第四話
その日の夜、フィアはエルザと交替して詰め所へ戻った。
エルザはそのままカトレアの寝室前で待機に入る。フィアは棚から水差しを取り出し、コップに水を注いで椅子に腰を下ろした。詰め所の中は、昼間と変わらずきれいに整頓されている。壁際の武具も、机の上の書類も乱れがない。いかにもレナらしい几帳面さがにじんでいた。
手持ち無沙汰になるのも嫌で、フィアは壁に貼られた王宮の見取り図へ目を向けた。
カトレアの私室から最寄りの避難経路。外から侵入されるなら使われそうな通路。護衛の目が届きにくい場所。そうしたものを頭の中でひとつずつなぞっていく。
カトレアの私室は、王宮北部の奥まった一角にある。このあたりは王族の居住区域に当たるらしい。もっとも、同じ王族といっても私室同士はかなり離れていて、日常的に顔を合わせるような造りではないようだった。
中央付近には役人たちの執務室が集まり、各部署が置かれている。カトレア本人が頻繁に出入りする場所ではないだろうが、人や情報が集まりやすい場所でもある。南側には客人用の応接間や、フィアが実技試験のときに訪れた騎士団の訓練場、騎士たちの詰め所がある。今いる北側は、王族とその側近たちのための静かな区域というわけだ。
そのとき、詰め所の扉が開いた。
何かあったのかと、反射的に身構える。だが、入ってきたのはレナだった。昼間とは違う軽装で、ほどいた青い髪が肩に落ちている。護衛長然とした張りつめた空気が少し薄れ、年相応の女性に見えた。
「お休みではなかったんですか」
「初日だからな。少し様子を見に来ただけだ」
そう言って、レナは部屋の中をひと通り見回し、フィアへ視線を戻す。
「で、どうだった?」
フィアは新しいコップを取り出し、水を注いで差し出した。レナは礼を言って受け取る。
「そうですね……変わったお方でした。かなり距離が近いというか」
「……ああ」
レナはひと口水を飲み、わずかに眉を寄せた。
「そこは否定しづらいな。あれは殿下の悪い癖だ」
「レナさんは平気なんですか?」
思ったままを口にすると、レナは一瞬だけ妙な顔をした。困ったような、気まずいような顔だった。
「私は平気だよ。というより、殿下は相手を選んでいる」
「選んでいる?」
「女性には誰にでも優しい。だが、その……特に構いたくなる相手というのはいるらしい」
言いながら、レナはフィアの顔をまじまじと見た。
フィアはその視線に少しだけ居心地の悪さを覚えたが、表情には出さない。たしかにマルタのことを思い出せば、傾向としてはわからなくもない。フィアもマルタも背丈は高くないし、華奢な部類に入る。逆にエルザは武骨な戦士そのものだし、レナはすらりとした大人の女という印象だった。
「その……無理やりどうこうする方ではないから、そこは安心していい」
「まあ、それなら」
レナは露骨に話題を失った顔をした。
初日の様子を見に来ただけのつもりが、護衛対象の好みの話になってしまったのだから無理もない。しばらく気まずい沈黙が落ちる。レナはごまかすように窓の外へ目を向けた。
「そうだ」
唐突に立ち上がり、壁際へ歩いていく。
「少し手合わせしないか。詰め所の裏に小さな庭がある。ここから近いし、何かあればすぐ駆けつけられる。昼間はエルザともやったんだ」
「いいですよ。仲間の実力を知っておくのは大事ですし」
フィアが答えると、レナは立てかけられていた模擬剣を二本取り、そのうち一本を差し出してきた。フィアはそれを受け取り、重さを確かめるように軽く握り直す。レナはその手元を見て、ほんの少し口元をゆるめた。
「そういう返事をするあたり、やっぱり殿下の護衛向きだな」
そう言って、レナは先に詰め所を出た。フィアも模擬剣を手に、その後を追う。
庭へ出ると、詰め所もカトレアの私室も見える位置にあった。何かあればすぐに駆けつけられるだろう。庭の端には、切り石を並べただけの簡素な小道が通り、整然と刈り込まれた樹木がその脇に並んでいる。夜の月明かりが、庭を淡く照らしていた。
レナは適度な距離を取って構えた。フィアも模擬剣を両手に持ち、静かに間合いを測る。レナの構えには力みがない。無駄な動きも一切ない。相手のわずかな変化にも即座に反応できそうな、隙のない構えだった。
「では、来い」
レナが告げると同時に、フィアは地を蹴った。
