさい、という言葉の重さを知らなかった。
竹林を出て、雪乃は坂道に戻った。
坂を下れば月見庵がある。こはくがいる。お銀がいる。鈴音ときゅう太がいる。
新月までにやることがある。人がいる。守るものがある。
雪乃は足を速めた。
月見庵に戻ると、こはくが縁台にいた。
きゅう太と並んで、草餅を食べていた。きゅう太が何かを言い、こはくが笑っている。
雪乃が暖簾をくぐろうとすると、こはくが顔を上げた。
「おかえりなさい」
いつも通りの言葉だった。
雪乃は少し止まった。
「ただいま、戻りました」
「竹林に行ったんですか。竹の葉が少し、着いていますよ」
こはくが雪乃の肩を指差した。雪乃は肩を払った。
「あやめさんは」
「帰りました。宿に戻ったと思います」
「そうですか」
こはくはきゅう太を見た。
「きゅう太くん、お願いがあるんだけど」
「何だ」
「地下水路のこと、詳しく教えてほしいんです。川から入れる場所があるって、鈴音ちゃんが言っていて」
「地下水路か」
きゅう太は草餅を口に入れながら言った。
「知ってるぞ。おいら、遊び場にしてるとこだ」
「案内してもらえますか」
「いいぞ。でも暗いぞ。人間は怖いか」
「大丈夫です。雪乃さんが夜目が利くので」
きゅう太が雪乃を見た。
「雪乃ねえちゃん、一緒に来るか」
「来ます」
「じゃあ大丈夫だ。雪乃ねえちゃんがいれば、何があっても何とかなる」
雪乃は少し止まった。
「何とかなるとは限りません」
「なる。雪乃ねえちゃん、いつも何とかするじゃないか」
こはくが笑った。
「きゅう太くん、正しいですよ」
「こはくさんまで」
「事実だと思います」
雪乃は二人を見て、少し力が抜けた。
縁台に座ると、こはくが草餅を一皿出してきた。
「食べてから、作戦を話しましょう。お腹が空いていたら、考えがまとまらないので」
「今朝も同じことを言いましたね」
「毎回言います。大事なので」
雪乃は草餅を手に取った。
よもぎの香りがした。
新月まで、まだ時間はある。今日分かったことを整理し、鈴音と組んで地下の調査を進める。あやめが里への報告を書いてくれる間に、こちらが動く。
やることが、ある。
雪乃は草餅を食べた。
きゅう太が「おいらも一個くれ」と言い、こはくが「さっき三個食べたでしょう」と突っ込むと、きゅう太が「腹が減ったんだ」と言った。
月見庵の昼が、いつも通り過ぎていった。




