猫
「にゃあ」
「あら、猫?」
「迷い込んできてしまったのかしら」
「違いますわよ!この子はエリス様の愛猫・ラントちゃんです!」
その日はエリスが屋敷の庭でティーパーティを開いていた。
エリスと親しい令嬢何名かを招いた場だったが、焼き菓子の匂いに釣られたのか飼い猫のラントが乱入するという珍事に見舞われる。
そこでエリスの侍女であるミラーシャは、ラントの捕獲に追われていた。
(エリス、いつもなら断っても手伝ってくれるだろうけれど、何人も令嬢を呼んでる手前、主人まで猫を追っかけまわしていたら格好がつかない……それはわかっているけれど、主人であるエリスの手も借りたいくらいこの子すばしっこい!)
ラントはもともと野良猫で、数週間前、偶然フローレンス邸に迷い込んできたところをミラーシャに保護された。
その時は右前足に怪我を負っていたので大人しかったが、直った途端、パーティには乱入するし、屋敷の隙間という隙間を潜って逃げていく。
だが、ただ逃げたいわけではないらしく、ミラーシャが立ち止まったら、ラントも立ち止まるという不思議な動きを見せるのだ。
その時不意にラントが立ち止まったので、ミラーシャはこのチャンスを逃すまいと、ラントに手を伸ばす。
「や、っと!捕まえたわ!!んもう、すぐイタズラするのだからあなたは」
ラントはミラーシャの腕に頬擦りをしており、抱きかかえられることに抵抗を感じていないらしい。
「……毎回思うんだけど、こんなに友好的に接してくれるなら、最初から逃げたりしないでよ。追いかけるのも楽じゃないんだから!なんか手も痛いし!」
追いかける途中で手を少し擦りむいたらしい。
水仕事をして荒れていた手を思えば、少しの摩擦や衝撃でも怪我を起こしかねない有様ではあったので仕方がない。
そんな目に遭っても、猫好きなミラーシャにしてみれば愛らしさが勝る。
ひりつく指先で撫でればゴロゴロと喉を鳴らすラントに、ミラーシャはメロメロだ。
そんなラント夢中になって、ミラーシャは気づかなかった。
すぐ近くまでその男が来ていたことに。
「ミラーシャ、ラントも一緒ですか」
「ひっ!?ク、クロエ様……ごきげんよう」
こんなところでクロエと鉢合わせることになるとは思わず、肩が跳ねる。
(エリスがいない時に話しかけられるなんて思わないじゃない!)
クロエはニコリと温和な笑みを浮かべて、こちらに歩み寄る。
「ふふ、そんな緊張しなくても。エリスがかなりあなたのことを信頼しているようだし、僕も貴女と仲良くなりたいんです。同い年なのだからもういっそタメ口でもいいくらいですよ」
「……タメ口は遠慮をしておきますが、光栄です」
風貌だけで言えば天使と大差ない、愛らしい見た目をしているものの、この14歳の少年が将来起こす惨事を考えれば、気を抜いてはいられないのだ。
そこでふと、以前エリスが言っていたことを思い出す。
⭐︎
「クロエがね、貴方のことを気に入ってるみたいなの」
紅茶好きのエリスが所望した、自室でのアフタヌーンティータイム真っ只中。
仕えるお嬢様が、想定外の事実を口にするものなので、ミラーシャは思わずティーポットを落としそうになってしまった。
「クロエ様が、ですか」
「ええ。ミラーシャを見ていると、清々しい気持ちになれると言っていたわ。クロエは正直で優しい人が大好きだから」
エリスの付き添いでよく顔を合わせはするものの、彼と"会話"をした回数は片手で数え切れるほどだった。
彼と顔を合わせる時も、彼はエリスに夢中でこちらを見ていたことなどほぼないに等しいはずだ。
それなのにいつ、"気にいる"に至ったのか。
(未来のフローレンス公爵が、こんな接点の少ない人間に好意を示すとは考えられないわ。なんらかの作戦のため、エリスの侍女の私をそちら側に引き込む作戦かしら。それとも……)
考えれば考えるほどわからなくて、その時ミラーシャは"話のネタが欲しくて、適当に侍女の私を褒めたのだろう"と解釈して、その場は完結させた。
⭐︎
(まさか、いきなり接近してくるとはね……だけど、エリスがこの間言っていたことがもし本当なら、これは好都合かもしれない!)
