第2話 封印区画の女、そこらの悪霊とは格が違う
ジリリリリリリリッ!!
耳の奥を直接ひっかくような金属音が、暗い廊下に反響していた。
背後から迫る湿った足音は、もう振り返らなくても分かるほど近い。氷水を浴びせられたみたいに背中が粟立ち、俺は悲鳴を喉の奥で噛み殺しながら、開け放たれた非常口の鉄扉へ転がり込んだ。
「うわっ、あ、あぶな……!」
錆びたパイプベッドの脚にスニーカーのつま先をぶつけ、体勢を崩しながらも必死に前へ這い進む。鼻を突く強烈な消毒液の臭いと、何かが腐ったような甘い悪臭が肺の中に流れ込んできて、思わずむせ返った。
手の中のスマホが、続けざまに細かく振動する。
――――――――――――――――――――
125 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:54:18 ID:SuZuki70
[画像:フラッシュに照らされた背後の廊下.jpg]
126 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:54:31 ID:kM33sT12
おい今の画像見たか
すぐ後ろに四人はいるぞ!!
127 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:54:40 ID:a8K9mP11
うわあああああガチじゃん!!
イッチ走れ!! 止まるな!!
128 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:54:49 ID:dR66yH03
さっきから廊下の構造がおかしいんだろ?
どこに繋がってるか分からなくても、とにかく黒いのから離れろ! 捕まるな!
129 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:54:58 ID:xL02vB99
待てよこれ加工じゃねえのかよ……
おいイッチ返事しろ!!
――――――――――――――――――――
文字を打つ余裕なんてない。
俺が飛び込んだ閉鎖病室の入り口に、黒い人影がいくつも重なるようにして雪崩れ込んできた。関節があり得ない方向に折れ曲がった腕が、次々とこちらへ伸びてくる。
「ひっ! 来ないでくれって、ほんとに!」
俺はパイプベッドの隙間を縫うようにして病室の奥へ走った。
窓はどこにもない。行き止まりかと思って血の気が引いた瞬間、一番奥の壁際に、塗装が剥げ落ちた古い木製の両開き戸があるのが目に入った。
取っ手を掴み、力任せに押し込んだ。
バキッ!
腐食した木枠が砕け、扉が蝶番ごと外れた。支えを失った俺は、そのまま向こう側の床へと転がり落ちた。
「っ、いたた!」
擦りむいた手のひらを押さえながら顔を上げ、懐中電灯を向けた。
湿っぽい埃の臭いとは違う、古いお香と鉄錆が混ざったような、ひどく乾いて張り詰めた匂いがする。廊下の壁から天井にかけて、無数の鎖と黒ずんだ木札が張り巡らされていた。
一番奥には、太い注連縄と何重もの鉄鎖で厳重に封じられた、古びた観音開きの扉がある。壁一面にびっしりと貼られた黄ばんだ護符は、どれも端が黒く焦げたように変色していた。
「な、なんだよここ……病院じゃなかったのかよ」
立ち上がろうとした瞬間、外れた扉の向こうから、黒い人影たちが一斉に這い出してきた。
逃げ場はない。後ずさりした俺の背中が、注連縄で封じられた奥の重い扉にぶつかる。
その時だった。
ジリリリリリリリリリッ!!
遠くで鳴り続けていた呼び出しベルの音が、一段と甲高くなった。
廊下の壁に掛かっていた古い木札が、次々と床へ落下していく。
何が起きているのか分からない。
迫ってきた黒い影たちの腕が、俺のすぐ後ろにあった注連縄と鎖を乱暴に薙ぎ払った。
ガヂンッ!!
