第一話
王都も、華やかな場所ばかりではない。
いまは誰も彼もが戦勝に浮かれているが、そんなときでも、ろくでもない連中はいるものだ。
フィア・レーヴェンは、目立つ銀髪を隠すように頭巾を深くかぶった。一見すればただの廃墟にしか見えない建物だったが、気を配れば、かすかな人の気配があるのがわかる。生ごみの腐った臭いが鼻をつき、床には埃が積もっていた。
薄暗い廊下をしばらく進み、フィアは目当ての扉の前で足を止める。三度叩き、間を置いてから、さらに五度叩いた。
しばらくして扉がわずかに開き、隙間の奥から探るような視線がのぞく。
「……誰だ」
「買い物だ。話は通ってる」
短く答えると、扉はようやく開かれた。
中に入ると、部屋には堅気ではない男が三人いた。ひとりは中央の机の前に腰を下ろし、残りふたりは壁際に立っている。座っていた男が、値踏みするようにフィアを見上げた。
「女とは聞いてねえな」
「金は持ってきた。品を見せろ」
「気が早えな。そう怖い顔すんなよ」
男がにやにやと笑う。フィアは応じず、無言のまま金を差し出した。男は肩をすくめながら札束を受け取り、一枚ずつ数え始める。数え終わると、問題なかったのか、壁際の男のひとりに顎で合図を送った。
合図を受けた男は、無言で部屋を出ていく。
「見ねえ顔だな。誰の紹介だ」
「イーサン。ここなら上物を回してくれるって聞いた」
「あの野郎、まだこそこそ生きてやがったのか」
男は鼻で笑ってから、じろじろとフィアを眺めた。
「……その顔、もう少しよく見せてみろ」
フィアはわずかに顔をしかめたが、頭巾を外してみせた。銀の髪がはらりと肩へ落ちる。壁際の男が口笛を吹き、机の前の男は露骨にいやらしい目つきでフィアの顔をなめるように見た。
「こりゃ上玉だ。品なんか買わずに、俺の相手でもしてくれりゃ安くしとくぜ」
「……金は払った。品を受け取れれば、それでいい」
ちょうどそのとき、部屋を出ていた男が戻ってきた。手には小ぶりの鞄がある。机の男はそれを受け取ると、フィアの前へどさりと置いた。
フィアは鞄を開け、中身を確かめる。中には白い粉の入った包みがいくつも詰められていた。
「本物か」
「疑うなら、今ここで舐めてみるか?」
「いや、十分だ」
フィアは中身をひととおり確認したあと、鞄をぱたりと閉じた。
そして次の瞬間、それを床へ放り投げる。
男たちの視線が、一斉にそちらへ向いた。
その隙を、フィアは逃さなかった。
いちばん近くにいた男の顎を、ためらいなく蹴り上げる。鈍い音が響き、男の身体がそのまま後ろへ倒れた。
「てめえッ!」
正面の男が怒鳴り、ナイフを抜いて飛びかかってくる。フィアは半身をずらしたが、刃先が腕を浅く掠めた。じわりと熱が走る。だが、ひるむほどではない。
脱いだ頭巾を男の手元へ投げつける。刃が布に絡んだ一瞬の隙に踏み込み、手首を打つ。ナイフが床に落ちた。続けざまに膝を男の顔面へ叩き込み、そのまま沈める。
「な、なんだこいつ――」
最後に残った男が青ざめる。逃げるべきか、飛びかかるべきか迷っているのが丸わかりだった。
フィアはその迷いが形になるより先に間合いを詰め、低く鋭い蹴りを男の脇腹へ打ち込む。男は短い悲鳴を上げ、そのまま床に崩れ落ちた。
静かになった部屋を見回し、フィアは小さく息を吐く。
立っているのは、もうフィアだけだった。
倒れた男たちをひととおり確認すると、彼女は何事もなかったように部屋を出る。腕に走る鈍い痛みにちらりと視線を落としたが、歩みを止めるほどではなかった。
※※※
カーディ探偵事務所。
