第3話 命乞いに菓子を差し出したら、怨霊がついてきた
背中に張り付くコンクリートの壁よりも、目の前に迫る白い指先の方がずっと冷たかった。
割れた窓ガラスから夜風が吹き込み、ヤエさんの長い黒髪がふわりと揺れる。ヤエさんの指先が、俺のパーカーの胸元にそっと触れる。布越しなのに、触れられた場所から冷気が染み込み、思わず呼吸が止まった。
「貴様ならば、もう少しマシな味がするやもしれぬな」
「ま、待ってくださいヤエさん! ちょっと、一回待ってください!」
俺は裏返りそうになる声を必死に絞り出し、壁に後頭部をぶつけながら両手を上げた。擦りむいた手のひらがじんじんと痛むが、そんなことを気にしている余裕はどこにもない。
「マシじゃないです、全然マシじゃないですって! ここ最近ずっと就活のストレスで胃も荒れてますし、夜中にカップ麺ばっかり食べてたせいで栄養も偏ってますし!」
「減らず口を叩くな、人間。誰が肉を喰らうと言った。魂の霊気を啜るのだ」
「あ、魂……いや、どっちにしても死にますよね!? ていうか、案内役はどうなるんですか! 外に出るまで案内するって約束したじゃないですか!」
「案ずるな。半分ほど残してやれば、這って道を示すくらいはできよう」
「半分って、それ絶対歩けないやつですよね!?」
全然大丈夫じゃなかった。この人にとっての「半分」がどの程度なのか見当もつかないが、あの黒い連中を素手で引き裂いた力加減を見る限り、俺みたいな一般人は一吸いされただけで干からびるに決まっている。
ヤエさんの紅い瞳が細められ、白い喉元がわずかに鳴った。逃げ場はない。横に動けば、瞬きする間に首を落とされる。
俺は冷や汗で滑る指先を必死に動かし、左手に握りしめていたスマートフォンの画面へ視線だけを落とした。親指一本で、祈るように短い文字列を打ち込む。
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182 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:09:12 ID:SuZuki70
ヤバい
渡り廊下の黒い連中はヤエさんが一瞬で全部消してくれたけど、お腹空いてるらしくて俺が食べられそう
半分なら這って案内できるだろとか言ってる
なんか助かる方法ないか
183 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:09:28 ID:dR66yH03
は?
おい待て、さっきまで命懸けの廃病院デートじゃなかったのかよ!?
184 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:09:41 ID:xL02vB99
デートから捕食対象にランクダウンしてんじゃねえか!!
てか半分啜られたら普通に死ぬだろそれ!
185 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:09:55 ID:kM33sT12
お供え物だ!!
おいイッチ、なんでもいいから食べ物持ってないのか!?
昔から飢えた怪異や怨霊に遭遇したら、握り飯でも菓子でも投げ出して気を逸らすのが鉄則だぞ!
186 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:10:08 ID:a8K9mP11
リュックの中になんか入ってるだろ!
甘いもんでもなんでもいいから今すぐ出せ!!
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そうだ。途中のコンビニで菓子を買ったはずだ。確か、リュックの横のポケットに……。
「またその板か。最期に外の者へ遺言でも残したか」
ヤエさんの指先に、ぐっと力がこもる。パーカーの布地がミシリと嫌な音を立てた。
「ち、違います! 遺言じゃなくて、相談です! あの、ヤエさん、俺の魂なんかより、ずっと美味いものがあります!」
「なに?」
「外の世界の食べ物です! 今ここにあるんです!」
ヤエさんがわずかに眉をひそめた。
「外の世界の食べ物だと? 貴様、この期に及んでまだ小賢しい真似を――」
