第1話:追放された無能王子と、手向けに残された冥界の果実
「別れましょう、リュウ。貴方との婚約は、本日を以て破棄させていただきます」
静寂の満ちる豪奢な寝所の中に、あまりにも冷ややかな声が響き渡った。
愛し、心から慈しんでいた女性の口から放たれた、決定的な一言。
彼女の名は、ツキシロ・ユズレイ。
このツキシロ王国の王女であり、俺の婚約者だった女性だ。
吐き出された残酷な言葉は、鋭利な刃となって俺の胸を容赦なく貫き、心臓を直接抉り取られたかのような激痛が全身を駆け巡る。あまりの衝撃に膝の力が急速に抜け落ち、立っていることすらおぼつかないほどに、全身が重く痺れていくのを感じていた。
病床に伏していると聞き、彼女の身を案じて息を弾ませながら見舞いに駆けつけた俺を待っていたのは、悲しみの再会などではない。
ツキシロ王国の重臣や高官たちが居並び、冷ややかな視線を投げてくる、凄惨な空間だった。
部屋を包み込むのは、目に見えるほどの明白な蔑視と厭悪の情。
周囲に控える者たちの瞳は、俺をまるで害虫か何かを見るかのように見下している。
「無能」「出来損ない」「王家の面汚し」――そんな声なき罵倒が、重苦しく肌を刺す。
病室の豪華な天蓋付きベッドの上に横たわる元婚約者にとっても、今の俺はもはや価値のない無能であり、見るに堪えない出来損ないのゴミでしかないのだと言わんばかりだった。
俺は無言のまま、ぎゅっと右手を握りしめる。
その手のひらの中に収まっているのは、一つの小さな果実だった。
『黄泉の果実』――。
人間が立ち入ることを許されない不吉なる地下世界、『冥界』にしか存在しない禁断の果実。
あらゆる不治の病を鎮め、死の呪詛すらも綺麗に打ち消すと言われる、伝説の神聖なる秘薬だ。
ユズレイがこの凄惨な病に侵されたのは、あの忌まわしき災厄の夜のことだ。
人類の敵である魔王と直接対峙した際、奴の放った凶悪な呪詛の攻撃を受け、その禍々しい魔力が彼女の全身へと瞬く間に侵食してしまった。
魔王の呪いに侵された者に残された道は、体内の魔力を削られ、ただ苦しみながら絶望のうちに死の刻限を待つことのみ。現代のいかなる回復魔法や高価なポーションをもってしても、その進行を止めることは不可能とされていた。
――だが、この場にいる者たちの誰もが知らない事実がある。
2年前。魔王軍と異界の軍勢『ヴォイドモンスター』が六大王国を同時に襲撃し、人類が滅亡の淵へと追いやられた、あの決定的な夜。
漆黒の外套を羽織り、顔を隠す仮面を装着して戦場へと降り立ち、圧倒的な神の如き力で魔王を打倒して世界を救い出した【伝説の英雄】。
人々に「名もなき救世主」と崇め奉られているその男の正体が、まさに眼前に立つ「クズ王子」こと、この俺リュウ・ヴェリシアであるということを。
当時、あまりにも規格外すぎる己の強さを世間に晒せば、魔王軍の残党や潜伏する協力者たちから執拗に命を狙われ、更なる混乱を招くことは目に見えていた。だからこそ俺は正体を隠す道を選び、黒い仮面と漆黒の外套を身に纏うことで、陰から世界を救ったのだ。
それゆえに、世間の人々は真実を知る由もない。
彼らにとっての俺は、最強の威光を誇る『黄竜帝国』の王の血を引きながら、魔法の才能も与えられず、日中から酒と女に溺れて散財を繰り返すだけの「無能な第一王子」でしかなかったのだ。
「聞こえなかったのですか、リュウ? 二度とこの城へ足を踏み入れないでください。これまでの私たちにどんな関わりがあったとしても……最初から何もなかったものとして忘れてくださりませ」
畳みかけるように放たれたユズレイの冷酷な言葉が、既に深く傷ついていた俺の心へ追い打ちをかけるように激しく突き刺さる。
俺の手には今、彼女の命を確実に救うことができる唯一の果実がある。
普通なら、これほど酷い言葉で切り捨てられ、プライドを粉々に打ち砕かれたのだから、激怒してこの秘薬を持ち帰り、彼女を病死するままに見捨てるのが筋かもしれない。
……だが、俺の心は不思議なほどに静まり返っていた。
胸の奥を激しい激痛が苛む一方で、冷めた思考が頭を支配する。
重い決断を受け入れ、彼女に対する未練と期待を、静かに諦念へと変えていく。
見かけ倒しの弱者であり、2年前の襲撃の際にも彼女を護ることができなかった「役立たず」だと見限られたのだとしたら、これ以上惨めにすがりついたところで何の意味もない。俺が無能であるという理由だけであっさりと捨て去る程度の感情だったのなら、俺たちが育んできた関係も、婚約という約束も、結局はその程度の軽い価値しか無かったということだ。