裏路地の端に、薄汚れた看板を掲げた事務所がある。フィアは迷いなくその扉をくぐった。もちろん依頼人として来たわけではない。フィアはここの従業員――いや、その呼び方も正確ではないかもしれない。
中に入ると、所長のカーディがいた。フィアの姿を見るなり、あからさまに顔をしかめる。
「フィア君。きみ、すごい匂いだね。うちを腐臭で満たすつもりかい?」
「仕事帰りの人間に言うことですか、それ」
「仕事帰りでも、もう少しまともな匂いはあるだろう」
「報告が済んだら風呂に入りますよ」
カーディ探偵事務所は仮の顔にすぎない。表向きはうらぶれた探偵事務所だが、その実態は潜入捜査や内偵を担う秘密警察の拠点だった。
警察組織は別に存在する。だが、公には扱いづらい案件や、王宮の思惑が絡む仕事は、こうしてフィアたちのところへ回ってくる。
フィアがソファに腰を下ろすと、カーディは珍しく自分でコーヒーを淹れてくれた。湯気の立つカップを受け取り、ひと口すする。ようやく胃のあたりが落ち着いてくる。
「それで、首尾は?」
「売人グループの拠点は押さえました。あとは後処理だけです」
「上出来だ。きみは本当に優秀だね」
カーディはそう言ってから、自分のカップを持ったまま少し黙った。
フィアが窓の外へ目をやると、すでに日は暮れている。報告が終われば、すぐにでも帰って眠りたかった。
「それはそうと、新しい任務が入ったよ。今度のは長くなりそうだし、下手をすれば本当に命がけだ」
「命がけじゃない任務を見たことがないんですが」
フィアはため息をついた。この仕事について三年になるが、危険とは常に隣り合わせだった。そのぶん報酬は悪くない。けれど、こう立て続けでは気も滅入る。
「疲れてるなら、話は明日でもいい」
「いえ、今聞きます」
言ってから、カーディの視線が自分の腕に落ちていることに気づく。
「腕も痛めてるようだし、少しは休んだらどうだい」
「このくらい、どうってことないです」
反射的に答えてから、フィアはコーヒーに視線を落とした。
カーディはその返事にすぐには何も言わず、眼鏡のつるをかつ、と軽く叩く。話しにくいことがあるときに出る癖だ。
「そんな怪我を放っておいて、大丈夫かい。若い娘なんだから、傷なんてない方がいいだろうに」
「所長に心配されるほど柔じゃありません」
「心配もするさ。きみは娘みたいなものだからね」
「私は所長を父親みたいだと思ったことはありませんが。そんな年でもないでしょう」
「ひどいね。こんなに気にかけているのにさ」
いつものような軽口なのに、その声はほんの少しだけ低かった。
そういう言葉の受け取り方が、フィアにはよくわからなかった。気にかけられることに、どう返せばいいのか。フィアは聞こえなかったふりをして、カップを置く。
「……で、面倒な任務っていうのは?」
カーディはソファの正面に腰を下ろした。
「カトレア王女が、新たに護衛を募っているのは知っているかい?」
「カトレア王女? いえ、初耳です」
「最近、王女を狙った事件が続いている。護衛もひとり死んだ。幸い、王女本人は無事だがね」
「カトレア王女が死ぬ姿は、正直あまり想像できませんね」
カトレアは王女でありながら、戦争の英雄でもある。アストレイン王国勝利の立役者と言っていいだろう。個人の武だけでいえば、右に出る者はそうそういない。
「王女が狙われているという事実そのものがまずい。万が一、国の英雄が殺されれば、王宮だけでなく大陸全体が荒れるだろう。カトレア王女の威光のおかげで従っている者も多い」
「それで、護衛の補充を?」
「そう。しかも彼女は、従者も護衛も女だけで固めている。騎士団は男ばかりだ。だから表向きは、新任の女性護衛として潜り込んでもらう」
