赤信号の向こう側
「赤信号なのに、渡ってしまうんです」
依頼人の女性は、三枝探偵事務所の窓を指した。
「夫が、ですか?」
朔也が聞くと、女性は首を横に振った。
「息子の担任の先生です。毎週木曜日、決まった交差点で」
小日向栞が湯飲みを置く手を止めた。玄関脇の小机に座る真白も、顔を上げる。
依頼人は安西美沙、三十八歳。小学六年生の息子、悠斗が通う学習塾の講師を、息子から引き離してほしいという。
「学校の先生じゃなくて、塾の先生なんですね」
「ええ。中学受験のために通わせています。息子は先生を尊敬していて、私の言うことを聞かないんです」
美沙が見せたスマートフォンの動画には、夕暮れの交差点が映っていた。歩行者用の信号機は赤。スーツ姿の男が車道へ踏み出し、すぐに歩道へ戻る。映像はそこで切れていた。
「この人が講師の小峰さんです。息子が偶然撮ったんです」
「……どうして、撮影を?」
真白の小さな声に、美沙は眉を寄せた。
「先生の後をつけたからです。最近、木曜日になると授業を抜けることがあって。息子は心配していました。でも、あんな危険な人に息子を預けられません」
朔也は動画をもう一度見た。
「信号無視の理由は分かりません。塾側には相談しましたか」
「しました。でも、小峰先生は指導力があるからと。息子も辞めたくないと言い張って」
美沙は鞄から封筒を出した。
「来月、息子の志望校を決める面談があります。それまでに、先生から離してほしいんです」
依頼を持ち帰ることにすると、美沙は不安そうに立ち上がった。
「それから、息子には内緒にしてください。あの子、先生のことになると嘘をつくんです」
扉が閉まる。栞は腕を組んだ。
「先生を辞めさせたいってこと?」
「……違う。息子さんと、先生を離したい」
真白が答えると、朔也がうなずいた。
「真白への直接依頼だ。引き受けるかは自分で決めろ。ただし、子どもを利用する工作はなしだ」
「……うん。まず、確かめる」
*
木曜日の午後六時。真白は塾の近くにある商店街を歩いていた。
髪を肩までの長さに見せるウィッグで覆い、薄い化粧で目尻を下げ、柔らかな色のカーディガンを羽織る。今日は、近所の文具店で働くおっとりした女性という設定だ。誰かの名前を借りるわけではない。
小峰は午後六時十分に塾を出た。細身で、肩に古い鞄をかけている。足早に向かったのは、問題の交差点だった。
歩行者信号が青に変わる。小峰は渡らない。次の青でも動かない。
真白は少し離れたベンチに座り、スマートフォンの時計を見た。六時二十三分。小峰が腕時計を確認した直後、赤信号のまま一歩だけ車道へ踏み出した。
「危ない!」
思わず声が出た。小峰はすぐ戻ったが、向かい側の歩道から女の子が駆け寄ってきた。
「先生、今日も来たの?」
「……約束したからね」
小峰はしゃがみ、女の子と目線を合わせた。女の子はランドセルを背負っていない。手には、小さな紙袋がある。
「今日は、お母さん来ないよ」
「そっか。じゃあ、渡る練習はここまで」
二人は横断歩道を渡らず、角の喫茶店へ入った。
真白は追わなかった。目立たず観察するつもりが、声を出してしまった。胸が速く打つ。
「……危険なことに、首を突っ込まない」
自分に言い聞かせたところで、スマートフォンが震えた。栞からだった。
『シロップちゃん、塾のこと調べたよ。小峰先生、去年まで公立小学校で理科を教えてたみたい』
真白は交差点を振り返った。女の子は、小峰を「先生」と呼んだ。だが、あの子が塾生とは限らない。
*
翌日、真白は塾の体験説明会に参加した。変装は前日と同じだが、今回は「姪の塾を探している叔母」という立場。受付で身分を偽る必要がある会員登録や個人情報の照会はしない。公開の説明会で話を聞くだけだ。
小峰は理科担当だった。教室の机にはビーカーとアルコールランプが並んでいる。
「今は学校で実物を使う機会が減りましたからね。今日は火をつけずに、道具の扱い方を説明します」
小峰は穏やかな声で話した。炎を使わない授業なのに、子どもたちは身を乗り出している。
「アルコールランプは、息を吹きかけて消してはいけません。どうしてだと思う?」
前列の少年が手を挙げた。
「火が飛ぶから!」
「その通り。危険なときほど、決まった手順を守る。理科も道路も同じだよ」
真白はその言葉を手帳に書いた。
説明会の終わりに、真白は小峰へ声をかけた。
「先生、信号を守るお話、印象に残りました」
「ありがとうございます」
「……先生ご自身も、守っていますか」
小峰の笑顔が消えた。ほんの一瞬だったが、真白には見えた。
「……見ていたんですね」
小峰は逃げなかった。ただ、廊下に子どもがいないことを確かめてから言った。
「あの交差点で、何をしているのか。説明はできます。でも、ある子の事情が関わるので、ここでは話せません」
真白は名刺を差し出した。小峰は「別れさせ屋」の文字に目を丸くした。
「塾を辞めさせる依頼ですか」
「……まだ、決めていません」
それだけは、偽りのない答えだった。
*
事務所に戻ると、朔也が古い地域ニュースの記事を見せた。
「去年、あの交差点で小学一年生が交通事故に遭っている。重傷だったが、命は助かった」
「……小峰先生の生徒?」