金属が弾ける鋭い音が響いた。錆びついた太い鎖が火花を散らして弾け飛び、壁一面の護符が風もないのに一斉に千切れ落ちた。
背後から、今まで感じたことのないような猛烈な冷気が噴き出してくる。
吐く息が一瞬で白くなり、背中の扉が、内側からゆっくりと開いた。
「騒がしいな」
鈴を転がすような、よく通る低い女の声だった。
それだけで、俺に掴みかかろうとしていた黒い影たちがピタリと動きを止めた。
俺は震えながら首だけをひねり、開いた扉の奥を見た。
そこには、一人の女が立っていた。
床に引きずるほど長い、濡れたような艶のある黒髪。雪のように白い肌。身にまとっているのは、裾がボロボロに擦り切れた古い白装束で、足元は靴も履かない素足のままだった。
暗がりから姿を現した女は、恐ろしく端正な顔立ちをしていた。凛とした細い顎、氷の彫刻めいた完璧な輪郭、そして暗闇の中で淡い紅の光を放っている瞳。
綺麗だ、と思うより先に、本能が警鐘を鳴らした。目の前にいた黒い影なんて比べものにならない、圧倒的で異質な怪異の圧が、部屋中の空気を凍りつかせている。
「私の眠りを妨げたのは、貴様らか」
女は俺の横を通り過ぎると、黒い影の群れと向き合った。
黒い影たちが、威嚇するように不気味な呻き声を上げて飛びかかる。
だが、女は身構えすらしない。ただ、白く細い右手を無造作に振るっただけだ。
ドォンッ!!
空気そのものが爆ぜるような轟音が鳴り響いた。
先頭にいた三体の黒い影が、まるで巨大な鉄球にでもぶつかったかのように上半身を吹き飛ばされ、壁に叩きつけられて黒い霧のように霧散した。
「え?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
女は止まらない。一歩踏み出したと思った瞬間には、一番大きな黒い影の顔面を素手で鷲掴みにしていた。
指先に力がこもると、黒い影は悲鳴を上げる間もなく、乾いた紙くずのようにバリバリと引き裂かれて消滅していく。
殴る、蹴る、引き千切る。
ものの十秒も経たないうちに、廊下を埋め尽くしていた黒い人影は、ただの一匹も残らず消し飛んでいた。
「す、すごい」
腰を抜かして床にへたり込んだまま、俺は思わず呟いていた。
静まり返った廊下で、女がゆっくりとこちらを振り返る。
紅く光る瞳が、俺の方へ向けられた。
「さて。残る羽虫は貴様だけだが」
一歩、女が近づいてくる。床を踏む足音すらしないのに、心臓を直接氷の塊で握られたみたいに息が詰まった。
助けてくれたんじゃない。この人はただ、自分の目の前で騒いでいた邪魔な連中を片付けただけだ。そして今、最後に残った邪魔者として、俺を見ている。
女の青白い指先が、しゃがみ込む俺の喉元へとためらいもなく伸ばされた。
ここで言葉選びを間違えたら、さっきの黒い影と同じように一瞬でバラバラに引き千切られる。
「ま、待ってください! 仲間じゃないです! 俺はあの黒い連中とは全然関係ないんです!」
俺は両手を顔の前に突き出し、裏返った声で必死に叫んだ。
女の指先が、俺の鼻先数センチのところでピタリと止まる。
「ほう。人の言葉を話すか。貴様、あの澱どもをけしかけた術者ではないのか」
「じゅ、術者!? まさか、ただの一般人です! むしろ追いかけられてた側で! この建物に入ってから出口が分からなくなっちゃって、非常口を開けたら変な部屋につながるし、逃げてきたら扉が壊れて……その、勝手にここまで転がり込んじゃったのは謝ります! 本当にすみませんでした!」
俺が床に額をこすりつけんばかりの勢いで早口にまくし立てると、女は目を細めた。
「これだけ震えておきながら、よくもまあそれだけ舌が回るな」
「だ、黙ってたら今すぐ引き千切られそうなんで! こっちはもう本当に必死なんです!」
女はしばらく俺を見下ろしていたが、やがて「ふん」と鼻を鳴らし、手を引っ込めた。
「まあいい。怯えた小動物のわりには、少しばかり面白い鳴き声だ。それより人間、ここはどこだ。見慣れぬ造りだが、私を封じていた祠ではないな」
「えっと……ここは埼玉にある、昔の病院の建物です。もう閉鎖されていて、今は誰も使っていない廃墟になってます」
「びょういん? はいきょ?」
女は聞き慣れない言葉を繰り返すように呟き、不機嫌そうに眉を寄せた。
「病人を収める小屋か何かか。なぜそのような場所に私の封印がある」
「い、いや、俺に聞かれても! 俺も今日初めてここに来たばかりで、なんで病院の奥にこんな場所があるのかさっぱり」
どうやら、この人は自分が今どこにいるのかも分かっていないらしい。
その時、俺の手の中で再びスマホがブルブルと震えた。
女がピクリと反応し、俺の手元を鋭く睨みつける。
「人間。その光る板は何だ。呪具の類いか」
「ち、違います! 呪具なんて物騒なものじゃありません! これはスマートフォンっていって、遠くにいる人たちと文字や写真をやり取りできる、ただの通信の道具です! ほら、武器とかじゃありませんから!」
俺は誤解されないよう、ゆっくりと画面を女の方へ見せた。液晶画面には、スレ民たちからの書き込みが次々と表示されている。
――――――――――――――――――――
140 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:58:12 ID:dR66yH03
おいイッチ、三分以上書き込みがないぞ
無事ならなんでもいいから一文字でも打て!!