……それに、彼女がかつて俺を受け入れたのも、俺自身を見ていたからではないのだろう。俺が大陸でも指折りの影響力を誇る大国、『黄竜帝国』の国王の息子だったからに過ぎない。
「……そうか」
俺はぽつりと呟くと、握りしめていた『黄泉の果実』を、無造作に彼女の横たわるベッドの上へと放り投げた。
コロン、と軽い音を立てて、紫色の怪しい光沢を放つ果実がユズレイの寝具の上に転がる。
そのまま俺は一切の未練を断ち切るように踵を返し、出口に向かって歩き出した。
相変わらず、周囲に並ぶツキシロ王国の重臣たちは、俺に対してゴミや不法侵入者を見るかのような底意地の悪い視線を向けてくる。父親の威光と家柄だけで生きている落第生が、ついに捨てられたのだと嘲笑うかのように。
「受け取れ、ユズレイ。……それが、俺たちからの最後の贈り物だ」
背を向けたまま、俺は感情の枯れ果てた平坦な声で言い捨てた。
その顔からはすでに何の笑みも消え失せ、冷たく無機質な表情へと変わっている。
部屋を退出する直前、俺はチラリと一度だけ後ろを振り返り、ユズレイの様子を視界に収めた。
彼女はベッドの上に転がされた果実を見つめたまま、言葉を失って呆然と凍りついていた。驚愕のあまり目を丸くし、開いた口が塞がらないといった様子だ。
それが自分の命を確実に繋ぎ止める唯一の希望であり、魔王の呪詛を解く秘薬であることに気づいたのだろうか。
だが、彼女は決して信じられないはずだ。
その『黄泉の果実』を手に入れるためには、立ち入りが禁じられた恐ろしい地下世界『冥界』へと足を踏み入れねばならない。そこは世界の終わりとも称され、脅威度SS級に指定される凶暴なヴォイドモンスターたちが群れをなして徘徊する極限の危険地帯。並の冒険者や騎士団どころか、一流の英雄でさえ命の保証がない死地なのだから。
そんな死線を超えて、目の前にいる「無能な落ちこぼれ王子」が果実を持ち帰ってきたなど、彼女の常識では口が裂けても認められないだろう。ましてや、俺が彼女の命を救うために命懸けで冥界へ潜入したなどとは、夢にも思わないに違いない。
……まあ、今の彼女が何を考え、どう疑おうと、もはや俺の知ったことではないが。
重苦しい沈黙が支配する廊下を通り抜け、俺は胸を締め付けられるような激しい痛みを抱えたまま、ツキシロ王国の城をあとにした。
胸の奥がじんじんと痛み、息苦しさが込み上げてくる。けれど、これで俺の人生が完全に終わったわけではない。たかが女一人に捨てられ、婚約が破談した程度で、俺という人間の歩むべき道が閉ざされることはないのだから。
城の重厚な外門を抜け、俺はツキシロ王国の巨大な城門の前に一人ぽつんと立ち尽くした。
未練を残すように足を止め、ゆっくりと振り向く。
かつて恋人として立ち入り、幾度となく訪れた思い出の城閣を、これが最後になるのだという重い心地で見上げた。
脳裏を駆け巡るのは、彼女とともに過ごした数々の愛おしい記憶。
何気ない会話に花を咲かせ、笑い合い、穏やかな時間を共有した数々の瞬間。
走馬灯のように次々と溢れ出してくる思い出たちが、俺の胸をチクチクと刺す。
「……ふぅ」
俺は大きく首を横に振り、胸の中に湧き上がる不必要な哀愁を強引に振り払った。
終わりを迎えたのは彼女との関係であって、俺自身の人生でも、俺が背負うべき使命でもない。
そして何より――この世界は未だ、陰で戦う英雄の存在を必要としているのだから。
2年前の決戦の夜。俺の全力の攻撃を受け、敗北した魔王は壊滅的な打撃を負いながらも、間一髪で空間の割れ目へと逃亡し、地下へと潜伏した。
奴は死んでいない。傷を癒やし、再び牙を研ぎ澄ませた魔王が息を吹き返し、人類への苛烈な復讐を果たすために舞い戻ってくる日は、そう遠くない将来に必ずやってくる。
かつて人類が滅亡の淵まで追い詰められたあの悲劇と悪夢を二度と繰り返させないために、俺は来るべき決戦に向けて万全の備えを怠るわけにはいかないのだ。
奴は必ず、より強大で残酷な絶望を携えて戻ってくる。
「……俺とあんたの時間は、これで本当に終わりだ。新しい男と、せいぜい幸せになるんだな、ユズレイ」
誰に届くこともない静かな呟きを落とし、俺は背を向けて母国への道を歩み始めた。
『黄竜帝国』――。
最強の力と真の姿を深く隠し通し、再び「無能で役に立たないゴミ王子」としての退屈な日常を演じるための場所へと。