目の前で不思議そうな顔をして首を傾げるこの男は、近い未来このフローレンス家を掻き乱して、陥れて、最終的に当主の座にまでのし上がる。
この少年の中に既にそのビジョンがあるのかまではわからないが、その日がくるまでに、クロエと親しくなり、大幅の信頼を勝ち取る必要がある。
その日までに「君だから話しておく」という言葉を彼の口から引き出すことが最終目標だ。
その第一歩をつくるのは容易ではないが、彼から歩み寄ってきてもらえるのなら、話は早い。
「クロエ様、お一人ですか?従者が見当たりませんが」
「ええ、少し部屋を抜け出してきたんです。従者のエイルにケーキを焼くよう言いつけたので、その間だけ」
人差し指を口元に持ってきて、慣れたようにウィンクをして「誰にも言わないでくださいね」のジェスチャーが様になっていること。
(そういえば、昔エリスもよくこのジェスチャーをしていたわね。これは弟譲りだったわけね……)
「ミラーシャ、ずっと聞きたいことがあったのですが聞いても?」
「……はい、どうぞ」
「ありがとう。不躾ですが……どうして、ホーエンベルグ公爵のご子息との婚約を拒否したのですか」
「……」
いつか、どこかで聞かれるとは思っていた。
ルシアンは昔から深く考えないところがあるので勢いで押し切れたが、公爵夫人の座を捨ててまで事件と何も関係がなかったホーエンベルグ家との繋がりを完璧に断つ必要はどこにもないのだから。
かといって、前の人生で嵌められて、殺されたからとは言えない。
だからずっと用意はしていたのだ。
ミラーシャはクロエに向かってわざとらしく笑って見せた。
「クソヤロウだからです」
「……ん?今なんと?」
あまりに清々しい笑顔なので、クロエは目をパチパチさせながら思わず聞き返す。
ミラーシャは表情を変えることもせず続ける。
「クソヤロウ、です。表向きには凛々しく思いやりのある貴公子って扱いですが、あんなのは建前もいいとこです。本当の彼はわがままで人の気持ちなんか全然考えられないし、空気も読めない、極め付けは美人な令嬢がいたら目の前で私を下げるような発言を繰り返す……いくら未来の公爵でもあんなのと婚約したって、未来なんかありませんから」
(これは、前の人生も経験した上でわかってきたルシアンの本性……!前はルシアンのことを本気で愛していたから目を瞑っていたけれど、ストレスが溜まっていたことも事実。だからか、すごく感情を乗せてそれっぽく言えた気がするわ!)
「だから、あんなのに縋って公爵夫人になるくらいなら、もういっそ別の家の使用人に……って、クロエ様?」
一人で満足感に浸っていたところ、何やら笑いを堪えるような声が耳に入ってくる。
「ふ、ふは、あはははは!」
途端大声で笑い出したクロエにギョッとする。
(そんな面白おかしい話をしたつもりはないのだけれど……)
「クロエ様……?」
「はぁ……ごめんごめん!全くもってその通りだと思うよ。彼とは僕も少しだけ接点があったのだけれど、みんなが立派な男だと言う割にはおかしな人だと思った記憶があってね、確かめたくて聞いてみただけなんだけど……ふふ」
「え、クロエ様はルシアンと接点が……?」
「一度だけパーティーで挨拶をしたんだ。その時彼はなぜか僕のことを睨んできたように見えてね。気のせいかとも思ったけれど、その後影で思いきり肩をぶつけられたから……同じ公爵家の人間とは考えたくなかったかな」
(それはクロエがルシアンより美麗で目立っていたから気に食わなかったのね、目に浮かぶわ)
「はぁ……でもミラーシャ、英断だったけれど、まだ貴族でいられる選択肢も残る中、令嬢が使用人になる選択をするのは相当覚悟が必要だったはずだ」
クロエの手がこちらに伸びてきたかと思えば、ミラーシャの手を掴んで胸ほどの高さまで持ってくる。
「本当に、よく来てくれたね。伝えるのが遅くなったけれど、僕は君を歓迎するよ」
ミラーシャの両手をしかと握りしめそう告げたクロエは、少し嬉しそうだった。
「……ありがとうございます。」
「ん、ああごめんね、こんな踏み込んだ話をして。驚いたよね」
「い、いえ。それよりその……口調が」
「ああ、気にしないで。確かに僕はいつも敬語を使うけれど、姉さんや友人の前に限り、自然体で話すようにしているんだ。いつも気を張っていては疲れるだろう?」
「友人……」
「友人。あまり褒められたことではないけれど、友人が共通の知人の悪口で盛り上がるなんて話、よくあるものだろう?」
楽しそうなクロエに笑顔で頷く。
その反面脳内では思考を巡らせていた。
(未来のフローレンス公爵が友達?何を企んでいるのクロエ・フローレンス……!でも、何か企んでいるようには見えないし、何より私と友達になったところでこんな取り潰しになった元公爵令嬢の現職使用人に利用価値があるとも考えられない……)
「んにゃあ」
「ん、なに?さては、ラントもミラーシャの友達だって言いたいんだね」
ラントの頭を指の親腹で優しく撫でるクロエを見ていると、なぜか正反対の元家族たちが脳裏に浮かぶ。
"ミラーシャ、はやくその汚物をどこかへやりなさい。"
"しっしっ、薄汚れて汚らしい。あなたの部屋にお似合いなんじゃないのミラーシャさん"
"ひゃあ!やだぁ、お姉様早くその猫捨ててきて!ダイアナにばい菌が移っちゃう!"
