鳥の声が消える朝
「夫を、鳥から別れさせてください」
三枝探偵事務所に入ってきた女性は、そう言ってから、自分でもおかしいと思ったのか唇を噛んだ。
「正確には、鳥を見に行く仲間からです。夫は最近、毎朝四時に出かけて、帰宅するとパソコンにかじりついています。私が話しかけても聞こえないふり。昨日なんて、寝室でムカデを見つけたのに、助けにも来てくれなくて」
依頼人は野沢理恵、三十四歳。夫の拓海は高校の理科教師で、休日はバードウォッチングに出かけるという。
「相手は篠崎という男性です。夫はあの人に会ってから変わりました」
奥の机で朔也が話を聞き、栞が茶を出す。玄関の靴箱の横、小さな机に座る真白は、理恵の膝に置かれた手を見ていた。結婚指輪を回し続けている。
「……篠崎さんと、会わなくなればいいんですか」
「はい。鳥なんかより、家族を大切にしてほしいんです」
理恵が見せた写真には、河川敷で笑う拓海と篠崎が写っていた。拓海の手首には赤い紐が巻かれている。
「この紐は?」
「観察会の参加者の目印だそうです」
答えるまでに、理恵はほんの少し間を置いた。真白はその間を覚えておいた。
理恵が帰ると、栞が窓際の大きな「別れさせ屋」の幟を直した。
「夫婦喧嘩の原因が鳥って、珍しいね」
「シロップ、どう見る?」と朔也。
「……まだ、分からない。でも、篠崎さんが悪い人かは、聞いてない」
「それを調べるのが先だな。危険なことはするなよ」
真白はうなずいた。いつも言われることだった。
*
土曜の朝、真白は河川敷に立っていた。
薄いそばかすを描き、髪を帽子にしまい、丸い眼鏡をかける。今日は野鳥写真を始めたばかりの会社員。いつもの猫背を伸ばし、少し明るい声を出す。
「初参加です。よろしくお願いします!」
言えた。素顔なら、声が喉につかえていたはずだ。
ただし、鳥の知識まで変装できるわけではない。
「あそこ、カワセミですよ」
「えっ、どこですか?」
「青いのが飛んだでしょう」
「……青い、の」
双眼鏡を覗いた真白には、水面に浮かぶ空き缶しか見えなかった。
観察会を仕切る篠崎は四十代の穏やかな男性だった。初心者に根気よく説明し、足元のぬかるみまで気遣う。拓海を脅しているようには見えない。
休憩中、真白は写真の整理について相談した。
「撮った写真って、パソコンで管理するんですか?」
「ええ。以前は拓海さんが詳しくて、みんなに教えてくれたんです」
「最近は来ないんですか」
篠崎の笑顔が消えた。
「先月、珍しい鳥の巣の場所がネットに出回りまして。人が押しかけて、巣は放棄された。投稿に使われた写真が、拓海さんのものだったんです」
「本人が投稿したんですか?」
「分かりません。僕は疑って、ひどいことを言ってしまった」
篠崎は川の向こうを見た。
「謝りたいんですが、電話に出てくれなくて。奥さんにも連絡しないでくれと言われました」
真白はそこで、写真の中の赤い紐を思い出した。
「観察会の参加者って、赤い紐をつけるんですか?」
「立入禁止区域に入らないための目印です。スタッフは腕章だから紐はつけません」
篠崎の腕には、確かに黄色い腕章があった。
*
事務所では朔也が、問題の投稿について公開情報を調べていた。
「匿名の写真投稿だ。位置情報が残っていて、撮影場所が分かってしまったらしい。投稿後に写真が差し替えられている」
「……差し替え?」
「誰かに指摘されて、位置情報を消したようだ」
真白は画面を覗いた。写真の端が切り取られている。
「……元の写真には、何が写ってたんだろう」
朔也が腕を組む。
「本人の許可があれば元画像を確認できる。ただし、勝手にパソコンを調べるのは駄目だ」
「……うん」
栞が湯飲みを置いた。
「ねえ、シロップちゃん。理恵さん、鳥が嫌いなのかな」
「……鳥より、鳥を見てる旦那さんが嫌なのかも」
自分で言ってから、真白は少し驚いた。
*
翌日、真白は野沢家を訪ねた。今度は素顔だ。
拓海は疲れた顔で出迎えた。机には双眼鏡とノートパソコンが置かれている。
「妻が別れさせ屋さんを呼んだって聞いて、驚きました」
「……すみません」
「でも、何とかしたいのは僕も同じです」
拓海は自分からパソコンを開き、問題の写真を見せてくれた。
「この画像を、僕は観察会の共有フォルダに入れました。誰かが持ち出したんです。ネットに投稿した覚えはありません」
元画像の右端には、赤い紐を巻いた手が写っていた。
「……これ、ご主人の手ですか」
「そうです。カメラを固定して、タイマーで撮ったので」
「……共有フォルダは、誰でも見られましたか」
「観察会の会員だけです。でも家のパソコンには、妻も触れます」
理恵が台所から言った。
「私、機械は苦手よ。写真の投稿なんてできない」
真白は返事をせず、机の隅に置かれた小さな透明ケースを見た。中には昆虫の標本が並んでいる。一つだけ空いた場所があった。
「……ここ、何が入ってたんですか」
「ムカデです。授業用の標本。先週、ケースを落として壊してしまって」
理恵が素早く言った。
「私が掃除のときに落としたの。気味が悪くて捨てたわ」
拓海は苦笑した。