間合いを一気に詰めて斬り込む。だが、レナはそれを正面から受け止めるのではなく、わずかに刃をずらして衝撃を流した。すれ違いざま、そのまま模擬剣の腹でフィアの脇を打ちにくる。
フィアは剣を返してそれを受け流し、踏み込み直して斬り返した。レナは身体をわずかにひねるだけでその一撃を外し、また間合いが開く。
「エルザは力で押す剣だったが、お前は柔らかいな」
レナの剣もまた、豪快さで押すものではない。受け、流し、相手の隙に差し込む。型でいえばフィアに近い。ただし、完成度は向こうがずっと上だ。
そう思った瞬間、今度はレナが踏み込んできた。
真っ直ぐな突き。フィアは剣を差し込んで軌道を外し、そのまま懐へ潜り込もうとする。
わずかな隙が見えた、と思った。
だが次の瞬間、その目前にレナの肘があった。
硬い衝撃が顎を打つ。フィアはたたらを踏みかけ、すぐに後ろへ跳んで距離を取った。レナは間を置かず追ってくる。足元を払うような低い一撃を、フィアはさらに飛び退いてかわした。
距離を取り直し、再び構える。
レナの動きは鋭く、正確だった。ただ鍛えられているだけではない。何度も死線をくぐった者だけが持つ、落ち着きがある。フィアは自然と息を整え直した。
「ふむ」
レナは剣先を下げずに、フィアを観察するように目を細めた。
「もしかして、普段は別の武器を使っているか?」
「……わかりますか」
「剣筋に違和感がある。強いのはわかるが、長剣がしっくり来ていない」
フィアは少し迷ってから、腰の短刀を抜いて見せた。二十センチほどの、小ぶりな刃だ。柄にも鞘にも細かな彫刻が入り、使い込まれているのがわかる。確かに何でもありの実戦なら、もう少し別の戦い方もできた。
「普段はこちらを使っています」
「なるほど」
レナは納得したようにうなずいた。
「その身軽さなら、たしかにその方が合っているな。模擬剣でやらせるには、少し不公平だったか」
「いえ。レナさんの腕前がよくわかりました」
「そうか」
レナはようやく構えを解いた。
「お前の腕も十分だ。護衛として不足はない」
その言葉に社交辞令めいた軽さはなかった。ただ率直に認めただけの声音だ。フィアは自然と背筋を正す。こういう言い方をする人間は、嫌いではない。
レナはしばらく模擬剣を手の中で転がしてから、静かに言った。
「護衛仲間が死ぬのは、もう見たくないからな」
それだけだった。
詳しい話をするつもりはないのだろう。だがその一言に、レナがどれだけの重さを抱えているかが滲んでいた。
そのとき、不意に拍手の音がした。
振り返ると、庭の小道の向こうに男が一人立っていた。年は若く、身なりも整っている。上質な布で仕立てた服を隙なく着こなし、袖口からのぞく指には贅沢な指輪が光っていた。男は穏やかな微笑みを浮かべたまま、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「見事だね。夜の散歩をしていたら、思いがけずいいものを見られた」
フィアは反射的に模擬剣を構え直した。だが、それを制するようにレナが半歩前に出る。
「これは、ルシアン殿下。こんな時間に何か御用でしょうか」
「いや、ただの散歩だよ。そんなに警戒しないでくれ」
柔らかな声音だった。だが、どこか薄い膜を一枚隔てて話しているような、妙な距離感がある。
「そちらの小柄なお嬢さんが新しい護衛かな。レナ、君の腕は相変わらずだし、その子もなかなか面白い動きをする」
相手が第二王子だと知り、フィアは剣先を下げた。とはいえ、警戒まで解く気にはなれない。
ルシアンはフィアに興味深そうな視線を向け、軽く一礼した。
「僕はルシアン・アルヴェイン。カトレアの弟だ」
「フィア・レーヴェンです。カトレア殿下の護衛を務めさせていただきます」
短く答えて頭を下げる。
だが、ルシアンはそのまま距離を詰めてきた。礼儀正しい笑みを浮かべたまま、値踏みするようにフィアの顔を眺める。
「レーヴェン……どこかで聞いた名だな」
わざとらしく首をかしげる。
「たしか、ずいぶん苦労した家だったか。土地も財産も失って、最後には娘まで売っただの何だの……あまり上品でない噂を聞いた覚えがある」
フィアは一瞬だけ息を止めた。だが顔を軽く下げるだけで、何も答えない。
怒るのも、言い返すのも簡単だ。だが、それをしたところで得になる相手ではない。家族のことはフィアにとって最も触れられたくない部分だったが、それをこの男に悟らせたくもなかった。