「小賢しい真似じゃないです、本当に持ってるんです! あの、今から背中の袋に手を伸ばしますけど、武器とかじゃないですからね!? 急に動くと八つ裂きにされそうなんで、ものすごくゆっくり出しますから、ちょっとだけ待ってください!」
スマホをポケットに突っ込み、俺はヤエさんの目を見つめたまま、まるで時限爆弾でも扱うような慎重さで片方の肩からリュックを下ろした。ヤエさんは俺の胸元から手を離しはしなかったが、少なくともその場で首を飛ばすことはせず、値踏みするように俺の手元を見下ろしている。
震える指でサイドポケットのファスナーを開ける。カサカサという包装の感触が指先に伝わった瞬間、助かるかもしれないという希望が湧いた。
引っ張り出したのは、コンビニのレジ横でなんとなく買った、個包装の焦がしバターフィナンシェとミルクチョコレートの小袋だった。
「なんだ、その妙に光る袋は」
「食べ物が傷まないように包んである袋です。今、開けますね」
俺はフィナンシェの袋の端を破り、中から黄金色に焼けた四角い焼き菓子を半分だけ押し出して、ヤエさんの目の前へ両手で差し出した。
途端に、消毒液と埃の匂いが淀んでいた廃病院の渡り廊下に、焦がしバターとアーモンド、そして甘い砂糖の濃厚な香りがふわりと広がった。
ヤエさんの白い鼻先が、ぴくりとわずかに動いた。
「妙な匂いだ。随分と甘ったるい。毒か?」
「毒なんか盛るわけないじゃないですか! そんな度胸あったら最初からこんなに震えてません! 外の世界では、お腹が空いたときや気分を良くしたいときにこれを食べるんです。だから、その……まず一口だけでも試してみませんか? もしお口に合わなかったら、そのときに俺を半分でも全部でも好きにすればいいじゃないですか」
ヤエさんは差し出されたフィナンシェと俺の顔を交互に見比べた。数秒の長い沈黙のあと、俺の胸元に置かれていた白い手がすっと離れ、袋から覗く焼き菓子をつまみ上げた。
彼女はいかにも疑わしげにそれを眺め、それから小さな口を開けて、端を少しだけ噛み切った。
サク、と表面のわずかな歯触りの音がして、ヤエさんの顎が二度、三度と動く。
次の瞬間。
ヤエさんの紅い瞳が、信じられないものを見たかのように大きく見開かれた。
「…………っ」
渡り廊下を凍りつかせていた絶対零度のような冷気と、肌を刺す殺気が、嘘みたいにふっと霧散した。
「な、なんだ、これは」
ヤエさんは自分の手の中のフィナンシェを凝視したまま、呆然と呟いた。
「あ、よかった。お口に合いました?」
「だ、黙れ! 誰が美味いと言った!」
「えっ、駄目でした?」
「駄目とも言うておらぬ! ただ、その……なんだ、この舌の上で勝手に溶けていく甘さと、芳しい脂は! 私の知っておる餅や干菓子とはまるで別物ではないか!」
言葉を切るなり、ヤエさんは残りのフィナンシェを一口で口に放り込んだ。白い頬がわずかに膨らみ、長い睫毛がぱちぱちと瞬く。
……さっきまで俺を食おうとしていた人だよな?
飲み込んだヤエさんは、すぐさま俺の手元へ鋭い視線を向けた。
「貴様、もうないのか。そちらの茶色い袋にも何か入っておるな」
「えっ、あ、はい。こっちはチョコレートっていって、また別の甘いお菓子ですけど」
「四の五の言わずに早く寄越せ!」
「はいっ、ただいま!」
俺は大慌てでチョコレートの袋も開けて差し出した。ヤエさんは奪い取るようにそれを受け取ると、一粒つまんで口へ運び、またしても眉間を寄せて唸った。
「むぅ! これもまた、なんと濃密な甘露か!」
尊大な口調のまま、ヤエさんは次々とチョコレートを口に運んでいく。一粒食べるごとに彼女を取り巻く険しい気配が和らいでいき、最後の一粒を食べ終えた頃には、空っぽになった小袋の奥を名残惜しそうに覗き込んでいた。
「もう終わりか」
「すみません、今日は本当にそれだけしか買ってなくて」
「なぜもっと買うておかぬ。気が利かぬ奴だな」
「いや、まさか深夜の廃病院でお菓子を振る舞うことになるとは思わないじゃないですか」
もしこれで「まだ足りぬ」と言われて襲われたら今度こそ終わりだ。俺が固唾を呑んで見守っていると、ヤエさんは小さく息を吐き、空の袋を俺の手へ押し返してきた。
「ふん。澱どもの濁った霊気や、貴様の痩せた魂を啜るよりは、いささか興があった」
