第四部「一旦の閉幕」
薄壁一枚分のスペースを使って、グライムは本物の絵を盗み出すのではなく、その上に偽物を貼り付け、堂々と城の中に飾ったままにしていた。
いつでも引き出せる、隠された宝として。
三年もの間。誰にも気付かれることなく、この廊下の壁の中に、静かに眠っていたことになる。
「なんという大胆さだ……」
廷臣の一人が、思わず呟いた。
その場にいた誰もが、燃え上がる絵の奥から現れた、もう一枚の絵に釘付けになっていた。
そして、グライムが薄壁一枚分の空間を作った本当の理由は、そこにあるものを隠すためだった。
それこそが――この【ヴォルグラード王国】に送られたルミナス暗号を解読するために必要な、宝石を並べるための木製の台座だった。
その台座は、ヴァレンが喉から手が出るほど欲しがっていたものだった。
「これが……ルミナス暗号を解くための台座か!」
ヴァレンは、思わずその言葉を口にしながら、燃え残った絵の隙間から、台座を手に取ってしまっていた。
目を輝かせ、その重みを確かめるように、両手でしっかりと抱え込む。
その一言によって、ルミナス暗号が本当に実在すること、そしてグライムがヴァレンの命令を受けて動いていたことが、この場にいる全員の知るところとなってしまった。
会場が水を打ったように静まり返った。
誰もが、たった今耳にした単語の重みを、測りかねているようだった。
パットンもまた、その台座から目が離せずにいた。
裁判の場でグライムが口にしたルミナス暗号という単語が、ここに来てはっきりとした形を持って現れた。
言葉だけだったものが、今は両手で抱えられるほどの実体としてそこにある。
これで、完全に自分の国が加害国だと認識されるものでもある。
しまった、とヴァレンが思った時にはもう遅かった。それより先に、グライムが畳み掛けた。
「約束通り、命令は果たしました。パットン王子の私兵へと戻る許可を、ここに求めます」
グライムは、朗々と言い放った
脱獄も、この一連の騒動も、すべてヴァレン王子の命令によるものだと、グライムは強引に押し通した。
「貴様……なにを言って……」ヴァレンが、思わず声を上げかけた。
グライムは、あえてヴァレンに向かって深々と頭を下げた。
「隣国での任務、そして今回の潜入。すべて、殿下のご命令通りに遂行いたしました。この上ない働きをお示しできたかと存じます」
その丁重な物言いに、ヴァレンの頬がわずかに引きつった。
ヴァレンは、グライムにしてやられた苦い顔をした。
だが、ルミナス暗号を解く台座を手元に置いておくためには、グライムが今言ったことを、すべて飲み込むしかなかった。
この場で否定すれば、台座を巡る話そのものが、宙に浮いてしまう。
廷臣たちの目の前で、台座の存在をすでに認めてしまった以上、後には引けない。
「グライムの申す通りだ」ヴァレンは、歯を食いしばりながら言った。「すべて、私の指示であった」
王――ヴァルガスは、その言葉に静かに頷いた。
その表情からは、何を考えているのか、容易には読み取れなかった。
そして、ヴァルガス王はパットンへと向き直った。
「パットン。オマエも、この者の処遇について、話すことがあるようだな」
パットンは、秘密裏に作っていた私兵――三獣士のことを、王に説明しなければならなくなった。
予期せぬ形で、隠していたことを明かさざるを得なくなった状況に、内心で舌打ちしたい気分だった。
三獣士お存在は、いつか訪れる玉座争いの時に、強固な盾にも強靭な剣にもなるものだからだ。
だが、ここで困ったことはそのことではなかった。
三獣士は、その名の通り獣人を使った部隊だ。
人間であるグライムは、本来、そこに含まれない。
つまり、アドリブの作戦実行がボンドからグライムへ、そして最後にパットンのもとへと回ってきたのだ。
ヴァレンまでもが、最後にキレイに着地させろとパットンを睨んでいる。