141 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:58:30 ID:kM33sT12
おいイッチ、今どこにいるんだ?
まだ同じ廊下を歩かされてるのか?
警察か救急呼んだ方がいいんじゃないかこれ
142 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 02:58:45 ID:a8K9mP11
頼むから生きててくれよイッチ……
――――――――――――――――――――
「板の表面に文字が勝手に浮かんでくるだと? やはり妙な術ではないか」
「術じゃなくて電波なんですけど……って、電波って言っても余計に怪しく聞こえますよね、すみません」
女が興味深そうに顔を近づけてくる。長い黒髪が揺れ、ひんやりとした冷気と一緒に、どこか古い花の香りのような匂いがふわりと漂った。
「この文字を連ねている者どもは、すべて外の世界にいるのか」
「はい。顔も知らない人たちですけど、こういう古い建物の噂とかにも詳しくて」
そこまで口にしたところで、俺は心臓がバクバク鳴るのを抑えながら、一つの可能性に賭けてみることにした。
「あ、あの、もしよかったらなんですけど……ここから外に出る道を、一緒に探しませんか?」
女が驚いたように目を瞬かせた。
「何だと? 貴様、私に同行を求めるのか」
「いや、対等な同行なんておこがましいものじゃなくて! その、こんな暗い場所にずっと閉じ込められてたんですよね? 俺もここから出られなくなって困ってるんです。この道具を使えば、外にいる詳しい人たちに脱出方法を探してもらえるかもしれません。だから、外に出るまでの案内役として、俺を生かしておいてもらえないかな、って」
自分で言っていても、命乞いとしてかなり苦しい提案だとは思う。けれど、女はしばらく俺の目をじっと見つめたあと、顎を引いて不敵に唇の端を持ち上げた。
「くくっ、己の命を繋ぎ止めるために、私を言いくるめようというわけか」
「い、言いくるめるなんてそんな! お互いに悪くない話かなって思っただけで!」
「よかろう。外の世界がどうなっているのか、少しばかり興味が湧いた。案内を許す、人間」
「あ、ありがとうございます!」
「ただし、私を退屈させたり、小賢しい真似をして逃げようとすれば、その場で八つ裂きにする。ゆめゆめ忘れるな」
「肝に銘じます! 絶対に退屈させませんし、変な真似もしません!」
俺はへたり込んでいた床からなんとか立ち上がり、震える指でスマホに文字を打ち込んだ。ついでに、もう一つだけ聞いておきたかったことを尋ねる。
「あの、俺は鈴木悠作っていいます。よかったら、お名前を聞いてもいいですか?」
「名だと?」
「はい。これから案内するのに、名前も知らずに『あの』とか『すみません』って話し続けるのは失礼かと思って」
女は意外そうに目を丸くし、それから誇らしげに胸を張った。
「八重だ。心して呼ぶがいい」
「ヤエさんですね。わかりました、よろしくお願いします、ヤエさん」
「『さん』などという間の抜けた響きを付けるな。八重と呼べ」
「いえ、さすがに呼び捨ては俺の心臓が持たないので、ヤエさんで勘弁してください!」
ヤエさんが呆れたように鼻を鳴らす。俺はぺこりと頭を下げてから、掲示板の送信ボタンを押した。
――――――――――――――――――――
148 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:00:15 ID:SuZuki70
生きてる。心配かけて悪かった。
奥の部屋に逃げ込んだら、封印されてたヤエさんっていう白装束で素足のめちゃくちゃ強い女の人が出てきて、追ってきた黒い連中を全部素手で引き裂いてくれた。
ただ、俺も少しでも変な動きしたら八つ裂きにされそうなんで、今からヤエさんと二人で病院の出口探して歩く。
――――――――――――――――――――
書き込んでから十数秒後、スレが爆発したような勢いで埋まり始めた。
――――――――――――――――――――
149 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:00:32 ID:a8K9mP11
生きてたああああああ!!
