博之42歳。異世界の情報収集よりその日の飯だ。数日働いて銅貨を数枚頂く。港都のナガトの市場に興味がある。
異世界に来た。
だからといって、いきなり冒険者ギルドに駆け込む気にはならなかった。
というより。
「……腹減るな、普通に」
博之にとっては、それが一番大きな問題だった。
剣も魔法も、ギルドも魔物も気になる。
この国がどういう国で、周辺にどんな国があって、飛行船や鉄道がどう動いているのかも知りたい。
だが。
そんなことより、今日の飯である。
「はいよ」
食堂のおばちゃんが木の器を置いた。
肉が少し入った野菜のスープ。
それと、硬いパンが二切れ。
「ありがとうございます」
博之はパンをスープに浸した。
そのままだと歯が負けそうなほど硬い。
だが、汁を吸わせれば食える。
「うまいな」
「そんな大したもんじゃないよ」
「いや、腹減ってる時の温かい飯は全部うまいですよ」
薪を割り、皿を洗い、床を掃除する。
それを続ければ、とりあえず飯は出る。
夜は店の裏にある倉庫で寝てもいいという。
毛布一枚。
床には藁。
四十二年間生きてきて、さすがに藁の上で寝る日が来るとは思っていなかった。
だが。
「野宿より百倍ええな」
博之は仰向けになった。
倉庫の天井を見ながら、おばちゃんから聞いた話を頭の中で整理する。
王がいる。
貴族がいる。
商人がいる。
ギルドがある。
魔法もある。
魔物を狩って暮らす者もいる。
鉄道が走り、船が海を行き、空には飛行船。
「世界観、ほんまにごちゃ混ぜやな……」
ただ、それが悪いとも思わない。
文明が中途半端に発達しているということは、仕事の種類も多いはずだった。
問題は。
「俺、何ができるんやろ」
剣なんて振ったことがない。
魔法も分からない。
鍛冶も大工も無理。
体力だってない。
一時間薪を割っただけで腕がパンパンである。
「異世界転生って、普通なんかあるやろ」
博之は右手を上げた。
「火」
何も起こらない。
「ファイア」
何も起こらない。
「ステータス」
何も出ない。
「鑑定」
静かな倉庫に、自分の声だけが響いた。
「……ないんかい」
恥ずかしくなって毛布を頭までかぶった。
普通ならここで、神様からもらった特殊能力だとか、無限収納だとか、鑑定だとか、
現代知識無双だとか、何か一つくらいあるものではないのか。
だが今のところ。
身体が若返った感じもしない。
力が湧いてくる感じもしない。
四十二歳の身体のまま。
腹も出ている。
「まあ、しゃあないか」
ないものを考えても仕方がない。
もし後から能力が見つかれば、その時使えばいい。
なかったら。
ない前提で生きるしかない。
そもそも一度捨てた命である。
「もう一回死ぬのも、だるいしな」
自分でも妙な言い方だと思った。
どうしても生きたいというほど前向きでもない。
かといって、もう一度死にたいとも思わない。
なら。
「とりあえず、やれることやるか」
最低限。
自分の腹を自分で満たせるだけの金を稼ぐ。
寝床を確保する。
それから先を考える。
目標としては随分低い。
だが今の博之には、それで十分だった。
翌日から、食堂での下働きを続けた。
朝。
薪を運ぶ。
水を汲む。
野菜を洗う。
昼。
皿を洗う。
客が帰れば机を拭く。
夕方。
また薪を割る。
「腰いてぇ……」
「まだ三日目だろ」
「四十二歳に薪割りはきついんですよ」
「四十二ならまだ働けるよ」
「厳しい世界やなあ」
「何言ってんだい」
ただ、働けば飯が出る。
それだけでもありがたかった。
さらに数日すると、おばちゃんが少しだけ銅貨を渡してくれた。
「飯代引いた分ね」
「おお……」
博之は初めて、この世界の金を手にした。
小さな銅貨が数枚。
金額としては大したことがないらしい。
それでも嬉しかった。
「これでなんか買える?」
「パンなら何個か。安い屋台なら一食くらいだね」
「なるほど」
博之は銅貨を握った。
まずはこれを増やす。
自分一人が腹いっぱい食えるくらいまで。
その次は宿。
その次は服。
スーツのまま暮らすのにも限界がある。
「ところで、この辺って市場あるんですか?」
「あるよ」
「でかい?」
「港都なんだから当たり前だろ。魚も野菜も肉も香辛料も、だいたい何でも来るよ」
その言葉に、博之の頭が少しだけ動いた。
「何でも……」
「東の島々から来る物もあるし、南方の果物もある。内陸からは穀物や肉。外国商人も多いね」
「へえ」
飯屋。
市場。
食材。
商売。
博之は天井を見た。
自分には剣の才能はないだろう。
魔法の才能も、今のところ分からない。
だが食うことなら分かる。
少なくとも、日本で四十二年間いろいろな物を食べてきた。
料理人ではない。
それでも、何がうまかったかくらいは覚えている。
「一回、見たいな」
「市場を?」
「うん」
何が売っているのか。
値段はいくらか。
こちらの人間は何を食べているのか。
調味料はどこまであるのか。
米はあるのか。
醤油のようなものはあるのか。
砂糖は高いのか。
魚はどう売られているのか。
肉は。
野菜は。
保存食は。
「なんかできるかもしれんな」
「何が?」
「まだ分からん」
だから見る。
チート能力があるなら、それは後から考えればいい。
ないなら。
目の前にある物を使って稼ぐ。
そのためには、まずこの世界を知らなければならない。
数日後。
「今日は昼からいいよ」
おばちゃんにそう言われた。
「ほんま?」
「最近働きっぱなしだろ。倒れられても困るからね」
「ありがとうございます」
博之は銅貨を数枚だけポケットに入れた。
相変わらずスーツ姿。
少し汚れた革靴。
どう見ても、この街では浮いている。
それでも。
「さて」
食堂の外へ出た。
通りの向こうから、人の声が聞こえている。
荷車。
商人。
魚を運ぶ男。
籠いっぱいの野菜を抱えた女。
港都ナガトの巨大な市場。
博之はそこへ向かって歩き始めた。
「まずは、この世界で何が食えるかやな」
勇者になる予定はない。
魔王を倒す予定もない。
世界を救う気も、今のところない。
四十二歳のメンヘラおじさんが最初に調べるのは。
この異世界の、食材と値段だった。




