第2話:歓楽街の道化と、影より迫る刃
『黄竜帝国』。
無数の金龍が舞う伝説を掲げるこの巨大なる大国の帝都には、夜ごと欲望と狂気が渦巻く一角――歓楽街が存在する。
その喧騒の真ん中に位置する、格式高い高級娼館の一室。
俺は柔らかな革張りのソファに深く身を沈めていた。
周囲を取り囲むのは、俺が金に物を言わせて買い占めた三人の極上な美女たちだ。一人が俺の足を優しく揉みほぐし、もう一人が指先で腕をさすり、最後の一人が肩の凝りをほぐすように柔らかい手を滑らせてくる。
「リュー様……当店でも指折りの私たち三人をご指名くださり、大変光栄に思いますわ」
俺の腕を包み込むように揉む女が、蠱惑的な吐息とともに甘い声を囁きかけてくる。
三人の女たちは、誰もが目を奪われるほど整った容姿と、極上のプロポーションを備えていた。その艶やかな身体を包むドレスも隙がなく仕立てられており、それぞれの魅力を最大限に引き立てている。なるほど、この店でトップを張る高級娼婦という触れ込みに嘘はないらしい。
もし俺がただの好色で愚鈍な男であったなら、彼女たちの抗いがたい香りと媚態に理性を奪われ、迷わずその肌を貪っていたことだろう。
だが、俺は理性のタガを強く締め直し、心の奥底で冷めた感情を維持し続けていた。
俺がこうして娼館に通い詰め、女を侍らせるのは――「遊惰で放蕩に溺れるクズ王子」という役割を完璧に演じきるためだ。
弟や妹たちが父王の関心を奪い合い、次期皇位継承者の座を巡って血眼で『元素共鳴』の錬成に励んでいる裏で、俺はひたすら無為に金を使い込み、無価値な時間を消費してみせる。
皇位争いなど、俺にとってはどうでもいい戯言に過ぎなかった。
実の母親が魔王の手によって惨殺されたあの日以来、俺の心から「王座」への執着は完全に消失している。
当時、我が国の頂点に立つ父王が魔王と激しい死闘を繰り広げ、その結果として魔王の怒りと執着の矛先が、家族や最も身近な者たちへと向けられてしまった。母上は俺たち幼い子供たちを身を挺して庇い、その命を散らせたのだ。
――俺は二度と、あの愚行を繰り返すつもりはない。
もし俺が圧倒的な力を白日のもとに晒せば、姿を隠している魔王軍の残党や敵対勢力は、間違いなく俺の周囲にいる者たちを標的に定めるだろう。大切な者を再び危険に晒し、復讐の標的にされるリスクを犯すわけにはいかないのだ。
だからこそ、俺はこの不条理な「放蕩王子」の仮面を被り、完璧な道化を演じ続けてきた。
「ふふ、リュー様ったら……何か考え事かしら?」
一人の女が豊満な胸を押し付け、指先で胸元をなぞりながら妖しく揺さぶってくる。
俺は不敵な笑みを浮かべてその手首を優しく掴み、これ以上は一線を越えさせないという暗黙の合図を送った。
「リュー様、失礼ですが……貴方には確か、ツキシロ王国の美しき王女様という婚約者様がいらっしゃったのでは? このような場所に入り浸っていて宜しいのですか?」
俺の足を擦りながら、整った顔立ちの女が挑発的な視線で見上げてくる。
その問いかけに、胸の奥で不意に生じた鋭い痛みを殺すため、俺は自嘲気味な苦笑を浮かべてみせた。
「ははっ、よく知っているな。まあ……男の遊びに口を出される筋合いはないさ」
軽く受け流す俺の言葉に、三人の女たちは顔を見合わせ、言葉を失った後にクスクスと艶やかな笑声を漏らした。
「まあ、恐ろしい……噂通りのプレイボーイでいらっしゃいますのね。ただ酒と女に溺れ、人生を楽しむためだけに生きていらっしゃるなんて」
「本当ですわ。リュー様がここを訪れても誰も驚きませんけれど……まさかツキシロのユズレイ姫と破局された直後に、私たち三人をお買い上げになるなんて。噂は本当だったのですね」
俺は何も言わず、ただ薄笑いを浮かべたまま沈黙を守る。
世間から見れば、婚約期間中から娼館に通い詰める最悪のろくでなしに見えるだろう。だが、俺がこの底なしの沼に足を踏み入れるようになった背景には、もう一つの醜悪な影が存在していた。
実母が亡くなった後、父王が後妻として迎えた「毒婦」――現・王妃の存在だ。
彼女は幼い俺に近づき、「苦しい訓練などせず、好きなだけ遊んで暮らせばいい」「お前は王子のままで甘い汁を吸っていればいいのだ」と甘言を囁き続け、この歓楽街へ通うよう巧妙に誘導した。
そして裏では父王に対し、「リューは才能もなく、日夜娼館で女を買うだけのゴミクズです」と吹き込み、俺の評価を絶望的なまでに失墜させていたのだ。
彼女の企みに気づいた俺は、表面上はその誘いに乗ったフリをしつつ、裏で密かに隠れて修練を積み重ねた。
大陸最強と謳われ、『元素共鳴』の極致に達した伝説の英傑・マーヴィン師に弟子入りし、血を吐くような修行を完遂したのだ。彼に潜在能力を見出された俺は、こうして「無名の救世主」としての力と、「クズ王子」としての仮面を同時に手に入れた。
継母の目的は明白だ。実子を次の国王に据えるため、長男である俺を完璧な無能へと仕立て上げ、表舞台から抹殺すること。
二枚舌を使い分けるあの女こそが、今の帝国で最も警戒すべき蛇であった。