ヤエさんは顎をわずかに上げ、俺を見下ろした。
「今日のところは命を拾ったな。私の下僕として、今後もこのような貢ぎ物を献上することを許してやる」
「えっ、下僕ですか!?」
「不服か? 今ここで喰われるのと、どちらが良い」
「いえっ、全然不服じゃないです! むしろ適任です! 命が助かるなら喜んで!」
俺が即座に頭を下げると、ヤエさんは満足げに鼻を鳴らした。
肩から力が抜けた途端、背中を伝っていた汗が急に冷たく感じられた。
「それで、下僕よ。外へ出る道はまだか。この黴臭い箱の中には飽き飽きしたぞ」
「あ、はい! 掲示板の人たちの情報だと、この渡り廊下を抜けた先に、昔使われていた搬入用の通用口があるみたいです。こっちです、足元のガラスに気をつけてくださいね」
「くどい。誰に物を申しておる、さっさと先導せよ」
「すみません、つい」
俺はLED懐中電灯で床を照らしながら、ヤエさんの半歩前を歩いた。
渡り廊下の突き当たりを曲がると、スレ民が教えてくれた通り、『物品搬入口』と書かれた古いプレートと、重厚な鉄扉が姿を現した。ただ、何年も開け閉めされていないらしく、太い南京錠と鎖が赤錆で固着している。
「あー……これ、鍵が完全に錆びついてますね。何か壊せそうな道具を探してこないと」
「まどろっこしい。退いておれ、下僕」
「えっ?」
ヤエさんが南京錠を指先で弾いた。乾いた音とともに錠前が砕け、鉄の鎖が床へ落ちる。さらにヤエさんが扉へ軽く手を添えて押すと、蝶番が悲鳴を上げて歪み、重たい鉄扉が外側へ向かって大きく開いた。
「道具、全然いりませんでしたね。恐れ入ります」
俺は引きつった笑みを浮かべながら、開いた扉の向こうへ足を踏み出した。
ひやりと澄んだ秋の夜気と、湿った土や木々の匂いが一気に肺へ流れ込んでくる。
見上げれば、錆びた鉄門の向こうに俺が停めておいた原付のシルエットが見えた。
「出られた! ヤエさん、本当に出られましたよ!」
俺は嬉しさのあまり声を弾ませ、まずスレ民たちに無事を知らせようとスマートフォンを構えた。
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198 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:18:40 ID:SuZuki70
出た!!!
通用口から本当に外に出られた!!
お菓子渡したらヤエさんめちゃくちゃ気に入ってくれて、通用口の錆びた鍵も指一本で吹き飛ばしてくれた!
みんな本当にありがとう、マジで助かった!!
199 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:18:55 ID:a8K9mP11
うおおおおおおお!!
生きてたかイッチ!! よかったあああ!!
200 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:19:10 ID:kM33sT12
お供え物作戦が本当に効いたのかよw
なんにせよ生還おめでとう!
201 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:19:24 ID:dR66yH03
最強の怨霊をコンビニ菓子で餌付けする男
てか、そのヤエさんは今どうしてるんだ?
――――――――――――――――――――
そのレスを見て、俺は顔を上げた。
「ヤエさん、ここまで来ればもう――あれ?」
振り返った通用口の周りには、誰もいなかった。
夜の闇に沈む廃病院の壁と、風に揺れる雑草があるばかりで、つい十秒前まで隣に立っていた白装束の美女の姿は、煙のように消え失せている。あの独特の冷気も、古い花の香りのような匂いも、すっかり夜風に溶けてしまっていた。
「ヤエさん?」
小声で呼んでみたが、返事はない。
考えてみれば、彼女はあの病院の奥にずっと閉じ込められていたのだ。外に出ることが目的だったのだから、自由の身になれば、俺みたいな人間に構わず好きな場所へ行ってしまうのも当然なのかもしれない。
「そりゃそうだよな。とにかく、早く帰ろう」
もしまた病院の中から黒い連中が出てきたらたまらない。俺はスレに『ヤエさんはいなくなった。今から全力で帰る』とだけ書き残し、原付に跨ってセルを回した。