昔、どういうわけかモンクレール邸に迷い込んできた野良猫を見た家族たちの反応はこのようなものだった。
猫好きのミラーシャからすれば悲しい出来事だったが、今自身の腕の中でくつろぐ猫と戯れるお坊ちゃんとを対比して魅せられている気分になる。
なぜこんなことを思い出すのかと頭を振って気を紛れさせようとした時、遠くから芝を踏む音が聞こえてきた。
見れば、メイド服を着た無表情の女性がスタスタとこちらに向かってきているところだった。
ミラーシャも、もちろんクロエも、その女性に見覚えがあった。
「……ローラさん」
「あの方、確か食事会の時もどなたかの侍女として側にいらっしゃったような」
「うちの第三子にして長女のロザリア・フローレンスの侍女だよ……それにしてもロザリア姉さんか」
何か言いたげなクロエを他所に、ローラと呼ばれた女性はまっすぐこちらに近づいてきて、やがてミラーシャの前で立ち止まる。
「ごきげんようクロエ様。そしてはじめましてミラーシャさん。私はロザリア様の侍女のローラ・メントリッセです。以後お見知り置きを」
「ミラーシャ・モンクレールです。こちらこそよろしくお願いします」
「突然ですがミラーシャさん、我が主人のロザリア様がお呼びです。エリスお嬢様の給仕中なのは承知の上、ご同行願います」
ローラは、表情ひとつ変えずそう宣ったのだが、突然のことでミラーシャは困惑を隠せずにいた。
「え、ロザリア様が、ですか。一体どうして」
「ミラーシャ様とお話をしたいそうです」
真顔でじっと見つめてくるローズには、まるで人の心がないようで、少し気味が悪い。
そんなミラーシャの心情を感じ取ったのか、クロエはミラーシャを背に隠して、ローズの前に立った。
「ローズさん、エリス姉さんに許可は取りましたか?一応エリス姉さんの耳に入れるくらいはしておくのが礼儀だと思いますが」
「クロエ様、ミラーシャさんはエリス様の侍女である前に、このフローレンス家が雇い入れた使用人です。そして、この家にいる使用人の雇い主は旦那様です。エリス様主催の茶会にわざわざ水を刺してまで許しを得る必要はありません」
確かにわざわざエリスに許可を取る必要もないが、これは礼儀の話だ。
どうやらこの女性の中には礼節やら思いやりやらといったものは存在しないらしい。
クロエもダメ元で助けに入ったのだろう、「やはりこの人相手では通用しないか」と言わんばかりに押し黙った。
「ではミラーシャさん、こちらへ。ロザリア様の元へご案内します」
(まあ、このフローレンス家の内情をしっかりと把握するためにも、いつかは他の兄姉とも接触しなくてはと思っていたし、いい機会かもね)
ミラーシャがラントをギュッと抱え直し、ローズの後を追おうとした時、クロエがハッとしてミラーシャへ手を伸ばした。
「ああ待ってください!ラントは僕が預かります!責任を持って姉さんのところまで届けるので!」
「……?それでは、お願いいたしますクロエ様」
クロエの慌てように少し違和感を覚えつつも、ミラーシャは目の前を歩く使用人の後を追った。




