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繭のほころび  作者: 変汁
14/22

①④

再び目を閉じ、まだ10代の頃の自分を思い出そうとした。


2回目に泣いたのは大学1年だったか。


その日は風の強い日だった。


大学へ向かう途中、向かい風が強すぎて歩道を歩くのも一苦労だった。


顔を背けながら前へと歩いていたそんな時、一瞬だけ風が止んだ。


美香が顔を上げるのを見計らったように、目の前へと、人が落ちて来た。


女性だった。女性は地面に顔面をぶつけ、跳ねた。


同時に側頭部が割れ、そこから脳漿が飛び出した。


それが再び吹き出した強風によって美香の顔へと飛び散った。


何が起きたのかわからないまま唖然としていると、5メートル弱の鉄骨が斜めに落下して来て、倒れている女性の首に落ちた。


首と身体は分断され、その勢いで首が道路へと転がり、それをトラックが踏み潰した。


その瞬間、美香は大声をだし泣き崩れたのだった。


自殺を見てしまった恐怖からか、それとも死んだ女性に同情したのかはわからない。


けど美香はおもちゃをねだるが買ってくれないと言われ悲しくなって泣き出した小さな子供のように、その場に膝をつき号泣したのだ。


今もってその当時、泣いた理由は分からなかった。


あの時の映像がありありと思い返される。


遭遇したばかりのように、記憶はとてもリアリティがあった。


無意識に自分に飛び散った脳漿を払うかのように髪や顔、身体に触れて取り払おうとしていた。


その手を顔の上で掲げた。広げた5本の指は細く肉感は全くなかった。


手の平を向けたり手の甲や横の部分を下から眺めるだけの、無駄な時間も今の美香には糸の事を忘れられる大切な時間となった。


その束の間の時間も、ネイルが剥がれていた事に気づいた時には既に遅かった。


爪先も欠け、欠けた部分に灰色っぽい靄のような物が浮遊している。


美香は恐る恐るもう片方の手をその靄へと伸ばした。


指先が触れると弾力性があるのを感じ取った。


慌てて手を引くが遅かった。


靄は数十本といえる程の糸の束となり爪先から指先へと繋がりを見せた。


一瞬、名産の織物を作る作業場を見学しているかのような錯覚を美香は覚えた。


が、美香は現実に引き戻された恐れから、糸の束を手を叩くようにして潰した。


やってはいけないことをしてしまったと気付いたのは、合わせた手を離した時だった。


潰したせいかわからないが、糸の束は手の平の大きさになっていた。


美香は飛び起きた。


まるでアコーディオン弾きのように広げる両手から糸の束が煌めきを放っていた。


「切るにはどうすればいい?」


美香は寝室の引き戸を足で押し開けキッチンへ向かった。


片方の手で包丁を掴み、両腕を広げた。


包丁を掴んだ手の方の手首を返し刃先を自身へ向ける。


糸の束の上で包丁を通過させた。


切れるかは分からなかった。


ただ両手がこのような事になった今、この方法で何とかするしかない!美香は思い、片方の腕を上へと思い切り伸ばそうとした。


刃先が美香の鼻頭に当たり、痛みで唇を噛んだ。


噛んだのが腫れた上唇でなくて良かったと思った。


そして片腕を伸ばすと共に糸の束も綺麗に伸びて行った。


「っざけんな!」


美香は包丁を、刃が自分の方へ向いている事も忘れ、伸びた糸に向かって、伸ばした片腕でしっかり掴んでいる包丁を糸の束へ向け振り下ろした。


包丁は美香の力の限り、下方へと振り下ろされた。


瞬間、美香は微細な痛みを覚えた。


刃先が美香の左側の額に突き刺さり、振り下ろしたその勢いのまま、瞼と眼球を傷つけ頬を切り顎を通過して止まった。


渾身の一振りは糸の束に止められたのだ。


それを悟るより早く目の前に細かな血が跳ねた。


美香は悲鳴をあげるが、包丁は糸の束を切る事は出来ずしっかりと束の上で止まり、べったりと巻き付くように刃に張り付いていた。


美香は片膝を落とし思わず自傷した顔に左手をあてた。


この行為が何を意味しているか、美香は直ぐには気づかなかった。


だがほんの僅か数秒後に、美香はしまった!と思った。


包丁でさえ切れなかった粘ついた糸が、今、自分の顔半分に付着している。


そっと押さえていた左手を離すが、思った通り、いや最初からわかっていた通りに、系の束が美香の顔半分に付着していた。


その形は美香の手の形をしていて、何とも滑稽に見えた。


滑稽なのは自分じゃない!内心毒づきながら、そのまま左手の力を抜いた。


右手には包丁がくっついたままだ。


右手から柄を離そうとしたが、クソみたいな粘着力のせいで、離す事は出来なかった。


自分の胸付近で包丁が止まっている。まるで綱渡りをする人のようだと美香は思った。


こんな一大事な時に、私は何を考えてんの…


憤怒の気持ちは治りつつあった。むしろ冷静さを取り戻しつつある。


いや、冷静さではなく、この気持ちは「諦め」に近かった。


玄関から外には出られない。


ベランダからも無理だ。


身体には無数の粘ついた糸の束に絡め取られている。


包丁を握った手もそのままだ。


同僚からは未だ誰一人からも連絡はない。


3週間くらいなら、今ある食料やインスタント食品でしのげそうだと美香は思った。


5キロのお米も未開封のままだ。


無洗米で良かったと呑気に考えた。


けど今、両手が塞がっている状況において、米を軽量しジャーに入れスイッチを入れる事は至難の業だった。


全て口か足でやるしかない。


ジャーは冷蔵庫の上に置いてあるが、足ではどうにも出来やしない。


犬猫なら上手くやるかもしれないが、この動物達だって前足はあるのだ。


美香は置きっぱなしにしたスマホを何とか口に加え、寝室へと向かった。


既に肉体も精神も疲弊している。


毛布や掛け布団に糸がつく事は気にしない事にした。


自ら切り裂いた顔の痛みも酷くなって来ている。


血は止まったようだが、鏡をみて確認はしたくなかった。


悲惨な顔をしてるのは間違いないからだ。


今はとにかく休みたい。そう思い美香は背中から倒れるようにベッドへ崩れ落ちた。


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