彼が走る理由
「夫と、あの女を別れさせてください」
女はそう言って、テーブルの上に一枚の写真を置いた。
写っているのは、ジョギングウェア姿の男女だった。
男は四十歳前後。女は三十代半ばだろうか。二人とも笑っている。男の手には青いスポーツ飲料のペットボトルが二本あり、そのうち一本を女に差し出していた。
「毎朝、二人で走っているんです」
女の声は静かだった。
「休日も会っています。先週の日曜日なんて、朝の六時に出て、帰ってきたのはお昼前でした」
「それは……」
三枝朔也は言いかけて、口を閉じた。
目の前の依頼人は三十八歳。若い女性と話すのが苦手な朔也にとって、微妙に苦手な範囲に入る相手だった。
「ご主人には確認されましたか?」
代わりに尋ねたのは、受付を担当する小日向栞だった。
「しました。ランニング仲間だって。でも、そんなわけないでしょう?」
依頼人の名前は高瀬美紀。
結婚十二年目。子供はいない。夫の直人は都内の会社に勤める、ごく普通の会社員だという。
半年前から突然ジョギングを始めた。
最初は健康のためだと喜んでいた美紀も、最近では夫の行動に不審を抱くようになった。
「女の人と走っているのを見たのは、一か月前です。それから何度も。私には仕事だと言って出かけた日にも会っていました」
美紀は唇を噛んだ。
「もう、信じられないんです」
その様子を、玄関脇の小さな机から見つめている人物がいた。
三枝真白、二十五歳。
長い前髪に、化粧気のない顔。やや長身の身体を猫背に丸め、膝の上で両手を重ねている。
机の横には、場違いなほど大きな幟が立てかけられていた。
『別れさせ屋』
真白の商売道具だった。
「シロップちゃん」
栞が振り返る。
「お話、聞いてみる?」
「……うん」
真白は小さく答え、椅子から立ち上がった。
美紀の隣に座るまでに、二度ほど視線を泳がせる。
「……あの」
「はい?」
「ご主人は……走るの、得意な方ですか?」
美紀は意外そうな顔をした。
「いいえ。昔から運動は苦手でした。休日はずっと家でゲームをしているような人で」
「そう、ですか」
真白は写真に目を落とした。
「この写真……もう少し見ても、いいですか?」
美紀が差し出したスマートフォンには、ほかにも数枚の写真があった。
公園の入口。歩道橋。自動販売機の前。
どれも男女が一緒にいる場面だ。
真白は指先で画面を拡大した。
女の首元に、銀色のネックレスが見えた。
小さな輪が二つ重なったような飾り。
「……これ」
「何か?」
「いえ。すみません」
真白は画面を戻した。
朔也がようやく口を開く。
「まずは事実確認が必要ですね。現時点で不貞関係があるとは断定できません」
仕事の説明になると、声が安定する。
「調査だけなら、うちでもお受けできます。ただ、別れさせることまで希望されるのであれば」
朔也の視線が真白に向いた。
「シロップの仕事だ」
美紀は初めて真白を正面から見た。
「あなたが?」
「……はい」
「失礼ですけど、大丈夫なんですか?」
真白は肩を縮めた。
「……たぶん」
栞が慌てて割って入る。
「大丈夫です。こう見えて、すごく頼りになるんですよ」
美紀は不安そうだった。
当然だろう。
目の前にいるのは、どう見ても人と話すことすら苦手そうな女なのだから。
「ただ……」
真白は消え入りそうな声で続けた。
「本当に、お二人を別れさせたいのか……それだけ、もう一度考えていただけますか」
美紀の表情が硬くなった。
「どういう意味ですか?」
「……別れたあと、ご主人とどうしたいのかも、大切なので」
美紀はしばらく黙っていた。
やがて、写真の中の夫を見つめながら答えた。
「元の夫に戻ってほしいんです」
その言葉だけは、迷いがなかった。
*
「無理だと思う」
翌朝、真白は公園の入口で呟いた。
白いランニングシューズ。淡い水色のスポーツウェア。髪は高い位置でまとめ、額を出している。
