第3話:奪われた紫晶と、剥ぎ取られた道化
『無能なクズ王子』として害のない存在を演じ、誰の脅威にもならないはずのこの俺を、わざわざ狙ってくる意図は何だ?
この姿の俺を暗殺して、一体誰が得をするというのだ――?
湧き上がる疑問を胸の奥に押し込め、俺は迫り来る刃に対峙した。
だが次の瞬間、俺はあえて不器用で情けない笑みを浮かべ、両手を大きく頭上に挙げてみせた。無力で無害な愚者を装う、いつもの演技だ。
「へ、へい……お兄さん、落ち着いてくれよ! 暴力を振るう必要なんてないだろ? 命だけ助けてくれるなら、俺は何だって差し出すからさ!」
冷や汗をたらしながら、おどけた調子で懇願してみせる。
「金か? それとも名誉か? 欲しいものを言ってくれれば、いくらでも用意してやるから!」
刺客は俺の情けない命乞いに一切耳を貸さず、ギラリと光る剣先を俺の胸元へと突きつけてきた。
その刃先が狙っていたのは、俺の心臓ではない。俺の首元で妖しい光を放つ、一つのペンダントだった。
透き通るような紫色の光を宿した、星型の結晶ペンダント。
それは――8年前、俺が12歳の時に亡くなった実の母上が、最後に残してくれた唯一の遺品だった。
母が亡くなってからの8年間、俺はこのペンダントを一時も肌身離さず身につけ続けてきた。一人孤独な夜に苛まれる時も、これに触れていれば、まるで母上がすぐ隣で優しく包み込んでくれているかのような穏やかさを取り戻せたからだ。
背後に潜む三人の娼婦たちが、恐怖のあまり悲鳴を殺して身を縮めている。
刺客は俺の胸元を射抜くような鋭い視線で見つめると、次の瞬間、刃先をかすかに閃かせた。
チリッ、と小さな金属音が響く。
刺客は俺の肉体を傷つけることなく、首に巻きついていた鎖だけを精密に断ち切ってみせたのだ。
「な……!?」
心臓が跳ね上がり、顔から血の気が引いていく。
男は素早い手つきで空中を舞うペンダントをひっつかむと、すぐさま背後の窓へと向かって踏み込んだ。
ドカァンッ! と凄まじい音を立ててガラス窓が砕け散り、色鮮やかな破片が夜空に舞う。
背後の女たちが悲鳴を上げて後退する中、刺客は3階の窓から躊躇なく夜の闇へと躍り出た。そして隣接する建物の屋根へと軽々と飛び移り、そのまま闇に乗じて疾走し始める。
「……クソがっ!!」
咄嗟に口から漏れたのは、普段の「クズ王子」なら絶対に吐かない本気の毒づきだった。
母上の遺品を奪われた激痛と怒りが、理性を強烈に塗りつぶす。俺は一切の躊躇を捨て、窓枠を蹴って夜の街へと飛び出した。
ここは『黄竜帝国』の帝都。密集して立ち並ぶ重厚な建物の屋根は、互いに足場を掛け合えるほどに隣接している。
刺客はまるで忍びのように滑らかな身ごなしで屋根から屋根へと跳躍し、追跡を振り切ろうとしていた。だが、焦燥感に駆られた俺は、もはや「無能」の演技など気に留める余裕もなく、野生的な跳躍でその背中を死に物狂いで追いかける。
「待て! 止まれッ!!」
月明かりの下、風を切りながら屋根の上の死闘のような追跡劇が続く。
やがて、帝都を見下ろす最も高い建物の屋根の上に辿り着いたところで、刺客は突如として足を止めた。
俺もまた、激しく息を乱しながらその数歩手前で着地し、足場を固める。
「はぁ……はぁ……! 頼む、そのペンダントを返してくれ! 欲しいものは何でもやる! だから、それだけは……!」
俺は必死に息を整えながら、身を乗り出すようにして懇願の姿勢をとった。
刺客がゆっくりと振り返る。
フードの奥から覗く黄褐色――琥珀色の瞳が、氷のように冷たく俺を射抜いていた。男は胸の奥から響くような、不気味で低い嘲笑を漏らす。
「ククク……『黄竜帝国』の第一王子、王家の血を引くお貴族様が……まさかこんなゴミのような小物を返してくれと、惨めに乞い願うとはな。片腹痛いぞ」