「三獣士とは」王は興味深そうに訊ねた。「聞き覚えのない名だな」
「辺境の治安維持のために、私が独自に組織した部隊です」
パットンは、慎重に言葉を選びながら答えた。
「獣人族は人間よりも嗅覚や聴覚に優れた者が多く、夜間の警戒や追跡にも長けております。辺境では盗賊や密輸、種族間の犯罪も少なくありません。彼らの能力を活かせば、通常の兵では見落とすような痕跡も見つけ出せます。三獣士は、そのための専門部隊です」
「なるほど。して、この者は」
パットンが、ほんの僅かに言い淀んだ、その隙を突くように――
「その隊長です」
グライムが割って入り、自分からヴァルガス王に向かって言い放った。
「なにを勝手に……!」
パットンとヴァレンは、ほぼ同時にグライムの肩を掴み、後ろへと引き戻した。余計なことをするな、という無言の圧力が、両側から伝わってくる。
敵対しているはずの、パットンとヴァレン。
だが、この一点においては、二人の目的は一致していた。
ルミナス暗号を、先に解読すること。
今この場では、口裏を合わせて、王を納得させるしかなかった。
「三獣士の隊長……というのは、いささか誇張が過ぎるのではないか」
王は面白がるような目でグライムを見ると、彼は悪びれずに言った。
「誇張ではありません。隊の頭脳として、必要不可欠な存在です」
「頭脳……か」王は顎に手を当てて考え込んだ。「パットン、それは真か」
「……はい」パットンは、渋々と頷いた。「グライムには、隊の運用に関して、助言を仰ぐことがございます」
「獣人でもない者を、獣人部隊の要に据えるというのは、些か珍しい話ではないか」
「異例は承知の上です。ですが、実際に成果を上げております」
「成果……。というと」
「先の辺境における山賊討伐、及び、不審な工房の摘発です。いずれも、この者の助言が、大きな役割を果たしました」
ヴァルガス王は、興味深そうに顎を撫でた。
「なるほど……。では、この者は、獣人族の信頼も得ているということか」
「獣人族の兵たちからも、一目置かれております。腕っ節ではなく、知恵で場を制する男ですので」
「腕っ節で制するよりも、厄介そうだな」王は、口の端をわずかに緩めた。「よかろう、続けよ」
「三獣士は、獣人族の兵三名を中心に据えた、小規模ながら精鋭の部隊です。辺境の複雑な地形と、種族間の軋轢に対応するため、通常の兵とは異なる編成を組んでおります」
「複雑な地形、種族間の軋轢……。それを束ねるのに、この者の頭脳が要る。ということか」
「その通りです」
パットンの説明が終わっても、王はしばらくの間、グライムを見つめた。
値踏みするような、静かな視線だった。
グライムは、その視線を真っ向から受け止め、表情を崩さなかった。
王はなるほどとこぼし、それ以上は深く追及せず、話を打ち切った。
「よかろう。この件は、追って正式に取り計らう」
王が場を離れると、周囲の緊張がわずかに緩んだ。
その場にいたもの全員が、ようやく本来の呼吸を取り戻した。
その中で、ヴァレンだけが姿を消していた。
グライムが視線を彷徨わせようとしたが、その視界にしかめっ面のパットンが映し出された。
「なにを考えているんだ」
パットンが、疲れきった声で言った。
「感謝してくれてもいいと思うがな」
「切り抜けたのはわかったが、意味がわからなすぎる……。まったく……いつも土壇場で、想像もしない手を打つな」
「それを頼りにしてるんだろう?」グライムはしれっとした態度で肩をすくめると、真顔になった。「ここは切り抜けたが厄介なことになった……」
「そうだろう。ルミナス暗号を解く台座はヴァレンの元へ、オマエは隊長で私の私兵になるし、ボンドはなにをやってる?」
「ここで説明できると思うか? というか、オレはどうなったんだ?」
グライムは人がどんどん離れていく廊下に突っ立ったままだ。
ここは街なかではなく城だ。つい先程まで牢屋に入れられていた罪人が自由にしていいはずがない。