薄く日焼けしたように見える肌。明るい目元。口角を上げた表情。
鏡の前で何度も調整した結果、そこにいるのは普段の真白とは似ても似つかない、健康的で社交的な女性だった。
ただし。
「はあ……はあ……」
まだ百メートルしか走っていない。
「……死ぬ」
ベンチに座り込み、スポーツ飲料を飲む。
スマートフォンが震えた。
栞からだった。
『シロップちゃん、調子どう?』
『もう帰りたい』
送信すると、すぐに返事が来た。
『まだ始まってないよ!』
その通りだった。
真白は空を見上げた。
変装をすると、不思議と人と話せる。
声も、表情も、仕草も変えられる。
自分ではない誰かになれば、初対面の相手にも笑いかけられる。
けれど、肺活量だけは変えられなかった。
午前六時二十分。
写真の男が現れた。
高瀬直人。
灰色のランニングシャツに黒い短パン。腕時計を確認しながら、ゆっくりと準備運動をしている。
数分後、例の女性もやって来た。
「おはようございます」
「おはよう。今日は少し寒いですね」
二人は自然に言葉を交わした。
親しげではある。
しかし、真白には妙な違和感があった。
距離が近いようで、近くない。
女が話すと、直人は必ず相手の顔を見る。けれど、目を合わせ続けることはしない。
何かを確かめるように、何度も腕時計を見る。
「じゃあ、行きましょうか」
女が言った。
二人が走り始める。
真白も立ち上がった。
そして、三十秒後。
「……無理」
再びベンチに戻った。
*
「つまり、尾行に失敗したと」
その日の昼。
朔也は報告を聞いて、深いため息をついた。
「……はい」
「百メートル?」
「……もう少し」
「何メートルだ」
「……百二十」
「誤差だろ」
栞が笑いをこらえている。
「でも、シロップちゃん。無理して追いかけなくてもよかったんじゃない?」
「……うん」
真白は机に額をつけた。
足が痛い。
太ももも痛い。
そして何より、情けない。
「相手の行動を観察するなら、同じことをする必要はない」
朔也は地図を広げた。
「公園には周回路がある。待ち伏せできる場所を探せばいい」
「……はい」
「それと、相手の女性について少し分かった」
朔也は調査資料を差し出した。
名前は佐伯奈央。三十五歳。
近隣のスポーツ用品店で働いている。
独身。
高瀬直人とは同じランニングサークルに参加していた。
「少なくとも、出会いそのものは不自然じゃない」
「……そうですね」
真白は資料を読み進めた。
奈央は二年前からジョギングを続けている。
直人がサークルに入ったのは半年前。
その時期が気になった。
「所長」
「何だ」
「ご主人が走り始めた理由……まだ分かりませんか?」
「健康診断で運動を勧められたらしい。本人が職場でそう話していた」
「……そうですか」
真白は資料を閉じた。
健康のため。
嘘ではないかもしれない。
けれど、それだけなのだろうか。
「シロップちゃん」
栞が紙袋を差し出した。
「湿布、買ってきたよ」
「……ありがとう」
「それと、今日はちゃんとご飯食べてね」
真白は財布を開いた。
中には千円札が一枚と、小銭が少し。
昨日の夕食は食パンだった。
今日の朝食も食パンだった。
「……考えておく」
「考えることじゃないよ!」
*
翌朝、真白は走らなかった。
公園の周回路が見渡せるベンチに座り、ストレッチをするふりをして二人を待った。
服装も少し変えた。
昨日の明るい女性とは違い、今日は落ち着いた雰囲気の初心者ランナー。
髪を低い位置でまとめ、化粧も控えめにしている。
午前六時二十五分。
直人と奈央が現れた。
二人は並んで走り始めた。
真白は腕時計を確認する。
一周目、十二分。
二周目、十三分。
三周目に入る前、直人が立ち止まった。
膝に手をつき、呼吸を整えている。
奈央が何かを言った。
直人は首を振る。
そのあと、二人は歩き始めた。
真白はベンチから立ち上がり、自動販売機へ向かった。