――その時。
バンッ! と重厚な娼館の扉が激しく叩き開かれ、爆音が部屋中に響き渡った。
固まっていた思考が一瞬で弾け飛び、俺の身体を揉んでいた女たちが悲鳴を上げて身を縮ませる。
開け放たれた入口のフレームの中に立っていたのは、一人の若者だった。
黒の高級なスリーピース・スーツに身を包み、その上から王家の紋章が刻まれた豪奢なマントを羽織った威厳ある佇まい。整った顔立ちを怒りと蔑みで歪ませ、鋭い眼光で俺を射抜いている。
俺の異母弟であり、四人兄妹の末弟――ルシアン・ヴェリシアだった。
俺はソファの上で組んでいた足を静かに下ろし、床へと着地させる。
身を寄せていた三人の女たちは、青ざめた顔で俺の背後へと怯えたように逃げ込んだ。
「兄さん!! こんなところで一体何をしているんだ!?」
ルシアンは部屋の中へと足を踏み入れると、背後の女たちを一瞥し、激しい吐き気を催すかのような表情で俺を怒鳴りつけた。
「兄さんは……いつまでこんな自堕落な真似を続けるつもりなんだ!? 一度に三人も女を買い叩き、こんな淫らな場所で寝そべっている暇があるなら、どうして僕と一緒に元素共鳴の訓練をしようとしないんだよ!?」
苛立ちを隠そうともせず、ルシアンは声量を強めて問い詰めてくる。
「兄さん! 僕たちの父親である国王陛下が、どれほど兄さんのその生活に激怒されているか分かっているのか!? このゴミくずが!」
弟の猛烈な罵倒を受けながらも、俺の唇には自然と穏やかな笑みが浮かんでいた。
ルシアン・ヴェリシア。四人兄妹の末っ子である彼は、他の兄妹たちとは一線を画している。
第一王子である俺が落ちぶれていくのを嘲笑い、自らの引き立て役として喜ぶ他の連中とは違い、ルシアンだけは本気で俺をこの底なしの悪徳から救い出そうとしてくれていたのだ。父王からの不当な侮蔑から俺を庇おうと、いつだって必死に声を上げてくれていた。
俺は静かに立ち上がると、ルシアンの元へと歩み寄り、その引き締まった肩を優しくポンと叩いた。
「ルシアン……そんなに俺のことなど心配しなくていい。お前はただ、自分自身が強くなることだけを考えて鍛錬に励めばいいんだ」
言いながら、乱れた彼の襟元とマントの歪みを優しく整えてやる。
ルシアンは不快そうに眉根を寄せ、困惑と怒りが入り混じった瞳で俺を見上げてきた。
「どうして……どうしてそんな説教が言えるんだよ兄さん!? 自分で何一つ努力もしないで、酒と女に逃げているだけの奴が、僕に何を語るっていうんだ!?」
叩きつけるような弟の怒声に対し、俺はただ静かに、意味深な笑みを返すにとどめた。
「いずれわかるさ、ルシアン。俺がなぜ、こんなことをしているのか……その理由を知る時がな」
そう短く告げると、俺は彼に背を向け、再びフカフカのソファへと身体を預けた。そして呆然とする三人の女たちへ、目配せで「サービスを続けろ」と合図を出す。
俺のその圧倒的な自堕落さと無神経さに、ルシアンの顔が怒りで真っ赤に染まった。
彼は歯が折れんばかりに奥歯を噛み締め、両拳を血がにじむほど強く握りしめると、氷のように冷ややかな視線を俺に投げつけた。
「……勝手にしろよ。もう二度と助言なんてしない!」
すれ違いざまに扉を叩きつけるように閉め、ルシアンは足早に去っていった。
激しい衝撃音が部屋の空気を揺らし、背後の女たちがビクッと肩を跳ねさせる。
(……すまないな、ルシアン。お前を巻き込むわけにはいかないんだ)
去っていった弟の背中に、俺は心の中で静かに謝罪を捧げた。
――だが、哀愁に浸る時間は与えられなかった。
直後。
バリバリバリッ!!! と、天井の木枠と石膏が激しく爆砕する轟音が部屋に響き渡った。
大量の瓦礫と粉塵が降り注ぐ中、天井の穴から一人の影が俊敏な動作で着地する。
黒いフード付きの外套を深々と被り、口元を漆黒のマスクで覆った不気味な男。
露出しているのは、鋭く光る茶色の双眸のみ。
予期せぬ乱入者の登場に、背後の三人の女たちは悲鳴を上げてソファの陰へと身を隠した。
俺は眉をひそめ、ゆっくりと身体を起こして立ち上がる。
男は一切の無駄のない動作で背中の鞘から一振りの長剣を抜き放つと、視線すらブレさせずに俺の首元を目がけて一閃させた。
空間を切り裂くような圧倒的な速度――常人であれば首が飛んでいるような神速の一撃。
俺は最小限の動作で身体を横に滑らせ、空を切った刃の残像を間一髪で回避した。
即座に数歩下がりつつ、目の前のソファを足蹴にして男との間に障害物を作り出す。それと同時に、怯える三人の女たちを庇うように両腕を広げて背後に庇った。
「何者だ……?」
冷徹な視線を刺客に向け、俺は低い声で問いかけた。
刺客は俺の問いには一切答えず、鋭い踏み込みとともに第二撃を繰り出すべく、地面を蹴って肉薄してくる。
一体何者だ?
『無能なクズ王子』として害のない存在を演じ、誰の脅威にもならないはずのこの俺を、わざわざ狙ってくる意図は何だ?
この姿の俺を暗殺して、一体誰が得をするというのだ――?
湧き上がる疑問を胸の奥に押し込め、俺は迫り来る刃に対峙した。




