第26話 ルミナスの泉
呆然とこの光景に見入っていたところに、
「ユーキ、樽を出してくれ」と、フォックスさんの静かな声が聞こえた。
はっと我に帰る。
他の隊員たちも、目の前の光景に魅入られていたようで、皆が我に帰った。
「すぐに出します」
俺は、作戦中にもかかわらず、一瞬どころではない時間、気を取られていた恥ずかしさを抑えながら、ストレージから10個の樽を出した。
他の隊員たちも、あたふたと樽を運び、水汲みを始めた。
フォックスさんが苦笑しながら話しかけてきた。
「何度来ても、ここを見るとああなる。初めてならなおさらだ。どうだ、神秘的な景色だろう。多分、精霊もいるんだろうな」
「はい、驚きました。本当に神秘的な美しさですね。なにか神聖な雰囲気感じます」
「そうだな、まさに神聖な場所という感じだ。それに泉の水が美味いんだ。お前も飲んでみろ。ここに来た者だけの特権だ」
フォックスさんと連れ立って、泉のほとりまで行く。
泉の水面は、地面すれすれまであった。
泉の水はどこまでも澄んでいるが、底は見えない。相当深いのか。
泉のほとりにひざまづき、そっと手で水をすくう。
冷たい。優しく冷たい。なぜかそう感じる。
手の水をそっと口元に持っていく。まるで何かの儀式のようだ。
水を口に含み、ゆっくり喉に落とす。
美味い!というのか?
美味いの他に言葉が浮かばないが、嬉しい?ほっとする?安らぐ?
表現に困る穏やかな感情が溢れてくる。
「どうだ?美味いだろう?」
「はい、美味いです。何とも言えない安らかな気持ちになります」
「そうだな。言葉にし難い美味さなんだよな」
もう一度水を飲もうと泉に手を伸ばしかけたとき、ふと気配を感じ顔を上げた。
すると、泉に浮かぶ小さな島に何かがいた。
目を凝らしてよく見ると、赤い色をした蜥蜴がじっとこちらを見ていた。
蜥蜴と目が合った。俺と目が合うと、蜥蜴は一瞬ぎょっとしたように見えた。
いや、蜥蜴の知り合いはいないので、本当にぎょっとしたのかどうかわからないが、なんとなくそう見えた。
魔獣ではない。気配がまったく違う。むしろ消えそうなくらい、気配が薄い。
何か神聖な存在なんだろうか?
まあいいか。
蜥蜴ににっこり笑いかけてから視線をはずし、また一口水を飲んだ。
やはり美味い!安らぐ!癒される!
ふと下を見ると、さっきの蜥蜴が俺を見上げていた・・・。
今度は俺がぎょっとする。
え?いつの間に?
「ユーキ、どうした?」
フォックスさんが不審げに問いかけてきた。
「あ、いえ、ちょっと蜥蜴が・・・」
「蜥蜴?どこに?」
「いや、ここに、目の前です」と指で示す。
「どこだ?何もいないが?」
え?見えないの?
嘘でしょ!
いるよね、蜥蜴・・・。
まだ俺のこと見てるよね。
と思った瞬間、目の前から蜥蜴が消えた。
えー!なんだよこれ!
不思議蜥蜴だ!
この世界の蜥蜴は瞬間で消える能力持ちか?
「何も見えんが」と、フォックスさんが言う。
「今目の前で消えました。見間違いではないと思います」
「そうか、精霊の類いか?俺には見えなかったが、ユーキが見たと言うならいたんだろう。魔獣の類いではないな?」
「はい、そういう気配はまったくありませんでした。むしろ、消えそうというか、気配がないような気配というか、すみません、変なこと言ってますね」
「いや、元々不思議な場所だ。何か不可思議な生物がいてもおかしくない。我々の任務は泉の水だ。危険がないのならそっとしておこう」
「はい、わかりました」
そう言って俺は立ち上がった。
水汲みはまだ継続されている。
水汲みの担当以外の者たちは、水を飲んだり、腰を下ろしてくつろいでいた。
「水の採取担当以外は、このエリアに何か異常がないか調べてくれ。魔獣の気配はないが、念のためだ。それから、木の実は食べるなよ。美味そうだが神聖な場所だ。勝手に食ったら天罰が下るかもしれん」
フォックスさんの言葉に皆が笑った。
水の採取が終わり、俺は満タンの樽10個をストレージに収納した。
周囲を調べていた隊員たちも戻ってきた。
このあと30分休憩して、拠点に向けて出発した。
最後にルミナスの泉を振り返り、見えない蜥蜴に元気でな、と小さくつぶやいた。
帰路は、ベテラン斥候のライルさんと俺が先頭に立ち、全体が一団となって進んだ。
ルミナスの泉での休憩で、全員がかなり体力を回復していた。
