第二部「フレロの花瓶」
薄暗い通路の先、灯りを片手に立っていたのは、兵士の格好をした人影だった。
だが、その立ち姿、腰の落とし方、狭い間隔の歩幅の足音には覚えがあった。
「遅かったな。四日、待ちくたびれたぞ」
グライムが格子越しに声をかけると、ボンドは鍵束を取り出しながら返した。
「四日で来られただけ、感謝してほしいもんだ。コインを仕込んでから、こっちも準備で走り回ってたんだからな」
「ボンドが犯罪者の国の王様か? そうだな……名前はマーケットってのはどうだ? キングダムって顔じゃないし」
「そんな流暢なことを言ってる場合か……」ボンドは、苛立たしげに声を潜めた。「逃げるぞ! 城は、今、絶賛ルミナス暗号について大会議中だ。今しかチャンスはない!」
兵士に変装したボンドが牢の鍵を開けると、二人はうなずき合い、すぐに逃げ出した。
石造りの通路を、足音を殺しながら進む。
角を曲がるたびに、ボンドが先に顔を出し、灯りの位置と人影の有無を確かめてから、グライムに合図を送った。
「こっちだ」
ボンドの囁きに従って、グライムは物陰から物陰へと身を移していった。
遠くで複数の足音が交差する音が聞こえる。
城の中は、いつもより慌ただしい気配に満ちており、松明の灯りが、忙しなく行き交う影を壁に長く伸ばしていた。
「大会議とやらは、思ったより騒がしいな」
「ルミナス暗号なんて単語が、公の場で飛び出したんだ。王子連中も、廷臣たちも、まともに眠れる夜じゃないだろうよ」
「ルミナス暗号なんて、一部のマニアしか知らないだろう。それも犯罪者の」
「それを公にしたんだろ? オマエがアドリブの作戦で」
「裁判も見てたのか?」
「しっ」
ボンドが口元に人差し指をやって、静かにしろと合図を送った。
二人は、すぐに灯りの届かない柱の陰に身を潜めた。
すぐ近くを、慌ただしい足音の兵士の一団が通り過ぎていく。
グライムは息を潜め、その足音が遠ざかるのを待った。壁に背をつけたまま、心臓の鼓動が足音よりも大きく響く。
「今のは、増員だな警備を固め直してる。ヴァレンが、相当焦ってる証拠だ」
ボンドは兵士の影が廊下に消えていくのを見送った。
「好都合だ。連中が浮き足立ってるうちに、動くのが一番いい」
「相変わらず、危ない時ほど楽しそうな顔をするな、オマエは……。今がどういう状況だってわかってるのか?」
「あの暗号に、そこまで説明がなかったもんでな。牢から出るのは上手くいった。でも、そのあとの作戦はあるのか?」
「馬を森に隠してある。数頭乗り捨てれば、脚もつかない。ちゃんと考えてある。乗り捨てた馬が適当に歩くだけで、目くらましが出来る」
ボンドが廊下の角を曲がりながら言うと、グライムは意外そうな声で反論した。
「逃げる? 本気で言ってるのか? せっかく城に入れたんだぞ」
「せっかく、じゃないだろう。それに入れたんじゃない。入れられたんだ。四日もかけて計画を練った甲斐があった、くらい言えよ」
「それは認める。あのコイン、なかなかの出来だった。表裏を決めさせない作りにしてるところが、特に」
「気付くのに三日もかかっておいて、よく言うよ……」
「三日は妥当な時間だ。むしろ早いくらいだろう。本当は一週間くらいかける計画だっただろう?」
「グライム……。あれこれと気軽に足を踏み入れるな。本当に殺されるぞ。オレみたいにな」
「そのことが気になってる」グライムは、話を逸らすように言った。「どうやって生き返った? ヴァレンの目は誤魔化せないだろう」
「簡単だ。死体を一つ貰ったんだ」
「おい……まさか」
「違う! そっちじゃない! 確かに死体を買って、そいつが送るはずだった人生を送ってるやつもいる。今回はちゃんと義理と人情の話だ。ゾンビ族の婚礼の儀式を手伝ったことがあっただろう? 覚えてるか? 今頃、首無し騎士が一人誕生してる頃だ」
「あの儀式、まだ続けてたのか。他種族国家は次から次へと事件が起きるな」
グライムは、少し呆れたように言った。
「向こうさんの文化だからなオレが口出しすることじゃない。それより、道具として使わせてもらったことには、感謝してる」
「そもそも……なんでバレたんだよ、ボンドの存在がヴァレンに……。調子に乗ったか?」
「おいおい……ここは城だぞ? 何回も出入りしてみろ。いくら変装の名人だと言ってもだ」
「調子に乗ったんだな?」
「だってよ」ボンドは、少し決まり悪そうに言った。「ここの第五王子が、素直で可愛くてな。つい口が滑るってもんだろう……。でも、グライムたちのことはバラしてないぞ」
「どういうことだ? オレとの関わりがバレそうになったから、ヴァレンに殺されそうになったんじゃないのか?」
「オレが死を偽装したのは、別の犯罪がバレそうになったからだ」ボンドは言った。「王都とは別件だよ」
グライムは、しばらく考え込んでから言った。