……って、は? 封印されてた女??
150 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:00:48 ID:xL02vB99
悪霊を素手で引き裂いたって何だよそれwww
恐怖でついに頭おかしくなったかイッチ!?
151 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:01:05 ID:kM33sT12
いや待て、旧隔離病棟の奥に祠みたいな封印区画があるって話は、昔のオカルト雑誌で見たことがある気がする
そこにいたやべーやつを起こしちまったのか!?
152 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:01:22 ID:dR66yH03
しかもそいつと二人で廃病院を歩くって……
おい、それもう命懸けの廃病院デートじゃねえか!!
153 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:01:39 ID:a8K9mP11
イッチ、絶対に怒らせるなよ! レディーファースト徹底しろ!!
相手が素足だからって靴を貸すとか、余計なことするなよwww
――――――――――――――――――――
誰がデートだ、こっちは一歩間違えたら即死のサバイバルなんだぞ。
画面の中で無責任に盛り上がるスレ民たちに心の中でツッコミを入れつつ、俺は懐中電灯を握り直して閉鎖病室から元の廊下へと出た。
並んで歩いてみると、ヤエさんの存在感はますます尋常じゃなかった。
女性としてはかなりの長身で、すらりと細身の体躯なのに、隣にいるだけで常に氷柱を首筋に当てられているような緊張感がある。
俺はなるべくヤエさんの歩調に合わせながら、懐中電灯の光を少し手前の床へ向けた。
「あ、ヤエさん、ちょっと待ってください。そっちの床は窓ガラスの破片が散らばってます。素足だと危ないんで、こっちの端の方を歩いてください」
「ふん。この程度の硝子片など、私の肌には傷一つつけられぬわ。誰に向かって口を利いている」
「傷つかないのはさっきので重々分かりましたけど、足の裏が汚れたり着物の裾が引っかかったりしたら、単純に気分悪いじゃないですか。ほら、こっちの方が綺麗ですよ」
俺が懐中電灯の光で床の端を示してみせると、ヤエさんは何か言い返そうとして口を開きかけ、そのまま言葉に詰まったように黙り込んだ。
「妙なところで世話を焼く奴だ」
小さくそう呟くと、ヤエさんはそれ以上文句を言わずに、俺が照らしたガラスのない場所を選んで歩いた。
そのまましばらく進むと、廊下の暗がりから黒い人影が二体現れたが、ヤエさんが指先を払うと、どちらも声を上げる間もなく消し飛んだ。
「さっきの連中も、今の二体も、全部あっという間に」
「あのような澱に力など要らぬ。いちいち驚くほどのこともなかろう」
「いや、普通はびっくりしますよ。俺なんてさっきまであいつらに散々追い回されて、本気で泣きそうだったんですから」
「ふん。だらしない男だ」
ヤエさんは事もなげに言い捨て、廊下の突き当たりにあった大きなガラス戸の前で足を止めた。
懐中電灯を向けると、その先は建物に囲まれた小さな中庭になっていた。四方を高いコンクリートの壁と錆びた鉄格子で囲まれていて、外へ逃げることはできそうにない。
けれど、ヤエさんは錆びた鍵をあっさり指先で捻り潰して扉を開けると、雑草の生い茂る中庭へと足を踏み出した。
「あ、ヤエさん?」
中庭の真ん中で立ち止まったヤエさんは、頭上に広がる四角い夜空を見上げていた。
雲の切れ間から、白い月明かりが降り注いでいる。
月明かりに照らされたその横顔は、さっきまでの恐ろしさが嘘みたいに、どこかひどく寂しげに見えた。
どれくらいの年月、あの息の詰まるような暗い部屋に一人で閉じ込められていたんだろう。俺には想像もつかないけれど、久しぶりに見る夜空が特別なものだということだけは分かった。
ヤエさんが空を見上げている隙に、俺は中庭の荒れた様子をスマホで撮影し、現在地とともにスレッドへ書き込んでおいた。