そのあいだに、レナが二人の間へ静かに割って入った。
「私の部下をからかわないでいただきたい、ルシアン殿下。このあたりはカトレア殿下の居住区です。先日の襲撃もありました。散歩をなさるのは結構ですが、無用にこちらを刺激しないでいただきたい」
「からかうなんて、とんでもない。ただ少し、昔話をしただけさ」
ルシアンは肩をすくめ、悪びれもせず笑った。
「僕だってカトレアの無事は願っているよ。優秀な護衛が増えるなら、それに越したことはない」
言葉は穏やかだ。だが、その穏やかさがかえって薄気味悪い。フィアは内心で眉をひそめた。
ルシアンはそのまま庭の中央へ視線を流し、ふっと笑う。
「まあ、そこまで気を張らなくてもいい。カトレアは殺しても死なない女だからね」
冗談めかした調子だった。だが、その言い回しにフィアはぞわりとしたものを覚えた。
「フィア、と言ったね。何か困ったことがあれば、僕を頼ってくれて構わないよ」
そう言い残すと、ルシアンは軽く手を振って庭の奥へ去っていった。夜道を歩く足取りはゆったりとしていて、まるで最初から何事もなかったような顔をしている。
沈黙が落ちる。
フィアはようやく浅く息を吐いた。模擬剣を握る手に、知らないうちに力が入っていた。
「……あれが、第二王子ですか」
「そうだ」
レナの返事は短かった。その視線はルシアンが去った庭の奥へと向けられており、どこか厳しいものだった。
「気にするな、とは言わない。だが、あの方の言葉にいちいち振り回されない方がいい。何を考えているのかわからない方だからな」
レナはそう言ったが、フィアにはその言葉が慰めにも忠告にも聞こえた。
ルシアン・アルヴェイン。温和で聡明と評される第二王子。なるほど、笑顔は穏やかだし、言葉遣いも丁寧だった。だが、少なくともフィアには、あの男が善良な人間には見えなかった。
フィアは月明かりの差す庭の奥をしばらく見つめ、それからゆっくりと模擬剣を下ろした。
「カトレア様は、ご兄弟のことをどう思っているのでしょうか。王位を争う相手にもなるんですよね」
「どうだろうな……カトレア殿下も、そういうところはわかりづらい方だから」
レナは少し考えるように目を伏せた。
「少なくとも、進んで王位を望んでいるようには見えない」
「では、ご兄弟に譲るつもりなんでしょうか」
「そう簡単な話でもない。王位なんてものは、本人の望みだけで決まるものじゃないからな。守りたいものを守るために、座らざるを得ないこともある」
その言葉には、レナ自身の考えも少し混じっているように思えた。
「少なくとも表向きは、兄弟仲が険悪というわけではないよ。特にアルベール殿下とは近い」
「第一王子ですね」
「そうだ。アルベール殿下とカトレア殿下は同腹だ。王妃オフィーリア様のお子だよ。ルシアン殿下は側妃ヴィオレッタ様の子だ」
「なるほど……カトレア様とアルベール殿下は、実の兄妹になるんですね」
「とはいえ、三人とも年が近い。幼いころはよく一緒に過ごしていたらしい」
カトレアの立場を改めて頭の中で整理する。
英雄で、次の王とも目される。だがそれが同時に、あの人を孤立させているのかもしれない。
「それなら、襲撃者はまったく別のところにいる可能性もありますね」
「もちろんある。あるいは、周囲の者が勝手に暴走している可能性もな」
レナは月明かりの差す庭を見回した。その視線はカトレアの私室で止まる。もちろん部屋の明かりは消えており、静まり返っている。寝室の前では、エルザが護衛についているし、ルシアンが去ってから他に怪しい気配はなかった。
「とにかく、カトレア殿下も含めて、王族というのは何を考えているのかわからないところがある。今日のルシアン殿下の件だって、ただ新しい護衛を見に来ただけかもしれないし、別の意図があったのかもしれない」
フィアは黙ってうなずいた。
少なくとも、ただの散歩ではないだろう。新しい護衛を見に来たのか、牽制に来たのか、それとも別の狙いがあるのか。まだ判断はできない。だが、少なくともルシアンを簡単に信用してはいけないことだけは、はっきりわかった。
夜気は冷たく、庭の木々を揺らす風の音だけが静かに響いていた。レナが詰め所へと戻っていく。フィアは小さく息を吐き、月明かりの差す庭をあとにした。
王宮の夜は静かだった。だが、その静けさがかえって不気味に思えた。