「なるほど……。ジェーンの未熟さを利用されたか。あの期間命令書に書かれていたのは、こっちにカマをかけたってことか。これでヴァレンに内通者がいたことがバレたな。出し抜いたと思えば出し抜かれるな……」
「いいだろ。一矢報いたのは事実だ。まだやるつもりか? オレたちはただの詐欺師と泥棒だぞ。国と喧嘩なんて、それこそおとぎ話だ」
「確かに、喧嘩は向いてないな……ならいっそ、作るか」
「なにをだ」
「犯罪者の国だよ」グライムは、コインを指先で弾きながら言った。「オレとボンド、オマエの二人で」
グライムがコインを投げ渡すと、ボンドはそれを片手で受け止めた。
「噂を本当にするのか……」
「どうだ悪くないだろう?」
「悪いに決まってるだろう。ルミナス暗号のことを忘れたのか? グライム、オマエが証言台で口に出したんだぞ。これからなにが起こるかわかるか? 他国との戦争だ」
「待て、ボンド。まだそう決まったわけじゃない。どこまでルミナス暗号を解いたのか?」
グライムは足を止めるが、ボンドは前を向いたまま足を止めなかった。
「あとで、どこまで解いたか教えてやる。オマエが送ってきた魔道具もだ」
「答えになってないぞ」
グライムは大胆にも城の廊下の真ん中で、ぴたりと立ち止まった。
通りがかる者があれば、すぐにも見咎められる場所だ。
だが、グライムは動く気配を見せなかった。今すぐに隠していることを話せと。
やたらとボンドが逃げたがっているのが、どうにもグライムには気になってしょうがなかった。
「おい、こんなところで」
ボンドが焦った声を上げる。
「答えるまで、動かない」
「わかったよ……」ボンドは、諦めたように息を吐いた。「まだ……そこまでは解いてない。でも、どう考えても戦争かクーデターの合図だろう」
「ということは」グライムの目に、光が宿った。「こっちが優位に事を進めるチャンスだってことだ。ヴァレンも、今の段階で事が荒れるのを絶対に望んでない。つまりヴァレンの計画を大幅に遅らせることができる。形勢逆転のチャンスだ」
「それは、パットン王子だって同じことだろう?」
「オレが裏で動ける」
「それは、ヴァレン王子だって同じことだろう?」
同じような言葉で返してくるボンドに、グライムはふと不信感を覚えた。
足を止めたまま、ボンドの様子をじっと観察する。灯りに照らされたボンドの横顔は、いつもより硬く強張って見えた。
「ボンド、オマエがいるってことは――」
グライムが、静かに口を開いた。
その瞬間、ボンドの肩が、分かりやすく強張った。
「――裏の裏でも動ける人物がいるってことだぞ。こんな優位な状況あるか? なにを怖がってる?」
「……オレを勘定に数えるのは、前回までにしてくれ」
ボンドの言葉など関係なく、グライムは独り言のように呟いて考えをまとめた。
「グレッチェンがここにいないのは関係ないな……。こうやって城に堂々といるのを見ると……ヴァレンも関係ないな。関係ないどころか……。いや……ボンド……わざと死んだな? それも、ヴァレンが興味を引くような死に方だ。それでオレになにかを知らせようとした……。問題はそれが届いてないということ。オレが隣国で捕まったのを知らなかったな? つまり暗号は、完全に途中から途絶えてた。行き着くところ……逃亡だな。問題は、誰からかだ」
「オマエは本当に頭がいいな」
ボンドはグライムの推理を聞いて、逃げ切れないと悟ったように言った。
それをグライムは、にっこりと笑顔で返した。
「ありがとう」
「この場合は、褒めてねぇよ……。わかった、話すよ。グライム、オマエと出会う前の仕事だよ。実は……ちょっとやばいやつと組んででさ……。今、居場所が割れちまったんだ」
ボンドの死は偽装だったが、それは自分自身の手で仕組んだものだ。
別の犯罪者に、過去の裏切りがバレ、命を狙われている。
それが、真相だった。
それをグライムに話し、ボンドは早く逃げようと急かした。
「事情はわかった」グライムは頷いた。「だが、それなら余計に、逃げるだけじゃ根本の解決にならない」
「解決なんて……望んでない。ただ生き延びたいだけだ」
「生き延びる方法なら、逃げる以外にもある」
ボンドは嫌な予感がするという顔で、グライムを見た。
「まさか……また何か企んでる顔だな、それ。オマエのその顔を見るたびに、こっちの寿命が縮む」
「それはお互い様だろう。ボンドが死んだと聞かされた時、オレがどれだけ堪えたか、想像したことあるか」
その一言に、ボンドの表情がわずかに揺れた。
「……悪かったよ。そこまで考えが回らなかった」
「その分、この後の作戦にちゃんと付き合ってもらう」
「嫌な予感しかしない……。本当に作戦か?」
しかし、グライムは「助けられるかもしれない」と言って、ボンドをある場所へと連れて行った。