それから中庭の隅にあった、塗装の剥げた木製のベンチの埃をパーカーの袖でさっと払い、少し離れた場所から声をかけた。
「すぐに別の道も探しますけど、少しだけそこにいますか? 夜風が気持ちいいですし」
ヤエさんはゆっくりと首を巡らせ、俺を見た。
「貴様は、実に妙な人間だな」
「え、そうですか? わりとどこにでもいる普通の人間のつもりなんですけど」
「普通の人間は、私を前にして座る場所の埃など払わぬ。それに、私が空を見ている間に、逃げようとは思わなかったのか」
「思いましたよ! めちゃくちゃ思いましたけど、出口も分からないし、一人で戻ってまたあの黒いのに襲われたら今度こそ終わりじゃないですか」
「ふん。自分の身可愛さか」
「それもありますけど……それに、一緒に探すって俺から言いましたし。ずっと暗い場所にいた人を置いて勝手にいなくなるのも、なんか違うかなって」
俺が肩をすくめて答えると、ヤエさんは目をわずかに見開いた。
しばらく何も言わず、俺の顔をじっと見つめている。
やがて、ふいっと横を向いた。
「愚か者が。勝手にせよ」
「はい。じゃあ、あんまり長居してまた変なのに囲まれても嫌ですし、そろそろ行きましょうか。あっちの廊下にまだ見てない扉があるんで、次はそっちを調べてみますね」
俺が懐中電灯で反対側の渡り廊下を指し示すと、ヤエさんは小さく頷き、俺のすぐ隣へと戻ってきた。
俺は歩きながら、さっき書き込んだスレの様子をスマホで確認した。
――――――――――――――――――――
163 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:08:11 ID:kM33sT12
中庭があるなら、そこは旧隔離病棟の一階中央あたりだな
渡り廊下を抜けた先に、正面玄関とは別の搬入用の通用口があったはずだ
164 : 名無しさん@オカルト :2026/10/23(金) 03:08:34 ID:dR66yH03
イッチ、ちょっと待て
あの黒いの、まだ病棟の中に残ってるんじゃないのか?
通用口まで行けるとしても、気を抜くなよ
――――――――――――――――――――
俺が画面から顔を上げると、渡り廊下の奥から、これまでで一番濃い黒い影の群れが蠢きながら押し寄せてくるのが見えた。
十体や二十体じゃない。廊下の壁や天井にまで黒いシミのような手が無数に浮かび上がり、通路を完全に塞いでいる。
「うわっ! ヤエさん、前!」
「退いていろ、人間」
ヤエさんが俺の前に一歩進み出た。
紅い瞳が強く輝き、白装束が風もないのに大きく膨れ上がった。ヤエさんが両手を広げ、そのまま一気に握り込むような動作をすると、渡り廊下を満たしていた黒い影の群れが、見えない巨大な力に押し潰されたように一斉に爆ぜて消え去った。
余波の風圧だけで渡り廊下の窓ガラスがビリビリと震え、ひび割れていた数枚が派手な音を立てて砕け散る。
俺は反射的に頭を庇った。降り注いだガラス片が床で跳ねる音を聞きながら、恐る恐る顔を上げる。
ヤエさんは、何事もなかったように足を止めていた。
そのまま自分の白い手のひらをじっと見つめ、小さく舌打ちをする。
「ちっ。数を潰しても、あのような小蝿どもではまるで腹の足しにならぬな」
「え? あ、あの、腹の足しって、今の連中を食べてたんですか?」
「喰らうほどの霊気も持たぬ澱だ。長らく封じられていたせいか、どうにも腹が減ってならぬ」
ヤエさんが、ゆっくりと首を巡らせて俺を見た。
さっきまで中庭で夜空を見上げていた時とはまるで違う、捕食者の目だった。
「おい、鈴木悠作とやら」
「は、はいっ! な、なんでしょう、急にフルネームで呼ばれるとすごく心臓に悪いんですけど!」
「貴様、よく見ればなかなか生きがよさそうではないか」
ヤエさんが一歩、こちらへ踏み出してくる。
後退りした俺の肩が、冷たいコンクリートの壁に擦れた。
月明かりの届かない暗い渡り廊下で、二つの紅い瞳だけが鮮やかに浮かび上がっている。
そして、ヤエさんの白く細い手が、今度こそ獲物を掴むように俺の胸元へと伸ばされた。