まだ夜の闇に包まれた東の空を背に、俺は一度も振り返ることなく山道を駆け下りた。
★★★★★★★★★★★
自宅のガレージに原付を停め、玄関の鍵を閉めたときには、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように膝から崩れ落ちそうになった。
いつもなら持て余すばかりの家の静けさが、今日ばかりは涙が出るほどありがたかった。
泥と埃にまみれた服を脱ぎ捨て、熱いシャワーで全身の冷えと擦り傷の汚れを洗い流す。そのまま自分の部屋のベッドに倒れ込むと、泥のように深い眠りに落ちた。
次に目を覚ましたとき、カーテンの隙間から差し込む日差しはすっかり高くなっていた。
時計を見れば、午後一時を回っている。
「夢じゃ、ないよな」
手のひらを見れば、絆創膏を貼った擦り傷がちゃんと残っている。スマートフォンの画面を開けば、昨夜のスレが完走して過去ログに落ちており、俺の生還を祝う書き込みが最後まで並んでいた。
ぐう、と腹が盛大に鳴った。
昨夜から何も食べていないうえに、一生分の冷や汗をかいたのだ。猛烈な空腹感に背中を押されるようにして、俺はベッドから起き上がり、一階のキッチンへと降りた。
冷蔵庫を開け、中にある食材を確認する。こういうとき、ちゃんとした温かいものを作って食べるのが、一人暮らしを始めてからの俺なりの気分の切り替え方だった。
まずは炊飯器にセットしておいた炊きたての白米をしゃもじでほぐし、余分な蒸気を逃がす。立ち上る湯気と一緒に、甘くて優しい米の香りが広がった。
今日のお握りの具は、甘塩鮭と『やまうに豆腐』にする。
俺は甘塩鮭の切り身にほんの少量の日本酒を振り、しばらく置いてから浮き出た水分と臭みをキッチンペーパーで丁寧に拭き取った。それを予熱した魚焼きグリルへ入れる。火加減は中火。焦がさないよう様子を見ながらじっくりと火を通していくと、やがて皮目がぷつぷつと泡立ち、パリッと香ばしく爆ぜる音がしてきた。
焼き上がった鮭を取り出し、熱いうちに骨と皮を取り除いて、身を大きめにほぐしていく。箸を入れると、ふっくらとした身がほろりと割れ、まだ熱い断面から脂がにじんだ。
そこへ合わせるのが、豆腐を半年近くもろみ味噌に漬け込んで熟成させた保存食、やまうに豆腐だ。ねっとりとした質感で、扱うには少し注意が必要な食材だ。そのまま混ぜるとお握りにしたときに米が水っぽくなってしまうため、俺はキッチンペーパーでやまうに豆腐の表面の余分な水分を軽く押さえて調整した。それをまだ熱い鮭の身と合わせ、鮭の脂でやまうに豆腐がほんのり緩むようにざっくりと混ぜ合わせる。
ボウルに用意した手水を両手に薄く馴染ませ、塩を三本指でひとつまみ取って手のひらに広げる。
茶碗に軽くよそった熱々の白米の真ん中に、鮭とやまうに豆腐の具をたっぷりと乗せ、上から少量の米を被せて手のひらへ移した。
熱い。だが、ここで力を入れてはいけない。お握りは『握る』のではなく、米粒と米粒の間に空気の隙間を残すように『まとめる』のが一番美味い。
外側だけをきゅっと優しく締めるイメージで、手のひらの中でリズミカルに三度だけ転がし、ふっくらとした三角形に整える。そこへ、軽く炙って香りを立たせた焼き海苔を巻きつけた。同じ手順でもう一つ握り、皿の脇には果肉が厚くて柔らかい紀州の南高梅を一つ添える。
続いて、みそ汁の仕上げに取り掛かる。
今日の具はモロヘイヤだ。茎の硬い部分を除いて葉先だけを摘み、沸騰した湯でさっと色鮮やかに下茹でする。冷水にとって水気を絞ったら、まな板の上で包丁を使い、特有の粘りが出るまでトントンと細かく叩いていく。
小鍋に張った鰹と昆布の一番出汁が温まったところで、火を弱めて味噌を溶き入れる。みそ汁は絶対に沸騰させてはいけない。鍋の縁がふつぷつと揺れ、味噌の芳醇な香りがふわりと立ち上る直前の、いわゆる『煮えばな』で火を止める。
そこへ叩いたモロヘイヤを流し入れ、余熱でさっとひと混ぜして、お椀に注いだ。
「よし、いただきます」
ダイニングテーブルに並んだ昼食を前に、俺は手を合わせた。
まずはお握りを両手で持ち、大きくかぶりつく。
パリッとした海苔が歯切れよく割れた。米粒が口の中でほろりとほどけ、鮭の脂とやまうに豆腐の濃厚な旨味が広がった。噛むたびに白米の甘みが追いかけてくる。