あの泉の水、なんとなく回復効果があるような気がする。
メイデンの婆さんのお遣い任務だが、あの光景を見れただけでも来た甲斐があったよね。
しかし、泉のエリアを出た途端の不快な圧力は、落差が大きすぎるな。
皆も一瞬で緊張を取り戻した。
1時間ほど進んだところで、運悪く同時に三方向から俺たちの方向に向かう魔獣の気配を察知した。一つはレッドベアだ。この気配は覚えた。
前方左右斜めからそれぞれ1頭ずつ、後方右斜め後ろから1頭、これがレッドベアだ。
どれも、俺たちに気づいて向かっている感じではない。
俺は状況をフォックスさんとライルさんに相談した。
「一番近いのはどれだ?」
「右前方のやつです」
俺は地面に図を書きながら、3頭の移動状況を説明する。
時間はそんなにない。
「よし、一旦左後方に戻りながら、右からのやつを迂回する」
フォックスさんの決定により、左に後退しながら迂回ルートを進むが、しばらくするとこちらにも、魔獣3頭の気配を察知した。
「また3頭います」
「くそ、数が多いな・・・」
俺は再度地面に魔獣の分布状況を書きながら、それぞれの魔獣の進行方向を説明した。
そのとき、急に霧が立ち込め始めたかと思うや、あっという間に周囲が真っ白になった。
視界が数メートルしかない。
隊員に動揺が走る。
「なんだ、この霧は?」
不安の声があちこちで漏れる。
「まずいな、これは。視界が狭すぎる」
フォックスさんも困惑している。
俺は魔獣の気配を探る。すると、この霧は相当の範囲に広がっているのか、すべての魔獣が歩みを止めて、それぞれの場所でうろうろしている。
チャンスだ。
「フォックス隊長!魔獣が霧で立ち往生しています。刻印の木の方向はわかりますか?わかるなら今のうちに!」
「なに!刻印はわかる。よし、すぐ動くぞ!」
俺たちは魔獣の気配を探りながら、刻印の木の気配を頼りに濃霧の中を慎重に進んだ。
緊張が続く。時間が経つのが遅い。
視界を奪われることは恐怖心につながる。
それでもパニックを起こす隊員は一人もいない。
魔獣の気配が徐々に減っていき、ようやく周囲に気配がなくなった。
そして、同時に霧も薄れて、視界が戻ってきた。
「よし!深部を抜けたぞ!」
ライルさんが、嬉しそうに言った。
その後は迅速かつ慎重に浅部を進んだ。
深部から入ってきたと思われる魔獣の気配は避けて、浅部の魔獣については接敵をよしとして帰還を急ぐ。
遭遇した魔獣については、遠距離からの弓と魔術で、近寄らせることもなく討伐した。
約2時間後、ようやく森を抜けた。
長時間の緊張感の維持で、全員が疲れ果てていた。
しかし、フォックスさんは休憩なしでの行動を命じた。
「このままただちに拠点に向かう。休みたい者は、拠点に帰って思い切り休め。風呂と飯が待ってるぞ!今日の飯はユーキから、スゥイートブルのステーキを出してもらうぞ!」
「うぉー!」
全員が歓喜の声を上げる。
スゥイートブルは、飼育されている食用牛で、和牛のような旨味のある高級食材だ。
出発前日に、フォックスさんに騎士団の厨房に連れて行かれ、大量のスゥイートブルのステーキをストレージに入れさせられたが、最終日のためだったんだね。
心なしか足取りが軽くなった俺たちは、約30分後無事拠点に帰還した。
その日は全員がスゥイートブルステーキで大いに盛り上がり、俺たちお遣い班は、食後倒れるように寝てしまった。
ルミナスの泉からの帰路は、戦闘こそ少なかったが、濃霧で視界が失われた状況での移動が想像以上に俺たちの体力を奪っていた。
翌日、俺たちは、来たときと同様に馬を飛ばし、夕刻には領都レグルスに到着した。
俺は、フォックスさんと一緒に騎士団の兵站部隊に赴き、預かっていた兵站を返却した。帳簿と突合しながらの作業で、以外に時間がかかった。
調理済みの食べ物の余りは、返却されても保存に困るので俺が貰い受けた。
それからメイデンの婆さんのところに水を届けに行った。
婆さんは、個人用の別館に住んでおり、そこに素材保管庫、工房、調剤室、実験室などを持っているそうだ。
あいにく婆さんは不在だったので、ルミナスの泉の水10樽は、別館の使用人に預けてきた。
ストレージに保管している魔獣については、明日以降に処置を決めるので、それまで預かっておくことになった。
こうして俺のこの世界での初の遠征任務が終了した。