「……つまり、護衛の顔をして内偵をしろと」
「そういうことだ」
カーディはひとつうなずいた。
「王女を狙う勢力を探ってほしい」
「難しいことを言いますね。王宮内の政治には詳しくないのですが」
「詳しくない方が、かえっていい場合もあるさ」
カーディはそう言ってから、少しだけ間を置いた。
「まだある。カトレア王女は、このまま新大陸遠征に出る」
フィアはカップを持つ手を止めた。
「その遠征にもついていけと?」
「もちろん同行だ」
「……期間は」
「短くて数か月。長ければ、一年以上かな」
フィアは黙ってコーヒーをもうひと口すすった。
王女の護衛として、一年以上潜伏する。しかも以前の護衛は死んでいる。相当に面倒で、相当に危険な仕事になるだろう。
「断るって言ったら?」
「言うだけは自由だがね」
カーディは穏やかに笑った。その笑顔が、断れない仕事だと言っているのと同じだった。フィアはしばらく黙ってから、立ち上がる。
「……風呂、入ってきます」
「返事は?」
「聞かなくてもわかるでしょう」
フィアは小さく肩をすくめ、そのまま事務所を出た。カーディはもう引き止めなかった。
ただ今は、何も考えずに湯に浸かって眠りたかった。そうして目を閉じれば、危険な任務も、面倒な王女も、少しのあいだは忘れていられる。
※※※
翌週、フィアは騎士団の訓練場を訪れていた。
白を基調に紺の襟をあしらったシャツに、腰には革ベルト、黒いズボンとブーツ。飾り気はないが、動きやすさを優先した服装だ。銀髪は後ろでひとつに束ね、邪魔にならないようまとめている。
護衛候補と思しき女たちが、すでに何人も並んでいた。選考は騎士団が担当するのだろう。空気は張りつめていて、冗談のひとつも挟めそうにない。
フィアはその末尾に、ごく自然に列へ加わった。秘密警察の任務ではあるが、立場は隠している。選抜も自力で通らなければならない。
受付には若い騎士がいて、候補者に順番に質問をしていた。短くまとめた髪に、いかにも生真面目そうな顔つきで、立ち姿にも隙がない。フィアの番になると、騎士は手元の紙に目を落としたまま口を開いた。
「名前は?」
「フィア・レーヴェン」
「レーヴェン? 貴族か?」
「元、です。いまは一般市民です」
「戦闘経験は?」
「戦争で一年ほど。その後は街で探偵の真似事をしていました」
そこで初めて騎士が顔を上げた。
「十九にしては、ずいぶん場数を踏んでるな」
「生きるために、仕方なく」
こういう場では、嘘を重ねすぎない方がいい。答えの大半は本当のことだ。秘密警察に所属している点だけ伏せておけば、身辺を探られても大きな綻びにはならない。
「このあと、この場で実技試験を行う。それを通った者だけが筆記試験、最後にカトレア殿下ご本人との面談だ。そこで選ばれた者だけが護衛になれる。問題ないか?」
「はい。問題ありません」
「よろしい。隊列へ戻れ」
受付の指示に従い、フィアは再び列の最後尾へ戻った。
そのとき、前方に並んでいた女のひとりが、こちらへ視線を向けてきた。かなり体格のいい女で、フィアを見下ろすように口角を吊り上げている。露骨な挑発だ。フィアは知らぬふりをして視線を逸らした。
しばらくすると、壮年の男が候補者たちの前に立った。騎士団長を名乗った瞬間、空気がぴんと張りつめる。鍛え抜かれた体格に、傷の走った顔。全身から歴戦の気配がにじんでいた。候補者たちが一斉に背筋を伸ばす。
「まずは二人一組で模擬戦を行ってもらう。私の目にかなった者だけが次へ進める。そうでない者は、この場で帰ってもらう」
