第二話
あれから一週間が過ぎた。
フィアは実技試験を通過し、そのまま筆記試験を受けることになった。内容は一般教養を問うものだったので、元貴族であるフィアにとって、それ自体はさほど難しくなかった。問題は、その先だ。筆記の結果が出たのが今日。そして最後に待っているのが、カトレア王女本人との顔合わせだった。
「はあ……いっそ適当に口を回して、最初から護衛にねじ込んでくれればよかったのに。もし落ちてたら、どうするつもりだったんですか」
「そんなことをしたら、最初から怪しすぎるだろう。誰が敵かもわからないのに、こちらから目立ってどうするんだい」
カーディはいつものようにコーヒーをすすっている。黒縁眼鏡の奥の目は、今日も疲れたように細められていた。机の上は相変わらず散らかり放題で、本や書類がそこかしこに積み上がっている。そんな部屋の片隅で、フィアはソファに腰を下ろしていた。
「それに、きみは優秀だからね。どうせ通るだろうと思っていたよ。実際、ちゃんと合格したんだろう? 今夜は好きなものでも奢ってあげよう」
「それなら良い肉がいいですね……じゃなくて」
思わず本音がこぼれ、フィアはすぐに口をつぐんだ。この所長は、とりあえず食べ物を与えておけば機嫌が直ると思っている節がある。そして、それがわりと間違っていないのが腹立たしい。
「合格したと言っても、筆記試験までです。最後にカトレア殿下との顔合わせがあるんですよ。そこで落とされたら、それで終わりじゃないですか」
「まあ、そこは大丈夫じゃないかな」
「ずいぶん気楽ですね。愛想よくしておけばいいんですか? あんまり得意じゃないんですが」
「下手に取り繕わない方が、むしろいいかもしれない」
「それ、どういう意味ですか」
フィアが眉をひそめると、カーディはわずかに肩をすくめた。
「カトレア殿下は、少々変わった方だと聞いている。媚びるより、きみはきみのままでいた方が、かえって目に留まるだろう」
「変わった方、ですか」
「まあ、会えばわかるよ」
「その言い方、だいたいろくなことがないんですよね」
カーディは面白そうに笑った。この男は、肝心なところでは妙に含みを持たせる癖がある。何を知っていて、どこまでわかっていて、それでも黙っているのか。フィアにはまだ読めなかった。
ともかく、最終試験ではフィア本人の受け答えや立ち居振る舞いが見られることになるのだろう。筆記試験の点数で決まる方が、よほど気は楽だった。相手は王女だ。失礼のないようにしなければならないし、かといって取り繕いすぎれば不自然になる。考えれば考えるほど、面倒くさい。
「……落ちても恨まないでくださいよ」
「そのときは、そのときだ」
カーディは笑ったまま、カップを口元へ運ぶ。フィアはソファの背にもたれ、長く息を吐いた。そこらのごろつきを相手にする方が、王族相手の顔合わせよりよほど気が楽だ。
おまけに相手は、かなりの変わり者らしい。
フィアは目を閉じ、まだ見ぬ第一王女の姿を思い浮かべようとして、すぐに諦めた。想像したところで無駄だろう。厄介ごとというものは、たいてい想像より面倒な顔をして現れる。
カトレア王女との顔合わせまで、どうにも落ち着かない日々が続きそうだった。
※※※
カトレア王女との顔合わせ当日、フィアは朝早く王宮へ向かった。いつもの動きやすさ優先の服装ではなく、今日は少し改まった装いだ。黒を基調とした簡素なドレスで、丈は足首ほどまである。装飾は控えめだが、仕立ての良さで品を損なわないようになっていた。銀髪はきちんと後ろで束ね、普段はほとんどしない化粧も、ごく薄く施してある。
鏡の前では何度も問題ないと思ったのに、いざ王宮へ向かう道すがら、襟元や袖口が妙に落ち着かなかった。剣の位置や足運びなら考えずとも身体が覚えているのに、こういう場はどうにも勝手が違う。言葉ひとつ、目線ひとつで減点されるかもしれないと思うと、刃物を向けられるのとは別種の嫌な緊張があった。
騎士に案内され、王宮の廊下を進んでいく。高い窓から差し込む朝の光が白い床に帯のように落ち、壁には著名な画家のものらしい絵画が等間隔に飾られていた。足音ばかりがよく響く静けさの中、最初に通されたのは小さな控えの間だった。おそらく待合室なのだろう。
そこにいる先客を見て、フィアは思わず目を見開いた。
見覚えのある大柄な女が、腕を組んで椅子に座っていた。フィアに気づくなり、相手はあからさまに顔をしかめる。
「あんたか。なんとなく、そうなる気はしてたよ」
「エルザさん。試験、通ったんですね。おめでとうございます」
「おめでとうも何もあるか。あんたと一緒ってだけで、ついてねえ」
実技試験ではフィアに敗れていたが、どうやら選ばれていたらしい。フィアから見ても、エルザの腕は候補者の中でも上位だった。単純な勝敗だけでなく、総合的に見られているのだろう。