二人が近づいてくる。
「あの、すみません」
明るく、少し高めの声。
普段の真白なら、絶対に出せない声だった。
「この公園って、初心者でも走りやすいコースありますか?」
奈央が笑顔で答えた。
「ここは走りやすいですよ。無理せず一周から始めるといいと思います」
「ありがとうございます。最近始めたばかりで」
「私も最初はそうでした」
奈央は親切だった。
直人も穏やかに頷いている。
「続けるのが一番大事ですから」
「そうですよね。お二人は長いんですか?」
「私は二年くらいです」
奈央が答える。
「高瀬さんは半年くらいですよね?」
「ええ。まだまだです」
「でも、すごく頑張ってますよ」
奈央は直人を見た。
「奥さんには、まだ内緒なんですよね?」
直人の表情が変わった。
「……ええ」
「早く話せるといいですね」
「そうですね」
真白は微笑んだまま、二人の顔を観察していた。
内緒。
何を。
奈央は首元のネックレスに触れた。
銀色の小さな輪が、朝日に光る。
「それ、素敵ですね」
真白が言うと、奈央は少し驚いた。
「ああ、これですか?」
「はい。珍しいデザインだなって」
奈央は指先で飾りを持ち上げた。
「昔、母にもらったものなんです」
「お母さんから?」
「はい。大切なものなんですよ」
その瞬間、直人が腕時計を見た。
「そろそろ行きましょうか」
声がわずかに硬かった。
奈央は頷き、真白に手を振った。
「無理しないでくださいね」
「ありがとうございます!」
真白も笑顔で手を振った。
二人が離れたところで、笑みを消す。
奈央がネックレスに触れたとき。
直人は一度も、その飾りを見なかった。
*
「写真をもう一度、見せてください」
午後、美紀は再び事務所を訪れた。
真白は以前の写真を見せてもらった。
結婚十周年の記念写真。
美紀と直人が並んで笑っている。
美紀の首には、銀色のネックレス。
二つの輪が重なったデザインだった。
「これ……ご主人からの贈り物ですか?」
美紀は頷いた。
「十周年のときに」
「……どこで買ったものか、分かりますか?」
「夫が選んだって言ってました」
「同じものを、ほかの人に贈った可能性は?」
美紀の顔色が変わった。
「まさか……」
真白は慌てて首を振った。
「まだ、そうとは……」
美紀はスマートフォンを握りしめた。
「やっぱり、あの女にも同じものを……」
「……確認します」
真白はそれだけ答えた。
美紀が帰ったあと、栞が声をかけた。
「シロップちゃん、どう思う?」
「……分からない」
「同じネックレスなんだよね?」
「うん。でも……」
真白は写真を並べた。
美紀のものと、奈央のもの。
似ている。
けれど、完全に同じではなかった。
奈央の飾りには、小さな傷があった。
輪の片方に、斜めに走る傷。
美紀の写真には、それがない。
「……別のもの」
「え?」
「同じデザインだけど、別のものだと思う」
朔也が写真を覗き込んだ。
「量産品なら不思議じゃない」
「……うん」
「それだけでは何も分からないな」
真白も頷いた。
ただ、一つだけ気になっていることがあった。
奈央はネックレスを母からもらったと言った。
そのときの表情には、嘘をついているような不自然さがなかった。
少なくとも真白には、そう見えた。
では、なぜ直人はあんな顔をしたのだろう。
*
三日目。
真白は奈央が働くスポーツ用品店を訪れた。
今度の変装は、仕事帰りの会社員だった。
肩までの髪。控えめな化粧。紺色のジャケット。
「すみません。ランニングを始めたいんですけど」
奈央はすぐに接客してくれた。
靴の選び方。
初心者向けの練習方法。
水分補給の大切さ。
説明は丁寧で、押し売りもしない。
「朝走るなら、最初は十五分くらいでも十分ですよ」
「ありがとうございます。実は、夫と一緒に走れたらと思っていて」
奈央が微笑んだ。
「いいですね」