「当時の勤務先と事故現場が近い。だが、関係があると断定はできない」
栞が記事の下を指した。
「ここ。『目撃した児童への心のケアを行う』って書いてある」
真白は交差点で見た女の子を思い出した。赤信号で踏み出した小峰を、女の子は驚かずに迎えた。
「……先生は、誰かを待ってた」
「なら、赤で踏み出す理由は?」
朔也の問いに、真白は答えられなかった。
その夜、美沙から電話があった。
『悠斗が、塾を辞めるなら家出するって。先生がいないと、誰も自分の話を聞いてくれないって言うんです』
真白は受話器を握り直した。
「……悠斗くんは、受験をしたいんですか」
『当たり前でしょう。ずっと準備してきたんです』
「……悠斗くん自身が、そう言いましたか」
沈黙が落ちた。
『あなたまで、私が悪いって言うんですか』
「……まだ、何も決めていません」
電話が切れた。真白はしばらく暗い画面を見つめていた。
*
土曜日、小峰から連絡があった。女の子の保護者から、真白に事情を話してもよいと了承を得たという。
喫茶店には小峰と、女の子の母親がいた。
「娘は去年、友達が車にはねられるところを見たんです」
母親は静かに話した。
「それ以来、信号が青でも横断歩道を渡れなくなりました。学校に相談して、小峰先生が何度か付き添ってくださったんです。先生が転職した後も、本人が希望する日に私が同行して、練習を続けています」
小峰はうつむいた。
「赤で一歩出るのは、間違った行動を見せるためです。あの子は僕に『赤で出たら危ないよ』と言える。そうすると、自分で止められたと思えるんです」
真白は眉を寄せた。
「……でも、実際に車道へ出るのは危ないです」
「ええ。昨日、あなたに声をかけられて、やり方を変えなければと思いました。安全な場所で、信号の絵を使って練習します」
小峰は素直に頭を下げた。善意があっても、危険は危険だ。そのことを認める人だった。
「それと、安西君のことですね」
小峰は言葉を選んだ。
「悠斗君は、理科が好きです。でも最近、教室で問題を解く手が止まることが増えました。僕には『本当は受験したくない』と言っています」
真白は息をのんだ。
「……お母さんには?」
「言えないそうです。お母さんが、自分のために頑張っているのを知っているから」
母親が小さくつぶやいた。
「子どもって、大人の顔色をよく見ていますよね」
真白は自分の手元を見た。顔色を読むのは、自分も得意だった。だからこそ、言葉にされない気持ちを勝手に決めてはいけない。
*
美沙に会ったのは、その日の夕方だった。
「先生は、信号を無視して遊んでいたわけではありませんでした。ただ、危険な行動だったことは本人も認めています」
真白が説明すると、美沙は唇を引き結んだ。
「だったら、なおさら信用できないでしょう」
「……それだけなら、塾に相談する理由になります。でも、悠斗くんが先生から離れたくない理由は、別にあります」
真白は小峰から聞いたことを、必要な範囲だけ伝えた。女の子の事情は話さなかった。
「……悠斗くんは、受験を望んでいないそうです」
「嘘です。小さい頃から、あの学校に行くって」
「……それは、誰が最初に言ったんですか」
美沙は答えなかった。
「私が……あの学校に行けなかったから。息子には、同じ思いをさせたくなくて」
真白は首を振った。
「……悠斗くんは、美沙さんじゃありません」
言ってから、少し強すぎたかもしれないと思った。けれど美沙は怒らなかった。
「分かってるつもりだったんです。でも、何年も頑張ってきたから、やめるのが怖くて」
真白は小さくうなずいた。
「……先生と別れさせる前に、悠斗くんの話を聞いてみませんか。受験を続けるかどうかも、そこで」
美沙は長い間、窓の外を見ていた。交差点の信号が青に変わり、人々が歩き出す。
「……息子に、謝ってみます」
*
一週間後、美沙から短い連絡が届いた。
『悠斗と話しました。受験は一度やめて、地元の中学校に進むことにしました。塾も今月で退会します。ただ、先生とは理科の本を貸し借りする約束をしたそうです。無理に離す必要はありませんでした』
真白は画面を読み返した。
依頼どおりに二人を引き離したわけではない。だが、息子が望まない進路から離れるきっかけにはなれた。
「シロップ、報告書は終わったか」
朔也が奥の机から声をかける。
「……うん。今回は、別れたのは受験」
「なるほどな」
栞が笑った。
「それ、別れさせ屋としては新しい実績かも」
「……料金、ちゃんともらえるかな」
「そこは最初に決めようよ、シロップちゃん!」
朔也が咳払いした。
「契約内容は次から明確にしろ。お前、また昼飯を抜いてるだろ」
「……朝は食べた」
「何を?」
「……食パンの耳」
栞が立ち上がった。
「もう! おにぎり買ってくる!」
「栞、俺の分も頼む」
「……はいっ」
栞の返事が一段高くなる。真白はそれに気づいたが、何も言わなかった。
扉が開く。栞と入れ違いに、濡れた傘を持つ女性が入ってきた。
「こちらで、人を別れさせてもらえると聞きました」
女性は傘を畳み、まっすぐ真白を見た。
「相手は、私の母です」
真白は空いた椅子を指した。
「……お話を、聞かせてください」