フィアは気にした様子もなく、少し間を空けて隣に腰を下ろした。
「私としては、知ってる顔がいて少し安心しましたけど」
「そりゃどうも。こっちはまるで安心できないがね」
口調は相変わらず刺々しい。だが、試験のときのような剥き出しの敵意とは、ほんの少しだけ違って聞こえた。
「二人だけなんですかね。それとも、まだ来るんでしょうか」
エルザは小さく舌打ちしただけで、返事はしなかった。沈黙が落ちる。フィアは気まずさを覚えつつも、それ以上話しかけるのはやめておいた。
部屋の中は簡素な造りで、低い机と数脚の椅子が置かれているだけだった。高い位置にある窓からは細い光が差し込み、室内の埃をうっすらと浮かび上がらせている。椅子の数からしても、最終選考まで残った者は多くて数人程度なのだろう。
やがて扉が開いた。入ってきたのは騎士ではなく、侍女だった。
年のころはフィアとそう変わらないだろう。むしろフィアよりも小柄で、華奢な体つきをしている。白を基調とした侍女服は清潔に整えられており、動きには無駄がない。整った顔立ちには幼さが残っているのに、こちらを見る目だけは妙に冷ややかで、王宮勤めの人間らしい隙のなさがあった。
「お待たせいたしました。カトレア様がお呼びです」
侍女がそう告げると、フィアとエルザは立ち上がった。侍女に案内されて部屋を出て、さらに奥の廊下へ進む。廊下の端には花瓶が置かれ、季節の花が色鮮やかに活けられている。こういう整いすぎた場所にいると、自分まで綺麗に歩かなければならない気がして、少し疲れる。
やがて、侍女は大きな扉の前で足を止めた。重厚な扉には王家の紋章が彫り込まれている。侍女は一礼し、静かに扉を開いた。
「カトレア殿下。護衛候補の方がお見えです」
「通せ」
すぐに返ってきた声は、よく通る、凛とした女の声だった。フィアとエルザは思わず顔を見合わせる。侍女はそれ以上何も言わず、扉の内へと二人を招き入れた。
部屋に入った瞬間、フィアは自然と息を呑んでいた。
室内は広いが、必要以上に飾り立てられてはいない。応接用の長椅子と低い机、壁際には簡素ながら質の良い棚や戸棚が揃えられている。王族の私室というより、顔合わせや執務のために整えられた実用的な部屋という印象だった。
その窓辺に、カトレアは立っていた。
朝の光を背に受けた金の髪が、燃えるように鮮やかだった。軍装に近い軽装をきりりと着こなし、腰には細身の剣を下げている。華やかに美しいのに、同時に抜き身の刃のような緊張感もまとっていた。立っているだけで空気が変わる。隣ではエルザも、一瞬だけ息を呑んでいた。
「カトレア・アルヴェインだ。お前たちが新たな護衛候補か」
カトレアは振り返り、二人をまっすぐ見据えた。その視線には気圧されるような強さがあったが、ただ威圧的なだけではない。相手を測る、鋭く澄んだ目だった。
フィアとエルザは膝をつき、頭を下げる。
「顔を上げよ。そうかしこまらなくていい」
その声音は先ほどの短い一言よりも、幾分やわらかかった。
「では、名を聞こう」
先に口を開いたのはエルザだった。
「エルザです。北部で傭兵をしていました」
「フィア・レーヴェンです。一年ほど従軍していました」
名乗りながら、フィアはそっと顔を上げた。王女の目がこちらに向く。次の瞬間、その蒼い瞳がわずかに見開かれた気がした。
「これは、ずいぶん可憐な護衛候補だ」
カトレアはそう言って微笑むと、ゆっくりフィアへ歩み寄ってきた。その足取りは軽やかで、どこか獲物を見つけた獣めいている。目の前で立ち止まったかと思うと、長い指がフィアの顎先に触れ、軽く持ち上げた。
蒼い瞳と目が合う。間近で見るその瞳は、先ほどまでの鋭さとは別の熱を宿していた。気づけば肩に手を置かれ、そのまま半ば強引に立たされる。フィアはこのときになってようやく、自分がかなり危うい距離に踏み込まれていることを理解した。だが、ここで露骨に身を引くわけにもいかない。
「こんな細い腕で、本当に戦えるのかい?」
「……鍛えておりますので」
「なるほど。見た目ほど、か弱いわけではなさそうだ」
カトレアはおもしろがるようにフィアを眺めたまま、その手を取った。さらりと持ち上げられた指先から、体温が伝わってくる。こういう扱いに、慣れていなかった。どうにも居心地が悪い。
「だが、君が傷つくのは見たくない」
「護衛の役目は、御身を守ることです。私が傷つくかどうかは、さしたる問題ではありません」
その瞬間、カトレアの表情がほんの少しだけ変わった。先ほどまでの戯れめいた色が薄れ、代わりに何かを確かめるような静かな目になる。
「……そうか」
短い返答だった。だが、フィアは心の奥底を覗かれたような気持ちになる。