「美味い」
思わず声が漏れた。すぐさまモロヘイヤのみそ汁を一口啜る。
とろりとした滑らかな喉越しとともに、一番出汁の旨味と味噌の香りが鼻へ抜けていく。合間に箸でつまんだ梅干しの爽やかな酸味が口の中をリセットし、また次のお握りへ手が伸びる。
夢中で二つのお握りとお椀を空にした頃には、額にうっすらと汗が滲み、身体の芯からぽかぽかと温まっていた。
「ふぅ……ごちそうさまでした」
空になった食器を重ね、俺はポケットから煙草の箱とライター、それに携帯灰皿を取り出して、リビングの掃き出し窓から庭のウッドデッキへと出た。
高く澄み渡った十月の青空の下、風は少しひんやりとして心地いい。
俺は一本抜き出した煙草に火をつけ、深く吸い込んでから、白い紫煙を空へ向かってゆっくりと吐き出した。
「本当に、生きて帰ってこれたんだな」
立ち昇る煙が秋風に吹かれて消えていくのを眺めながら、ようやく生還した実感が胸の奥にじんわりと広がっていく。
もう二度とあんな廃病院には行かない。スレ民に何を言われたって絶対に行かないぞ。
明日からはまた履歴書を書こう。面接の準備もしなきゃいけない。とにかく、普通の生活に戻るんだ。
短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで火を消し、俺は「さて、洗い物でもするか」と伸びをしながらリビングの窓を開けて中へ戻った。
――その瞬間だった。
先ほどまで日差しでぽかぽかと温まっていたはずのリビングの空気が、まるで冷蔵庫の扉を開け放ったかのように、ひやりと冷え切っていた。
「え?」
俺は足を止め、ダイニングテーブルの方を見た。
ダイニングチェアに、見覚えのある白装束の女が座っていた。
椅子の下で素足をぶらぶらと揺らしながら、テーブルの空いた皿を眺めている。
女がこちらを向いた。見間違えようがない。ヤエさんだ。
「遅いぞ、下僕」
「うわああああああっ!?」
俺は持っていた携帯灰皿を取り落としそうになりながら、窓際まで飛び退いた。
「ヤ、ヤエさん!? な、なんで俺の家にいるんですか!? あれ、病院の前でいなくなったんじゃ……ていうか玄関の鍵、閉めてありましたよね!?」
「やかましい、一度にいくつも喚くな。壁や扉ごときで私の足が止まるとでも思うたか。貴様の匂いと、昨夜付けた霊気の印を辿るなど造作もないわ」
「い、印って、いつの間にそんなものを」
「外の世界とやらを少しばかり見て回ったがな、鉄の箱は走り回っておるわ、人間どもはやたらと騒がしいわで、どうにも落ち着かぬ」
ヤエさんは心底呆れたように鼻を鳴らし、それから自分の白い鼻先をひくひくと動かして、キッチンの方へ視線を向けた。
「それに……先ほどから妙に腹が減る。貴様、今ここで何か美味いものを食っておったな? 随分と香ばしい魚と、芳しい汁の匂いが残っておるぞ」
「えっ? あ、いや、それは俺の昼飯で……すみません、もう全部食べちゃいましたけど」
「なに? 下僕の分際で、主たる私を差し置いて独り占めしたというのか」
「いや、独り占めも何も、ここ俺の家ですし! ヤエさんが来るなんて思わなかったんですって!」
ヤエさんが不機嫌そうに眉を寄せると、リビングの温度がさらに二、三度下がった気がした。俺は慌てて両手を振る。
「わ、わかりました! ご飯ならまだ炊飯器にありますし、鮭も残ってますから、すぐ握ります! 今すぐ作りますから!」
「ふむ。ならば許す。早々に支度せよ」
ヤエさんは満足そうに頷くと、ダイニングチェアの背もたれにゆったりと身を預け、ぐるりとリビングを見渡した。そして、まるで自分の城でも検分するかのように、ふてぶてしく、けれどどこか居心地の良さそうな顔で言い放った。
「決めたぞ、鈴木悠作。今日よりここを私の根城とする。下僕として、私の衣食と寝床をぬかりなく整えよ」
「はい?」
「どうした。耳まで遠くなったか」
「いえ、聞こえましたけど! あの、お握りを作るのはいいですけど、根城って……住むことまで今ここで決定なんですか!?」
俺が頭を抱えていると、ヤエさんは空になった皿をコツ、と指先で叩いた。
「くどいぞ、下僕。握り飯が先だと言うておろう」
「いや、順番の問題じゃないですよね!?」