「でも、夫が運動嫌いで」
「そういう方も多いですよ」
奈央は棚から一足のシューズを取り出した。
「何か目標があると、続けやすいかもしれません」
「目標?」
「例えば、大切な人と一緒に走りたいとか」
奈央は少し遠くを見るような顔をした。
「私も、そうだったので」
真白は息を止めた。
「……誰かと?」
「母です」
奈央は笑った。
「母が昔、よく走っていたんです。私は運動が苦手で、全然付き合わなかったんですけど」
ネックレスに触れる。
「母が亡くなってから、走るようになりました」
「……そうだったんですね」
「もっと一緒に走ればよかったなって。今さらですけどね」
奈央は小さく笑った。
その笑顔には、寂しさが混じっていた。
真白はネックレスを見た。
「その飾り、素敵ですね」
「ありがとうございます。母の形見なんです」
二日前と同じ答えだった。
「珍しい形ですね」
「母が若いころに買ったそうです。同じデザインのものを、昔から売っているお店があるらしくて」
「……お店?」
「ええ。今もあるのかな」
奈央は少し考えた。
「確か、駅の向こうの商店街だったと思います」
真白は礼を言い、店を出た。
向かったのは、商店街だった。
*
小さな宝飾店は、古い建物の一階にあった。
店主は白髪の男性だった。
真白が写真を見せると、すぐに頷いた。
「ああ、これね。うちの昔からの定番ですよ」
「……今も売っていますか?」
「ありますよ。少しずつ形は変わってますけどね」
店主はショーケースからネックレスを取り出した。
二つの輪が重なる飾り。
「輪が二つ。離れていても、つながっているって意味でね。贈り物によく選ばれるんです」
真白は写真を見比べた。
「……十年前にも?」
「もちろん。もっと前からありますよ」
「そう、ですか」
店主は笑った。
「恋人にも、夫婦にも、親子にも。誰に贈ってもいいんです」
真白はしばらく黙っていた。
同じネックレス。
それだけで、関係を決めつけることはできない。
けれど、まだ疑問は残る。
直人はなぜ、妻に秘密を作っているのか。
*
その答えは、意外なところにあった。
「高瀬さん、会社の健康診断で引っかかってたみたいだ」
朔也が資料を置いた。
「ただし、本人の詳しい検査結果までは分からない。職場で運動を始めた理由として話していたらしい」
「……それだけ?」
「もう一つ。来月、市民マラソンに出る予定がある」
「マラソン?」
「五キロの部だ」
栞が首を傾げた。
「それって、奥さんに内緒にすることなのかな?」
「普通はしないだろうな」
真白は大会の案内を見た。
五キロ。
初心者向けの部門もある。
完走を目指す人たちが参加する大会だ。
そこで、真白は一つの可能性に思い至った。
「……所長」
「何だ?」
「依頼人の方、昔は走っていたんでしょうか」
朔也は眉を上げた。
「調べてみるか」
「……いえ」
真白は首を振った。
「本人に、聞いてみます」
*
「私、昔は走っていたんです」
美紀は静かに答えた。
「学生時代は陸上部でした。社会人になってからも、時々大会に出ていました」
「……今は?」
「もう何年も走っていません」
美紀は視線を落とした。
「五年前に足を痛めて。それから、走るのが怖くなってしまって」
真白は頷いた。
「ご主人は、そのことを?」
「もちろん知っています」
「……走るのをやめてから、ご主人との間で何か変わりましたか?」
美紀は少し考えた。
「別に、何も……」
そう言いかけて、止まった。
「……夫は、何度か誘ってくれました」
「ジョギングに?」
「散歩です。近所を歩くだけでもいいからって。でも、私が嫌がったので」
美紀は苦笑した。
「走れなくなった自分が嫌だったんです。昔は夫よりずっと体力があったのに」
真白は膝の上で指を重ねた。
「……ご主人に、何か隠していることはありませんか?」
美紀の肩が動いた。
「どうして、そんなことを?」