「昨日もムカデが出たって大騒ぎしてたけど、あれも標本の欠片だったんじゃないかな。生きてるムカデなら、あんなに脚が取れてないよ」
真白は理恵を見た。理恵は笑っていたが、指先では結婚指輪を回していた。
帰り際、拓海が小声で言った。
「篠崎さんに、僕は怒ってないと伝えてもらえますか。電話に出ないのは、何を話せばいいか分からないからです」
真白はうなずいた。
夫と篠崎は、互いに謝りたいと思っている。二人の間を塞いでいるのは、いったい誰だろう。
*
理恵との二度目の面談は、駅前の喫茶店になった。
「篠崎さんは、ご主人を脅していませんでした」
真白が告げると、理恵はカップを置いた。
「でも、あの人が夫を変えたんです」
「……ご主人は、篠崎さんに謝りたいそうです」
「会わせないでください」
言葉があまりに早く、真白は顔を上げた。
「……どうしてですか」
「また鳥を見に行くようになるから」
理恵は口を閉じた。真白は急かさず待った。
「結婚して五年です。休みの日は鳥、夜は写真の整理。私が仕事でつらかった日も、夫は鳥の話ばかり。先月の旅行だって、珍しい鳥が来たからって取りやめたんです」
理恵の目に涙が浮かぶ。
「篠崎さんがいなければ、昔の夫に戻ると思ったのに」
真白はゆっくり尋ねた。
「……写真を投稿したのは、理恵さんですか」
理恵の手が止まった。
「証拠があるんですか」
「……ありません。元画像に触れられる人は複数います。だから、決めつけられません」
真白は膝の上で手を握った。こういう話は苦手だ。変装した誰かの声なら、もっと強く言えるのに。
「でも、鳥を見に行けなくなれば、ご主人が家にいてくれると思ったんじゃないですか」
理恵の目から涙が落ちた。
「……写真を投稿したのは私です」
夫のパソコンで見つけた写真を、匿名で投稿した。鳥の居場所を知られれば人が集まり、夫が観察に嫌気をさすと思った。位置情報が残るとは知らなかった。巣が放棄されたと聞いて、怖くなった。
「篠崎さんが夫を責めたとき、止められませんでした。二人が仲違いすればいいって、思ってしまって」
「……ムカデは?」
「壊れた標本を寝室に置きました。夫が私の声を無視するから、騒ぎを起こせば振り向いてくれると思って」
理恵は顔を覆った。
「こんなことするつもりじゃなかったのに」
真白は首を横に振った。
「……したことは、消えません」
「分かってます」
「……でも、ご主人が寂しさに気づいていなかったことも、本当なんですよね」
理恵はうなずいた。
「……だったら、両方話した方がいいと思います。写真のことも、寂しかったことも」
「離婚されるかもしれない」
「……はい」
真白は逃げずに答えた。
「でも、篠崎さんと別れさせても、理恵さんが欲しかったものは戻らないと思います」
しばらくして、理恵はハンカチを畳んだ。
「一緒に来てもらえますか。自分の口で話します」
*
その夜、理恵は拓海にすべてを告げた。
真白は最初だけ同席し、二人が話し始めると玄関の外に出た。扉越しに、声が途切れ途切れに聞こえる。
「どうして、そんなことを」
「私のこと、少しも見てくれなかったから」
「……言ってくれればよかったのに」
「何度も言ったよ」
真白は足元を見た。誰かを責めるのは簡単だ。誰かと暮らし続けるのは、きっと難しい。
一時間ほどして、拓海が扉を開けた。
「すぐには許せません。鳥の巣のことも、篠崎さんを疑わせたことも」
「……はい」
「でも、妻が何度も話しかけていたのに、聞いていなかったのも事実です。しばらく別々に過ごして、考えます」
理恵も玄関に出てきた。目は赤かったが、指輪を回すのはやめていた。
「篠崎さんにも、私から謝ります」
数日後、理恵は篠崎に経緯を説明し、謝罪した。篠崎も拓海を決めつけたことを詫びた。観察会では、写真の位置情報を公開しないための注意事項が共有された。失われた巣は戻らない。それでも、同じことを繰り返さないためにできることはある。
理恵から届いた最後の連絡には、こうあった。
『篠崎さんと別れさせる依頼は取り下げます。夫とは、まだ結論が出ていません。でも初めて、ちゃんと話せました』
真白は『承知しました』と返信した。
*
「今回、誰も別れてないじゃない」
栞が報告書を覗き込むと、朔也は首を振った。
「依頼人が望まなくなったなら、無理に別れさせる仕事じゃない」
「……うん」
真白は小さく答えた。調査にかかった費用は受け取れたが、今月の家賃を払えばほとんど残らない。
栞が紙袋を差し出す。
「シロップちゃん、おにぎり。今日は二個あるよ」
「……ありがとう」
「朔也さんには鮭です。好きですよね?」
「そうだったか? よく覚えてるな」
栞の耳が赤くなった。真白はおにぎりを受け取りながら、そっと笑う。
人の気持ちは、観察できても、本人が伝えなければ届かないことがある。
そのとき、玄関の扉が開いた。
「すみません。別れさせ屋さんって、ここですか」
制服姿の青年が立っていた。手には、折り目のついた一枚の紙。
「恋人じゃないんです。それでも、別れさせてもらえますか」
真白は食べかけのおにぎりを置いた。
「……まず、お話を聞かせてください」




