博之42歳。異世界に着て1か月くらい。店の手伝い以外に自分の料理を作り手間賃を別でもらう。ぼろ小屋でいいから店を出すを目標にすえる。
それから博之は、ほぼ毎日一鍋だけ、自分の煮込みを作るようになった。
朝、市場へ行く。
その日の安い野菜を見る。
干した海藻や茸、魚の干物などから出汁になりそうなものを選び、食堂へ戻る。
水を張った鍋にそれらを放り込み、ゆっくり煮る。
そこに野菜と肉を入れる。
味付けは毎日少し変えた。
牛乳を入れる日もあれば、香辛料を強める日もある。
一日に作るのは十人前ほど。
「今日はこれだけ?」
「これだけ。まだ練習中やからな」
大なら銅貨五枚。
小なら銅貨三枚。
全部大で売れても銅貨五十枚。
実際には小を頼む客もいるので、売上はそれより少ない。
そこから材料代もかかる。
もっとも今のところ、基本的な肉や野菜、薪などは食堂側が持ってくれている。
博之が自分で買うのは、変わった香辛料や出汁の材料くらいだった。
そして一鍋きちんと売れれば、普段の皿洗いや薪割りの給金とは別に、
だいたい銅貨十枚ほどもらえようになっていた。
「銅貨十枚か」
日本の感覚なら千円くらい。
大した額ではない。
しかし、最初は飯一食を食わせてもらうために薪を割っていた男である。
「いや、十分やな」
自分が考えた料理で金が増える。
それだけでも大きかった。
ある日の夜。
客が引いた店内で、博之はおばちゃんに聞いた。
「この店って、一日どれぐらい売るん?」
「売上?」
「うん」
「日によるけど、銀貨三枚もあればいい方だね」
「銀貨三枚」
頭の中で換算する。
一枚一万円くらいと考えれば、一日三万円。
毎日きっちり営業できるわけではない。
休む日もある。
客の少ない日もある。
「じゃあ一月で銀貨七十とか八十?」
「そんなところだね。いい月なら金貨一枚に届くかもしれないけど」
「百万円か」
「また変な数え方してるね」
「いやいや」
大きな商売ではない。
けれど、夫婦や家族で暮らす程度なら、それなりに回る。
「こんな小さい店でも食っていけるんやな」
「贅沢しなきゃね」
おばちゃんが笑った。
「それに最近は、あんたの煮込み目当てで来る人もいるよ」
「ほんま?」
「昨日来た荷運びの人、今日も来ただろ?」
「ああ」
「港の船員も二人、三回目だよ」
「全然覚えてへんかった」
「商売するなら客の顔くらい覚えな」
「そこ苦手やねんなあ」
「威張って言うことじゃないよ」
それでも嬉しかった。
自分の作ったものを、もう一度食べたいと思う人間がいる。
「なあ、他の店ってどんな飯出してんの?」
「似たようなもんさ。パン、煮込み、焼いた肉、魚。安い店ならね」
「もっとええ店は?」
「貴族様が行くようなところなら全然違うよ。料理人もちゃんと修業してるし、
香辛料も惜しまず使う。何品も出る」
「なるほどなあ」
いつか見てみたい。
食べる金はないが、店の前を通るくらいならただだ。
「でも下町なら、こんなもん?」
「こんなもんだね」
博之はしばらく黙ってから言った。
「……ほんなら俺でも、やっていけるかな」
おばちゃんが博之を見る。
「何を?」
「飯屋」
「あんた、自分で店やりたいの?」
「まだ分からんけど」
博之は頭をかいた。
「街の端っこのボロ小屋借りて、鍋一個からでもええかなと思って」
「いいんじゃない?」
あまりにも簡単に言われて、博之の方が驚いた。
「いける?」
「今の煮込みが作れるなら、少なくとも餓死はしないよ」
「評価低いなあ」
「最初から大金持ちになれるなんて言う方が嘘だよ」
「そらそうやな」
「贅沢しない。借金しない。売れる分だけ作る。それなら十分やれるさ」
その言葉が妙に残った。
十分やれる。
元の世界では、自分が何をやれるのか分からなくなっていた。
会社に行くことさえ苦しくなった。
それが異世界に来て、銅貨五枚の煮込みを十杯作っただけで、
――十分やれる。
と言われた。
「……なんやろな」
「何が?」
「ちょっと嬉しいだけ」
博之は鍋を洗いながら笑った。
試してみたい料理は、まだいくらでもあった。
この街は港町だけあって魚が豊富だ。
しかも市場を見ると、売り物にならない魚の頭や骨が安く捨て値で出ている。
「あれ、絶対使えるよな」
「何が?」
「魚の頭とか骨」
「そんなもんどうするの?」
「煮る」
「食べるのかい?」
「いや、出汁取るねん」
魚のあら。
海藻。
茸。
野菜。
それを合わせたらどうなるか。
少し臭みが出るなら香辛料を使えばいい。
魚醤をほんの少し加えてもいい。
「なんか、いっぱい作れそうやな」
博之は自分でも不思議なくらい、次々と考えていた。
おばちゃんが笑う。
「あんた、最初に来た時よりずいぶん前向きになったね」
「そう?」
「最初は死にそうな顔して薪割ってたよ」
「まあ……一回死んでるしな」
「また訳の分からないこと言って」
「はは」
別に人生が素晴らしいと思えるようになったわけではない。
未来に希望が満ちているわけでもない。
ただ。
明日は市場で魚のあらを買ってみよう。
それで何か作ってみよう。
今は、それくらい先のことを考えられる。
「明日、魚屋行ってくるわ」
「好きにしな」
「うまいもんできたら味見してな」
「材料を無駄にしないならね」
「そこは善処します」
「善処じゃ困るよ」
異世界に来て何日目なのか。
もう正確には数えていなかった。
ただ博之は初めて、この世界で明日を少し楽しみにしていた。