「……すみません。でも、必要なことなので」
沈黙が続いた。
やがて美紀は、小さく息を吐いた。
「実は、また走り始めたんです」
「……いつから?」
「三か月前です。夫が仕事に行っている間に、少しずつ」
真白は顔を上げた。
「ご主人には?」
「言っていません。まだ怖いんです。途中でまた走れなくなったらって」
美紀は目を伏せた。
「夫が楽しそうに走っているのを見ると、羨ましかった。私を置いて、別の誰かと楽しんでいるように思えて」
声が震えた。
「だから、あの女の人が嫌だったんです」
真白はようやく理解した。
美紀が本当に恐れていたものを。
夫の浮気だけではない。
自分が失ったものを、別の女性が夫と分かち合っていること。
その寂しさだった。
*
翌朝、真白は再び公園にいた。
今日は変装をしていない。
普段の地味な服装に、すっぴんの顔。
ベンチに座っていると、直人が一人で現れた。
奈央はまだ来ていない。
真白は立ち上がった。
「あの……高瀬さん、ですよね」
直人が振り向く。
「はい?」
「……少し、お話が」
真白は名刺を差し出した。
直人の表情が警戒に変わった。
「別れさせ屋?」
「……はい」
「何ですか、それ」
真白は逃げ出したくなった。
変装していない自分は、やっぱり苦手だった。
声が小さくなる。
視線も上げられない。
それでも、続けた。
「……奥様から、ご相談を受けています」
直人は黙った。
「佐伯さんとの関係を、疑っていらっしゃいます」
「奈央さんと?」
直人は驚いたように目を見開いた。
そして、深く息を吐いた。
「そうですか……」
否定はしなかった。
真白は勇気を出した。
「……来月のマラソン大会、奥様に内緒なんですよね」
直人は頷いた。
「驚かせたかったんです」
「……どうして?」
「妻は昔、走るのが好きだったんです。でも怪我をしてから、すっかりやめてしまって」
直人は遠くの周回路を見た。
「何度誘っても断られました。だから、まず自分が走れるようになろうと思ったんです」
「……それで、佐伯さんに?」
「はい。サークルで知り合って、練習を見てもらっています。奈央さんは初心者への教え方が上手なので」
直人は照れくさそうに笑った。
「五キロを完走できたら、妻に言うつもりでした。今度は一緒に歩くところから始めようって」
真白は黙って聞いていた。
「でも……」
直人の笑顔が消えた。
「最近、妻が冷たいんです。何か怒っているみたいで。理由が分からなくて」
「……奥様は、寂しかったんだと思います」
「寂しい?」
「……ご主人が、自分の知らないところで楽しそうにしているから」
直人は目を伏せた。
「そうか……」
真白は続けた。
「奥様も、秘密にしていることがあります」
直人が顔を上げた。
「……また、走り始めているそうです」
「美紀が?」
「はい。三か月前から」
直人はしばらく動かなかった。
やがて、口元を押さえた。
「……そうだったのか」
その声には、驚きと喜びが混じっていた。
真白は一歩下がった。
「……あとは、お二人で話してください」
「待ってください」
直人が呼び止めた。
「妻は、僕を疑っているんですよね」
「……はい」
「どうしたら、信じてもらえるでしょうか」
真白は少し考えた。
「……まず、隠していたことを謝ってください」
直人は苦笑した。
「そうですね」
「それから……」
真白は小さく息を吸った。
「奥様が走れるかどうかは、奥様自身が決めることです。無理に誘わないであげてください」
直人は真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
そのとき、奈央がやって来た。
「高瀬さん、おはようございます」
直人は奈央に事情を説明した。
奈央は驚いたあと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「私も、奥さんが知っているものだと思っていました」