男はそう吐き捨てると、掲げた指先で母上のペンダントを揺らしてみせた。
その光景を目にした瞬間、俺の全身の血液が沸騰し、アドレナリンが激流となって脳内を駆け巡る。両拳が血が滲むほど強く握りしめられ、湧き上がる殺意を制御するのに必死だった。
「何が……何が望みだ? 返してくれるなら……俺にお前への土下座を望むというのか……!?」
俺は震える声で尋ねた。負け犬の敗北者のように、惨めな声で泣きついて見せる。
刺客は心底不快そうに、そして蔑むような歪んだ笑みを浮かべた。
「ハハハ! 土下座だと? 違うな、王子。俺が見たいのは――お前が俺の足元で這いつくばり、頭をすり寄せる姿だ!」
男は俺の尊厳と誇りを踏みにじることを楽しむように、嘲笑を深めていく。
胸の中が灼熱の怒りで焼け焦げそうだった。だが、俺は深く長い息を吐き出し、強引にその感情を押し殺した。
今は、母上の遺品を取り戻すことが最優先だ。そのためなら、どんな屈辱でも飲み込んでやる。
「……わかった。これで満足か?」
俺はゆっくりと膝を折り、冷たい屋根の瓦に額を押し付けた。
帝国の第一王子が、正体不明の刺客の足元で無様に平伏する。その瞬間、男の品性のない高笑いが夜の静寂を切り裂いて響き渡った。
「ガハハハハ! 最高の眺めだぜ、クズ王子! お前のような男が皇族として生まれてきたこと自体、歴史のバグだな! 土下座すればこれが返ってくると思ってたのか? あぁ!?」
男の言葉は鋭い刃となって、俺のプライドを痛烈に抉りつける。
「甘いんだよ、夢を見るなッ!!」
刺客の怒声とともに、俺はゆっくりと頭を持ち上げ、鋭い視線を男へと走らせた。
男はペンダントを高く掲げると、その下で広げた手のひらに青い炎を燃え上がらせた。
『元素共鳴』――第3段階に達した高純度の青蓮の炎。
「ハハハ! リュー王子、己の宝物を守りたいのなら、それを守るだけの強さを手に入れるべきだったな!」
男は嘲笑いながら、その青い灼熱の炎を母上の思い出が詰まった紫晶のペンダントへと近づけていく。
カチリ、と俺の中で何かが切れる音がした。
噛み締めた奥歯から鈍い音が鳴り、両手の拳が白く変色するほど強く握りしめられる。
眼前の男を射抜く俺の瞳からは、すでに一切の温もりが消え去っていた。
隠し続ける必要も、道化を演じる理由も、もう存在しない。
この男は、踏み越えてはならない一線を越えたのだ。
「――ふハハッ……ハハハハハッ!!」
静寂を破り、俺の口から突如として低く、太い笑い声が漏れ出した。
これまで演じてきた「情けないクズ」の仮面が剥がれ落ち、内側に眠っていた本当の性質が不敵な笑みとなって顔に浮かび上がる。
「……なるほどな。お前は俺に『力づくで奪い取れ』と、そう言いたいわけだ」
俺の劇的な変化に、刺客の嘲笑がピタリと止まった。男の眉根が跳ね上がり、警戒の色を強めた瞳で俺を凝視してくる。
「良いだろう……相手になってやるよ、不審者」
冷酷な言葉とともに、俺はゆっくりと立ち上がった。
体内を巡る膨大な魔力――『元素共鳴』の概念すら超越した領域のエネルギーが、脈打つ血管を通って全身へと爆発的に駆け巡り始める。俺は首を軽く捻り、両手の指を組み替えて関節を鳴らした。
ゴキッ、ゴキゴキッ――。
静夜の屋根の上に、硬い骨音が重々しく響き渡る。
そして俺は、極限まで練り上げられた戦闘の構え――圧倒的な強者が放つ独特の圧力を伴う威圧の構えをとった。
その瞬間、刺客の琥珀色の瞳が驚愕で大きく見開かれた。
眼前に立つ男が、先ほどまで足元で這いつくばっていた「出来損ないの王子」などではなく、かつて世界を絶望から救い出した『本物の怪物』であることに、男はまだ気づいていなかった――。