騎士団長の宣言が終わると、候補者たちは思い思いに二人組を作り始めた。フィアも相手を探すふりをしながら周囲を見回す。すると、さきほどこちらを見ていた大柄な女が、まっすぐこちらへ歩いてきた。どうやら相手をフィアに決めたらしい。
「こんなところに小娘が何しに来た。綺麗な顔が傷ついちまうぞ」
「フィアです。よろしくお願いします」
「かわいげのない奴だね。あたしはエルザだ」
エルザを名乗る女は、挑発的な笑みを浮かべてフィアを見下ろした。だが、フィアはいちいち乗るつもりはない。護衛の募集とあれば、こういう手合いが混じることも十分あり得る。
あらためて観察すると、エルザはフィアより頭ひとつ分は大きく、全身もよく引き締まっていた。かなり鍛えているのだろう。腕には古傷が走っており、立ち方や視線の配り方からしても、実戦経験は相応にありそうだった。腰には剣を差している。普段からそれを主な武器にしているのだろう。
もちろん護衛の募集なのだから、腕に覚えのある者が集まるのは当然だ。だが周囲を見回しても、エルザはその中でもひときわ手強そうに見えた。
実戦なら小細工のしようもあるが、今回は騎士団の目の前での模擬戦だ。正面からやり合うなら、体格と腕力の差はそのまま不利に働く。
ふたり一組が決まると、候補者たちに模擬剣が配られた。フィアはそれを受け取り、軽く振って重さを確かめる。普段は取り回しのいい短刀を使うことが多いが、長剣がまるで使えないわけではない。
対するエルザは、模擬剣を片手で軽々と扱っていた。腕力への自信が、そのまま出ている。
フィアは両手で模擬剣を握り、エルザと数歩の間合いを取って正面に立った。この前の傷が走る腕に、模擬剣の重みがじわりと響く。呼吸を整え、意識を静かに研ぎ澄ます。
騎士団長の合図が響いた。
開始と同時に、エルザが突っ込んでくる。派手な構えはない。ただ最短で踏み込み、力任せに叩き潰すつもりなのが伝わってきた。
フィアはこれを正面から受け止めず、半歩引いて刃を合わせる。乾いた音が弾けた。手に伝わる重さだけで十分だった。力で押し合えば負ける。
フィアはその力を受け流すように身をずらし、エルザの横へ回り込む。
「逃げてんじゃねえ!」
エルザは模擬剣を振り回すようにして、柄尻をフィアの脇腹へ打ち込んできた。フィアはそれを剣で弾き、その流れのまま返す刀でエルザの脇腹を打つ。エルザが低くうめいた。だが効きが浅いのか、あるいは単純にタフなのか、すぐに体勢を立て直して剣を振るってくる。
フィアは後ろへ下がりながら、それをかわした。
「実剣だったら、今ので終わっていましたよ」
「うるせえ!」
エルザは勢いを殺さず、さらに踏み込んでくる。横薙ぎの一撃をフィアは弾き流し、そのまま手の中の模擬剣を捨てた。
エルザの目が、一瞬だけ模擬剣を追う。
その隙に、フィアは懐へ潜り込んだ。足を払うと同時に、肩を押さえ込むようにして地面へ叩きつける。相手が衝撃に息を詰めた隙に、その手をひねって模擬剣を奪い取り、首筋へ突きつけた。
「どうします?」
「ま……参った。あたしの負けだ」
フィアはエルザから離れて立ち上がった。奪った模擬剣をそっと地面に置くと、エルザへ手を差し伸べる。だがエルザはそれを無視し、自力で起き上がった。肩で息をしながら、悔しそうにフィアをにらみつける。
「……あんた、ただの小娘じゃないな」
「どうでしょう。油断しすぎただけかもしれませんよ」
エルザは悔しそうに舌打ちしたが、もう先ほどのような軽口は叩かなかった。それでも引き際まで値踏みするような目を向けてくるのは、プライドの高さゆえだろうか。
周囲を見ると、他の組にもだんだん決着がつき始めている。
フィアはそっと息を吐いた。とりあえず、最初の試験は問題なく乗り切れたようだった。