真白は首を振った。
「……お二人が悪い関係だとは、思っていません」
奈央は少し笑った。
「でも、秘密って難しいですね」
「……はい」
真白も小さく頷いた。
*
一週間後。
美紀から連絡があった。
『夫と話しました』
短いメッセージだった。
続いて、写真が送られてきた。
公園のベンチに並んで座る夫婦。
二人ともジョギングウェア姿だった。
直人の手には、スポーツ飲料が二本。
そのうち一本を、美紀が受け取っている。
『まだ一緒には走れません。でも、散歩から始めることにしました』
真白は画面を見つめた。
次のメッセージが届く。
『それから、夫に謝られました。秘密にしてごめんって。私も謝りました』
少し間が空いた。
『あの女性とも、ちゃんとお話ししました。夫がお世話になったお礼を伝えました』
真白はほっと息を吐いた。
最後のメッセージには、こう書かれていた。
『別れさせてほしいとお願いしたのに、結局、別れずに済みましたね』
真白は返信を考えた。
何度も文字を打っては消す。
ようやく送ったのは、短い一文だった。
『それが一番よかったと思います』
*
「つまり、今回の仕事は成功なのか?」
朔也が尋ねた。
真白は小さな机で、依頼の記録を整理していた。
「……たぶん」
「別れさせてないだろ」
「……はい」
「まあ、依頼人が納得しているならいいか」
朔也は書類を閉じた。
「ただし、次からは無理な尾行をするな。危険なことにも首を突っ込むなよ」
「……はい」
「それと、正体を明かす前に相談しろ。今回は相手が穏やかだったからよかったものの」
「……すみません」
栞が笑いながら入ってきた。
「朔也さん、シロップちゃんを叱りすぎですよ」
「叱ってない。注意してるだけだ」
「同じようなものです」
「違う」
栞は真白の机に小さな袋を置いた。
「はい、シロップちゃん。差し入れ」
中にはサンドイッチが二つ入っていた。
「……ありがとう」
「ちゃんと食べてね。昨日もパンだけだったんでしょ?」
「……うん」
「もう!」
栞が呆れたように笑う。
朔也は奥のデスクから声をかけた。
「栞、俺の分は?」
「ありますよ」
栞は別の袋を取り出した。
「朔也さんの好きな卵サンドです」
「お、ありがとう」
「……覚えてましたから」
栞が小さく付け加えた言葉を、朔也は聞き逃したらしい。
真白だけが気づいた。
栞の耳が、ほんの少し赤くなっている。
真白はサンドイッチを手に取りながら、そっと笑った。
人の秘密は、案外近くにある。
そして、それを知ったからといって、すぐに暴けばいいわけではない。
今回の仕事で、真白は少しだけそんなことを考えた。
「ところでシロップ」
朔也が言った。
「足はもう大丈夫なのか?」
真白は答えようとして、椅子から立ち上がった。
その瞬間。
「……っ!」
太ももに鋭い痛みが走った。
真白は机にしがみついた。
「まだ痛いのか!」
栞が吹き出す。
「シロップちゃん、もう一週間だよ!」
「……筋肉痛、長引いてる」
「どれだけ運動不足なんだ」
朔也が呆れる。
真白は涙目になりながら椅子に戻った。
そのとき、事務所の電話が鳴った。
栞が受話器を取る。
「はい、三枝探偵事務所です」
いつもの明るい声。
しかし、次の瞬間、その表情が少し変わった。
「……え?」
真白と朔也が顔を上げる。
栞は受話器を握り直した。
「少々、お待ちいただけますか」
そして二人を見た。
「……今度は、ちょっと変わった相談みたい」
真白はサンドイッチを置いた。
まだ足は痛い。
けれど、胸の奥が少しだけ高鳴った。
次は、どんな人の秘密に触れるのだろう。
そして自分は、どんな誰かになるのだろう。
窓の外では、大きな幟が秋の風に揺れていた。
『別れさせ屋』
今日も、三枝探偵事務所の片隅で。
真白の小さな仕事が、始まろうとしていた。