けれど次の瞬間には、また軽やかな調子へ戻る。
「それでも、私は可愛い子が傷だらけになるのは好まない」
さらに顔が近づく。甘い香りがかすめ、フィアはかろうじて表情を崩さずにいた。隣にいるはずのエルザの気配が、妙に遠い。
そのとき、部屋の隅からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「カトレア様。レーヴェン様が大変お困りです」
先ほどの侍女だった。声音は丁寧だが、目は少しも丁寧ではない。
「おっと、いけない。失礼。つい、綺麗なものを見ると近づきたくなる性分でね」
カトレアは名残惜しそうにフィアから離れた。ようやくまともに息ができる。フィアは咄嗟に侍女へ視線を向け、感謝を込めて小さく会釈した。だが侍女は、こちらを一瞬だけ鋭くにらむと、すぐに視線を外してしまう。
カトレアは今度はエルザの前に立った。フィアのときのように距離を詰めることはせず、少し離れた位置から真っ直ぐ見つめる。
「傭兵か。自由を好む者が多いと聞く。なぜ私のもとへ?」
「昔、うちの傭兵団は殿下に助けられたことがあります。仇には仇を、恩には恩を返す。それが、あたしの流儀です」
「ふむ。悪くない答えだ」
カトレアは笑ってエルザの肩を軽く叩くと、長椅子へ戻った。侍女が差し出した紅茶をひと口すすり、しばし黙り込む。
フィアとエルザは、その場で再び直立不動のまま待つことになった。妙な沈黙だった。吟味されているのか、もう決まっているのか、それすら読みづらい。
やがてカトレアが、何でもないことのように口を開く。
「合格だ。明日から私の護衛につきたまえ」
フィアは思わず拍子抜けした。もっといろいろと問われるものだと思っていたからだ。実技試験、筆記試験、そして最後は王女本人との面談。ずいぶん大げさな段取りのわりに、顔合わせそのものはあっけないほど短かった。
ただ、あの王女の態度が普通でなかったことだけは確かだ。変わり者だという話は、どうやら本当らしい。気まぐれなのか、それともただ単に、自分の感性に正直なだけなのか。これが今後、守らなければならない相手だ。
その後、侍女に連れられて部屋を後にする。廊下を無言で歩いていくと、やがて王宮の出口まで来た。侍女は一礼し、事務的な口調で告げる。
「それでは、明日の朝またこちらまでお越しください。私はマルタ・エーレン。カトレア様付きの侍女を務めております。明日は護衛長との顔合わせがありますので、詳しい仕事内容はその際にお聞きください」
そこで話は終わるはずだった。だが、マルタはその場を離れなかった。そして一歩だけ、フィアへ近づいてくる。
フィアも背は高くないが、マルタはさらに小柄だったため、自然と見下ろす形になる。だが、その目つきは少しも弱くない。むしろ刺すように厳しかった。
「……カトレア様に気に入られたからといって、調子に乗らないことです」
それだけ言い残し、マルタは背を向けた。
フィアとエルザは顔を見合わせることもなく、そのまま王宮を出る。外へ出た途端、張りつめていたものがいくらかほどけた。日差しが妙に眩しい。
「あの噂は本当だったんだな……」
「噂?」
エルザはフィアを見下ろし、大きくため息をついた。その顔には、先ほどの憎まれ口からは想像もつかないほどの呆れが浮かんでいる。
「カトレア殿下は女好きだって話だよ。英雄色を好むってな。あんた、ずいぶんお気に召されたみたいじゃねえか」
「……笑いごとじゃないんですが」
「別に笑ってねえよ。あの侍女だって、どんな関係だかわかったもんじゃない」
言い方はぞんざいだが、その目はどこか遠くを見ていた。フィアはカーディが妙に含みのある言い方をしていたのを思い出した。もしかしたら、こういうこともある程度は織り込み済みだったのかもしれない。
「まあ、あんたが殿下とどんな関係になろうが、あたしの知ったことじゃねえ。仕事さえちゃんとやってくれりゃいい」
「そんなことになるつもりはありません。護衛の仕事をこなすだけです」
「ふん。好きにしろ」
そう言って、エルザは先に歩き出した。フィアはその背中をしばらく見送る。気難しい性格だが、傭兵だけあって腕は確かだ。いざというときには頼りになるかもしれない。
それにしても、カトレア王女との顔合わせは予想外だった。護衛に採用されたのはいいとして、これから先、面倒なことになるのは間違いない。カトレアという人物そのものが、フィアの想像していた以上に厄介そうだった。
フィアは空を見上げた。新大陸への遠征は、もう目前に迫っている。どんな人物であろうと、護衛の仕事は全うするつもりだった。そしてそのうえで、誰がカトレアを狙っているのか、きっちり暴かなければならない。