「私の管轄で許されたということだ。牢に戻ることはない。城の外まで送る……」
「それはそれで……きな臭いな。後日って言ってたぞ」
「正式な書類の用意に時間がかかるということだ。それまでの間、くれぐれも大人しくしろと釘を差されたのに気付いてないのか?」
「王族の腹の中は探りにくいんだよ」
一大危機を乗り越えたばかりだと言うのに、すっかりいつもの調子に戻ったグライムを見て、パットンは深いため息をついた。
「よくもまあ、王の御前であそこまで大胆なことができるものだ」
「予想できないからこそ、意味があったんだろう」
「それにしたって、限度があるだろう」
「限度を守っていたら、ボンドの命が危なかったんだ」
「そのことも説明しろ……マリアまで騙したのか?」
「オレまで騙しただ。今になってムカついてきた。オレはボンドにしてやられたのか」
詐欺師が詐欺師に負けたと落ち込むグライムの背中を、パットンが優しく叩いた。
「そう落ち込むな。どうせボンドは牢の中だ。してやられたのはむこうも同じだろう」
「まさかパットンに慰められるとはな。ずいぶん変わったな、辺境に行ってから三獣士を作ったみたいだしな。変わるもんだ」
「誰かが息を吐くように嘘をつくせいだ……」
パットンは初めて、友人としてグライムを城の外へ送り出した。
これまでなら王子として命じ、兵として送り出していただろう。
だが今は違う。背中を押すのも、帰ってこいと願うのも、すべて一人の友人としてだった。
その頃、連行中のボンドは、グライムの目配せを思い出していた。
まだその視線の意味を、正確には理解していなかった。
ただ、グライムが何かを企んでいることだけは、長年の付き合いから、はっきりと伝わってきていた。
「連れて行け」兵士長が、忌々しげに命じた。「絵画泥棒の証拠は揃っている。詳しい取り調べは、牢の中で行う」
「ちょっと待て、オレは――」
ボンドが何か言いかけたが、兵士たちに両腕を取られてしまい、それ以上の言葉はうまく形にならなかった。
困惑した表情そのものは、演技ではなく、本物だった。
グライムがわざわざボンドに罪をなすりつけた理由。
それは、彼を正式な手続きの上で、牢から出すためだった。
ボンドは、国からではなく、その外部――かつての仲間から命を狙われている。
つまり、牢の中にいることこそが、今の彼にとって最も安全な場所だった。
壁に囲まれ、常に見張りが立つ場所ほど、外部の刺客にとって手を出しにくい場所はない。
問題は、ルミナス暗号に関わる場所にいた絵画泥棒になったことだ。
当然、ルミナス暗号との関わりを疑われることになる。
だが、それゆえに簡単に殺されることもない。
絵画の偽造も、ルミナス暗号の台座を隠したのもグライムなので、ボンドのアリバイは完璧だ。
時間が経てば経つほど、ボンドのアリバイは浮き彫りになっていく。
ボンド自身、この作戦の全容を知らない。
だからこそ、演技ではなく本気で「知らない」と言い切ることができる。
それが、見破られないための、最大の防御になっていた。
知らないことを知らないままでいること。それはこの世で最も簡単で、最も効果のある嘘の隠し方だ。
ヴァレンもまた、グライムが仲間を囮にするような真似はしないと、これまでの言動から思い込んでいる。
だからこそ、まだグライムとボンドの本当の関係には、気付いていなかった。
その思い込みこそが、グライムにとって最大の武器だった。
つまりグライムは、自分の自由と引き換えに、ボンドへ罪をなすりつけだ。
そして、その結果として、彼の命の安全を保証したのだ。
表向きは裏切りに見えて、実際には互いにとって最善の一手だった。
「さて……どうなることやら」
ボンドは鉄格子に背中を預けると、窓のない牢の壁をじっと見つめて考え事を始めた。
ボンドには、まだグライムに伝えていないことが山ほどあるのだった。




